「奈良時代」に関する歴史的出来事

32件の出来事

630年〜894年
遣唐使の派遣
630年から894年まで約20回にわたり派遣された唐への公式使節団。4隻の船に約500人が乗り組み、外交使節・留学生・学問僧が渡海。阿倍仲麻呂・吉備真備・最澄・空海らが参加。唐の制度・文化・宗教を日本
日本〜中国
645年〜
難波宮の造営
大化の改新後、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営(前期難波宮)。その後、聖武天皇が726年に後期難波宮を造営。前期は飛鳥時代の大規模な掘立柱建物群、後期は礎石建物の朝堂院形式。副都として平城京と並ぶ政治的
日本・大阪
7世紀後半〜8世紀
古代駅制・官道の整備
律令国家は都と地方を結ぶ幹線道路(官道)を整備し、約30里(約16キロ)ごとに駅家を設置。駅馬が配備され、公文書の迅速な伝達を可能にした。道幅は大路で約12メートル、中路で約9メートルと広大。現代の直
日本・全国
664年〜
防人制度の整備
白村江敗戦後に整備された辺境防衛制度。主に東国の農民が徴発され、北九州・対馬・壱岐の防衛に当たった。防人の歌は万葉集に多数収録され、故郷を離れる悲しみが詠まれている。奈良時代を通じて維持されたが、79
日本・九州
680年発願〜698年完成
薬師寺の建立
天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願。金堂の薬師三尊像(国宝)は白鳳美術の最高傑作。東塔(国宝)は創建時の唯一の建造物で「凍れる音楽」と称される均整美を持つ。
日本・奈良
708年
和同開珎の鋳造
武蔵国秩父での和銅発見を機に、元号を「和銅」に改め、日本初の本格的流通貨幣・和同開珎が鋳造された。唐の開元通宝を模した円形方孔の銅銭。蓄銭叙位令(711年)により貨幣蓄積を奨励したが、地方への浸透は限
日本・奈良
710年
平城京遷都
元明天皇が藤原京から平城京へ遷都。和銅3年3月10日に遷都が行われた。朱雀大路を中心軸に左京・右京が配置され、平城宮(大内裏)を北端に置く。人口は最盛期に10万人以上と推定される。
日本・奈良
710年
興福寺の建立
藤原不比等が藤原鎌足創建の山階寺を平城京に移転して建立した藤原氏の氏寺。法相宗の大本山。阿修羅像(国宝)をはじめとする天平彫刻の傑作を多数所蔵。五重塔(国宝)は高さ約50メートルで日本第2位。
日本・奈良
710年〜784年
平城京の市と商業活動
平城京には東市・西市の二つの公設市場が設けられ、市司が物価統制と取引監視を行った。和同開珎(708年鋳造)をはじめとする貨幣が流通し、絹・布・米・塩・鉄器・陶器など多様な商品が取引された。人口10万人
日本・奈良
712年
古事記の編纂
太安万侶が稗田阿礼の口誦を筆録して完成した日本最古の歴史書。上・中・下の3巻からなり、天地開闢の神話から推古天皇までを記述。和銅5年正月に元明天皇に献上された。日本語の音を漢字で表記する万葉仮名を多用
日本・奈良
713年命令〜順次編纂
播磨国風土記の編纂
和銅6年、元明天皇が諸国に風土記の編纂を命じた。各国の地名の由来、産物、土地の状態、古老の伝承を記録。出雲国風土記は唯一のほぼ完本で、古代出雲の地理・文化・神話を詳細に伝える。
日本・全国
717年〜749年
行基の社会事業
僧・行基は私度僧として畿内を中心に民衆教化と社会事業を展開。道路・橋・池(灌漑用溜池)・布施屋を建設し、「行基菩薩」と慕われた。朝廷は当初弾圧したが、後に大仏造立の勧進役に起用。745年に日本初の大僧
日本・近畿
720年
日本書紀の編纂
舎人親王らが編纂した日本初の勅撰正史。全30巻と系図1巻からなり、神代から持統天皇まで編年体で記述。中国の正史の形式に倣い漢文で書かれた。養老4年に元正天皇に奏上。六国史の第一として後世の歴史編纂の範
日本・奈良
723年
三世一身法の制定
新たに灌漑施設を造って開墾した者は3代、既存の施設を利用して開墾した者は本人1代に限り土地の私有を認める法令。班田収授法の行き詰まりを打開するため、開墾奨励策として制定された。
日本・奈良
724年
多賀城の設置
大野東人が陸奥国に設置した律令国家の東北経営の拠点。陸奥国府と鎮守府を兼ね、政治・軍事・外交の中心として機能。約900メートル四方の広大な城柵で、多賀城碑(重要文化財)により建設経緯が判明する。
日本・宮城
729年
長屋王の変
天武天皇の孫である左大臣長屋王が、藤原四兄弟の陰謀により謀反の疑いをかけられ自殺に追い込まれた事件。密告により軍勢が邸宅を包囲し、長屋王は妻子とともに自害。皇親政治から藤原氏主導の政治への転換点。
日本・奈良
729年
光明皇后の立后
藤原不比等の娘・光明子が聖武天皇の皇后に立てられた。皇族以外からの皇后就任は史上初の画期的出来事。長屋王の変で反対勢力を排除した後に実現。光明皇后は社会事業(悲田院・施薬院)にも力を入れた。
日本・奈良
735年帰国
吉備真備の帰国と政治参加
吉備真備は遣唐留学生として唐で18年間学び、暦学・天文学・音楽・兵法など幅広い知識を持ち帰った。帰国後は橘諸兄政権で重用され、聖武天皇の信任を得た。右大臣にまで昇進し、学者出身としては異例の出世を遂げ
日本・奈良
735年〜737年
天平の疫病と社会変動
735年に新羅帰りの遣新羅使一行から北九州で天然痘が発生。大宰府から東進し、737年に畿内で猛威を振るった。朝廷高官の多くが死亡し、全国の人口の25〜35%が失われたと推定される。班田制の基盤が崩壊し
日本・全国
737年
藤原四兄弟の疫病死
天然痘の大流行により、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで病死。朝廷の高官の大半が罹患・死亡し、政治機能が麻痺。全国的に人口の25〜35%が死亡したと推定される。律令制の基盤である班田制に
日本・奈良
740年
藤原広嗣の乱
藤原宇合の子・広嗣が大宰府で挙兵。玄昉・吉備真備の排除と政治改革を要求したが、朝廷軍に鎮圧され処刑された。聖武天皇はこの乱を契機に平城京を離れ、恭仁京・紫香楽宮・難波京と転々とした(彷徨五年)。
日本・福岡〜奈良
740年〜745年
聖武天皇の彷徨(恭仁京・紫香楽宮)
藤原広嗣の乱をきっかけに聖武天皇が平城京を離れ、恭仁京(740年)→紫香楽宮(742年)→難波宮(744年)→平城京(745年)と約5年間都を転々とした。大仏造立は当初紫香楽宮で進められたが、山火事や
日本・京都〜滋賀
741年
国分寺・国分尼寺の建立詔
聖武天皇が全国68カ国に国分寺(僧寺)と国分尼寺の建立を命じた。各国の国分寺には七重塔を建て、金光明最勝王経を安置。国分尼寺には法華経を安置。東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺と定めた。
日本・全国
743年発願〜752年開眼
東大寺大仏の造立
聖武天皇が発願した盧舎那仏(大仏)の造立。像高約15メートル、使用した銅は約500トン、金は約440キロ。752年に盛大な開眼供養が行われ、インド僧菩提僊那が開眼導師を務めた。延べ約260万人が造立に
日本・奈良
743年
墾田永年私財法の制定
新たに開墾した土地の永久私有を認める法令。723年の三世一身法(3代限りの私有)を発展させ、開墾意欲をさらに高めるために永久私有化を認めた。貴族・寺社による大規模開墾が活発化し、荘園制の発展を促した。
日本・奈良
753年
鑑真の来日
唐の高僧鑑真が12年の歳月と5度の失敗を経て来日に成功。渡航中に失明したが、754年に東大寺大仏殿前で聖武上皇らに授戒。日本に正式な戒律制度を伝え、唐招提寺を創建した。
日本・奈良
756年
正倉院宝物の収蔵
聖武天皇の崩御後、光明皇后が天皇遺愛の品約600点を東大寺大仏に献納。ペルシア・唐・新羅・東南アジアなどの工芸品を含み、8世紀の国際文化交流を物語る。螺鈿紫檀五絃琵琶、漆胡瓶、鳥毛立女屏風などが代表的
日本・奈良
759年頃
万葉集の成立
日本最古の歌集。全20巻、約4500首を収録。天皇・貴族から防人・農民まで幅広い階層の和歌を収める。額田王・柿本人麻呂・山上憶良・大伴家持らが代表的歌人。万葉仮名で表記され、日本語の文学表現の原点。
日本・奈良
759年
唐招提寺の創建
鑑真が開いた律宗の総本山。金堂(国宝)は奈良時代建築の最高傑作の一つで、8本のエンタシス列柱が特徴。鑑真和上坐像(国宝)は天平彫刻の名品で、没後に弟子が制作した日本最古の肖像彫刻。
日本・奈良
768年
春日大社の創建
藤原氏の氏神を祀る神社。武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四柱を祭神とする。鹿島・香取・枚岡から神々を勧請。20年ごとの式年造替が行われ、朱塗りの社殿と約3000基の燈籠が特徴的。
日本・奈良
769年
道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)
称徳天皇に寵愛された僧道鏡が、宇佐八幡宮の神託を利用して皇位を窺った事件。「道鏡を天皇にすべし」という神託を大宰府の主神が報告したが、和気清麻呂が宇佐に赴き「無道の人を除くべし」との真の神託を持ち帰り
日本・奈良
780年
伊治呰麻呂の乱
蝦夷出身の伊治郡大領・呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀広純を殺害。多賀城を焼き討ちした。律令国家の東北支配に対する蝦夷の大規模な抵抗であり、朝廷は征夷体制の再構築を迫られた。
日本・宮城