「安土桃山時代」に関する歴史的出来事
15件の出来事
16世紀後半
千利休と茶道の大成
千利休が侘茶を大成し、茶道を日本文化の核心的芸術に昇華させた。二畳の極小茶室「待庵」(国宝)に象徴される究極の侘びの美学を追求。織田信長・豊臣秀吉に仕え、政治的にも大きな影響力を持ったが、1591年に
日本・京都/大阪
1576年〜1579年
安土城の築城
織田信長が琵琶湖畔の安土山に築いた革新的な城。地下1階・地上6階の天主(天守)は高さ約32メートルで、内部は狩野永徳の障壁画で飾られた。石垣の上に壮麗な天主を載せる近世城郭の原型であり、信長の権力と美
日本・滋賀
1576年〜1590年
狩野永徳の障壁画と安土桃山美術
狩野永徳(1543-1590)は安土桃山時代を代表する画家。安土城天主の障壁画、大坂城・聚楽第の装飾を手がけ、金碧障壁画の様式を確立した。「唐獅子図屏風」「洛中洛外図屏風」が代表作。力強い太い筆致と金
日本・京都〜安土
1582年
本能寺の変
織田信長の重臣・明智光秀が約13000の兵で京都本能寺を急襲し、信長を自害に追い込んだ。信長は「是非に及ばず」と言って炎の中に消えたとされる。天下統一目前での謀反は日本史上最大の事件の一つ。光秀の動機
日本・京都
1582年〜1590年
天正遣欧少年使節
九州のキリシタン大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)が、イエズス会の勧めで少年4人(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノ)をローマ教皇のもとに派遣。教皇グレゴリウス13世に謁見し、
日本・長崎〜ヨーロッパ
1582年6月13日
山崎の戦いと中国大返し
1582年、本能寺の変を知った羽柴秀吉が備中高松城から急行し、明智光秀を山崎で破った。秀吉は毛利氏と即座に和議を結び、史上最速の行軍「中国大返し」を敢行。天王山を確保した秀吉軍が優勢に立ち、光秀は敗走
日本・山城国
1582年〜1598年
太閤検地と刀狩令
豊臣秀吉が全国の農地を統一基準で測量した太閤検地(1582年開始)と、農民から武器を没収した刀狩令(1588年)は、兵農分離を推進する一対の政策。検地によって一地一作人の原則が確立され、中世的な重層的
日本・全国
1583年〜1590年
豊臣秀吉の天下統一と大坂城築城
秀吉は山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いで信長の後継者の地位を確立。大坂城を築いて本拠とし、四国征伐・九州征伐・小田原攻めを経て1590年に全国統一を達成。太閤検地・刀狩・身分統制令により近世社会の基盤を形成し
日本・大阪
1583年4月21日
賤ヶ岳の戦い
1583年、羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継をめぐって激突。長期対陣の後、秀吉は美濃方面から急行して勝家軍を撃破。「賤ヶ岳の七本槍」(加藤清正・福島正則ら)の活躍が知られる。敗北した柴田勝家は北ノ庄城で
日本・近江国
1590年
小田原征伐と天下統一完成
1590年、豊臣秀吉が約20万の大軍で後北条氏の小田原城を包囲。秀吉は石垣山に一夜城を築く見せかけで敵の士気を挫き、約3ヶ月の包囲で北条氏政・氏直を降伏させた。これにより東国の平定が完了し、続く奥州仕
日本・相模国
1592年〜1598年
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)
豊臣秀吉が明の征服を目指して約15万の軍を朝鮮に派遣。文禄の役(1592年)で漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍と明の援軍に苦戦。慶長の役(1597年)も膠着し、秀吉の死(1598年)により撤退。日
朝鮮半島
1597年2月5日
日本二十六聖人殉教
1597年2月5日、京都・大坂で逮捕されたフランシスコ会の宣教師6名と日本人信徒20名が、長崎の西坂で十字架に架けられて処刑された。豊臣秀吉のバテレン追放令(1587年)後初の大規模な殉教事件。京都か
日本・長崎
1600年
関ヶ原の戦い
徳川家康率いる東軍約7万と石田三成率いる西軍約8万が激突した天下分け目の合戦。小早川秀秋の裏切りが勝敗を決し、わずか半日で東軍の大勝に終わった。家康は全国の支配権を掌握し、1603年に征夷大将軍に就任
日本・岐阜
1603年頃
出雲阿国と歌舞伎の始まり
1603年頃、出雲大社の巫女と称する出雲阿国が京都の四条河原で「かぶき踊り」を披露し、歌舞伎の起源となった。阿国は男装して茶屋遊びの場面を演じる「阿国歌舞伎」で大人気を博した。以後、遊女歌舞伎・若衆歌
日本・京都
1614年〜1615年
大坂の陣と豊臣家滅亡
徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を攻めた二度の合戦。冬の陣(1614年)では和議となったが外堀を埋め、夏の陣(1615年)で大坂城は落城し豊臣家は滅亡。真田幸村の奮戦が語り継がれる。以後、徳川の天下が確定。
日本・大阪