「平安時代」に関する歴史的出来事
49件の出来事
788年
最澄による比叡山延暦寺の開創
最澄(伝教大師)が比叡山に一乗止観院(後の延暦寺)を開創。804年に入唐し天台宗を日本に伝えた。延暦寺は平安仏教の総合大学として機能し、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮など後の鎌倉新仏教の祖師たちを輩出し
日本・滋賀
794年
平安京遷都
桓武天皇が長岡京に代わり山背国に新都を建設。唐の長安を模した東西約4.5キロ、南北約5.2キロの条坊制都市。大内裏を北端に配し、朱雀大路が南北を貫く。以後約1000年にわたり日本の首都として機能した。
日本・京都
794年〜811年
坂上田村麻呂の蝦夷征討
桓武天皇の命を受けた征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北の蝦夷を征討。797年に征夷大将軍に任命され、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。胆沢城(802年)・志波城(803年)を築き、律令国家の支配域を北上川
日本・東北
810年
薬子の変
平城上皇と嵯峨天皇の対立が武力衝突寸前に至った事件。平城上皇は藤原薬子・仲成兄妹の後押しで平城京への遷都を企図したが、嵯峨天皇側が先手を打って軍を差し向け、上皇は剃髪して出家。薬子は服毒自殺、仲成は射
日本・京都
9世紀
三筆と弘仁・貞観文化
平安初期の弘仁・貞観文化は唐文化の消化と日本化が進んだ時代。三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)が書道の最高峰を示し、漢詩文が隆盛した。『文華秀麗集』『経国集』が編まれ、空海の『三教指帰』など思想的著作も生
日本・京都
816年
空海による高野山開創
空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の下賜を受け、真言密教の根本道場として開創。金剛峯寺を中心に伽藍が建設された。空海は835年に高野山奥之院で入定(即身成仏)したとされ、今も生きて修行を続けていると
日本・和歌山
842年
承和の変
842年、嵯峨上皇の崩御直後に恒貞親王の廃太子と伴健岑・橘逸勢の配流が行われた。仁明天皇と藤原良房が共謀し、皇太子を道康親王(のちの文徳天皇)に交代させた。橘逸勢は流罪地への途上で病死した。藤原北家が
日本・京都
866年
応天門の変
大内裏の応天門が放火され、犯人として大納言・伴善男が逮捕・配流された事件。当初は源信(左大臣)が疑われたが、藤原良房の介入で伴善男に罪が着せられた。良房は事件を利用して人臣初の摂政に就任。
日本・京都
869年
祇園御霊会の成立
貞観11年の疫病大流行に際し、怨霊を鎮めるため神泉苑に66本の鉾を立てて御霊会を行った。これが祇園祭の起源。当初は疫病退散の臨時行事であったが、次第に恒例化し、室町時代以降は町衆主導の壮大な祭礼に発展
日本・京都
894年
菅原道真の遣唐使廃止建議
遣唐大使に任命された菅原道真が、唐の国内混乱と航海の危険を理由に遣唐使の派遣中止を建議し、宇多天皇が受け入れた。630年以来約260年間続いた遣唐使が正式に廃止された。
日本・京都
10世紀〜11世紀
かな文字の発展と国風文化の開花
万葉仮名から平仮名・片仮名が成立し、日本語を自在に表現できる文字体系が完成。これにより和歌・物語・日記・随筆など多様な文学ジャンルが開花。大和絵、寝殿造、十二単など日本独自の美意識が確立された。
日本・京都
901年〜903年
菅原道真の大宰府左遷と太宰府天満宮
右大臣・菅原道真が藤原時平の讒言により大宰員外帥に左遷された(昌泰の変)。903年に大宰府で失意のうちに没した。死後、都で天変地異が相次いだため怨霊として恐れられ、天満大自在天神として祀られた。学問の
日本・福岡
905年
古今和歌集の編纂
日本初の勅撰和歌集。紀貫之・紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒が撰者。約1100首を収録し、四季・恋・雑などに分類。紀貫之の仮名序は日本初の文学論として名高い。和歌の規範として後世の勅撰集の模範となった。
日本・京都
935年〜940年
平将門の乱
桓武平氏の後裔・平将門が関東で挙兵し、常陸・下野・上野の国府を次々と攻略。自ら「新皇」を称し、関東に独立王国を築こうとした。しかし940年、藤原秀郷・平貞盛の追討軍に敗れ戦死。僅か2ヶ月の「新皇」であ
日本・関東
935年頃
『土佐日記』の執筆
紀貫之が土佐守の任期を終えて帰京する55日間の旅を、女性の筆に仮託してかな文字で綴った日記文学。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」の冒頭は日本文学史上最も有名な書き出しの一つ。海
日本・京都
936年〜941年
藤原純友の乱
伊予国の国司であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱。大宰府を襲撃するなど西日本に大きな混乱をもたらした。将門の乱と同時期に発生したため「承平天慶の乱」と総称される。941年に鎮圧された。
日本・瀬戸内海
936年〜941年
承平天慶の乱(藤原純友の乱の拡大)
伊予掾であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、940年には大宰府を襲撃・焼討した。朝廷は小野好古・源経基らを追討使として派遣。941年に純友は博多湾で敗北し、伊予で捕らえられた。平将門の
日本・瀬戸内海〜九州
10世紀半ば
空也の念仏布教と市聖の活動
空也(903-972)は市中で踊り念仏を広め「市聖」と呼ばれた。阿弥陀仏の名号を唱えれば極楽往生できるという教えを、貴族だけでなく庶民にも広めた先駆者。951年に京都に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立
日本・京都
10世紀後半
安倍晴明と陰陽道の隆盛
陰陽師・安倍晴明は天文・暦学・占術に秀で、一条天皇の信任を受けて朝廷の祭祀・儀礼に深く関与した。鬼や怨霊を祓う超自然的能力を持つとされ、後世に多くの伝説が生まれた。陰陽道は平安貴族の日常生活を細部まで
日本・京都
969年
安和の変
969年、左大臣源高明が謀反の嫌疑で大宰府に左遷された。密告に基づく冤罪とされ、藤原氏が最後の有力な政敵を排除した事件。これにより藤原北家の政治的独占が確立し、以後約100年にわたる摂関政治全盛期が始
日本・京都
10世紀後半〜11世紀
三蹟と和様書道の確立
小野道風・藤原佐理・藤原行成の三人は「三蹟」と称され、中国書法から独立した和様書道を確立した。小野道風は柔らかな曲線と優美さで唐様から脱却し、藤原佐理は奔放な草書で知られ、藤原行成は端正で格調高い書風
日本・京都
974年頃
蜻蛉日記の執筆
藤原道綱母が藤原兼家との結婚生活21年間(954-974年頃)を回想して綴った日記文学。夫の浮気への嫉妬、待つ女の苦悩、息子道綱への愛情が赤裸々に描かれる。「かくありし時過ぎて世の中にいとものはかなく
日本・京都
985年
浄土教の流行と源信『往生要集』
天台宗の僧・源信(恵心僧都)が著した浄土教の体系書。地獄の凄惨な描写と極楽浄土の荘厳な情景を対比し、念仏による往生を説いた。末法思想と結びつき、貴族から庶民まで広く浄土信仰が浸透する契機となった。
日本・京都
1000年頃
清少納言『枕草子』の執筆
清少納言が中宮定子に仕えた体験を基に執筆した日本最古の随筆。「春はあけぼの」に始まる鋭い感性と知性に満ちた筆致で、自然・宮廷生活・人間観察を綴る。約300段からなり、「をかし」の美意識を代表する作品。
日本・京都
1008年頃
紫式部『源氏物語』の執筆
紫式部が藤原彰子の女房として宮仕えしながら執筆した長編小説。全54帖で光源氏の一生と子孫の物語を描く。人間の心理を精緻に描写し、世界最古の長編小説とも称される。平安貴族社会の文化・美意識・恋愛を余すと
日本・京都
1018年
藤原道長の権力絶頂「望月の歌」
藤原道長が三女・威子の立后の日に「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ。3人の娘を天皇の后にし、外祖父として絶大な権力を握った摂関政治の絶頂を象徴する一首。
日本・京都
1051年〜1062年
前九年合戦
陸奥の俘囚長・安倍氏が朝廷に反抗し、源頼義・義家父子が12年かけて鎮圧。清原氏の援軍を得てようやく安倍氏を滅ぼした。源氏が東国武士団の棟梁としての地位を確立する契機となった。
日本・岩手
1053年
平等院鳳凰堂の建立
藤原頼通が父道長の別荘を寺院に改め、阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立。末法思想の広まりの中、極楽浄土を現世に再現しようとした。堂内の阿弥陀如来坐像は定朝作で、寄木造の代表作。10円硬貨のデザインとしても知られ
日本・京都(宇治)
1069年
延久の荘園整理令
後三条天皇が藤原摂関家に依存しない親政を行い、記録荘園券契所を設置して荘園の審査を実施。正規の手続きを経ていない荘園を停止し、太政官符・民部省符のない荘園は認めないとした。藤原摂関家の荘園も例外としな
日本・京都
1083年〜1087年
後三年合戦
清原氏の内紛に源義家が介入した戦い。清原家衡・武衡と清原清衡(後の藤原清衡)の対立を義家が調停・武力介入。金沢柵を攻略して家衡を滅ぼした。清衡は奥州藤原氏の祖として平泉文化を築く。
日本・秋田
1086年〜1129年
白河上皇の院政開始
白河天皇が堀河天皇に譲位した後も「治天の君」として約43年間政治を主導。摂関家を抑え、天皇家の家長としての権威で院政を行った。「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にかなわぬもの」の名言で知られ
日本・京都
1087年〜
奥州藤原氏の成立
後三年合戦(1083-87)の後、藤原清衡が奥州の実質的支配者となり、平泉を拠点に独自の政権を築いた。清衡は中尊寺を建立し、基衡は毛越寺を造営。秀衡の代には平泉は京都に次ぐ日本第二の都市となり、約10
日本・平泉
1124年
中尊寺金色堂の建立と平泉文化
奥州藤原初代・清衡が建立した中尊寺金色堂。堂内外を金箔で覆い、螺鈿・蒔絵・象牙で装飾した極楽浄土の現世的表現。藤原三代(清衡・基衡・秀衡)のミイラが安置される。堂は覆堂に守られ現存する。国宝。
日本・岩手
12世紀
鳥獣戯画の制作
『鳥獣人物戯画』は甲乙丙丁4巻からなる白描の絵巻物で、京都・高山寺に伝わる。特に甲巻は兎・蛙・猿が人間のように振る舞う姿を墨線のみで生き生きと描き、「日本最古の漫画」とも呼ばれる。作者は伝統的に鳥羽僧
日本・京都
12世紀前半
源氏物語絵巻の制作
『源氏物語絵巻』は紫式部の源氏物語を絵画化した現存最古の物語絵巻。吹抜屋台(屋根を省略して室内を俯瞰する)の技法と、引目鉤鼻(線で目と鼻を表す)の人物表現が特徴。現存する19場面は徳川美術館と五島美術
日本・京都
1156年
保元の乱
後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いに、藤原摂関家と源氏・平氏の内紛が絡んだ戦乱。後白河方の平清盛・源義朝が崇徳方を破った。京都で約350年ぶりの武力衝突となり、武士が政治の決定者となる転換点。
日本・京都
1158年〜1192年
後白河法皇の院政と『梁塵秘抄』
後白河天皇は保元の乱後に即位し、退位後は34年にわたり院政を敷いた。平清盛・源頼朝ら武家の台頭する時代に巧みな政治力を発揮し、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評された。文化面では今様(当時の流行歌)を
日本・京都
1159年〜1160年
平治の乱
源義朝と藤原信頼が後白河上皇の院御所・三条殿を襲撃し、信西(藤原通憲)を殺害。しかし熊野参詣中から帰京した平清盛が反撃し、義朝軍を撃破。義朝は敗走中に殺害され、幼い頼朝は伊豆に配流された。
日本・京都
1162年頃〜
日宋貿易の振興と大輪田泊の整備
平清盛が国家事業として推進した宋との貿易。大輪田泊を大改修し、宋の商船を直接受け入れる体制を整えた。宋銭の大量輸入は日本の貨幣経済を活性化させ、絹・香料・陶磁器・書籍などの輸入は文化にも大きな影響を与
日本・兵庫
1167年〜1181年
平清盛の太政大臣就任と平氏政権
平清盛が武士として初めて太政大臣に就任。一族を朝廷の要職に配し、娘の徳子を高倉天皇に入内させ、外戚としても権力を掌握。「平氏にあらずんば人にあらず」と称される専横体制を築いた。日宋貿易を推進し経済力も
日本・兵庫(福原)
1168年
厳島神社の造営
平清盛が平氏の守護神として厳島神社を大規模に造営。海上に浮かぶ寝殿造の社殿群と高さ約16メートルの大鳥居は、清盛の権力と美意識の結晶。平家納経(国宝)をはじめとする美術工芸品も奉納された。
日本・広島
1177年
鹿ヶ谷の陰謀
1177年、後白河法皇の近臣である俊寛・藤原成親・西光らが、京都東山の鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平氏打倒を密議した。しかし多田行綱の密告で計画が露見し、平清盛は関係者を厳しく処罰。西光は処刑、成親は配流先で
日本・京都
12世紀後半
平安京の疫病と方丈記の災害記録
鴨長明の『方丈記』(1212年成立)は、1177年の安元の大火、1180年の治承の辻風(竜巻)、同年の福原遷都、1181年の養和の飢饉、1185年の元暦の大地震という五大災厄を記録。「ゆく河の流れは絶
日本・京都
1180年
源頼朝の挙兵と治承・寿永の乱の開始
以仁王の令旨を受けた源頼朝が伊豆で挙兵。石橋山の戦いで大敗するも、安房に渡り関東武士団を糾合して鎌倉に入った。富士川の戦いで平氏軍を撃退し、東国の支配を確立。以後5年にわたる源平合戦が展開される。
日本・伊豆〜関東
1180年10月20日
富士川の戦い
1180年、源頼朝の挙兵を受けて東下した平維盛率いる追討軍と源氏軍が富士川で対峙。夜間に水鳥の大群が一斉に飛び立った羽音を源氏の夜襲と誤認した平氏軍は、戦わずして潰走した。この敗北で平氏は東国の制圧を
日本・駿河
1183年5月11日
倶利伽羅峠の戦い
1183年、木曾義仲が平維盛率いる平氏追討軍約10万を倶利伽羅峠で大破。夜襲と地形を利用した戦術で、平氏軍は谷底に追い落とされて壊滅的敗北を喫した。火牛の計の伝承は後世の脚色とされるが、地形を利用した
日本・加賀・越中国境
1184年2月7日
一ノ谷の戦い
1184年、源義経と源範頼が平氏の拠点・一ノ谷を攻撃。義経は主力が正面から攻撃する間に精鋭70騎で鵯越の急坂を駆け下り、平氏の陣を背後から急襲した。平氏は海上に逃れたが、平敦盛と熊谷直実の一騎討ちなど
日本・摂津
1185年
壇ノ浦の戦い
源義経率いる源氏軍が平氏の水軍を壇ノ浦で壊滅させた源平合戦の最終決戦。安徳天皇と二位尼が三種の神器の一つ・草薙剣とともに入水。平氏一門は海中に没した。義経の八艘飛びなど数々の伝説が生まれた。
日本・山口
1185年2月19日
屋島の戦い
1185年、源義経が屋島の平氏本営を急襲。わずか150騎で阿波国から渡海し、陸路から屋島背後を突くという大胆な作戦で平氏を敗走させた。那須与一の扇の的のエピソードで知られる。平氏は屋島を放棄して長門国
日本・讃岐