近代(1789〜1945年)の歴史
348件の歴史的出来事
1789年7月14日
バスティーユ襲撃
パリ市民約1000人がバスティーユ要塞を襲撃し占領した。要塞には実際にはわずか7名の囚人しかいなかったが、政治犯収容の象徴として絶対王政の圧制を体現していた。守備隊司令官ドゥ・ローネー侯爵は降伏後に群
フランス・パリ
1789年8月26日
人権宣言の採択
国民議会が「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」を採択。全17条で、人間の自由・平等の自然権、言論・出版の自由、所有権の不可侵、法の前の平等、国民主権、三権分立を宣言した。ラファイエットが起草に大きく
フランス・パリ
1791年〜1804年
ハイチ革命の勃発
1791年8月、北部平原のボワ・カイマンにおけるヴードゥー教の儀式を契機に、数万人の奴隷が一斉蜂起した。指導者トゥサン・ルーヴェルチュールは元奴隷でありながら卓越した軍事・外交能力を発揮し、スペイン・
カリブ海・サン=ドマング
1793年
マカートニー使節団
イギリス国王ジョージ3世の使節としてマカートニーが清を訪問。通商拡大・常駐使節の設置・関税引き下げを要求したが、乾隆帝は「天朝は万物を豊かに産する。外夷の貨物を必要としない」と拒絶。
中国・北京〜承徳
1793年1月21日
ルイ16世の処刑
国民公会の裁判でルイ16世(「ルイ・カペー」と呼ばれた)が反逆罪で有罪判決を受け、ギロチンで処刑された。賛成387対反対334の僅差で死刑が決定。処刑人シャルル=アンリ・サンソンが執行し、助手が国王の
フランス・パリ
1793年6月〜1794年7月
ロベスピエールの恐怖政治
ジャコバン派の指導者マクシミリアン・ド・ロベスピエールが公安委員会を通じて独裁的権力を行使した恐怖政治の時代。革命裁判所が簡易な裁判で大量の死刑判決を下し、パリだけで約2600人、フランス全土で推定1
フランス・パリ
1794年〜1796年
正祖の水原華城建設
朝鮮第22代王・正祖が父・思悼世子(荘献世子)の墓を水原に移し、その周囲に新都市・華城を建設。丁若鎔(茶山)が設計を担当し、挙重機(クレーン)を用いた当時最先端の建設技術を導入。城壁の総延長は5.74
朝鮮・水原
1796年〜1804年
白蓮教の乱
白蓮教徒が「弥勒下生」(弥勒仏の降臨)を唱えて蜂起。清軍は鎮圧に8年を要し、軍費2億両を費やした。正規軍の腐敗が露呈し、郷勇(地方民兵)が実質的な戦力となった。
中国・湖北〜四川〜陝西
1796年
ジェンナーの種痘
エドワード・ジェンナーが牛痘に感染した乳搾り女の膿を8歳の少年ジェームズ・フィップスに接種し、その後天然痘に対する免疫が成立することを実証した。1798年に『牛痘の原因と効果に関する研究』を出版。予防
イギリス・バークレー
1796年5月14日
エドワード・ジェンナーの種痘法確立
1796年5月14日、イギリスの医師エドワード・ジェンナーは、乳搾りの女性サラ・ネルムズの牛痘の膿を8歳の少年ジェームズ・フィップスに接種した。6週間後に天然痘を接種したが、フィップスは発症しなかった
イギリス・グロスターシャー
1798〜1801年
ナポレオンのエジプト遠征
ナポレオン・ボナパルトがイギリスのインド航路を断つために3万8千の兵と167人の学者・芸術家を率いてエジプトに遠征。ピラミッドの戦いでマムルーク軍を撃破しカイロを占領したが、ネルソンのアブキール湾の海
エジプト・カイロ
1799年〜1849年
シク帝国の建国(ランジート・シン)
マハーラージャ・ランジート・シンがパンジャーブの分立したシク教勢力を統一し、ラホールを首都にシク帝国を建国。近代的な軍(カールサー軍)をヨーロッパ人軍事顧問の協力で整備。カシミール、ペシャワール、ムル
南アジア・パンジャーブ
1800年〜1816年
伊能忠敬の日本地図作成
伊能忠敬が50歳から始めた全国測量事業。10回にわたる測量旅行で日本列島の海岸線を実測し、『大日本沿海輿地全図』を完成させた。緯度1度の距離を28.2里と算出した精度は、現代の値とほぼ一致する驚異的な
日本・全国
1801年〜1818年
丁若鎔(茶山)と実学の集大成
丁若鎔(1762-1836年)は朝鮮最大の実学者。18年間の流配生活中に500余巻の著作を完成。『牧民心書』(地方行政論)、『経世遺表』(国家制度改革論)、『欽欽新書』(法学)の三大著作のほか、農学・
朝鮮・康津(全羅道)
1802年
阮朝の成立とベトナム統一
阮福映(嘉隆帝)がタイソン朝を滅ぼしてベトナムを統一し、フエを首都に阮朝を建国。フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌの軍事支援を受けた。国号を「越南」(ベトナム)として清から冊封を受けた。フエの王宮は
ベトナム・フエ
1802年〜1945年
フエの阮朝王宮とベトナムの宮廷文化
阮朝の初代嘉隆帝(ザーロン帝)が北京の紫禁城を範に築いた大内(紫禁城)を中核とする宮殿群。太和殿が正殿で、儒教的な宇宙観に基づく厳密な空間配置。ベトナム戦争のテト攻勢(1968年)で大きな被害を受け、
ベトナム・フエ
1803年
ルイジアナ購入
トマス・ジェファーソン大統領がフランスのナポレオンから約1500万ドル(1エーカー当たり約3セント)でルイジアナ領土を購入。合衆国の面積が一夜にして倍増した。当初はニューオーリンズのみの購入を交渉して
北アメリカ・合衆国
1804年〜1830年
化政文化と歌舞伎・浮世絵の隆盛
文化・文政期の江戸を中心とする町人文化の爛熟。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』、小林一茶の俳句、東洲斎写楽の役者絵、歌川広重の『東海道五十三次』など。歌舞伎は7代目市川團十
日本・江戸
1804〜1808年
フラニ族のジハード(ソコト帝国の建国)
フラニ族のイスラム学者ウスマン・ダン・フォディオが、ハウサ諸都市国家の世俗的・腐敗した統治に対してジハードを宣言。約4年の戦争でハウサランドを征服し、ソコト帝国(カリフ国)を建設した。約30の首長国か
ナイジェリア・ソコト
1804〜1806年
ルイスとクラークの探検
メリウェザー・ルイス大尉とウィリアム・クラーク少尉が率いる約45人の「発見隊」がルイジアナ領土と太平洋岸を探検。1804年5月にセントルイスを出発し、1805年11月に太平洋に到達、1806年9月に帰
北アメリカ・西部
1805〜1849年
ムハンマド・アリーの権力掌握と近代化改革
アルバニア系オスマン軍人ムハンマド・アリーがエジプト総督(ワーリー)として権力を握り、1811年にシタデルの宴でマムルーク指導者を一掃。ヨーロッパ式の軍制改革、工業化(繊維工場)、教育改革(留学生派遣
エジプト・カイロ
1805年12月2日
アウステルリッツの戦い(三帝会戦)
ナポレオンがロシア皇帝アレクサンドル1世とオーストリア皇帝フランツ2世の連合軍を撃破した「三帝会戦」。ナポレオンは右翼を故意に弱く見せて連合軍をプラツェン高地から引きずり出し、中央のスルト軍団が高地を
モラヴィア(現チェコ)
1805年10月21日
トラファルガーの海戦
ネルソン提督がヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊(33隻)を27隻の英艦隊で撃破した海戦史上最も有名な戦い。ネルソンは従来の戦列戦術を破り、2列縦隊で敵の戦列を直角に突破する革新的戦術を採用
スペイン・トラファルガー岬沖
1807〜1888年
奴隷貿易の廃止
1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止し、以後海軍力を用いて大西洋の奴隷船を取り締まった。ウィリアム・ウィルバーフォースの議会内闘争とクエーカー教徒らの廃止運動が原動力。1833年にイギリス帝国内の奴隷
イギリス・大西洋
1810年
メキシコ独立の叫び(グリート・デ・ドロレス)
1810年9月16日未明、ドロレス村の教区司祭ミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャが教会の鐘を鳴らし、スペイン支配からの独立を呼びかけた。「アメリカ万歳、スペイン人に死を」という叫びは「ドロレスの叫び
メキシコ・グアナフアト州ドロレス
1810年
五月革命とアルゼンチンの独立への道
1810年5月25日、ブエノスアイレスのカビルド(市参事会)で副王シスネロスが解任され、クリオーリョ主体の統治評議会(プリメーラ・フンタ)が成立した。マリアーノ・モレーノ、マヌエル・ベルグラーノ、コル
アルゼンチン・ブエノスアイレス
1810年
カメハメハ大王のハワイ諸島統一
ハワイ島コハラ出身のカメハメハ1世が約20年にわたる戦争を経てハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建設した。1795年のヌウアヌの戦いでオアフ島を征服(敵兵をヌウアヌ・パリの断崖から落とした伝説で知られる
ハワイ
1811年
シモン・ボリバルのベネズエラ独立宣言
1811年7月5日、ベネズエラ議会はスペインからの独立を宣言し、ラテンアメリカ初の共和国を樹立した。しかし第一共和国は1812年の大地震とスペイン王党派の反攻により崩壊。シモン・ボリバルはカルタヘナに
ベネズエラ・カラカス
1812年6月〜12月
ナポレオンのロシア遠征
ナポレオンが約61万の大陸軍(グランダルメ)を率いてロシアに侵攻。ロシア軍はクトゥーゾフの指揮下で焦土作戦を展開し、ボロジノの戦い(9月7日)で大損害を出しながらも軍を温存した。ナポレオンはモスクワを
ロシア
1814年(再発見)〜1983年(修復完了)
ボロブドゥールの再発見と修復
1814年にイギリス統治下のジャワで「再発見」されたボロブドゥールは、オランダ植民地期に部分的修復が行われ、1973-1983年にUNESCOとインドネシア政府の共同プロジェクトで大規模修復が実施され
インドネシア・ジャワ島中部
1814年9月〜1815年6月
ウィーン会議
ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序再建を目指す国際会議。オーストリア外相メッテルニヒが議長を務め、正統主義(革命前の王朝の正統性回復)、補償の原則、勢力均衡を三原則とした。フランスのタレーランも巧みな外
オーストリア・ウィーン
1815年4月
タンボラ山噴火と「夏のない年」
1815年4月10日、タンボラ山が人類の記録史上最大級の噴火を起こした。火山爆発指数(VEI)は7で、約160立方キロメートルの噴出物を放出した。噴火音は約2,600キロメートル離れたスマトラ島でも聞
インドネシア・スンバワ島
1815年6月18日
ワーテルローの戦い
ナポレオンがエルバ島から帰還して「百日天下」を開始した後の最終決戦。ウェリントン公爵率いる英蘭連合軍がナポレオンの攻撃に終日耐え、夕方にブリュッヒャー率いるプロイセン軍が到着してフランス軍の側面を突い
ベルギー・ワーテルロー
1815年
ウィーン会議の閉幕
ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を再構築するため、メッテルニヒ主導で開催された国際会議。正統主義・勢力均衡・補償の三原則に基づき、フランスの国境を1792年以前に戻し、各国の領土を再編した。タレーラン
オーストリア・ウィーン
1816〜1828年
シャカ・ズールーの軍事革命
ズールー族の首長シャカがクラン連合を統一し、革命的な軍事改革を実施。長槍を短槍(イクルワ)と大盾に替え、牛の角の陣形(両翼包囲)による近接戦闘戦術を確立。年齢ベースの連隊制度(アマブト)を導入し、規律
南アフリカ・クワズール・ナタール
1817年
サン・マルティンのアンデス越え
1817年1月、ホセ・デ・サン・マルティン率いるアンデス軍(約5400名、騎兵・砲兵含む)がメンドーサを出発し、6つの経路に分かれてアンデス山脈を越えた。21日間の行軍で兵力の約3分の1と馬の半数を失
アルゼンチン・チリ国境・アンデス山脈
1819年
ラッフルズのシンガポール開港
イギリス東インド会社のスタンフォード・ラッフルズがジョホール王国のスルタンと条約を結び、シンガポールに交易拠点を設立。自由貿易港として開放し、関税を撤廃したことで急速に発展。1826年にペナン・マラッ
シンガポール
1819年
カールスバート決議
学生運動家カール・ザントによる劇作家コッツェブー暗殺事件を口実に、メッテルニヒがドイツ連邦諸国に対して発した一連の弾圧法令。大学の監視強化、学生結社(ブルシェンシャフト)の禁止、出版検閲の厳格化が定め
ボヘミア・カールスバート(現カルロヴィ・ヴァリ)
1819年
ボヤカの戦い
1819年8月7日、ボリバル率いる愛国軍約2900名がスペイン王党派バレイロ将軍の約2700名を奇襲した。ボリバル軍はリャノスからアンデスを越える驚異的な行軍(約2400km)の末、王党派の背後を突く
コロンビア・ボヤカ
1819年〜1831年
大コロンビアの成立と崩壊
1819年12月のアンゴストゥーラ会議でボリバルが提唱し、ベネズエラ・ヌエバグラナダ・キト(エクアドル)を統合した大コロンビア共和国が成立した。1821年のクータ憲法で正式に発足し、ボリバルが大統領、
南米北部・ボゴタ
1820年
ミズーリ妥協
ミズーリが奴隷州として連邦加入を申請したことで南北の勢力均衡が崩れる危機が生じ、ヘンリー・クレイの調停により成立した妥協案。ミズーリは奴隷州として、メインは自由州として同時に加入し、今後ルイジアナ購入
北アメリカ・合衆国
1821-1829年
ギリシャ独立戦争の勃発
オスマン帝国支配下のギリシャ人が独立を求めて蜂起。フィリキ・エテリア(友愛会)が組織的に準備し、1821年3月にペロポネソス半島で一斉蜂起が始まった。ナヴァリノの海戦(1827年)で英仏露連合艦隊がオ
ギリシャ・ペロポネソス半島
1821年
メキシコ独立
1810年9月16日のミゲル・イダルゴ神父の「ドロレスの叫び」(グリート)に始まる独立運動。イダルゴは先住民とメスティソの軍勢を率いたが1811年に捕えられ処刑。ホセ・マリア・モレロスが引き継いだが同
メソアメリカ・メキシコ
1822年
ブラジルの無血独立
1822年9月7日、ポルトガル王太子ペドロがサンパウロ近郊のイピランガ川畔で「独立か死か」(Independência ou Morte)と宣言し、ブラジルの独立を宣言した。12月1日にペドロ1世とし
ブラジル・リオデジャネイロ / サンパウロ
1822年
グアヤキル会談
1822年7月26-27日、南米の二大解放者シモン・ボリバルとホセ・デ・サン・マルティンがグアヤキルで会談した。会談の詳細な内容は記録されておらず、歴史上最大の謎の一つとされる。会談後、サン・マルティ
エクアドル・グアヤキル
1824年〜1886年
ビルマのイギリス植民地化(三次にわたるビルマ戦争)
イギリスは三次にわたるビルマ戦争でコンバウン朝を段階的に征服。第1次戦争でアラカン・テナセリムを獲得、第2次戦争でペグー(下ビルマ)を併合、第3次戦争でマンダレーを陥落させてティーバウ王を追放。ビルマ
ミャンマー全域
1824年
ベートーヴェン交響曲第9番初演
完全に聴力を失ったベートーヴェンが最後の交響曲を初演。第4楽章にシラーの詩『歓喜に寄す』の合唱を導入した史上初の合唱付き交響曲。初演は大成功であったが、ベートーヴェン自身は聴衆の拍手が聞こえず、独唱者
オーストリア・ウィーン
1824年
アヤクチョの戦い
1824年12月9日、アントニオ・ホセ・デ・スクレ率いる愛国軍約5780名がスペイン副王ラ・セルナ率いる王党派軍約9310名と激突した。数的劣勢にもかかわらず、スクレの巧みな戦術と愛国軍の高い士気によ
ペルー・アヤクチョ
1825年
デカブリストの乱
1825年12月14日、アレクサンドル1世の急死後の皇位継承の混乱に乗じて、自由主義的な青年将校たちが元老院広場で武装蜂起した。立憲制と農奴解放を求めたが、組織的な準備不足とニコライ1世の迅速な鎮圧に
ロシア・サンクトペテルブルク
1828年
ベンガル・ルネサンスの始まり
ラーム・モーハン・ローイがブラフモ・サマージ(ブラフマー協会)を設立。ヒンドゥー教の一神教的改革を唱え、サティー(寡婦殉死)の廃止運動を展開。イギリス総督ベンティンクによるサティー禁止令(1829年)
南アジア・ベンガル
1830年〜1870年
オランダ領東インドの強制栽培制度
オランダ総督ファン・デン・ボスが導入した植民地搾取制度。ジャワ島の農民は耕地の5分の1で指定作物を栽培し、収穫物をオランダ政府に納入する義務を課された。実際にはそれ以上の労働が強制され、飢饉と貧困が蔓
インドネシア・ジャワ島
1830年代〜1907年
グレートゲーム(英露の中央アジア争奪戦)
イギリスとロシアが中央アジアの覇権をめぐり約80年間にわたり展開した地政学的競争。ロシアはカザフスタン・中央アジアを南下して征服し、イギリスはインドの北方防衛のためアフガニスタンに介入。1907年の英
中央アジア全域
1830〜1847年
フランスのアルジェリア征服
シャルル10世のフランス軍がアルジェに上陸し、デイ(太守)政権を打倒。内陸部ではアブデルカーディルが激烈な抵抗を組織し、約17年にわたる征服戦争が展開された。フランスは「焦土作戦」を実施し、数十万人の
アルジェリア・アルジェ
1830年
フランス七月革命
シャルル10世が出版の自由を制限する七月勅令を発布したことに対し、パリ市民が3日間の市街戦(栄光の三日間、7月27-29日)で蜂起。シャルル10世は亡命し、自由主義的なオルレアン家のルイ・フィリップが
フランス・パリ
1830-1831年
ベルギー独立
パリ七月革命に触発され、ブリュッセルのモネ劇場でオペラ『ポルティチの物言わぬ娘』上演中に暴動が発生。オランダからの独立運動に発展し、オランダ軍をブリュッセルから駆逐した。1831年にレオポルド1世を国
ベルギー・ブリュッセル
1830-1831年
ポーランド十一月蜂起
パリ七月革命に触発され、ワルシャワの士官学校の学生たちがロシア支配に対して蜂起。ポーランド軍は一時的にロシア軍を撃退したが、約10ヶ月の戦いの末に鎮圧された。ポーランドの自治権は大幅に縮小され、多くの
ポーランド・ワルシャワ
1831年頃
葛飾北斎『富嶽三十六景』
葛飾北斎が70歳を超えて制作した浮世絵風景版画の傑作。全46図(追加含む)で様々な角度から富士山を描く。「神奈川沖浪裏」はゴッホやドビュッシーに影響を与え、世界で最も有名な日本美術作品となった。
日本・江戸
1832年
第一次選挙法改正(イギリス)
産業革命で台頭した中産階級に選挙権を拡大し、腐敗選挙区(ロットン・バラ)を廃止する選挙法改正法案がウェリントン公の反対を乗り越えて成立。有権者は約50万人から約81万人に増加し、新興工業都市に議席が配
イギリス・ロンドン
1833年〜1837年
天保の大飢饉と大塩平八郎の乱
天保の大飢饉(1833-37年)の中、1837年に元大坂東町奉行所与力の大塩平八郎が「救民」を掲げて蜂起。富商を襲撃したがわずか半日で鎮圧された。元幕臣による反乱は体制の危機を象徴する事件。
日本・大坂
1836年
テキサス独立とアラモの戦い
メキシコからの独立を宣言したテキサス入植者(テハノとアングロ系)が戦争を開始。1836年2月23日〜3月6日のアラモの戦いでは、デイヴィッド・クロケット、ジム・ボウイ、ウィリアム・トラヴィスら約200
北アメリカ・テキサス
1837-1901年
ヴィクトリア女王即位
18歳のヴィクトリアが叔父ウィリアム4世の死去に伴い即位。63年余りの治世は大英帝国の最盛期と重なり、世界の陸地面積の約4分の1を支配する「太陽の沈まぬ帝国」を体現した。立憲君主制の模範として帝国の統
イギリス・ロンドン
1838-1857年
チャーティスト運動
人民憲章(People's Charter)に基づく6項目(男子普通選挙、秘密投票、議員歳費、財産資格の撤廃、均等選挙区、毎年議会)の実現を求めた労働者の大衆運動。三度の請願(1839年、1842年、
イギリス各地
1838〜1839年
涙の道(チェロキー族の強制移住)
1838-39年、アンドリュー・ジャクソン大統領のインディアン移住法(1830年)に基づき、チェロキー族約16000人がジョージアからオクラホマのインディアン準州に強制移住させられた。行軍中に約400
北アメリカ・南東部
1839年
林則徐のアヘン没収
道光帝に命じられた欽差大臣・林則徐が広州でイギリス商人からアヘン2万箱以上(約1400トン)を没収し、虎門で石灰を混ぜて海中に廃棄(虎門銷煙)。これがアヘン戦争の直接的原因となった。
中国・広州
1839年〜1876年
タンジマート改革
ギュルハネ勅令(1839年)により開始されたタンジマート(再編)は、オスマン帝国の近代化改革運動。法の前の平等、財産権の保障、徴税制度の合理化、軍制改革を柱とした。1856年の改革勅令で非ムスリム臣民
オスマン帝国・イスタンブール
1840年〜1842年
アヘン戦争
林則徐のアヘン没収を口実にイギリスが開戦。イギリス海軍は広東から北上し沿岸都市を次々に攻略。清軍は近代兵器に対抗できず大敗。1842年の南京条約で香港割譲、5港開港、賠償金2100万ドルを受諾。
中国・広東〜浙江沿岸
1840年2月6日
ワイタンギ条約の締結
イギリス王室代理ウィリアム・ホブソン海軍大佐と約500名のマオリ首長の間で締結されたニュージーランドの建国文書。英語版ではマオリがイギリス王室に主権(sovereignty)を譲渡する一方、土地所有権
ニュージーランド・ワイタンギ
1841〜1873年
リヴィングストンの探検とスタンリーの遭遇
スコットランド人宣教師デイヴィッド・リヴィングストンが約30年にわたってアフリカ内陸部を探検。ヴィクトリア瀑布の「発見」(1855年)、アラブ人奴隷貿易の告発で知られる。1871年にウジジでニューヨー
東アフリカ・中央アフリカ全域
1845-1852年
アイルランド大飢饉
ジャガイモ疫病菌(Phytophthora infestans)の蔓延により、主食のジャガイモが壊滅的な被害を受けた。約100万人が餓死・疫病で死亡し、約100万人がアメリカなどに移民した。人口は約8
アイルランド全域
1845年〜1872年
ニュージーランド戦争(マオリ戦争)
ワイタンギ条約後のマオリとイギリス入植者・植民地政府間の一連の武力衝突。ノースランドのフラッグスタッフ戦争(1845-46年)に始まり、タラナキ戦争、ワイカト侵攻(1863-64年)、ティトコワルの抵
ニュージーランド
1845-1852年
アイルランド大飢饉(ジャガイモ飢饉)
1845年秋、北米由来のジャガイモ疫病菌がアイルランドに到達し、主食であるジャガイモの壊滅的な不作が数年にわたり続いた。約100万人が餓死・病死し、さらに約100万人以上が北米やオーストラリアに移住し
アイルランド
1846〜1848年
米墨戦争
テキサス国境紛争を端緒とする米墨戦争。ジェームズ・ポーク大統領はリオ・グランデを国境と主張、メキシコはヌエセス川を主張。ザカリー・テイラー将軍の北方軍とウィンフィールド・スコット将軍のメキシコシティ攻
北アメリカ・メキシコ
1848年
フランス二月革命
七月王政のルイ・フィリップに対する改革要求運動が弾圧されたことで武装蜂起に発展。2月22-24日の市街戦の末にルイ・フィリップが亡命し、第二共和政が成立。男子普通選挙が実施され、国立工場の設置など社会
フランス・パリ
1848-1849年
ドイツ三月革命
パリ二月革命の報に触発され、ベルリンやウィーンをはじめドイツ各地で自由主義と国民統一を求める蜂起が発生。フランクフルト国民議会が召集され、統一ドイツの憲法草案を作成したが、プロイセン王フリードリヒ・ヴ
ドイツ各地・ベルリン
1848年
ウィーン三月革命
パリの二月革命に触発され、ウィーンの学生と労働者が蜂起。メッテルニヒは辞任・亡命を余儀なくされた。皇帝フェルディナント1世は憲法の制定を約束したが、10月にヴィンディシュグレーツ将軍がウィーンを軍事制
オーストリア・ウィーン
1848-1849年
ハンガリー革命
コシュート・ラヨシュの指導のもと、ハプスブルク帝国からの独立を宣言。ハンガリー革命軍は初期に勝利を収めたが、オーストリアの要請でロシア軍が介入し、1849年8月にヴィラーゴシュで降伏。コシュートは亡命
ハンガリー・ブダペスト
1848年
マルクスとエンゲルス『共産党宣言』発表
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが共産主義者同盟の綱領として執筆。「ヨーロッパに幽霊が出る、共産主義という幽霊が」の有名な冒頭で始まり、階級闘争史観、ブルジョワジーとプロレタリアートの対立、
イギリス・ロンドン(出版はドイツ語)
1848-1849年
1848年イタリア各地の蜂起
ウィーン革命に触発され、ミラノで五日間蜂起(3月18-22日)が起きオーストリア軍を撤退させた。ヴェネツィアではダニエレ・マニンが共和国を復活させ、ローマではマッツィーニがローマ共和国を宣言した。しか
イタリア各地
1848〜1855年
カリフォルニア・ゴールドラッシュ
1848年1月24日、ジェームズ・マーシャルがサクラメント近郊のサッターズ・ミルで金を発見。ニュースが広まると世界中から約30万人の「フォーティナイナーズ」(49年者)がカリフォルニアに殺到した。サン
北アメリカ・カリフォルニア
19世紀後半〜20世紀
マレーシアの錫・ゴム産業の発展
19世紀後半にマレー半島の錫鉱山が開発され、世界の錫の約半分を産出。20世紀初頭にはヘンリー・リドリーの尽力でゴムのプランテーションが急速に拡大し、マレーシアは世界最大のゴム生産国となった。これらの産
マレーシア・半島部
1851年〜1864年
太平天国の乱
洪秀全が独自のキリスト教解釈に基づき「太平天国」を建国。1853年に南京を攻略して天京とし、天朝田畝制度(土地均分)、男女平等、纏足禁止などの革命的政策を掲げた。曾国藩の湘軍・李鴻章の淮軍により186
中国・南京を中心に華中〜華南
1851年
水晶宮万国博覧会
アルバート公の発案により開催された世界初の万国博覧会。鉄とガラスで建設された「水晶宮」(長さ564m)に、28カ国から10万点以上の工業製品・芸術品が展示された。約600万人が来場し、イギリスの産業力
イギリス・ロンドン・ハイドパーク
1851年〜1860年代
オーストラリアのゴールドラッシュ
1851年2月にニューサウスウェールズのバサーストで、同年8月にビクトリアのバララットとベンディゴで大規模な金鉱が発見された。世界中から採掘者が殺到し、ビクトリア植民地の人口は数年で3倍に膨れ上がった
オーストラリア・ビクトリア
1852-1870年
フランス第二帝政とルイ・ナポレオン
ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が1851年のクーデターで権力を掌握し、翌年皇帝に即位して第二帝政を開始。パリの大改造、鉄道網の整備、産業振興などの近代化政策を推進する一方、クリミア戦争・イタリア統
フランス・パリ
1853年
ペリー来航
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻で浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を要求。蒸気船(黒船)の威容は日本に大きな衝撃を与えた。翌1854年に日米和親条約が締結され、約200年
日本・神奈川
1853-1856年
クリミア戦争
ロシアのオスマン帝国への膨張をイギリス・フランス・サルデーニャが阻止した戦争。セヴァストポリの349日間の包囲戦が最大の戦闘であった。バラクラヴァの戦い(軽騎兵旅団の突撃)、インケルマンの戦いなどを経
クリミア半島・セヴァストポリ
1854年3月31日
日米和親条約と開国
1854年、ペリー再来航を受けて幕府は日米和親条約を締結。下田・箱館の2港を開港し200年以上の鎖国が終了。1858年には日米修好通商条約で治外法権・関税自主権喪失という不平等条件が課された。
日本・神奈川
1854年
コレラの流行とジョン・スノーの疫学調査
1854年8月、ロンドンのソーホー地区でコレラが大発生し、10日間で500人以上が死亡した。医師ジョン・スノーは感染者の住所を地図上にプロットし、ブロード・ストリートの井戸ポンプを中心に感染が集中して
イギリス・ロンドン
1856年〜1860年
アロー戦争と円明園の破壊
アロー号事件を口実にイギリス・フランスが第二次アヘン戦争を開始。1860年に英仏連合軍が北京を占領し、報復として円明園を略奪・焼却。北京条約で天津開港、九龍割譲、外国公使の北京駐在を受諾。
中国・広東〜北京
1857年〜1858年
インド大反乱(セポイの反乱)
1857年5月にメーラトのインド人傭兵(セポイ)が蜂起し、北インド全域に拡大した大反乱。エンフィールド銃の弾薬包(牛脂・豚脂が使用とされた)問題が直接の引き金。デリーのムガル皇帝バハードゥル・シャー2
南アジア・北インド
1857年〜1858年
ラクナウ包囲戦
インド大反乱の中で最も長期にわたった包囲戦。イギリス駐在官ヘンリー・ローレンスの下で約1700人の英国人と兵士がレジデンシーに籠城。ローレンスは戦死したが、ヘイヴロック将軍とキャンベル将軍による二度の
南アジア・ウッタル・プラデーシュ
1858年〜1859年
安政の大獄
1858年、大老井伊直弼が将軍継嗣問題と条約問題の反対派を大規模に弾圧。吉田松陰・橋本左内を処刑し100名以上が処罰された。幕府の強権的対応は尊攘派をかえって先鋭化させ桜田門外の変を招いた。
日本・江戸
1858年〜1893年
フランスのインドシナ連邦形成
フランスは1858年のダナン攻撃を皮切りに、コーチシナ(南ベトナム、1862年)、カンボジア(保護国化1863年)、トンキン(北ベトナム)とアンナン(中部ベトナム、1883-84年)、ラオス(1893
ベトナム・カンボジア・ラオス
1858年
インド帝国の成立
インド大反乱の鎮圧後、東インド会社が解散され、インドはイギリス王室の直轄統治下に入った。1876年にヴィクトリア女王がインド皇帝(カイサル・イ・ヒンド)の称号を得た。インド担当大臣とインド総督が統治の
南アジア・デリー
1859〜1869年
スエズ運河の建設と開通
フランス人外交官フェルディナン・ド・レセップスの主導でスエズ運河が建設された。全長約164km、幅22m(当初)。約150万人のエジプト人労働者が動員され、多数の犠牲者を出した。1869年11月17日
エジプト・スエズ地峡
1859年
ソルフェリーノの戦い
サルデーニャ=フランス連合軍がオーストリア軍を破った決戦。ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が率いる連合軍が勝利し、ロンバルディアのオーストリアからの解放につながった。約4万人の死傷者を
イタリア・ソルフェリーノ
1859年
ダーウィン『種の起源』出版
チャールズ・ダーウィンが自然選択による進化の理論を体系的に提示した画期的著作。ウォレスの独立した進化論発表に刺激されて出版を決断。初版1,250部は発売日に完売した。生物は共通の祖先から自然選択により
イギリス・ロンドン
1860年
桜田門外の変
安政の大獄で尊攘派を弾圧した大老・井伊直弼が、水戸藩・薩摩藩の浪士に江戸城桜田門外で暗殺された。幕府最高権力者の暗殺は幕府の権威を決定的に失墜させ、幕末の政局を一変させた。
日本・江戸
1860年
円明園の略奪と破壊
アロー戦争の最終段階で英仏連合軍が北京を占領。エルギン卿の命で円明園が3日間にわたり略奪・放火された。数万点の宝物が奪われ、「万園の園」と称された庭園は廃墟と化した。
中国・北京
1860年
東学の創始
没落両班の崔済愚(1824-1864年)が「西学」(天主教)に対抗する「東学」を創始。「人乃天」(人がすなわち天)の思想は人間の平等と尊厳を説き、下層民に広まった。崔済愚は1864年に処刑されたが、東
朝鮮・慶州
1860年
アンコール・ワットの「再発見」
フランスの博物学者アンリ・ムオが西洋世界にアンコール遺跡群を紹介。実際には遺跡は地元民や僧侶に知られ続けており、完全な「発見」ではなかったが、ムオの著作『シャム・カンボジア・ラオス紀行』がヨーロッパで
カンボジア・アンコール
1860年
ガリバルディの千人遠征
ジュゼッペ・ガリバルディが約1,000人の義勇兵(赤シャツ隊)を率いてシチリアに上陸。カラタフィミの戦いでブルボン軍を破り、パレルモを解放。その後メッシーナ海峡を渡ってナポリ王国を征服し、ヴィットーリ
イタリア・シチリア〜ナポリ
1861年〜1895年
洋務運動
曾国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞ら漢人官僚が「中体西用」(中国の伝統を本体とし西洋技術を手段とする)をスローガンに近代化を推進。江南製造局、福州船政局、漢陽鉄廠などを建設し北洋艦隊を整備。
中国・各地
1861年
ロシア農奴解放令
アレクサンドル2世が約2,300万人の農奴の人格的自由を宣言。農奴は法的に自由な身分となったが、土地は地主から購入する必要があり、その代金は49年間の年賦で国に返済する義務を負った。村共同体(ミール)
ロシア帝国全域
1861年
イタリア王国の成立
サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王に即位し、トリノを首都としてイタリア王国が成立。カヴールの外交・ガリバルディの軍事行動・マッツィーニの思想という三つの力が統一を実現した。ただ
イタリア・トリノ
1861〜1867年
フランスのメキシコ介入とマクシミリアン帝政
ナポレオン3世がメキシコの負債を口実にフランス軍を派遣し、ハプスブルク家のマクシミリアン大公をメキシコ皇帝に擁立した。1862年5月5日のプエブラの戦いでメキシコ軍がフランス軍を撃退(シンコ・デ・マヨ
メソアメリカ・メキシコ
1862年〜1863年
生麦事件と薩英戦争
1862年、薩摩藩主の行列を横切った英国人を薩摩藩士が殺傷。1863年に英艦隊7隻が鹿児島湾で薩摩藩と交戦。薩摩は甚大な被害を受けたが英艦にも損傷を与え、互いに実力を認めた。この経験で薩摩は攘夷から開
日本・横浜〜鹿児島
1863年〜1864年
下関戦争(馬関戦争)
1863年、長州藩が攘夷実行として下関海峡の外国船を砲撃。1864年に英仏蘭米の四国連合艦隊17隻が報復攻撃を行い砲台を壊滅させた。この敗北で長州も攘夷の不可能を認識し開国・近代化路線に転換。高杉晋作
日本・長門国
1863年〜1869年
新選組の活動
新選組は幕末京都で尊攘派浪士を取り締まった武装組織。近藤勇を局長、土方歳三を副長として1864年の池田屋事件で長州藩の志士を急襲し名を上げた。最盛期約200名。戊辰戦争では幕府側として戦い、土方歳三は
日本・京都
1863年
ゲティスバーグの戦い
1863年7月1-3日、南北戦争最大の戦闘。北軍ジョージ・ミード将軍と南軍ロバート・E・リー将軍が約17万人の兵力で激突。3日目のピケットの突撃(約12500人の南軍が北軍中央の防衛線に正面突撃して壊
北アメリカ・ペンシルベニア
1863年1月1日
奴隷解放宣言
エイブラハム・リンカーン大統領が1863年1月1日に発効させた大統領令。南部連合に反乱中の州の奴隷を自由人と宣言した。ただし北部の奴隷州(ボーダーステート)や北軍占領下の南部地域には適用されなかった。
北アメリカ・ワシントンD.C.
1864年
第一インターナショナル設立
国際労働者協会(第一インターナショナル)がロンドンで設立。マルクスが事実上の指導者として規約と綱領を起草した。ヨーロッパ各国の労働組合・社会主義団体を結集しようとしたが、マルクス派とバクーニンの無政府
イギリス・ロンドン
1864年〜1870年
パラグアイ戦争(三国同盟戦争)
パラグアイの独裁者フランシスコ・ソラーノ・ロペスが、ウルグアイ内政への干渉を契機にブラジル・アルゼンチン・ウルグアイの三国同盟と戦った南米史上最大の国際戦争。パラグアイは当初の攻勢から次第に劣勢に転じ
パラグアイ・アスンシオン
1865年〜1884年
ロシアのコーカンド征服と中央アジア支配
ロシア帝国が1865年にタシケントを征服し、以後コーカンド・ハン国併合(1876年)、ブハラ・ヒヴァの保護国化を経て中央アジア全域を支配下に置いた。トルキスタン総督府が設置され、綿花モノカルチャー経済
中央アジア全域
1865年4月9日
アポマトックスの降伏と南北戦争の終結
1865年4月9日、ロバート・E・リー将軍がユリシーズ・S・グラント将軍にアポマトックス・コートハウスのマクリーン家の居間で降伏。約28000人の南軍兵士が武器を置いた。グラントは寛大な降伏条件を提示
北アメリカ・バージニア
1865年4月14日
リンカーン暗殺
1865年4月14日夜、ジョン・ウィルクス・ブースがワシントンD.C.のフォード劇場でリンカーン大統領を銃撃した。リンカーンは翌朝4月15日に死亡。ブースは南部のシンパで俳優、劇場に精通していたためバ
北アメリカ・ワシントンD.C.
1866年
薩長同盟
薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が坂本龍馬の仲介で軍事同盟を締結。幕府に対抗する最大勢力の結集であり、倒幕運動の決定的転換点。この同盟が大政奉還・王政復古・戊辰戦争へとつながる。
日本・京都
1866年
大院君の鎖国政策と丙寅洋擾
摂政・興宣大院君がフランス人宣教師9名と朝鮮人カトリック信者約8,000人を処刑(丙寅迫害)。フランスはこれに報復してロズ提督率いる艦隊を派遣し江華島を攻撃した。朝鮮軍は頑強に抵抗し、フランス軍は撤退
朝鮮・江華島
1866年
普墺戦争(ケーニヒグレーツの戦い)
ビスマルクが仕掛けた普墺戦争の決戦。プロイセン軍がオーストリア軍を決定的に撃破し、わずか7週間で戦争は終結した。プラハ条約でオーストリアはドイツ連邦から排除され、北ドイツ連邦が成立。小ドイツ主義による
チェコ・ケーニヒグレーツ(現フラデツ・クラーロヴェー)
1866年
ドストエフスキー『罪と罰』
フョードル・ドストエフスキーの代表作。貧しい学生ラスコーリニコフが「選ばれた人間」には殺人も許されるという理論に基づいて金貸しの老婆を殺害するが、良心の呵責に苦しみ、最終的に自首する。人間の罪悪と贖罪
ロシア・サンクトペテルブルク
1867年
大政奉還
第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上。約260年にわたる徳川幕府が平和的に終焉した。慶喜は新体制下での主導権維持を狙ったが、王政復古の大号令により実権を失った。
日本・京都
1867年
第二次選挙法改正(イギリス)
ディズレーリ率いる保守党が提出した選挙法改正法案が成立。都市部の世帯主に選挙権が拡大され、有権者数は約100万人から約200万人に倍増した。熟練労働者層が初めて選挙権を獲得し、都市部の政治的バランスが
イギリス・ロンドン
1867年
オーストリア=ハンガリー二重帝国成立(アウスグライヒ)
ケーニヒグレーツの敗北後、フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリーとの妥協(アウスグライヒ)を受け入れ、帝国をオーストリア帝国とハンガリー王国の二重国家に再編した。外交・軍事・財政は共同省で管理し、それ以外
オーストリア=ハンガリー帝国
1867年
カナダ連邦成立
1867年7月1日、英領北アメリカ法により、オンタリオ、ケベック、ノバスコシア、ニューブランズウィックの4州がカナダ自治領(ドミニオン)として連邦化。ジョン・A・マクドナルドが初代首相に就任。連邦制を
北アメリカ・カナダ
1868年
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争開始)
旧幕府軍と薩長中心の新政府軍(官軍)が京都南部で激突した戊辰戦争最初の戦い。数で劣る新政府軍が最新の銃器と錦の御旗の政治的効果で圧勝。慶喜は大坂城から海路江戸に逃走。以後、新政府軍は東へ進軍。
日本・京都
1868年〜1869年
箱館戦争と五稜郭
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が蝦夷地に渡り、五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立。しかし新政府軍の攻撃を受け、1869年5月に降伏。戊辰戦争の最後の戦いとなった。土方歳三は箱館の戦いで戦死。
日本・北海道
1868年
会津戦争と白虎隊
1868年、新政府軍が会津藩を攻撃。約1ヶ月の篭城戦の後に降伏。15〜17歳の白虎隊士中二番隊が飯盛山で城が燃えるのを見て自刃した悲劇は戊辰戦争の象徴。会津藩は斗南藩に移封される厳しい処分を受けた。
日本・会津
1868年
明治維新と五箇条の御誓文
明治天皇が五箇条の御誓文を発布し、「広く会議を興し万機公論に決すべし」など近代国家建設の方針を宣言。版籍奉還(1869年)、廃藩置県(1871年)により封建制度を解体し、中央集権的近代国家の基盤を構築
日本・京都/東京
1868年〜1910年
チュラロンコーン大王(ラーマ5世)の近代化改革
ラーマ5世チュラロンコーン大王が奴隷制の段階的廃止、近代的行政制度(省庁制度)の導入、教育改革、鉄道建設などの大規模な近代化改革を推進。同時にイギリスとフランスの間の巧みな外交でタイの独立を維持した。
タイ・バンコク
1869年
大陸横断鉄道の完成
1869年5月10日、ユタ州プロモントリーサミットで、東から建設したユニオン・パシフィック鉄道と西から建設したセントラル・パシフィック鉄道が「黄金のくぎ」で結合された。セントラル・パシフィック側では約
北アメリカ・合衆国
1869年
スエズ運河の開通
フェルディナン・ド・レセップスの主導で1859年に着工し、1869年11月17日に開通。約150万人の労働者(多くはエジプト人の強制労働)が10年にわたり建設に従事し、約12万人が死亡したとされる。開
エジプト・中東
1870-1871年
普仏戦争・セダンの戦い
エムス電報事件を契機にフランスが宣戦布告。1870年9月1-2日のセダンの戦いでナポレオン3世が降伏・捕虜となった。パリは4ヶ月間包囲され、1871年1月に降伏。フランクフルト講和条約でアルザス=ロレ
フランス・セダン
1870-1940年
フランス第三共和政の成立
セダンの戦いでのナポレオン3世降伏後、1870年9月4日に共和制が宣言された。当初は暫定体制と見なされ、王政復古派が多数を占めたが、共和派が漸次勢力を拡大。1875年の憲法改正で共和制が確定し、以後7
フランス・パリ
1870年
ローマ併合(教皇領の消滅)
普仏戦争でフランス駐留軍がローマから撤退したのを機に、イタリア軍がローマに進軍。9月20日にポルタ・ピア門から突入し、教皇ピウス9世は降伏。ローマはイタリア王国の首都となり、教皇領は消滅した。教皇は「
イタリア・ローマ
1871年7月14日
廃藩置県
1871年、明治政府は全国の藩を廃止して府県を設置し、中央集権的な統一国家を確立した。薩摩・長州・土佐の藩兵を御親兵として東京に集め、軍事力を背景に断行。約260の藩が一朝にして消滅し、旧藩主は華族と
日本・東京
1871年〜1873年
岩倉使節団
1871年、岩倉具視を特命全権大使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする約50名の使節団(随員含め約107名)が欧米に派遣された。不平等条約改正の予備交渉と西洋文明の視察が目的。条約改正は失敗
欧米各国
1871年
ドイツ帝国成立宣言
普仏戦争の勝利を背景に、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立した。ビスマルクが帝国宰相となり、25の領邦国家からなる連邦制の統一国家が誕生した。
フランス・ヴェルサイユ宮殿
1871年
パリ・コミューン
普仏戦争の敗北と包囲の苦難を経たパリ市民が、臨時政府に反旗を翻し自治政府(コミューン)を樹立。労働者の権利保護、政教分離、女性の権利拡大などの革命的施策を実施したが、72日間で政府軍に鎮圧された。「血
フランス・パリ
1872年
富岡製糸場の開業と殖産興業
明治政府が殖産興業政策の模範工場として設立した官営製糸場。フランスの最新技術を導入し、日本の近代製糸業の発展を牽引。生糸は明治期最大の輸出品となり、日本の工業化を支えた。2014年にユネスコ世界文化遺
日本・群馬
1873-1890年
ビスマルクの同盟体制
ビスマルクは三帝同盟(独墺露、1873年)、独墺同盟(1879年)、三国同盟(独墺伊、1882年)、再保障条約(独露、1887年)を重層的に締結し、フランスの孤立を維持しつつヨーロッパの平和を保った。
ドイツ・ベルリン
1874年〜1890年
自由民権運動
1874年、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を提出し、自由民権運動が本格化。国会開設、憲法制定、地租軽減、不平等条約改正などを要求。1881年に国会開設の勅諭が出され、1890年の帝国議会開設で一応
日本・全国
1874-1881年
ナロードニキ運動
1874年の「ヴ・ナロード(民衆の中へ)」運動で、数千人の学生・知識人が農村に入り、農民の啓蒙と社会主義の宣伝を試みた。しかし農民は彼らを不審がり、多くが密告・逮捕された。挫折後、「土地と自由」が結成
ロシア帝国各地
1874年
印象派の誕生
モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ピサロ、モリゾらが官展(サロン)に対抗して独立展覧会を開催。モネの『印象、日の出』が批評家ルロワに揶揄的に「印象派」と名づけられた。光と色彩の瞬間的印象を戸外で直接描
フランス・パリ
1875年〜1876年
江華島事件と日朝修好条規
日本の軍艦・雲揚号が江華島付近で朝鮮側砲台と交戦した事件。翌1876年、日本はこれを口実に朝鮮に開国を迫り、日朝修好条規(江華島条約)を締結。朝鮮は釜山・仁川・元山の3港を開港し、日本の領事裁判権を認
朝鮮・江華島
1876年〜1878年
左宗棠の新疆回復
洋務派の将軍・左宗棠が新疆に侵入したヤクブ・ベグ政権を討伐し、新疆を回復。1884年に新疆省を設置して中国の直接統治下に。海防論と塞防論の論争で左宗棠は塞防(内陸防衛)を主張して勝利。
中国・新疆
1876年
リトルビッグホーンの戦い
1876年6月25日、ジョージ・アームストロング・カスター中佐率いる第7騎兵隊約210人が、シッティング・ブルとクレイジー・ホース率いるラコタ・スー族、シャイアン族、アラパホ族の連合軍(推定1500〜
北アメリカ・モンタナ
1877年
西南戦争
西郷隆盛が率いる旧薩摩藩士約13000人が明治政府に対して挙兵した日本最後の内戦。熊本城の攻防、田原坂の激戦を経て政府軍が勝利。西郷は城山で自刃。約7ヶ月の戦闘で双方合わせて約14000人が死亡。
日本・鹿児島〜熊本
1878年
ベルリン会議
露土戦争後のサン・ステファノ条約を修正するため開催された国際会議。ロシアが作った大ブルガリアを三分割し、オーストリアにボスニア・ヘルツェゴビナの管理権を付与、イギリスにキプロスを確保させた。セルビア、
ドイツ・ベルリン
1879年
ズールー戦争(イサンドルワナの戦い)
イギリスがズールー王国に最後通牒を突きつけて侵攻。1879年1月22日のイサンドルワナの戦いでは、約2万のズールー軍がイギリス正規軍約1700人を壊滅させ、ヴィクトリア朝イギリスに衝撃を与えた。同日の
南アフリカ・イサンドルワナ
1879年〜1883年
太平洋戦争(南米)
ボリビアがチリの硝石採掘企業への増税を行ったことを契機に、チリがアントファガスタを占領して開戦。ペルーはボリビアとの秘密同盟条約に基づき参戦した。チリ海軍はイキケの海戦で苦戦したが、アンガモスの海戦で
チリ・ボリビア・ペルー太平洋岸
1879年〜1912年
アマゾンのゴム・ブーム
自動車産業の勃興と自転車の普及によるゴム需要の急増を背景に、アマゾン地域は世界のゴム生産を独占した。マナウスは「熱帯のパリ」と呼ばれ、アマゾナス劇場(1896年開場)などの豪華な建築が建設された。ゴム
ブラジル・マナウス
1880年〜1914年
アルゼンチンの黄金時代と移民の波
1880年から第一次世界大戦までの時期にアルゼンチンは世界有数の経済大国に急成長した。冷凍船技術の発達により牛肉のヨーロッパ輸出が可能となり、小麦輸出も急増。イタリア、スペイン、東欧から約600万人の
アルゼンチン・ブエノスアイレス
1881年
チュニジア保護国化
フランスがクルミール族の国境侵犯を口実にチュニジアに軍事介入し、バルドー条約(1881年5月)でチュニジアをフランスの保護国とした。1883年のラ・マルサ協定で保護国体制が確立。ベイ(チュニジアの君主
チュニジア・チュニス
1881年
アレクサンドル2世暗殺
人民の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)のテロリストが、馬車で移動中のアレクサンドル2世に爆弾を投擲。最初の爆弾で護衛が負傷し、皇帝が馬車を降りた直後に二発目の爆弾で致命傷を負い、冬宮で死去した。7回目
ロシア・サンクトペテルブルク
1882年
壬午軍乱
開化政策への不満と給料の遅配に怒った旧式軍隊の兵士が反乱。日本公使館を襲撃し、日本人教官・堀本礼造らを殺害。大院君が一時的に政権を回復したが、清が3,000の軍を派遣して鎮圧し、大院君を天津に連行した
朝鮮・漢陽
1882年
イギリスのエジプト占領
エジプト民族主義将校アフマド・アラービー・パシャの反乱を口実に、イギリス軍がエジプトに軍事介入。アレクサンドリアの砲撃とテル・エル・ケビールの戦いでエジプト軍を撃破し、カイロを占領した。形式的にはオス
エジプト・カイロ
1883年〜1910年
朝鮮の近代教育と新式学校の設立
1883年の同文学(英語学校)設立を皮切りに、近代的な教育制度が導入された。アメリカ人宣教師アペンゼラーが培材学堂(1885年)、スクラントンが梨花学堂(1886年、韓国初の女子教育機関)を設立。甲午
朝鮮・漢陽
1883-1889年
ビスマルクの社会保険制度
ビスマルクが社会主義者鎮圧法(1878年)と並行して導入した世界初の包括的社会保険制度。疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年)の三法により、労働者の生活保障
ドイツ・ベルリン
1883年8月26-27日
クラカタウ噴火
1883年8月26-27日、スンダ海峡のクラカタウ火山が壊滅的な噴火を起こした。火山爆発指数(VEI)は6で、約25立方キロメートルの噴出物を放出。8月27日の最大噴火の爆発音は約4,800キロメート
インドネシア・スンダ海峡
1884年
甲申政変
金玉均・朴泳孝ら開化派が日本公使・竹添進一郎の支援を受けてクーデタを敢行。新政権を樹立し14か条の改革綱領を発表したが、袁世凱率いる清軍の介入によりわずか3日で失敗。金玉均は日本に亡命し、10年後に上
朝鮮・漢陽
1884〜1885年
ベルリン会議(アフリカ分割)
ビスマルクの主催により14カ国(アフリカからの参加者なし)がベルリンに集まり、アフリカ大陸の植民地分割のルールを策定。「実効支配の原則」により、領有の主張には現地での実際の支配が必要とされた。コンゴ川
ドイツ・ベルリン
1885年
インド国民会議派の結成
退職イギリス人官吏アラン・オクタヴィアン・ヒュームの呼びかけで72名の代議員が参加し結成。当初は穏健な請願運動を展開したが、次第に自治・独立を求める政治運動に発展。ダーダーバーイー・ナオロージー、ゴー
南アジア・ボンベイ
1885〜1908年
レオポルド2世のコンゴ自由国
ベルギー国王レオポルド2世がコンゴ盆地を個人的所有地として支配。天然ゴムと象牙の収奪のため、住民に過酷な強制労働を課した。ノルマを達成しない者の手首を切断する残虐行為が横行し、推定1000万人が死亡し
コンゴ民主共和国全域
1886年
自由の女神像の除幕式
フランスからアメリカへの友好の証として贈られた巨大な銅像。フレデリック・オーギュスト・バルトルディが設計し、ギュスターヴ・エッフェルが内部構造を担当。高さ46m(台座を含めると93m)。右手にたいまつ
北アメリカ・ニューヨーク
1886年
ヘイマーケット事件
1886年5月4日、8時間労働制を求めるストライキに関連した集会中に何者かが爆弾を投げ、警察官7人と市民4人以上が死亡した。爆弾犯は特定されなかったが、無政府主義者8人が逮捕され、4人が絞首刑に処され
北アメリカ・シカゴ
1887年
ホセ・リサールの文学と民族覚醒
ホセ・リサール(1861-1896年)がスペイン語で書いた小説『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』(1887年)と続編『エル・フィリブステリスモ(反逆者)』(1891年)は、スペイン植民地支配とカト
フィリピン・マニラ
1888年
ブラジルの奴隷制廃止(黄金法)
1888年5月13日、摂政イザベル皇女が「黄金法」(レイ・アウレア)に署名し、ブラジルの奴隷制が即時・無条件で廃止された。アメリカ大陸で最後に奴隷制を廃止した国となった。約70万人の奴隷が解放されたが
ブラジル・リオデジャネイロ
1889年
大日本帝国憲法の発布
伊藤博文を中心に起草されたアジア初の近代憲法。プロイセン憲法を範とし、天皇主権・帝国議会・臣民の権利を規定。1890年に第1回帝国議会が開かれ、立憲政治が開始された。
日本・東京
1890年
ウンデッド・ニーの虐殺
1890年12月29日、第7騎兵隊がパインリッジ居留地でラコタ・スー族のビッグフット首長の一行約350人(多くは女性と子供)を武装解除しようとした際に銃撃が始まり、約250〜300人のラコタ族が殺害さ
北アメリカ・サウスダコタ
1891年〜1901年
足尾鉱毒事件と田中正造の直訴
足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川流域の農業に壊滅的被害を与えた日本初の公害事件。衆議院議員・田中正造は議会で再三問題を取り上げ、1901年には議員を辞して明治天皇に直訴を試みた。谷中村の強制廃村は近代日本の暗
日本・栃木
1891年10月28日
濃尾地震
1891年10月28日、マグニチュード8.0の巨大地震が濃尾平野を襲い、死者7,273名、全壊家屋約14万棟の被害を出した。根尾谷断層は世界的にも最大級の地表断層で、現在も国の特別天然記念物として保存
日本・愛知県
1891-1916年
シベリア鉄道建設
皇太子ニコライ(後のニコライ2世)がウラジオストクで起工式を行い、モスクワからウラジオストクまでの鉄道建設が開始された。囚人・兵士・中国人労働者が動員され、バイカル湖周辺の工事は特に難航した。1904
ロシア帝国・モスクワ〜ウラジオストク
1892年
エリス島移民局の開設
1892年1月1日に連邦移民局として開設。1892年から1954年の閉鎖までに約1200万人の移民が通過した。到着した移民は法的・医学的審査を受け、約2%が入国を拒否された。ピーク時の1907年には単
北アメリカ・ニューヨーク
1893年〜1898年
ハワイ王国の転覆とアメリカ併合
1893年1月17日、アメリカ人農園主・実業家を中心とする「安全委員会」がクーデターを実行し、リリウオカラニ女王を退位に追い込んだ。アメリカ公使ジョン・スティーブンスの支援の下、USS ボストンから上
ハワイ・ホノルル
1893年9月19日
ニュージーランドの女性参政権実現
ニュージーランド議会が選挙法改正案を可決し、成人女性に国政選挙の投票権を付与した。世界で初めて女性が国政レベルの選挙権を獲得した国となった。ケイト・シェパードが率いるニュージーランド基督教婦人禁酒同盟
ニュージーランド
1893年
ニュージーランドの女性参政権(世界初)
1893年9月19日、ニュージーランドが世界で初めて女性に国政選挙の投票権を認めた。ケイト・シェパードが率いた女性参政権運動は、約32000人の署名(当時の成人女性の約4分の1)を集めた請願書を議会に
オセアニア・ニュージーランド
1894年〜1895年
日清戦争
朝鮮の支配権をめぐり日本と清国が開戦。日本は陸海両面で清軍を圧倒し、下関条約で台湾・遼東半島の割譲と賠償金2億テールを獲得。しかし三国干渉により遼東半島を返還。日本は東アジアの列強の一員となった。
朝鮮半島・中国
1894年〜1895年
日清戦争・下関条約
1895年4月、日清戦争の講和として下関条約が調印された。伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章が交渉。清国は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲、賠償金2億両(約3億円)を支払った。しかしロシア・フ
日本・下関
1894年〜1895年
日清戦争と下関条約
朝鮮の東学党の乱を契機に日本と清が開戦。日本は黄海海戦で北洋艦隊を撃破し、遼東半島・威海衛を攻略。1895年の下関条約で台湾・遼東半島の割譲、賠償金2億両を受諾。三国干渉で遼東半島は返還。
朝鮮半島〜黄海〜遼東半島
1894年
甲午農民戦争(東学党の乱)
全琫準率いる東学農民軍が不正な地方官への抗議から蜂起。黄土峴で官軍を破り全州を占領。朝鮮政府が清に援軍を要請すると日本も出兵し、日清戦争の直接的原因となった。農民軍は12か条の弊政改革案を掲げ、身分制
朝鮮・全羅道
1894-1906年
ドレフュス事件
ユダヤ系フランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスがドイツへのスパイ容疑で有罪判決を受けた冤罪事件。エミール・ゾラが新聞に「私は弾劾する(J'accuse)」を発表し、フランス社会はドレフュス派と反ドレ
フランス・パリ
1895年
閔妃暗殺(乙未事変)
日本公使・三浦梧楼の指揮の下、日本人壮士と訓練隊兵士が景福宮に侵入し、朝鮮王妃・閔妃(明成皇后)を殺害。遺体を焼却するという残虐な犯行であった。ロシアに接近して日本の影響力排除を図る閔妃を除去する目的
朝鮮・漢陽(景福宮)
1895年〜1898年
キューバ独立戦争と米西戦争
キューバの国民的英雄ホセ・マルティが1895年に独立戦争を開始したが、上陸直後のドス・リオスの戦いで戦死した。アントニオ・マセオ、マキシモ・ゴメスらが戦争を継続。スペインのウェイレル将軍は民間人を強制
キューバ・ハバナ
1896年〜1898年
フィリピン革命とホセ・リサール
知識人ホセ・リサール(1861-1896年)が小説『ノリ・メ・タンヘレ』で植民地支配を告発し、フィリピンのナショナリズムを覚醒させた。1896年にアンドレス・ボニファシオ率いるカティプナンが武装蜂起。
フィリピン・マニラ
1896年
アドワの戦い(エチオピアのイタリア軍撃破)
エチオピア皇帝メネリク2世が約10万のエチオピア軍を率いて、約1万7千のイタリア遠征軍をアドワで壊滅的に撃破。イタリア軍の死傷者は約1万人に達した。ウチャリ条約の解釈をめぐるイタリアとの対立が開戦の直
エチオピア・アドワ
1897年
大韓帝国の成立
高宗が国号を「大韓帝国」に改め、皇帝に即位。清の冊封体制からの脱却と自主独立を宣言した。光武改革として近代化政策を推進し、量田事業(近代的土地測量)、学校設立、軍制改革を行ったが、列強の干渉で成果は限
大韓帝国・漢城
1897年〜現在
ベニン・ブロンズの返還問題
1897年にイギリス軍がベニン王国を征服した際に略奪された約4000点の青銅・真鍮・象牙の芸術品。大英博物館、ベルリン民族学博物館、メトロポリタン美術館などに分散収蔵されている。2020年代に入り返還
ナイジェリア・ベニン・シティ
1897年
第一回シオニスト会議
テオドール・ヘルツルが主催した第一回シオニスト会議がバーゼル市立カジノで開催。約200名の代議員が参加し、パレスチナにユダヤ人の民族的故郷を建設するという「バーゼル綱領」を採択した。世界シオニスト機構
スイス・バーゼル
1898年
戊戌の変法(百日維新)
日清戦争の敗北に衝撃を受けた光緒帝が康有為・梁啓超らの建議を採り入れ、明治維新をモデルとする制度改革に着手。103日間で科挙改革・新学校設立・軍制改革など多数の詔書を発した。しかし西太后のクーデターで
中国・北京
1898年
ファショダ事件
ナイル川上流のファショダで、南下してきたイギリスのキッチナー将軍と、西から横断してきたフランスのマルシャン大尉の部隊が遭遇。両国間の深刻な軍事的緊張が生じたが、フランスが最終的に撤退し、英仏間の戦争は
スーダン・ファショダ(現コドク)
1898年
キュリー夫妻の放射能研究
マリー・キュリーとピエール・キュリーが「放射能(radioactivity)」という概念を確立し、ポロニウム(マリーの祖国ポーランドにちなむ)とラジウムの2つの新元素を発見した。マリーは女性初のノーベ
フランス・パリ
1899〜1902年
ボーア戦争
南アフリカのオランダ系入植者(ボーア人)のトランスヴァール共和国・オレンジ自由国とイギリス帝国の戦争。初期はボーア人が善戦したが、イギリスは45万の兵力を投入して圧倒。ボーア人の農場を焼き払い、女性・
南アフリカ全域
1899年〜1930年代
バナナ共和国とユナイテッド・フルーツ社の支配
1899年に設立されたユナイテッド・フルーツ社(UFCO)は、ホンジュラス、グアテマラ、コスタリカなど中米諸国でバナナ・プランテーションを展開し、鉄道・港湾・電信を独占的に支配した。各国の広大な土地を
中米・ホンジュラス
1900年〜1901年
義和団事件
「扶清滅洋」(清を助け西洋を滅ぼす)を掲げる義和団が北京の外国公使館を包囲。西太后が列国に宣戦布告する暴挙に出たが、日英米仏独露伊墺の八カ国連合軍に敗北。辛丑条約で巨額の賠償金(4.5億両)を課された
中国・北京〜天津〜山東
20世紀初頭〜現在
ベトナムのフォーとフランス植民地文化の融合
ベトナムの国民的料理フォー(Phở)は、米粉の麺と牛骨または鶏のスープを基本とする麺料理。フランス植民地時代に牛肉食の習慣が導入され、在来の米麺文化と融合して20世紀初頭にハノイで誕生したとされる。現
ベトナム・ハノイ
1900年9月8日
ガルヴェストン・ハリケーン
1900年9月8日、カテゴリー4のハリケーンがテキサス州ガルヴェストンを直撃した。最大風速は推定毎時233キロメートル、高潮は4.6メートルに達し、最高地点でも標高2.7メートルしかないバリアー島はほ
アメリカ・テキサス州ガルヴェストン
1901年1月1日
オーストラリア連邦の成立
ニューサウスウェールズ、ビクトリア、クイーンズランド、南オーストラリア、西オーストラリア、タスマニアの6植民地が合併し、オーストラリア連邦が成立した。1901年1月1日、シドニーのセンテニアル・パーク
オーストラリア
1901年〜1973年
オーストラリアの白豪主義政策と多文化主義への転換
1901年の移民制限法により制度化された白豪主義政策は、ディクテーション・テスト(ヨーロッパ言語での書き取り試験)により事実上非白人の入国を排除した。第二次世界大戦後、人口増加の必要性からまずヨーロッ
オーストラリア
1902年1月30日
日英同盟
1902年、日本とイギリスが軍事同盟を締結。ロシアの東アジア進出に対抗するための二国間同盟で、一方が第三国と交戦した場合に他方は中立を保ち、二カ国以上と交戦した場合は参戦する義務を負った。小村寿太郎外
イギリス・ロンドン
1903-1918年
イギリスのサフラジェット運動
エメリン・パンクハーストが女性社会政治同盟(WSPU)を結成し、女性参政権を求める過激な直接行動を展開。窓の破壊、放火、ハンガーストライキなどの戦術を用いた。1913年にはエミリー・デイヴィソンがエプ
イギリス各地
1903年
パナマのコロンビアからの分離独立
1903年11月3日、アメリカの暗黙の支援の下、パナマがコロンビアから独立を宣言した。背景にはアメリカとコロンビアの運河条約交渉の決裂があった。アメリカ海軍の軍艦ナッシュビルがコロン港に展開し、コロン
パナマ・パナマシティ
1904年〜1905年
日露戦争と日本海海戦
満州・朝鮮の覇権をめぐり日本とロシアが開戦。旅順攻囲戦・203高地の激戦・奉天会戦での陸戦と、日本海海戦での東郷平八郎によるバルチック艦隊の壊滅が戦局を決した。ポーツマス条約で日本は南樺太と満州の権益
中国・満州/対馬海峡
1904〜1908年
ヘレロ族・ナマ族の虐殺
ドイツ領南西アフリカでヘレロ族がドイツ植民地支配に対して蜂起。フォン・トロータ将軍が「殲滅命令」を発し、ヘレロ族をオマヘケ砂漠に追い込んで組織的に殺害。続くナマ族の反乱も残虐に鎮圧された。ヘレロ族の約
ナミビア(ドイツ領南西アフリカ)
1904〜1914年
パナマ運河の建設
セオドア・ルーズベルト大統領の主導で建設されたパナマ運河。フランスのレセップスが1880年代に試みたが失敗。アメリカはパナマのコロンビアからの分離独立(1903年)を支援して運河地帯を確保。ウィリアム
中央アメリカ・パナマ
1904年〜1914年
パナマ運河建設
フランスのレセップスが1881年に海面式運河の建設を開始したが、熱帯病による労働者の大量死と技術的困難により1889年に破産した。約2万人が死亡したとされる。1903年にアメリカの支援でパナマがコロン
パナマ・パナマ運河地帯
1905年9月5日
ポーツマス条約と日比谷焼打事件
1905年9月、日露戦争の講和としてポーツマス条約が調印された。小村寿太郎がロシアのウィッテと交渉。ロシアは南樺太の割譲、韓国における日本の優越権、南満洲の権益を認めたが、賠償金は得られなかった。国民
アメリカ・ポーツマス
1905年
科挙制度の廃止
清末新政の一環として1300年以上続いた科挙制度が廃止。西洋式の学校教育制度への移行を図った。最後の殿試は1904年に行われ、劉春霖が中国史上最後の状元(首席合格者)となった。
中国・北京
1905年〜1911年
ベンガル分割
インド総督カーゾンがベンガル州をヒンドゥー教徒多数の西ベンガルとムスリム多数の東ベンガル・アッサムに分割。表向きは行政効率の改善だが、実際にはベンガルのナショナリズム運動を分断する意図。スワデーシー(
南アジア・ベンガル
1905-1907年
1905年ロシア第一革命
1905年1月9日(ユリウス暦)、ガポン神父に率いられた労働者の平和的請願デモに対し、冬宮前で近衛兵が発砲(「血の日曜日」事件)。これを契機に全土でストライキ、農民蜂起、軍の反乱(戦艦ポチョムキン号の
ロシア・サンクトペテルブルク
1905年
アインシュタインの特殊相対性理論
アルベルト・アインシュタインが「奇跡の年」と呼ばれる1905年に、特殊相対性理論、光量子仮説、ブラウン運動の理論、E=mc²の質量エネルギー等価式を含む4つの画期的な論文を発表した。光速は全ての慣性系
スイス・ベルン
1908年
青年トルコ人革命
統一と進歩委員会(青年トルコ人)が軍の支持を得てアブデュルハミト2世に1876年憲法の復活を強要した。1909年の反革命未遂を経て、アブデュルハミトは廃位。エンヴェル、タラート、ジェマルの三頭体制が実
オスマン帝国・イスタンブール
1910年
韓国併合
日本が韓国併合条約により大韓帝国を完全に植民地化。朝鮮総督府を設置し、初代総督に寺内正毅が就任。土地調査事業(1910-18年)により多くの農民が土地を失い、憲兵警察による武断統治が敷かれた。朝鮮は3
大韓帝国・漢城
1910年〜1920年
メキシコ革命
1910年11月、フランシスコ・マデロがポルフィリオ・ディアスの30年に及ぶ独裁に対する武装蜂起を呼びかけた。北部ではパンチョ・ビリャ、南部ではエミリアーノ・サパタが農民軍を率いて蜂起。1911年にデ
メキシコ全土
1911年〜1912年
辛亥革命と清朝滅亡
1911年10月10日、武昌の新軍が蜂起し辛亥革命が勃発。各省が清からの独立を宣言し、孫文が南京で中華民国臨時大総統に就任。袁世凱の仲介で宣統帝(溥儀)が1912年2月に退位し、清朝は滅亡。
中国・武昌〜南京〜北京
1911年12月14日
アムンセンの南極点到達
ノルウェーのロアール・アムンセンが5人のチームと犬橇で1911年12月14日に南極点に到達。ライバルのイギリスのロバート・ファルコン・スコットに約35日先着した。アムンセンはホエール湾(ロス棚氷)から
南極
1912年
モロッコ保護国化(フェズ条約)
第一次モロッコ事件(1905年)と第二次モロッコ事件(1911年)を経て、1912年3月のフェズ条約でモロッコがフランスの保護国となった。スペインは北部のリーフ地方と南部のイフニ地区を管轄。フランスは
モロッコ・フェズ
1912-1913年
バルカン戦争
第一次バルカン戦争(1912年)でバルカン同盟(セルビア、ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ)がオスマン帝国を破り、ヨーロッパ側のほぼ全領土を奪取。第二次バルカン戦争(1913年)ではマケドニアの分配
バルカン半島各地
1912年4月15日
タイタニック号の沈没
1912年4月14日深夜、ホワイト・スターラインの豪華客船タイタニック号が処女航海中に氷山に衝突し、約2時間40分後に沈没。乗客・乗員約2224人のうち約1500人が死亡した。「不沈船」と喧伝されてい
北大西洋
1913年〜1920年
ラーマヌジャンの数学的業績
シュリニヴァーサ・ラーマヌジャン(1887-1920年)は独学で数学を学び、3900以上の数学的結果を導き出した天才数学者。G.H.ハーディとの書簡をきっかけにケンブリッジに招かれた。整数論、連分数、
南アジア・タミルナードゥ
1913年
タゴールのノーベル文学賞受賞
ラビンドラナート・タゴール(1861-1941年)がアジア人として初めてノーベル文学賞を受賞。受賞作は詩集『ギーターンジャリ(歌の捧げ物)』の英訳版。詩人・小説家・劇作家・画家・教育者・思想家として多
南アジア・ベンガル
1913年〜
ボリウッド映画産業の発展
1913年にダーダーサーヘブ・パールケーが初のインド長編映画『ラージャー・ハリシュチャンドラ』を製作。以後ボンベイを中心にインド映画産業(通称ボリウッド)が急成長。年間約1500〜2000本の映画を製
南アジア・ムンバイ
1913年
ボーアの原子模型
ニールス・ボーアが量子化された軌道を持つ原子模型を提唱。電子は特定のエネルギー準位のみを取り、光の放出・吸収は準位間の遷移によるとした。水素原子のスペクトル線を正確に説明し、ラザフォードの原子模型の不
デンマーク・コペンハーゲン
1914年〜1918年
第一次世界大戦への参戦と二十一カ条の要求
1914年、日本は日英同盟を根拠に第一次世界大戦に参戦し、ドイツの中国権益(山東半島の青島)を占領。1915年には中国に対して二十一カ条の要求を突きつけ、山東半島のドイツ権益の継承、南満洲の権益拡大な
中国・山東半島
1914〜1918年
東アフリカ戦線(第一次世界大戦)
ドイツ領東アフリカの植民地軍司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベックが、わずか約1万4千の兵力(主にアフリカ人兵士アスカリ)で約30万のイギリス連邦軍を翻弄。4年間にわたるゲリラ戦を展開し、ヨーロ
ドイツ領東アフリカ(タンザニア)
1914年6月28日
サラエボ事件
ボスニアを視察中のオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア系青年ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。黒い手(セルビアの秘密結社)が背後にあった。この事件が七月危機を経て第一
ボスニア・サラエボ
1914年9月
第一次マルヌの戦い
シュリーフェン計画に基づくドイツ軍の電撃的なフランス侵攻を、仏英連合軍がマルヌ川沿いで阻止した決定的な防御戦。ジョッフル将軍の冷静な指揮とガリエニ将軍のパリ防衛軍の側面攻撃により、ドイツ軍は約60km
フランス・マルヌ川流域
1914年8月
タンネンベルクの戦い
ヒンデンブルクとルーデンドルフの指揮するドイツ第8軍が、サムソノフ将軍率いるロシア第2軍を包囲殲滅した。ロシア軍は約9万人が捕虜となり、サムソノフは自殺した。続くマズーリ湖の戦いでレンネンカンプフの第
東プロイセン・タンネンベルク
1915年〜1916年
袁世凱の帝制復活の挫折
中華民国大総統の袁世凱が帝制復活を宣言し「洪憲帝」を称した。蔡鍔らが雲南で護国戦争を起こし、各省が独立を宣言。内外の反対で83日で帝制を撤回し、袁世凱は1916年に病死。以後、軍閥割拠の時代に突入。
中国・北京
1915-1916年
ガリポリの戦い
ウィンストン・チャーチル(海軍大臣)の発案により、オスマン帝国を攻撃してロシアへの補給路を確保するため、英仏・ANZAC(オーストラリア・ニュージーランド軍団)がガリポリ半島に上陸。しかしムスタファ・
トルコ・ガリポリ半島
1915年〜1923年
アルメニア人虐殺
オスマン帝国の統一と進歩委員会政権下で、アナトリア東部のアルメニア人が組織的に迫害・殺害された。1915年4月24日のイスタンブールでのアルメニア人知識人逮捕に始まり、大規模な強制移送と虐殺が実行され
アナトリア東部
1915年4-5月
第二次イープルの戦い(毒ガス初使用)
ドイツ軍が史上初めて大規模に塩素ガスを使用した戦闘。4月22日、黄緑色のガス雲がフランス・アルジェリア兵の陣地に向かって流れ、約6,000人が死亡。連合軍は一時的に5km後退したが、ドイツ軍は予備兵力
ベルギー・イープル
1915年〜1934年
アメリカによるハイチ占領
1915年7月、ハイチの政情不安とジャン・ヴィルブラン・ギヨーム・サム大統領の殺害を契機に、アメリカ海兵隊がポルトープランスに上陸し占領を開始した。アメリカは憲法改正、財政管理、軍の再編を行い、外国人
カリブ海・ハイチ
1915年4月25日〜1916年1月
ガリポリの戦いとANZAC伝説の誕生
第一次世界大戦中、イギリス主導の連合軍がオスマン帝国の首都コンスタンティノープルへの海路確保を目的としてガリポリ半島に上陸作戦を実施。1915年4月25日、オーストラリア・ニュージーランド合同軍団(A
トルコ・ガリポリ半島
1916年〜1918年
アラブの反乱
メッカのシャリーフ・フサイン・イブン・アリーが主導し、息子ファイサルとイギリス連絡将校T.E.ロレンスが軍事作戦を指揮したオスマン帝国に対するアラブ独立運動。ヒジャーズ鉄道を繰り返し破壊し、1918年
アラビア半島・ヒジャーズ
1916年〜1917年
サイクス=ピコ協定とバルフォア宣言
イギリスのマーク・サイクスとフランスのフランソワ・ジョルジュ=ピコが、オスマン帝国のアラブ地域を英仏で分割する秘密協定を締結。1917年のバルフォア宣言ではイギリスがパレスチナにユダヤ人の「民族的郷土
中東全域
1916年2-12月
ヴェルダンの戦い
ドイツ軍が「フランス軍を白くなるまで血を流させる」(ファルケンハインの消耗戦略)ためにヴェルダン要塞群を攻撃。10ヶ月に及ぶ激戦で、ドゥオーモン砦の争奪戦が繰り返された。ペタン将軍の「彼らは通さない(
フランス・ヴェルダン
1916年7-11月
ソンムの戦い
英仏連合軍がドイツ軍の防衛線に対して大攻勢を開始。初日(7月1日)だけでイギリス軍は約57,000人の死傷者(うち約19,000人戦死)を出し、イギリス軍史上最悪の一日となった。9月15日には戦車が史
フランス・ソンム川流域
1916年6-9月
ブルシーロフ攻勢
ブルシーロフ将軍が指揮するロシア南西方面軍が、オーストリア=ハンガリー軍に対して大攻勢を実施。従来の一点集中突破ではなく、広い戦線で同時に多数の地点から攻撃する革新的な戦術を採用し、オーストリア=ハン
ウクライナ西部・ガリツィア
1916年5月31日
ユトランド沖海戦
イギリス大艦隊(ジェリコー提督)とドイツ大洋艦隊(シェーア提督)による第一次大戦最大の海戦。イギリスは巡洋戦艦3隻など14隻を喪失し、ドイツの損失11隻を上回ったが、ドイツ艦隊は港から出られない戦略的
北海・ユトランド半島沖
1917年3月(露暦2月)
ロシア二月革命
食糧不足に抗議する女性労働者のデモ(国際婦人デー)が全市的なゼネストに発展。兵士が反乱に参加し、ニコライ2世は退位を余儀なくされた。300年のロマノフ王朝が崩壊し、臨時政府とペトログラード・ソヴィエト
ロシア・ペトログラード
1917年11月7日(露暦10月25日)
ロシア十月革命
レーニンとトロツキーの指導のもと、ボリシェヴィキが武装蜂起を決行。赤衛隊と革命的兵士が電話局、電信局、駅、橋を制圧し、冬宮を占拠して臨時政府閣僚を逮捕した。全ロシア・ソヴィエト大会で権力のソヴィエトへ
ロシア・ペトログラード
1917-1922年
ロシア内戦
ボリシェヴィキの赤軍と反革命の白軍(デニーキン、コルチャーク、ヴランゲリ等)、外国干渉軍(英仏日米等)、民族独立運動、農民反乱(マフノ運動等)が入り乱れた多面的な内戦。トロツキーが赤軍を組織し、戦時共
ロシア全域
1917年7-11月
パッシェンデールの戦い(第三次イープルの戦い)
ヘイグ元帥がベルギー海岸のドイツUボート基地を目指して開始した攻勢。カナダ軍がパッシェンデール尾根を占領したが、4ヶ月の戦いで約8kmの前進に対して約58万人の死傷者を出した。泥沼の戦場は西部戦線の無
ベルギー・パッシェンデール
1917年4月
ヴィミーリッジの戦い
1917年4月9-12日、カナダ軍団4個師団が初めて統一的にカナダ軍指揮下で戦い、フランスとイギリスが何度も失敗したヴィミーリッジの攻略に成功した。アーサー・カリー准将らの綿密な準備(地下トンネルの掘
ヨーロッパ・フランス
1917年
メキシコ1917年憲法制定
1917年2月5日、ケレタロの制憲議会で新憲法が公布された。第3条で政教分離と世俗的公教育、第27条で土地改革と地下資源の国有、第123条で労働者の権利(8時間労働、ストライキ権、最低賃金)を規定した
メキシコ・ケレタロ
1918年
米騒動
1918年7月、富山県の漁村の主婦たちが米の県外移出に抗議したことをきっかけに、米価高騰に怒る暴動が全国に拡大。約70万人が参加し、369市町村に波及した。軍隊が出動して鎮圧されたが、寺内正毅内閣は退
日本・全国
1918年7月
第二次マルヌの戦い(カイザーシュラハト)
ルーデンドルフの1918年春季攻勢(カイザーシュラハト)の最終段階。ドイツ軍はパリに約70kmまで迫ったが、フォッシュ元帥の統一指揮のもとフランス・イギリス・アメリカ連合軍が反撃し、ドイツ軍を後退させ
フランス・マルヌ川流域
1918年11月11日
第一次世界大戦の休戦
連合国とドイツの間で休戦協定が締結され、11月11日午前11時に西部戦線の戦闘が停止した。ドイツは占領地からの撤退、大量の武器・車両・列車の引き渡し、ラインラントの連合軍占領を受け入れた。約4年間の戦
フランス・コンピエーニュの森
1918-1919年
ドイツ革命
キール軍港の水兵反乱に端を発し、各地で労兵評議会が樹立された。シャイデマン社会民主党幹事が帝国議会のバルコニーから共和国を宣言。ヴィルヘルム2世は退位・亡命した。しかしスパルタクス団(ローザ・ルクセン
ドイツ・ベルリン
1918年3月3日
ブレスト=リトフスク条約
ソヴィエト・ロシアとドイツ・オーストリアの間で締結された講和条約。ロシアはフィンランド、バルト三国、ポーランド、ウクライナの広大な領土(人口の1/3、工業力の半分以上)を放棄した。トロツキーは「戦争も
ベラルーシ・ブレスト=リトフスク
1918-1920年
民族自決と新国家の誕生
ウィルソンの民族自決原則に基づき、チェコスロバキア(マサリク)、ポーランド(ピウスツキ)、ユーゴスラビア(セルブ・クロアート・スロヴェーネ王国)、フィンランド、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リト
中東欧各地
1918-1919年
スペインかぜ(1918年インフルエンザ・パンデミック)
1918年春から1919年にかけて、H1N1型インフルエンザウイルスによるパンデミックが世界を席巻した。3波にわたる流行で、推定5,000万〜1億人が死亡し、世界人口の約3分の1(約5億人)が感染した
世界全域
1919年
五四運動
パリ講和会議で日本の山東権益継承が決定したことに反発し、北京大学の学生3000人が天安門前でデモを実施。「外争国権、内懲国賊」をスローガンに全国に拡大。各地でストライキ・不買運動が展開された。
中国・北京
1919年3月1日
三・一独立運動
民族代表33人が独立宣言書に署名し、全国で「大韓独立万歳」を叫ぶ平和的デモが展開された。約200万人が参加したとされる。日本は軍隊・警察を動員して武力鎮圧し、堤岩里事件など多数の虐殺が発生。死者7,5
朝鮮全域
1919年4月13日
ジャリアンワーラー・バーグ虐殺
イギリス軍のレジナルド・ダイアー准将が、平和的に集会していた約2万人のインド人群衆に対し無警告で発砲を命じた。約10分間に1650発の弾丸が撃ち込まれ、公式発表で379人が死亡、1200人以上が負傷(
南アジア・パンジャーブ
1919年〜1923年
トルコ独立戦争とアタテュルクの共和国建設
ムスタファ・ケマル(アタテュルク)はセーヴル条約による国土分割に抵抗し、アンカラに大国民議会を設立してトルコ独立戦争を指導した。ギリシャ軍をサカリヤの戦い(1921年)と大攻勢(1922年)で撃退し、
トルコ・アンカラ
1919年6月28日
ヴェルサイユ条約
パリ講和会議の結果、連合国とドイツの間で締結された講和条約。ドイツにアルザス=ロレーヌの返還、植民地の放棄、軍備制限(陸軍10万人)、1320億金マルクの賠償金を課した。戦争責任条項(第231条)はド
フランス・ヴェルサイユ
1920年
国際連盟の設立
ウィルソン米大統領の14カ条に基づき、史上初の恒久的国際平和機構として設立。集団安全保障、軍縮、国際紛争の平和的解決を目的とした。しかし提唱国アメリカが上院の反対で不参加となり、制裁の実効性を欠いた。
スイス・ジュネーヴ
1920年代〜1930年代
ハーレム・ルネサンス
1920-30年代にニューヨークのハーレムを中心に展開したアフリカ系アメリカ人の文化・芸術運動。ラングストン・ヒューズ、ゾラ・ニール・ハーストン、クロード・マッケイらの文学、デューク・エリントン、ルイ
北アメリカ・ニューヨーク
1921年
中国共産党の結成
陳独秀・李大釗らを中心に上海で中国共産党第一回全国代表大会を開催。毛沢東ら13名の代表が参加。コミンテルンの代表マーリンも出席。マルクス・レーニン主義に基づく革命政党として出発した。
中国・上海〜嘉興
1922年10月
ファシスト党のローマ進軍
ムッソリーニ率いるファシスト党の黒シャツ隊約3万人がローマに進軍。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は戒厳令への署名を拒否し、ムッソリーニに組閣を命じた。ムッソリーニ自身は列車でローマに到着し、最年
イタリア・ローマ
1922年12月30日
ソ連の成立
ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が正式に成立。連邦条約により各共和国は理論上対等な連邦国家を構成したが、実質的にはロシア共産党中央委員会(スターリンが書記長)による中央集権体制であった。レーニンは
ソ連・モスクワ
1923年9月1日
関東大震災
1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生した。東京・横浜を中心に建造物が倒壊し、直後に130箇所以上から同時に出火。強風に煽られた火災は2日間燃え
日本・関東地方
1923年
ワイマール共和国のハイパーインフレーション
フランスのルール占領に対する受動的抵抗(ストライキ)への賃金支払いのために大量の紙幣が増刷され、天文学的なインフレーションが発生。1923年11月には1ドル=4兆2千億マルクに達した。レンテンマルクの
ドイツ・ベルリン
1923年11月
ミュンヘン一揆(ビアホール暴動)
ヒトラーがルーデンドルフと共にバイエルン政府を転覆しベルリンへの進軍を企てたクーデター未遂。ビアホールで演説中のバイエルン州首相らを拘束したが、翌日のデモ行進中に警察の発砲で16人のナチ党員が死亡し、
ドイツ・ミュンヘン
1924年〜1990年
モンゴル人民共和国の成立
ソ連の支援を受けてモンゴル人民革命党が建国したアジアで2番目の社会主義国。チョイバルサンの下でソ連型の粛清・集団化が実施され、仏教寺院の約700が破壊、僧侶約1万7千人が殺害された。遊牧の集団化は部分
中央アジア・モンゴル
1924-1929年
レーニンの死去とスターリンの権力掌握
1924年1月21日にレーニンが死去。その後、スターリンは書記長の地位を利用して党組織を掌握し、トロツキー(永続革命論)、ジノヴィエフ・カーメネフ(新反対派)、ブハーリン(右派反対派)を順次打倒して、
ソ連・モスクワ
1925年
大正デモクラシーと普通選挙法
25歳以上の全ての男子に選挙権を付与する普通選挙法が成立。有権者数は約330万人から約1240万人に拡大。しかし同時に治安維持法も成立し、社会主義運動の取り締まりが強化された。「飴と鞭」の二面性を持つ
日本・東京
1926年〜1928年
北伐と国民革命
蒋介石率いる国民革命軍が広州を出発し北伐を開始。国共合作の下で軍閥を打倒しながら北上。1927年4月、蒋介石は上海で四一二事件(上海クーデター)を起こし共産党を弾圧。1928年に北京入城で名目上の中国
中国・広州〜南京〜北京
1927年
金融恐慌
1927年、片岡蔵相が国会答弁で東京渡辺銀行の破綻を失言したことをきっかけに取り付け騒ぎが全国に波及。台湾銀行が鈴木商店への巨額融資で経営危機に陥り、枢密院がモラトリアム緊急勅令を否認したため若槻内閣
日本
1927年4月12日
四一二事件(上海クーデター)
蒋介石が上海で共産党員・労働組合の大弾圧を断行。青幇(秘密結社)と結んで武装工人糾察隊を襲撃し、数千人を殺害。第一次国共合作が崩壊し、以後22年にわたる国共対立が始まった。
中国・上海
1927年〜1956年
アンベードカルと不可触民解放運動
ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(1891-1956年)はダリト(不可触民)出身の法学者・政治家として不可触民差別の撤廃に生涯を捧げた。インド憲法の起草委員長として基本的人権と不可触民差別の禁
南アジア・全域
1927年〜1933年
サンディーノの抵抗とニカラグアのアメリカ占領
アウグスト・セサル・サンディーノは、ニカラグアに駐留するアメリカ海兵隊に対するゲリラ戦を展開した。北部山岳地帯を拠点に農民・鉱山労働者を組織し、「自由人の軍隊」(Ejército Defensor d
ニカラグア・マナグア
1928年6月4日
張作霖爆殺事件
1928年6月4日、関東軍参謀の河本大作大佐らが、北京から奉天に帰還中の張作霖の列車を皇姑屯で爆破し暗殺した。関東軍は張作霖が日本の満洲権益拡大に非協力的になったとして排除を計画。田中義一首相は事件の
中国・奉天
1928年
C.V.ラマンのラマン効果発見
物理学者チャンドラシェーカラ・ヴェンカタ・ラマンが光の非弾性散乱(ラマン散乱/ラマン効果)を発見。単色光が透明な物質を通過する際に波長が変化する現象を実験的に証明。1930年にインド人初のノーベル物理
南アジア・カルカッタ
1928-1933年
ソ連の五カ年計画と農業集団化
スターリンが開始した第一次五カ年計画で、急速な重工業化と農業の強制的な集団化(コルホーズ化)が推進された。工業生産は飛躍的に増大したが、農業集団化はウクライナを中心に大飢饉(ホロドモール、推定300-
ソ連全域
1928年
フレミングのペニシリン発見
アレクサンダー・フレミングが休暇から戻ると、ブドウ球菌の培養シャーレにアオカビ(ペニシリウム・ノタトゥム)が混入し、カビの周囲で細菌が溶解しているのを発見。この「幸運な汚染」からペニシリンが同定された
イギリス・ロンドン
1929年10月24日
暗黒の木曜日と世界大恐慌の始まり
1929年10月24日(暗黒の木曜日)にニューヨーク証券取引所で株価が暴落し、翌週の10月28日(暗黒の月曜日)と29日(暗黒の火曜日)にさらに急落。ダウ平均は1929年9月のピークから1932年7月
北アメリカ・ニューヨーク
1930年3月〜4月
塩の行進
マハトマ・ガンジーが78人の支持者とともにサーバルマティーのアーシュラムからダンディ海岸まで24日間の行進を行い、イギリスの塩税法に対する市民的不服従運動を開始。海水から塩を作る象徴的な行為で法を破り
南アジア・グジャラート
1930年〜1933年
カザフスタン大飢饉
スターリンの集団農場化(コレクティヴィゼーション)政策によりカザフ遊牧民が強制的に定住・集団化された結果、推定150万人(カザフ人口の約40%)が飢餓で死亡。家畜の約80%(約700万頭)が失われた。
中央アジア・カザフスタン
1930年代〜1960年代
ネグリチュード運動
1930年代にパリで学ぶアフリカ・カリブ海の黒人知識人が提唱した文学・思想運動。セネガルのレオポルド・セダール・サンゴール、マルティニークのエメ・セゼール、仏領ギアナのレオン・ゴントラン・ダマスが中心
セネガル・ダカール〜フランス・パリ
1930年〜現在
ラスタファリ運動の誕生
1930年のハイレ・セラシエ(ラス・タファリ・マコンネン)のエチオピア皇帝即位を契機に、ジャマイカで誕生した宗教・社会運動。セラシエをメシア(救世主)、エチオピアを約束の地と見なす。ドレッドロックス(
ジャマイカ・キングストン〜エチオピア
1930〜1936年
ダストボウル
1930年代に大平原南部を襲った深刻な砂嵐と干ばつの連続。表土が風で吹き飛ばされ、「ブラック・ブリザード」と呼ばれる巨大な砂嵐がワシントンD.C.やニューヨークにまで達した。約250万人が大平原から流
北アメリカ・大平原
1931年9月18日
満州事変(柳条湖事件)
1931年9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾らが柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し、中国軍の仕業と偽って軍事行動を開始。わずか5ヶ月で満洲全域を制圧した。若槻内閣は不拡大方針を表明したが関東軍の独
中国・満洲
1932年5月15日
五・一五事件
1932年5月15日、海軍青年将校と陸軍士官候補生、血盟団関係者らが首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を射殺した。「話せばわかる」「問答無用」のやり取りは有名。日本銀行や変電所も襲撃されたが、大規模な蜂起に
日本・東京
1932年
サウジアラビア建国とイブン・サウード
アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード(イブン・サウード)は1902年にリヤドを奪還して以来、約30年かけてアラビア半島の大部分を統一し、1932年にサウジアラビア王国を建国した。ワッハーブ派の宗教的
サウジアラビア・リヤド
1933年1月30日
ヒトラーの首相就任
ヒンデンブルク大統領がアドルフ・ヒトラーをドイツ帝国宰相(首相)に任命。パーペンら保守派はヒトラーを「コントロール」できると考えたが、ヒトラーは国会議事堂放火事件(2月27日)と全権委任法(3月23日
ドイツ・ベルリン
1933年3月23日
全権委任法(授権法)の成立
正式には「民族と国家の危難を除去するための法律」。政府に4年間の立法権を付与し、議会と大統領の承認なしに法律を制定できる権限をヒトラーに与えた。社会民主党のみが反対し、共産党議員は既に逮捕・地下潜行し
ドイツ・ベルリン
1933〜1939年
ニューディール政策の実施
フランクリン・D・ルーズベルト大統領が大恐慌からの回復のために実施した一連の経済・社会政策。就任最初の100日間で銀行休業宣言、農業調整法、全国産業復興法などを矢継ぎ早に制定。TVA(テネシー川流域開
北アメリカ・合衆国
1934年〜1936年
長征
蒋介石の第五次囲剿作戦に包囲された中国共産党が瑞金ソビエトを放棄し、約8万6千人で長征を開始。途中の遵義会議(1935年)で毛沢東が指導権を確立。1年以上かけて延安に到達したのは約8千人。
中国・江西〜貴州〜四川〜陝西
1935〜1936年
エチオピア・イタリア戦争(第二次)
ムッソリーニのファシスト・イタリアがエチオピアに侵攻。毒ガスの大量使用と赤十字病院への爆撃を含む残虐な戦争により、1936年5月にアディスアベバを占領。ハイレ・セラシエ皇帝は国際連盟で演説し「今日は我
エチオピア・アディスアベバ
1935年9月15日
ニュルンベルク法の制定
ニュルンベルク党大会で制定された二つの法律。「帝国市民法」はドイツ人の血を持つ者のみを帝国市民と定義し、「ドイツ人の血と名誉の保護に関する法律」はユダヤ人とドイツ人の結婚と性関係を禁止した。ユダヤ人は
ドイツ・ニュルンベルク
1936年2月26日
二・二六事件
1936年2月26日、皇道派の陸軍青年将校約1,400名が首相官邸・警視庁などを襲撃・占拠。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。岡田啓介首相は間一
日本・東京
1936年
西安事件
東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で蒋介石を監禁し、内戦停止と一致抗日を要求。共産党の周恩来が調停に入り、蒋介石は第二次国共合作に同意して釈放された。張学良は蒋介石に従い南京に戻り以後半世紀軟禁され
中国・西安
1936年頃
バラタナティヤムの復興
南インドの古典舞踊バラタナティヤムがルクミニ・デーヴィ・アルンデールらの努力により近代的な舞台芸術として復興された。元来はデーヴァダーシー(寺院の舞姫)の伝統であったが、イギリス植民地時代に抑圧された
南アジア・タミルナードゥ
1936-1938年
スターリンの大粛清
スターリンがセルゲイ・キーロフ暗殺(1934年)を口実に開始した大規模な政治的粛清。モスクワ裁判(見せ物裁判)で旧ボリシェヴィキ指導者(ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン等)が処刑された。赤軍の将軍
ソ連・モスクワ
1936-1939年
スペイン内戦
フランコ将軍率いる国民軍(ファシスト側)と人民戦線政府(共和国側)の内戦。ドイツ・イタリアがフランコを、ソ連が共和国を支援した。国際旅団が共和国側で戦った。ゲルニカ爆撃(1937年)は無差別爆撃の象徴
スペイン全域
1937年7月7日
盧溝橋事件(日中戦争開始)
1937年7月7日夜、盧溝橋付近で日本軍と中国軍の間で銃撃が発生し、日中全面戦争に発展した。当初は現地解決が図られたが、近衛文麿内閣の対応が二転三転する中で戦線は拡大。8月には第二次上海事変に発展し、
中国・北京
1937年12月
南京事件
1937年12月、日本軍は南京を占領。占領前後に捕虜・敗残兵・民間人に対する大規模な殺害、暴行、略奪が行われた。犠牲者数は日中間で見解が分かれるが、東京裁判では20万人以上、中国側は30万人以上と主張
中国・南京
1937年12月
南京事件(南京大虐殺)
日中戦争で日本軍が中華民国の首都・南京を攻略。占領後、大規模な殺害・暴行・略奪が行われた。中国側は犠牲者30万人以上と主張。日本側の研究では数万〜20万人程度の見解が多い。規模について日中間で見解が分
中国・南京
1937年7月7日
盧溝橋事件と日中戦争の全面化
1937年7月7日夜、盧溝橋付近で日中両軍が交戦し日中戦争が全面化。日本軍は華北・上海・南京を攻略。蒋介石は首都を重慶に遷し持久戦を展開。共産党は延安を拠点にゲリラ戦(百団大戦など)を展開した。
中国・北京郊外
1938年4月1日
国家総動員法制定
1938年4月1日に公布された国家総動員法は、戦時に際し国家の人的・物的資源を政府が統制・動員する権限を規定した包括的授権法。議会の承認なく勅令で広範な統制が可能となった。物資の統制、価格統制、労働力
日本・東京
1938年9月
ミュンヘン会談
イギリスのチェンバレン、フランスのダラディエ、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーが会談し、チェコスロバキアのズデーテン地方のドイツへの割譲に合意した。チェコスロバキアは交渉に参加を許されなかった
ドイツ・ミュンヘン
1938年11月9-10日
水晶の夜(クリスタルナハト)
在仏ドイツ大使館員のパリでの射殺をきっかけに、ナチス政権が組織的に仕掛けたユダヤ人に対する大規模な暴力行為。約1,400のシナゴーグ、7,500のユダヤ人商店が破壊され、約3万人のユダヤ人男性が強制収
ドイツ・オーストリア全域
1938年
カルデナス大統領の石油国有化
1938年3月18日、ラサロ・カルデナス大統領がメキシコの外国石油会社を国有化し、国営石油会社ペメックス(PEMEX)を設立。1917年憲法第27条(地下資源は国家に帰属)を根拠とした。全国で熱狂的な
メソアメリカ・メキシコ
1938年
カルデナスの石油国有化
1938年3月18日、ラサロ・カルデナス大統領はメキシコ国内の外国石油企業(主にスタンダード・オイルとロイヤル・ダッチ・シェル)の全資産を国有化する大統領令を発布した。メキシコ国営石油会社ペメックス(
メキシコ・メキシコシティ
1939年5月〜9月
ノモンハン事件(ハルハ河戦争)
モンゴル・満州国境でソ連・モンゴル連合軍と日本・満州国軍が衝突。ソ連軍のジューコフ将軍が大規模な機甲部隊による包囲殲滅戦を展開し、日本軍は壊滅的な敗北を喫した。日本側の損害は約2万人。1939年9月の
中央アジア・モンゴル/満州国境
1939年8月23日
独ソ不可侵条約
イデオロギー的に対極にあるナチス・ドイツとソ連が不可侵条約を締結。リッベントロップとモロトフが署名した。秘密議定書で東ヨーロッパの勢力圏分割を取り決め、ポーランド分割とバルト三国のソ連への編入を合意し
ソ連・モスクワ
1939年9月1日
ドイツのポーランド侵攻
ドイツ軍がポーランドに電撃戦(ブリッツクリーク)を仕掛け、装甲師団と急降下爆撃機(シュトゥーカ)の協同により、ポーランド軍を5週間で撃破した。9月17日にはソ連軍が東から侵入。ワルシャワは9月27日に
ポーランド全域
1939-1940年
冬戦争(フィンランド対ソ連)
ソ連がフィンランドに侵攻したが、マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍の頑強な抵抗に遭い、予想外の大損害を被った。スオムッサルミの戦いではソ連軍2個師団がフィンランド軍に包囲殲滅された。最終的にモスク
フィンランド・カレリア地峡
1939-1945年
エニグマ暗号の解読(ブレッチリー・パーク)
アラン・チューリングを中心とする暗号解読者たちが、ドイツのエニグマ暗号機の暗号を解読する「ウルトラ」プロジェクトを遂行。ポーランドの数学者(マリアン・レイェフスキら)の先行研究を基に、チューリングが「
イギリス・ブレッチリー・パーク
1940年5-6月
フランスの戦い(アルデンヌ突破)
ドイツ軍がマンシュタインの「鎌の一振り」作戦でアルデンヌの森を突破し、フランス軍の背後に回り込んだ。連合軍をダンケルクに追い詰め、パリは6月14日に無防備都市宣言のもと陥落。6月22日にペタン政権がコ
フランス・ベルギー・オランダ
1940年5月26日-6月4日
ダンケルク撤退(ダイナモ作戦)
アルデンヌ突破によりダンケルク周辺に包囲された英仏連合軍約33万人を、イギリス海軍と民間小型船舶が9日間で救出した。ヒトラーの装甲部隊停止命令(ルントシュテットの進言)とRAFの航空支援が撤退を可能に
フランス・ダンケルク
1940年7-10月
バトル・オブ・ブリテン
ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)がイギリス侵攻(アシカ作戦)の前提として制空権の獲得を目指し、RAFとの大規模な航空戦を展開。ダウディング元帥のRAF戦闘機軍団が、レーダー(チェイン・ホーム)とスピット
イギリス上空
1940-1945年
アウシュヴィッツ絶滅収容所
ナチスが建設した最大の強制収容所・絶滅収容所複合施設。アウシュヴィッツI(基幹収容所)、ビルケナウ(絶滅収容所)、モノヴィッツ(労働収容所)から構成された。推定約110万人が殺害され、うち約100万人
ポーランド・オシフィエンチム
1940-1944年
フランスのレジスタンス運動
ド・ゴールのロンドンからのラジオ呼びかけ(1940年6月18日)に始まり、国内ではジャン・ムーランが諸派を統合して全国抵抗評議会(CNR)を組織した。情報収集、妨害工作、鉄道破壊、連合軍兵士の脱出援助
フランス全域
1940年4月
デンマーク・ノルウェー侵攻
ドイツ軍がヴェーザー演習作戦で中立国のデンマークとノルウェーに同時侵攻。デンマークは数時間で降伏したが、ノルウェーでは約2ヶ月間の戦闘が続いた。ナルヴィクではイギリス海軍との海戦も発生した。ノルウェー
デンマーク・ノルウェー
1940年代〜
カーゴ・カルト(積荷信仰)
第二次世界大戦中に太平洋諸島に進出した軍隊がもたらした大量の工業製品(缶詰、衣服、武器、車両等)に触発されて発生した宗教運動。最も有名なジョン・フラム運動(バヌアツのタナ島)では、アメリカ人の精霊「ジ
オセアニア・メラネシア
1941年12月7日
真珠湾攻撃
1941年12月7日朝、日本海軍の6隻の空母から発進した353機の攻撃機がハワイのアメリカ太平洋艦隊基地を奇襲攻撃。戦艦アリゾナを含む4隻が沈没、4隻が損傷。188機のアメリカ軍機が地上で破壊された。
太平洋・ハワイ
1941年6月22日
バルバロッサ作戦(独ソ戦開始)
ドイツ軍約350万人がソ連に三方面から侵攻。北方軍集団はレニングラード、中央軍集団はモスクワ、南方軍集団はウクライナ・カフカスを目指した。開戦初期にソ連空軍は地上で壊滅し、数百万のソ連兵が包囲殲滅され
ソ連西部全域
1941-1944年(872日間)
レニングラード包囲
ドイツ軍が872日間にわたりレニングラードを包囲した人類史上最長の都市包囲戦。飢餓、寒さ、砲撃により推定63万〜100万人の市民が死亡した。市民は壁紙の糊、革ベルト、家具を食べて耐え忍んだ。ショスタコ
ソ連・レニングラード
1941-1945年
ユーゴスラビアのパルチザン闘争
ティトー(ヨシップ・ブロズ)率いる共産主義パルチザンが、ドイツ・イタリア占領軍とクロアチアのウスタシャ政権、セルビアのチェトニクに対して抵抗戦争を展開。最終的に約80万人の兵力を有する最大の欧州パルチ
ユーゴスラビア全域
1942年6月5日
ミッドウェー海戦
1942年6月5日、日本海軍の主力機動部隊と米海軍が激突。日本軍は空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を失い、米軍の損失は空母ヨークタウン1隻にとどまった。暗号解読により日本の作戦を事前に察知した米軍が
太平洋・ミッドウェー環礁
1942年8月〜1943年2月
ガダルカナル島の戦い
太平洋戦争の転換点となった6カ月間の消耗戦。1942年8月7日にアメリカ海兵隊が上陸し、日本軍の建設中の飛行場を占領。以後、日本軍は陸海空から奪回を試みたが、一木支隊の全滅、川口支隊の敗退、第二師団の
ソロモン諸島・ガダルカナル島
1942年2月15日
シンガポール陥落(日本軍の占領)
山下奉文中将率いる日本軍第25軍がマレー半島を南下し、「難攻不落」と言われたイギリスの要塞シンガポールを攻略。8万のイギリス軍が降伏し、イギリス史上最大の降伏事件となった。チャーチルは「英国史上最悪の
シンガポール
1942年4月
バターン死の行進
バターン半島で降伏した約7万5千人のアメリカ・フィリピン連合軍捕虜が、日本軍により約100kmの徒歩行進を強制された。飢餓、脱水、暴行、処刑により数千〜1万人以上が死亡。米国では「バターン死の行進」と
フィリピン・バターン半島
1942年〜1943年
泰緬鉄道(死の鉄道)の建設
日本軍がビルマ戦線への補給路として建設した鉄道。連合国軍捕虜約6万人とアジア人労務者約20万人が動員され、捕虜約1万2千人、アジア人労務者約8万人が過酷な労働・飢餓・疫病で死亡した。クワイ川鉄橋は映画
タイ〜ビルマ国境
1942年8月
「インドを去れ」運動
ガンジーがボンベイの全インド国民会議派委員会で「インドを去れ」(クイット・インディア)決議を採択。「行動するか、さもなくば死すか」(Do or Die)のスローガンで全インドに即時独立を求める運動を展
南アジア・全域
1942年8月-1943年2月
スターリングラード攻防戦
ドイツ第6軍がスターリングラードの占領を目指し、ソ連軍と壮絶な市街戦を展開。11月19日のソ連軍の反攻作戦(ウラヌス作戦)でドイツ第6軍約29万人が包囲された。パウルス元帥は1943年2月2日に降伏し
ソ連・スターリングラード
1942年10-11月
エル・アラメインの戦い
モントゴメリー元帥率いるイギリス第8軍が、ロンメル元帥のアフリカ軍団を決定的に撃破した。12日間の戦いでロンメルは撤退を開始し、枢軸国の北アフリカにおける攻勢能力は失われた。チャーチルは「これは終わり
エジプト・エル・アラメイン
1942年1月20日
ヴァンゼー会議
ラインハルト・ハイドリヒが主催し、アドルフ・アイヒマンが議事録を作成した高官会議。ヨーロッパの約1,100万人のユダヤ人を東方に移送し、労働で消耗させるか直接的に殺害する「最終的解決」の行政的調整が議
ドイツ・ベルリン郊外ヴァンゼー
1942〜1945年
マンハッタン計画と原爆開発
J・ロバート・オッペンハイマーが科学部門を率い、ロスアラモス研究所で原子爆弾が開発された。プロジェクト全体ではレスリー・グローヴス少将が指揮し、オークリッジ(ウラン濃縮)、ハンフォード(プルトニウム生
北アメリカ・ニューメキシコ
1942年2月19日
日本軍のダーウィン爆撃
日本海軍航空隊がオーストラリア本土への最大規模の攻撃を実施。真珠湾攻撃にも参加した赤城・加賀・蒼龍・飛龍の艦載機188機と陸上爆撃機54機が2波にわたりダーウィンを爆撃した。港湾施設、飛行場、市街地が
オーストラリア・ダーウィン
1943年
ベンガル飢饉
1943年にベンガル地方で発生した大飢饉で、推定200万〜300万人が死亡。食糧不足だけでなく、イギリスの戦時政策(ビルマ陥落による米輸入途絶、軍への優先配分、インフレ)が被害を拡大させた。チャーチル
南アジア・ベンガル
1943年7月
クルスクの戦い
ドイツ軍がクルスク突出部の挟撃を企図した「ツィタデレ作戦」に対し、ソ連軍が縦深防御で対抗した史上最大の戦車戦。ドイツ軍は新型タイガー・パンター戦車を投入したが、ソ連軍の圧倒的な防御火力と反撃により攻勢
ソ連・クルスク
1943年4-5月
ワルシャワ・ゲットー蜂起
ゲットーの残存ユダヤ人約6万人が、トレブリンカへの移送(絶滅収容所への送致)に抵抗して武装蜂起。モルデハイ・アニエレヴィチが率いるユダヤ人戦闘組織(ZOB)が約750人の戦闘員で、SSシュトロープ将軍
ポーランド・ワルシャワ
1943年2月
ノルウェーの重水工場破壊工作
ノルウェー人レジスタンス工作員がドイツ占領下の重水製造工場(ノルスク・ハイドロ社ヴェモルク工場)に潜入し、重水製造設備を破壊した。重水はドイツの原爆開発に不可欠な素材であった。後にドイツが重水をドイツ
ノルウェー・ヴェモルク
1943年9月
イタリア降伏とバドリオ政権
ファシスト大評議会がムッソリーニを解任し、バドリオ元帥が新政権を樹立。9月8日にアイゼンハワーが休戦協定を発表。しかしドイツ軍がイタリア半島の大部分を占領し、ムッソリーニはグラン・サッソ山からドイツ特
イタリア全域
1943年
サルトルの実存主義
ジャン=ポール・サルトルが『存在と無』で「実存は本質に先立つ」という命題を提示。人間は予め定められた本質を持たず、自由な選択によって自己を形成するとした。戦後の1945年の講演『実存主義はヒューマニズ
フランス・パリ
1944年3月〜7月
インパール作戦の失敗
日本陸軍第15軍の牟田口廉也中将が立案したインド侵攻作戦。約9万の兵力で補給を無視した攻勢を敢行したが、イギリス軍の反撃と補給断絶により壊滅的敗北。戦死・病死・餓死者約3万人、戦傷・病者約4万人を出し
インド・インパール〜ミャンマー国境
1944年6月6日
ノルマンディー上陸作戦(D-Day)
アイゼンハワー最高司令官の指揮のもと、約15万人の連合軍が5つの海岸に上陸した史上最大の水陸両用作戦。約1万人の死傷者を出しながら橋頭堡を確保し、西ヨーロッパの解放への第一歩を踏み出した。約1,200
フランス・ノルマンディー
1944年8月25日
パリ解放
パリのレジスタンスが蜂起し、ルクレール将軍率いる自由フランス第2機甲師団がパリに入城。ドイツ軍司令官コルティッツ将軍はヒトラーのパリ破壊命令に従わず降伏した。ド・ゴールがシャンゼリゼを凱旋し、パリ市庁
フランス・パリ
1944年8月1日-10月2日
ワルシャワ蜂起
ポーランド国内軍(AK)がボル=コモロフスキ将軍の指揮のもとドイツ軍に対して蜂起。63日間の激戦の末に降伏した。ソ連軍はヴィスワ川東岸で進軍を停止し、蜂起を支援しなかった。蜂起側の死者約1万6千人、民
ポーランド・ワルシャワ
1944年12月-1945年1月
バルジの戦い(アルデンヌ攻勢)
ドイツ軍最後の大反攻。ヒトラーはアルデンヌの森を突破してアントワープ港を奪取し、連合軍を分断する賭けに出た。初期の奇襲は成功しアメリカ軍戦線に深い突出部(バルジ)を作ったが、バストーニュで第101空挺
ベルギー・ルクセンブルク・アルデンヌ
1944年1-5月
モンテ・カッシーノの戦い
連合軍がドイツ軍のグスタフ防衛線の中核であるモンテ・カッシーノを4次にわたり攻撃。修道院は2月15日の空爆で破壊されたが、ドイツ軍は瓦礫をさらに強固な防御陣地に転用した。5月18日にポーランド第2軍団
イタリア・モンテ・カッシーノ
1944年7月20日
ヒトラー暗殺未遂事件(7月20日事件)
シュタウフェンベルク大佐が大本営の会議室にブリーフケース爆弾を仕掛けたが、ヒトラーは負傷したのみで生存した。ベルリンでのクーデター(ワルキューレ作戦)も失敗し、シュタウフェンベルクら首謀者は即日銃殺さ
東プロイセン・ヴォルフスシャンツェ
1944-1945年
V-2ロケットの開発と使用
ヴェルナー・フォン・ブラウンが開発した世界初の弾道ミサイルV-2(報復兵器2号)。液体燃料ロケットで高度約80kmに到達し、音速の約5倍で落下するため迎撃不可能であった。1944年9月からロンドンやア
ドイツ・ペーネミュンデ
1944〜1971年
ブレトンウッズ体制の確立
1944年7月1-22日、44カ国の代表がブレトンウッズに集結し、戦後の国際通貨・金融体制を設計した。ドルを基軸通貨とする固定為替相場制(1オンス=35ドルの金本位)を採用し、国際通貨基金(IMF)と
アメリカ・ニューハンプシャー州ブレトンウッズ