「百済」に関する歴史的出来事
5件の出来事
紀元前18年
百済の建国
高句麗の始祖・朱蒙の子・温祚が南下し、慰礼城(現在のソウル付近)を都として建国したと伝えられる。漢江流域を支配し、中国南朝および日本と活発に交流。仏教、五経博士、技術者を日本に伝えるなど、東アジア文化
朝鮮半島中西部・漢城(ソウル付近)
369年(泰和四年)
七支刀の製作と贈呈
石上神宮に伝わる六枝の刃を持つ特異な鉄刀。61文字の金象嵌銘文があり、百済王が倭王に贈ったものとされる。「泰和四年」の紀年銘は369年を指すと解釈される。4世紀の日朝関係を示す最重要の物証。国宝。
日本・奈良
523年
武寧王陵の築造
百済第25代王・武寧王(在位501-523年)とその王妃の合葬墓。1971年に未盗掘の状態で発見され、約5000点の副葬品が出土した。中国南朝様式の煉瓦積み横穴式石室墓で、金製冠飾り、銅鏡、中国製陶磁
百済・公州(熊津)
538年(552年説あり)
仏教公伝
百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経典を献上し、日本に正式に仏教が伝来した。上宮聖徳法王帝説は538年、日本書紀は552年と記す。蘇我稲目が崇仏を主張し物部尾輿が排仏を唱え、崇仏・排仏論争が始まった。
日本・奈良(飛鳥)
660年
百済の滅亡
唐の蘇定方率いる13万の大軍と新羅の金庾信率いる5万の軍が百済を挟撃。百済の義慈王は降伏し、約700年の歴史に幕を閉じた。落花岩の伝説(三千宮女の身投げ)は後世の創作とされるが、百済滅亡の悲劇を象徴す
百済・泗沘(扶余)