日本の歴史

278件の歴史的出来事

紀元前8000年頃〜
黒曜石交易ネットワークの形成
信州和田峠・星糞峠産の黒曜石は、縄文時代を通じて北海道から九州まで広範囲に流通した。黒曜石の原産地分析により、数百キロに及ぶ交易ネットワークの存在が判明。神津島産黒曜石の本土への搬入は、縄文人の航海能
日本・長野
紀元前7500年頃
上野原遺跡の集落形成
縄文時代早期(約9500年前)の大規模集落跡。竪穴住居跡52基が発見され、南九州における早期定住生活の実態を示す。壺型土器や連穴土坑(燻製施設)など、当時としては高度な生活技術が確認された。
日本・鹿児島
紀元前6000年頃
縄文海進
最終氷期終了後の温暖化により、海面が現在より約5メートル高くなった。関東平野では群馬県館林付近まで海が入り込み、東京湾は現在の数倍の面積に拡大。日本列島の地形と人々の生活域が大きく変化した。
日本・全域
紀元前5300年頃
鬼界カルデラ大噴火
完新世最大級の火山噴火。噴出物の総量は約150立方キロメートルと推定される。火砕流は薩摩半島・大隅半島を覆い尽くし、火山灰(アカホヤ火山灰)は東北地方まで降下。南九州の縄文集落は壊滅した。
日本・鹿児島沖
紀元前5000年頃〜
翡翠交易ネットワークの形成
糸魚川産翡翠は縄文時代中期以降、大珠や勾玉に加工され、北海道から沖縄まで日本列島全域に流通した。翡翠の加工は高度な技術を要し、糸魚川周辺に専門的な加工集団が存在したと推定される。
日本・新潟
紀元前5000年頃〜12世紀
貝塚時代の沖縄
沖縄では本土の縄文〜古墳時代に相当する期間を「貝塚時代」と呼ぶ。前期(約7000年前〜)は九州の縄文文化と類似の土器文化、後期(約2500年前〜)は独自の無土器文化が展開。貝製品の加工技術に優れ、ヤコ
日本・沖縄
紀元前3900年頃〜紀元前2200年頃
三内丸山遺跡の大規模集落形成
縄文時代前期中頃から中期末葉にかけて営まれた日本最大級の縄文集落。大型掘立柱建物、竪穴建物跡約800棟、大型竪穴建物、貯蔵穴、墓地、盛土などが計画的に配置されていた。栗の栽培管理やヒスイ・黒曜石の広域
日本・青森
紀元前3000年頃〜紀元前1000年頃
加曽利貝塚の形成
日本最大級の貝塚遺跡。北貝塚(縄文中期)と南貝塚(縄文後期)からなる直径約140メートルの環状貝塚。竪穴住居跡、墓壙、土器・石器・骨角器が大量に出土し、縄文時代の生活実態を総合的に示す。
日本・千葉
紀元前2000年頃
大森貝塚の形成
縄文後期から晩期にかけて形成された貝塚。1877年にエドワード・モースが発見し、日本初の学術的発掘調査が行われた。ハマグリ、アサリなどの貝殻層と共に土器・骨角器が出土し、日本考古学の出発点となった。
日本・東京
紀元前2000年頃
大湯環状列石の建設
万座環状列石と野中堂環状列石の2つの大型配石遺構からなる。万座は直径約52メートルで日本最大。河原石を環状に配置し、中心に立石を置く構造。周辺に掘立柱建物跡や土坑墓が伴い、祭祀・墓域として機能した。
日本・秋田
紀元前1200年頃〜紀元前300年頃
亀ヶ岡文化の展開
縄文晩期に東北地方北部で栄えた文化圏。亀ヶ岡式土器は精緻な文様と薄手の造形で縄文土器の最高峰。遮光器土偶・赤漆塗り製品・耳飾りなど高度な工芸品を生み出した。漆工芸の技術は特に優れていた。
日本・東北
紀元前1000年頃
亀ヶ岡遺跡・遮光器土偶の製作
縄文晩期の代表的遺跡。精緻な亀ヶ岡式土器と、宇宙人のような外見で知られる遮光器土偶が出土した。遮光器土偶は高さ約34.5センチで、誇張された目と体の文様が特徴的。晩期縄文文化の芸術的到達点を示す。
日本・青森
紀元前930年頃
菜畑遺跡・日本最古の水田稲作
日本最古の水田跡が確認された遺跡。縄文晩期末(約2930年前)の水田跡と炭化米、農具が出土。大陸から伝播した水田稲作技術が北部九州に最初に受容された証拠であり、弥生時代の始まりを示す。
日本・佐賀
紀元前900年頃
板付遺跡での水田稲作開始
縄文晩期末から弥生早期にかけての水田跡が確認された遺跡。灌漑用水路を備えた本格的な水田経営が行われ、環濠集落も伴う。板付式土器は弥生早期の標式土器として知られる。
日本・福岡
神話時代(創建年不詳)
出雲大社の創建伝承
大国主命を祭神とする日本最古級の神社。『古事記』の国譲り神話で、天照大神に国を譲った大国主命のために壮大な神殿が建てられたとされる。2000年に境内から巨大な柱(宇豆柱)が出土し、高層神殿の実在可能性
日本・島根
紀元前4世紀〜紀元後3世紀
吉野ヶ里遺跡の環濠集落形成
弥生時代を通じて発展した日本最大級の環濠集落。内濠・外濠の二重環濠に囲まれ、物見櫓、祭祀建物、高床倉庫群が計画的に配置されていた。甕棺墓から出土した人骨には首のない遺体もあり、戦争の痕跡が生々しい。
日本・佐賀
紀元前3世紀〜紀元後1世紀
銅鐸文化圏の形成
弥生時代中期を中心に、近畿・東海地方で銅鐸が製造・使用された。初期は朝鮮半島由来の小型銅鐸だったが、次第に大型化・装飾化し、聞く銅鐸から見る銅鐸へ変化。袈裟襷文・流水文・動物文などの文様が施され、農耕
日本・近畿〜東海
紀元前3世紀〜7世紀
続縄文文化の展開
本土が弥生・古墳時代に移行した後も、北海道では縄文的な狩猟・漁労・採集生活が継続した。これを続縄文文化と呼ぶ。恵山式・北大式土器に代表される独自の土器文化を持ち、本州との交易(鉄器・米の入手)も行われ
日本・北海道
紀元前2世紀〜紀元後2世紀
青谷上寺地遺跡の集落
弥生時代中期から後期の集落遺跡。木製品・骨角器・金属器など多彩な遺物が極めて良好な状態で出土。特に100体以上の人骨が発見され、殺傷痕のある骨も多数含まれることから「弥生の戦争」の実態を示す。
日本・鳥取
紀元前2世紀〜紀元後1世紀
銅矛・銅戈文化圏の形成
弥生時代中期、北部九州では朝鮮半島系の銅矛・銅戈が祭祀用の青銅器として大型化・儀器化した。荒神谷遺跡(島根県)では358本の銅剣が一括出土し、出雲地域の独自の青銅器文化を示す。
日本・北部九州
紀元前1世紀〜紀元後3世紀
出雲王権の形成と四隅突出型墳丘墓
弥生後期から古墳時代初頭、出雲地域では独自の四隅突出型墳丘墓が築造された。西谷墳墓群に代表される大型墳墓は、出雲に独自の政治勢力が存在したことを示す。荒神谷遺跡の銅剣358本、加茂岩倉遺跡の銅鐸39個
日本・島根
57年
奴国王が後漢より金印を受領
倭の奴国の使者が後漢の光武帝に朝貢し、「漢委奴国王」と刻まれた金印を賜った。『後漢書』東夷伝に記録される。1784年に志賀島で発見された金印がその実物とされ、日本と中国の最古の外交記録の物証。
日本・福岡
147年頃〜189年頃
倭国大乱
2世紀後半、倭国で大規模な内乱が発生。『魏志倭人伝』によれば「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」と記される。男王の統治が破綻し、最終的に卑弥呼が共立されることで収束した。考古学的には高地性集落の増加や武器
日本・北部九州
189年頃〜248年頃
邪馬台国と卑弥呼の共立
倭国大乱後、30余国の連合体である邪馬台国の女王として卑弥呼が共立された。『魏志倭人伝』によれば鬼道(シャーマニズム)を用い、弟が政治を補佐。239年に魏に使者を送り「親魏倭王」の称号と金印紫綬を受け
日本・九州または畿内
3世紀前半〜4世紀中頃
纒向遺跡の大規模建物群造営
3世紀前半に突如出現した大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1.5キロに及ぶ。大型建物群、運河状の大溝、各地の土器(東海・山陰・北陸・九州)が出土し、列島各地から人々が集まった政治的中心地であった。箸
日本・奈良
3世紀後半
箸墓古墳の築造
最古級の大型前方後円墳の一つ。全長約280メートルで、前方後円墳の完成形を示す。『日本書紀』では倭迹迹日百襲姫命の墓とされるが、卑弥呼の墓とする説も有力。周濠から出土した土器の年代は3世紀後半を示す。
日本・奈良
4世紀〜6世紀
古代製鉄技術の導入
古墳時代中期以降、朝鮮半島からの技術導入により日本列島での製鉄が始まった。初期は鍛冶(輸入鉄素材の加工)が中心であったが、6世紀頃には砂鉄を原料とするたたら製鉄が開始。鉄製農具・武器の国内生産が可能と
日本・各地
4世紀〜5世紀
吉備王権の形成と造山古墳
古墳時代、吉備地域は大和に次ぐ有力な政治勢力を形成した。造山古墳(全長350メートル)は全国第4位の規模で、天皇陵に匹敵する。吉備は独自の特殊器台・埴輪を持ち、ヤマト王権の前方後円墳体制にも影響を与え
日本・岡山
4世紀〜6世紀
毛野王権の形成
古墳時代、上毛野(群馬県)には東日本最大級の古墳群が築造された。太田天神山古墳(全長210メートル)は東日本最大の前方後円墳。埴輪の生産・分配でも中心的役割を果たし、東国における最有力勢力であった。
日本・群馬
4世紀後半〜6世紀
古市古墳群の形成
応神天皇陵(誉田御廟山古墳、全長425メートル)を中心とする大古墳群。前方後円墳・円墳・方墳など計130基以上が築造された。百舌鳥古墳群と並ぶ古墳時代中後期の王墓群。2019年に世界文化遺産に登録。
日本・大阪
369年(泰和四年)
七支刀の製作と贈呈
石上神宮に伝わる六枝の刃を持つ特異な鉄刀。61文字の金象嵌銘文があり、百済王が倭王に贈ったものとされる。「泰和四年」の紀年銘は369年を指すと解釈される。4世紀の日朝関係を示す最重要の物証。国宝。
日本・奈良
5世紀前半〜中頃
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の築造
全長約486メートル、日本最大の前方後円墳。周濠を含めた総面積は約47万平方メートルでエジプトのクフ王のピラミッドや秦始皇帝陵に匹敵する世界最大級の墓。築造には延べ680万人の労働力と約16年を要した
日本・大阪
5世紀〜6世紀
渡来人による技術移転(須恵器・機織り)
5世紀以降、朝鮮半島から渡来した技術者集団が日本に先進技術を伝えた。須恵器(高温焼成の灰色硬質土器)の生産技術、絹織物の機織り技術、鍛冶・鋳造技術、文字(漢字)の使用、仏教建築技術などが移転された。
日本・大阪〜奈良
5世紀〜6世紀
秦氏による太秦開発
朝鮮半島から渡来した秦氏が山城国を中心に大規模な開発を行った。養蚕・機織り技術に優れ、「秦」の名は機織り(はた)に由来するとも。広隆寺を氏寺として建立し、弥勒菩薩半跏思惟像(国宝第一号)を安置。
日本・京都
5世紀〜7世紀
装飾古墳の文化
石室内壁に赤・青・白・黒・黄の顔料で幾何学文様や具象画(人物・馬・船・鳥など)を描いた古墳群。全国約660基の装飾古墳のうち約200基が熊本県に集中。チブサン古墳・鍋田横穴群などが代表的。死後の世界観
日本・熊本
421年〜478年
倭の五王の中国南朝への遣使
讃・珍・済・興・武の倭の五王が、中国南朝の宋に相次いで朝貢し、将軍号や都督の称号を求めた。特に倭王武(雄略天皇に比定)は478年の上表文で、先祖の東西征服の歴史を述べ、高句麗への対抗のため軍事的称号を
日本
471年(辛亥年)
稲荷山古墳鉄剣の銘文
1978年、稲荷山古墳から出土した鉄剣のX線調査で115文字の金象嵌銘文が発見された。「辛亥年」(471年)の紀年銘と「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王=雄略天皇)への奉仕を記す。東国豪族がヤマト大王
日本・埼玉
5世紀後半
江田船山古墳鉄刀銘
江田船山古墳から出土した大刀に75文字の銀象嵌銘文が刻まれている。「獲□□□鹵大王」の文字があり、稲荷山古墳鉄剣と同じ雄略天皇に関わる銘文と推定される。九州の豪族もヤマト大王に仕えていたことを示す。
日本・熊本
507年
継体天皇の即位
武烈天皇が後嗣なく崩御し、応神天皇5世孫とされる越前の男大迹王(継体天皇)が大伴金村らに擁立された。即位後も大和入りは526年まで実現せず、異例の長期間畿内周辺に宮を置いた。王朝交替説の根拠ともされる
日本・大阪
527年〜528年
磐井の乱
筑紫国造磐井がヤマト王権の朝鮮半島出兵に反対して挙兵。新羅と通じ、ヤマト王権軍の渡海を妨害した。528年、物部麁鹿火が率いるヤマト王権軍により鎮圧。磐井は斬殺された。岩戸山古墳が磐井の墓とされる。
日本・福岡
538年(552年説あり)
仏教公伝
百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経典を献上し、日本に正式に仏教が伝来した。上宮聖徳法王帝説は538年、日本書紀は552年と記す。蘇我稲目が崇仏を主張し物部尾輿が排仏を唱え、崇仏・排仏論争が始まった。
日本・奈良(飛鳥)
587年
蘇我馬子と物部守屋の戦い(丁未の乱)
崇仏派の蘇我馬子が排仏派の物部守屋を滅ぼした戦い。厩戸皇子(聖徳太子)も蘇我方に参戦し、四天王に戦勝祈願したとされる。物部守屋は戦死し、物部氏の軍事的権力は崩壊。蘇我氏が朝廷の実権を掌握した。
日本・大阪
588年〜596年
飛鳥寺(法興寺)の建立
蘇我馬子が発願し建立した日本最古の本格的仏教寺院。百済から派遣された寺工・瓦博士などの技術者が建設に従事。止利仏師作の飛鳥大仏(釈迦如来像)が安置された。塔を中心に三金堂が配置される飛鳥寺式伽藍配置。
日本・奈良
593年〜622年
聖徳太子の政治改革
推古天皇の摂政として厩戸皇子(聖徳太子)が一連の政治改革を推進。603年に冠位十二階を制定し氏族の世襲ではなく個人の能力による人材登用を図った。604年に十七条憲法を制定し官僚の心構えを示した。607
日本・奈良
593年
四天王寺の建立
聖徳太子が丁未の乱の際の四天王への戦勝祈願の誓いを果たして建立した寺院。中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置は日本最古の伽藍配置の一つ。敬田院・施薬院・療病院・悲田院の四箇院を設置。
日本・大阪
607年頃
法隆寺の建立
聖徳太子が斑鳩宮に隣接して建立した寺院。670年に焼失後再建された西院伽藍は世界最古の木造建築群として知られる。五重塔・金堂・中門・回廊からなる非対称の伽藍配置は法隆寺式と呼ばれる。
日本・奈良
607年
遣隋使の派遣(小野妹子)
推古天皇15年、小野妹子が遣隋使として隋に派遣された。国書に「日出処天子致書日没処天子」と記し、隋の煬帝を怒らせたと『隋書』に記録される。翌年、隋の裴世清が答礼使として来日。対等外交を志向した画期的な
日本・奈良〜中国
625年頃〜645年
蘇我蝦夷・入鹿の専横
蘇我馬子の孫・蝦夷とその子・入鹿が朝廷で絶大な権力を振るった。入鹿は643年に聖徳太子の子・山背大兄王一族を攻め滅ぼし、皇位継承にも介入。天皇家を凌ぐ専横は諸豪族の反発を招いた。
日本・奈良(飛鳥)
7世紀前半
石舞台古墳の築造
蘇我馬子の墓と伝えられる方墳。一辺約50メートル、石室は全長約19メートル。天井石は約77トンの巨岩で、封土が失われた後の露出した姿が「石舞台」の名の由来。飛鳥時代最大級の石室を持つ。
日本・奈良
643年
山背大兄王の滅亡
聖徳太子の子・山背大兄王が蘇我入鹿の軍勢に攻められ、斑鳩寺(法隆寺)で一族もろとも自害。上宮王家は断絶した。入鹿は皇位継承への影響力を強めるため、有力な皇位候補者を排除した。
日本・奈良
645年
乙巳の変
中大兄皇子と中臣鎌足が飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺した政変。三韓の使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子自ら入鹿を斬殺。翌日、父の蘇我蝦夷も邸宅に火を放ち自害。半世紀にわたる蘇我氏の専権体制が崩壊した。
日本・奈良(飛鳥)
645年〜
大化の改新
乙巳の変後、孝徳天皇のもとで実施された一連の政治改革。646年の改新の詔により、公地公民制、班田収授法、租庸調制、国郡里制の導入が宣言された。中国の律令制度を範に中央集権的国家体制の構築を目指した。
日本・奈良(難波)
645年〜
難波宮の造営
大化の改新後、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営(前期難波宮)。その後、聖武天皇が726年に後期難波宮を造営。前期は飛鳥時代の大規模な掘立柱建物群、後期は礎石建物の朝堂院形式。副都として平城京と並ぶ政治的
日本・大阪
7世紀後半〜8世紀
古代駅制・官道の整備
律令国家は都と地方を結ぶ幹線道路(官道)を整備し、約30里(約16キロ)ごとに駅家を設置。駅馬が配備され、公文書の迅速な伝達を可能にした。道幅は大路で約12メートル、中路で約9メートルと広大。現代の直
日本・全国
7世紀後半
大宰府の設置
九州全体と壱岐・対馬の統治、および外交・防衛を担う律令国家の出先機関。大宰帥を長とし、数百人の官人が勤務。外国使節の接待を行う鴻臚館を管轄し、遣唐使・遣新羅使の発着地としても機能。「遠の朝廷(とおのみ
日本・福岡
664年〜665年
水城・大野城の築造
白村江の敗戦後、唐・新羅の侵攻に備えて大宰府防衛のために築造。水城は全長1.2キロ、高さ約14メートルの大堤防で外濠を伴う。大野城は周囲約8キロの朝鮮式山城。百済からの亡命貴族の技術指導のもと建設され
日本・福岡
664年〜
防人制度の整備
白村江敗戦後に整備された辺境防衛制度。主に東国の農民が徴発され、北九州・対馬・壱岐の防衛に当たった。防人の歌は万葉集に多数収録され、故郷を離れる悲しみが詠まれている。奈良時代を通じて維持されたが、79
日本・九州
667年
金田城の築造
白村江敗戦後、対馬に築造された朝鮮式山城。周囲約2.8キロの石塁が山を囲み、城門・水門が設けられた。唐・新羅の侵攻に備える日本列島防衛の最前線として機能。防人が配置された。
日本・長崎(対馬)
667年
天智天皇の近江大津宮遷都
中大兄皇子(天智天皇)が飛鳥から近江大津宮に遷都。白村江敗戦後の防衛体制再編と、内政改革を推進するための新拠点として選定。庚午年籍(670年、日本最初の全国的戸籍)の作成など律令国家建設を加速させた。
日本・滋賀
672年
壬申の乱
天智天皇の崩御後、弟の大海人皇子が天智の子・大友皇子(弘文天皇)と皇位をめぐり戦った古代最大の内乱。大海人皇子は吉野から東国へ脱出して挙兵し、美濃・伊勢の豪族を糾合。瀬田橋の決戦で近江朝廷軍を破り、大
日本・近畿〜東海
680年発願〜698年完成
薬師寺の建立
天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願。金堂の薬師三尊像(国宝)は白鳳美術の最高傑作。東塔(国宝)は創建時の唯一の建造物で「凍れる音楽」と称される均整美を持つ。
日本・奈良
689年
飛鳥浄御原令の施行
天武天皇が編纂を命じ、持統天皇の時代に施行された律令法典。令22巻からなるが、律は未完成であったとされる。戸籍制度(庚寅年籍)の整備と班田収授の実施を可能にし、大宝律令の前身として律令国家の基盤を形成
日本・奈良
694年
藤原京の建設
持統天皇が建設した日本初の本格的都城。中国の長安を模した条坊制を採用し、東西約5.3キロ、南北約4.8キロの壮大な規模。藤原宮を中心に碁盤目状に区画された都市が計画的に建設された。約16年間、都として
日本・奈良
7世紀末〜8世紀初
高松塚古墳の壁画
1972年に発見された極彩色の壁画は日本考古学史上最大級の発見。石室内に四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)、日月、男女群像が描かれていた。高句麗や唐の壁画墓との類似が指摘され、国際的な文化交流を反映する。
日本・奈良
7世紀末〜8世紀初
キトラ古墳の壁画
石室内に四神図・天文図・十二支像が描かれた壁画古墳。天井の天文図は現存する世界最古の本格的星図とされ、中国式の星座配置で約350個の星が金箔で表現されている。2000年の特別公開で全貌が明らかになった
日本・奈良
701年
大宝律令の制定
文武天皇の下、刑部親王・藤原不比等らが中心となって編纂した日本初の本格的律令法典。律(刑法)6巻・令(行政法)11巻からなる。唐の律令を基に日本の実情に適合させた独自の法体系を構築。702年から施行。
日本・奈良
708年
和同開珎の鋳造
武蔵国秩父での和銅発見を機に、元号を「和銅」に改め、日本初の本格的流通貨幣・和同開珎が鋳造された。唐の開元通宝を模した円形方孔の銅銭。蓄銭叙位令(711年)により貨幣蓄積を奨励したが、地方への浸透は限
日本・奈良
710年
平城京遷都
元明天皇が藤原京から平城京へ遷都。和銅3年3月10日に遷都が行われた。朱雀大路を中心軸に左京・右京が配置され、平城宮(大内裏)を北端に置く。人口は最盛期に10万人以上と推定される。
日本・奈良
710年
興福寺の建立
藤原不比等が藤原鎌足創建の山階寺を平城京に移転して建立した藤原氏の氏寺。法相宗の大本山。阿修羅像(国宝)をはじめとする天平彫刻の傑作を多数所蔵。五重塔(国宝)は高さ約50メートルで日本第2位。
日本・奈良
710年〜784年
平城京の市と商業活動
平城京には東市・西市の二つの公設市場が設けられ、市司が物価統制と取引監視を行った。和同開珎(708年鋳造)をはじめとする貨幣が流通し、絹・布・米・塩・鉄器・陶器など多様な商品が取引された。人口10万人
日本・奈良
712年
古事記の編纂
太安万侶が稗田阿礼の口誦を筆録して完成した日本最古の歴史書。上・中・下の3巻からなり、天地開闢の神話から推古天皇までを記述。和銅5年正月に元明天皇に献上された。日本語の音を漢字で表記する万葉仮名を多用
日本・奈良
713年命令〜順次編纂
播磨国風土記の編纂
和銅6年、元明天皇が諸国に風土記の編纂を命じた。各国の地名の由来、産物、土地の状態、古老の伝承を記録。出雲国風土記は唯一のほぼ完本で、古代出雲の地理・文化・神話を詳細に伝える。
日本・全国
717年〜749年
行基の社会事業
僧・行基は私度僧として畿内を中心に民衆教化と社会事業を展開。道路・橋・池(灌漑用溜池)・布施屋を建設し、「行基菩薩」と慕われた。朝廷は当初弾圧したが、後に大仏造立の勧進役に起用。745年に日本初の大僧
日本・近畿
720年
日本書紀の編纂
舎人親王らが編纂した日本初の勅撰正史。全30巻と系図1巻からなり、神代から持統天皇まで編年体で記述。中国の正史の形式に倣い漢文で書かれた。養老4年に元正天皇に奏上。六国史の第一として後世の歴史編纂の範
日本・奈良
723年
三世一身法の制定
新たに灌漑施設を造って開墾した者は3代、既存の施設を利用して開墾した者は本人1代に限り土地の私有を認める法令。班田収授法の行き詰まりを打開するため、開墾奨励策として制定された。
日本・奈良
724年
多賀城の設置
大野東人が陸奥国に設置した律令国家の東北経営の拠点。陸奥国府と鎮守府を兼ね、政治・軍事・外交の中心として機能。約900メートル四方の広大な城柵で、多賀城碑(重要文化財)により建設経緯が判明する。
日本・宮城
729年
長屋王の変
天武天皇の孫である左大臣長屋王が、藤原四兄弟の陰謀により謀反の疑いをかけられ自殺に追い込まれた事件。密告により軍勢が邸宅を包囲し、長屋王は妻子とともに自害。皇親政治から藤原氏主導の政治への転換点。
日本・奈良
729年
光明皇后の立后
藤原不比等の娘・光明子が聖武天皇の皇后に立てられた。皇族以外からの皇后就任は史上初の画期的出来事。長屋王の変で反対勢力を排除した後に実現。光明皇后は社会事業(悲田院・施薬院)にも力を入れた。
日本・奈良
735年帰国
吉備真備の帰国と政治参加
吉備真備は遣唐留学生として唐で18年間学び、暦学・天文学・音楽・兵法など幅広い知識を持ち帰った。帰国後は橘諸兄政権で重用され、聖武天皇の信任を得た。右大臣にまで昇進し、学者出身としては異例の出世を遂げ
日本・奈良
735年〜737年
天平の疫病と社会変動
735年に新羅帰りの遣新羅使一行から北九州で天然痘が発生。大宰府から東進し、737年に畿内で猛威を振るった。朝廷高官の多くが死亡し、全国の人口の25〜35%が失われたと推定される。班田制の基盤が崩壊し
日本・全国
737年
藤原四兄弟の疫病死
天然痘の大流行により、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで病死。朝廷の高官の大半が罹患・死亡し、政治機能が麻痺。全国的に人口の25〜35%が死亡したと推定される。律令制の基盤である班田制に
日本・奈良
740年
藤原広嗣の乱
藤原宇合の子・広嗣が大宰府で挙兵。玄昉・吉備真備の排除と政治改革を要求したが、朝廷軍に鎮圧され処刑された。聖武天皇はこの乱を契機に平城京を離れ、恭仁京・紫香楽宮・難波京と転々とした(彷徨五年)。
日本・福岡〜奈良
740年〜745年
聖武天皇の彷徨(恭仁京・紫香楽宮)
藤原広嗣の乱をきっかけに聖武天皇が平城京を離れ、恭仁京(740年)→紫香楽宮(742年)→難波宮(744年)→平城京(745年)と約5年間都を転々とした。大仏造立は当初紫香楽宮で進められたが、山火事や
日本・京都〜滋賀
741年
国分寺・国分尼寺の建立詔
聖武天皇が全国68カ国に国分寺(僧寺)と国分尼寺の建立を命じた。各国の国分寺には七重塔を建て、金光明最勝王経を安置。国分尼寺には法華経を安置。東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺と定めた。
日本・全国
743年発願〜752年開眼
東大寺大仏の造立
聖武天皇が発願した盧舎那仏(大仏)の造立。像高約15メートル、使用した銅は約500トン、金は約440キロ。752年に盛大な開眼供養が行われ、インド僧菩提僊那が開眼導師を務めた。延べ約260万人が造立に
日本・奈良
743年
墾田永年私財法の制定
新たに開墾した土地の永久私有を認める法令。723年の三世一身法(3代限りの私有)を発展させ、開墾意欲をさらに高めるために永久私有化を認めた。貴族・寺社による大規模開墾が活発化し、荘園制の発展を促した。
日本・奈良
753年
鑑真の来日
唐の高僧鑑真が12年の歳月と5度の失敗を経て来日に成功。渡航中に失明したが、754年に東大寺大仏殿前で聖武上皇らに授戒。日本に正式な戒律制度を伝え、唐招提寺を創建した。
日本・奈良
756年
正倉院宝物の収蔵
聖武天皇の崩御後、光明皇后が天皇遺愛の品約600点を東大寺大仏に献納。ペルシア・唐・新羅・東南アジアなどの工芸品を含み、8世紀の国際文化交流を物語る。螺鈿紫檀五絃琵琶、漆胡瓶、鳥毛立女屏風などが代表的
日本・奈良
759年頃
万葉集の成立
日本最古の歌集。全20巻、約4500首を収録。天皇・貴族から防人・農民まで幅広い階層の和歌を収める。額田王・柿本人麻呂・山上憶良・大伴家持らが代表的歌人。万葉仮名で表記され、日本語の文学表現の原点。
日本・奈良
759年
唐招提寺の創建
鑑真が開いた律宗の総本山。金堂(国宝)は奈良時代建築の最高傑作の一つで、8本のエンタシス列柱が特徴。鑑真和上坐像(国宝)は天平彫刻の名品で、没後に弟子が制作した日本最古の肖像彫刻。
日本・奈良
768年
春日大社の創建
藤原氏の氏神を祀る神社。武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四柱を祭神とする。鹿島・香取・枚岡から神々を勧請。20年ごとの式年造替が行われ、朱塗りの社殿と約3000基の燈籠が特徴的。
日本・奈良
769年
道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)
称徳天皇に寵愛された僧道鏡が、宇佐八幡宮の神託を利用して皇位を窺った事件。「道鏡を天皇にすべし」という神託を大宰府の主神が報告したが、和気清麻呂が宇佐に赴き「無道の人を除くべし」との真の神託を持ち帰り
日本・奈良
780年
伊治呰麻呂の乱
蝦夷出身の伊治郡大領・呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀広純を殺害。多賀城を焼き討ちした。律令国家の東北支配に対する蝦夷の大規模な抵抗であり、朝廷は征夷体制の再構築を迫られた。
日本・宮城
788年
最澄による比叡山延暦寺の開創
最澄(伝教大師)が比叡山に一乗止観院(後の延暦寺)を開創。804年に入唐し天台宗を日本に伝えた。延暦寺は平安仏教の総合大学として機能し、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮など後の鎌倉新仏教の祖師たちを輩出し
日本・滋賀
794年
平安京遷都
桓武天皇が長岡京に代わり山背国に新都を建設。唐の長安を模した東西約4.5キロ、南北約5.2キロの条坊制都市。大内裏を北端に配し、朱雀大路が南北を貫く。以後約1000年にわたり日本の首都として機能した。
日本・京都
794年〜811年
坂上田村麻呂の蝦夷征討
桓武天皇の命を受けた征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北の蝦夷を征討。797年に征夷大将軍に任命され、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。胆沢城(802年)・志波城(803年)を築き、律令国家の支配域を北上川
日本・東北
810年
薬子の変
平城上皇と嵯峨天皇の対立が武力衝突寸前に至った事件。平城上皇は藤原薬子・仲成兄妹の後押しで平城京への遷都を企図したが、嵯峨天皇側が先手を打って軍を差し向け、上皇は剃髪して出家。薬子は服毒自殺、仲成は射
日本・京都
9世紀
三筆と弘仁・貞観文化
平安初期の弘仁・貞観文化は唐文化の消化と日本化が進んだ時代。三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)が書道の最高峰を示し、漢詩文が隆盛した。『文華秀麗集』『経国集』が編まれ、空海の『三教指帰』など思想的著作も生
日本・京都
816年
空海による高野山開創
空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の下賜を受け、真言密教の根本道場として開創。金剛峯寺を中心に伽藍が建設された。空海は835年に高野山奥之院で入定(即身成仏)したとされ、今も生きて修行を続けていると
日本・和歌山
842年
承和の変
842年、嵯峨上皇の崩御直後に恒貞親王の廃太子と伴健岑・橘逸勢の配流が行われた。仁明天皇と藤原良房が共謀し、皇太子を道康親王(のちの文徳天皇)に交代させた。橘逸勢は流罪地への途上で病死した。藤原北家が
日本・京都
866年
応天門の変
大内裏の応天門が放火され、犯人として大納言・伴善男が逮捕・配流された事件。当初は源信(左大臣)が疑われたが、藤原良房の介入で伴善男に罪が着せられた。良房は事件を利用して人臣初の摂政に就任。
日本・京都
869年
祇園御霊会の成立
貞観11年の疫病大流行に際し、怨霊を鎮めるため神泉苑に66本の鉾を立てて御霊会を行った。これが祇園祭の起源。当初は疫病退散の臨時行事であったが、次第に恒例化し、室町時代以降は町衆主導の壮大な祭礼に発展
日本・京都
894年
菅原道真の遣唐使廃止建議
遣唐大使に任命された菅原道真が、唐の国内混乱と航海の危険を理由に遣唐使の派遣中止を建議し、宇多天皇が受け入れた。630年以来約260年間続いた遣唐使が正式に廃止された。
日本・京都
10世紀〜11世紀
かな文字の発展と国風文化の開花
万葉仮名から平仮名・片仮名が成立し、日本語を自在に表現できる文字体系が完成。これにより和歌・物語・日記・随筆など多様な文学ジャンルが開花。大和絵、寝殿造、十二単など日本独自の美意識が確立された。
日本・京都
901年〜903年
菅原道真の大宰府左遷と太宰府天満宮
右大臣・菅原道真が藤原時平の讒言により大宰員外帥に左遷された(昌泰の変)。903年に大宰府で失意のうちに没した。死後、都で天変地異が相次いだため怨霊として恐れられ、天満大自在天神として祀られた。学問の
日本・福岡
905年
古今和歌集の編纂
日本初の勅撰和歌集。紀貫之・紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒が撰者。約1100首を収録し、四季・恋・雑などに分類。紀貫之の仮名序は日本初の文学論として名高い。和歌の規範として後世の勅撰集の模範となった。
日本・京都
935年〜940年
平将門の乱
桓武平氏の後裔・平将門が関東で挙兵し、常陸・下野・上野の国府を次々と攻略。自ら「新皇」を称し、関東に独立王国を築こうとした。しかし940年、藤原秀郷・平貞盛の追討軍に敗れ戦死。僅か2ヶ月の「新皇」であ
日本・関東
935年頃
『土佐日記』の執筆
紀貫之が土佐守の任期を終えて帰京する55日間の旅を、女性の筆に仮託してかな文字で綴った日記文学。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」の冒頭は日本文学史上最も有名な書き出しの一つ。海
日本・京都
936年〜941年
藤原純友の乱
伊予国の国司であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱。大宰府を襲撃するなど西日本に大きな混乱をもたらした。将門の乱と同時期に発生したため「承平天慶の乱」と総称される。941年に鎮圧された。
日本・瀬戸内海
936年〜941年
承平天慶の乱(藤原純友の乱の拡大)
伊予掾であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、940年には大宰府を襲撃・焼討した。朝廷は小野好古・源経基らを追討使として派遣。941年に純友は博多湾で敗北し、伊予で捕らえられた。平将門の
日本・瀬戸内海〜九州
10世紀半ば
空也の念仏布教と市聖の活動
空也(903-972)は市中で踊り念仏を広め「市聖」と呼ばれた。阿弥陀仏の名号を唱えれば極楽往生できるという教えを、貴族だけでなく庶民にも広めた先駆者。951年に京都に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立
日本・京都
10世紀後半
安倍晴明と陰陽道の隆盛
陰陽師・安倍晴明は天文・暦学・占術に秀で、一条天皇の信任を受けて朝廷の祭祀・儀礼に深く関与した。鬼や怨霊を祓う超自然的能力を持つとされ、後世に多くの伝説が生まれた。陰陽道は平安貴族の日常生活を細部まで
日本・京都
969年
安和の変
969年、左大臣源高明が謀反の嫌疑で大宰府に左遷された。密告に基づく冤罪とされ、藤原氏が最後の有力な政敵を排除した事件。これにより藤原北家の政治的独占が確立し、以後約100年にわたる摂関政治全盛期が始
日本・京都
10世紀後半〜11世紀
三蹟と和様書道の確立
小野道風・藤原佐理・藤原行成の三人は「三蹟」と称され、中国書法から独立した和様書道を確立した。小野道風は柔らかな曲線と優美さで唐様から脱却し、藤原佐理は奔放な草書で知られ、藤原行成は端正で格調高い書風
日本・京都
974年頃
蜻蛉日記の執筆
藤原道綱母が藤原兼家との結婚生活21年間(954-974年頃)を回想して綴った日記文学。夫の浮気への嫉妬、待つ女の苦悩、息子道綱への愛情が赤裸々に描かれる。「かくありし時過ぎて世の中にいとものはかなく
日本・京都
985年
浄土教の流行と源信『往生要集』
天台宗の僧・源信(恵心僧都)が著した浄土教の体系書。地獄の凄惨な描写と極楽浄土の荘厳な情景を対比し、念仏による往生を説いた。末法思想と結びつき、貴族から庶民まで広く浄土信仰が浸透する契機となった。
日本・京都
1000年頃
清少納言『枕草子』の執筆
清少納言が中宮定子に仕えた体験を基に執筆した日本最古の随筆。「春はあけぼの」に始まる鋭い感性と知性に満ちた筆致で、自然・宮廷生活・人間観察を綴る。約300段からなり、「をかし」の美意識を代表する作品。
日本・京都
1008年頃
紫式部『源氏物語』の執筆
紫式部が藤原彰子の女房として宮仕えしながら執筆した長編小説。全54帖で光源氏の一生と子孫の物語を描く。人間の心理を精緻に描写し、世界最古の長編小説とも称される。平安貴族社会の文化・美意識・恋愛を余すと
日本・京都
1018年
藤原道長の権力絶頂「望月の歌」
藤原道長が三女・威子の立后の日に「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ。3人の娘を天皇の后にし、外祖父として絶大な権力を握った摂関政治の絶頂を象徴する一首。
日本・京都
1051年〜1062年
前九年合戦
陸奥の俘囚長・安倍氏が朝廷に反抗し、源頼義・義家父子が12年かけて鎮圧。清原氏の援軍を得てようやく安倍氏を滅ぼした。源氏が東国武士団の棟梁としての地位を確立する契機となった。
日本・岩手
1053年
平等院鳳凰堂の建立
藤原頼通が父道長の別荘を寺院に改め、阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立。末法思想の広まりの中、極楽浄土を現世に再現しようとした。堂内の阿弥陀如来坐像は定朝作で、寄木造の代表作。10円硬貨のデザインとしても知られ
日本・京都(宇治)
1069年
延久の荘園整理令
後三条天皇が藤原摂関家に依存しない親政を行い、記録荘園券契所を設置して荘園の審査を実施。正規の手続きを経ていない荘園を停止し、太政官符・民部省符のない荘園は認めないとした。藤原摂関家の荘園も例外としな
日本・京都
1083年〜1087年
後三年合戦
清原氏の内紛に源義家が介入した戦い。清原家衡・武衡と清原清衡(後の藤原清衡)の対立を義家が調停・武力介入。金沢柵を攻略して家衡を滅ぼした。清衡は奥州藤原氏の祖として平泉文化を築く。
日本・秋田
1086年〜1129年
白河上皇の院政開始
白河天皇が堀河天皇に譲位した後も「治天の君」として約43年間政治を主導。摂関家を抑え、天皇家の家長としての権威で院政を行った。「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にかなわぬもの」の名言で知られ
日本・京都
1087年〜
奥州藤原氏の成立
後三年合戦(1083-87)の後、藤原清衡が奥州の実質的支配者となり、平泉を拠点に独自の政権を築いた。清衡は中尊寺を建立し、基衡は毛越寺を造営。秀衡の代には平泉は京都に次ぐ日本第二の都市となり、約10
日本・平泉
1124年
中尊寺金色堂の建立と平泉文化
奥州藤原初代・清衡が建立した中尊寺金色堂。堂内外を金箔で覆い、螺鈿・蒔絵・象牙で装飾した極楽浄土の現世的表現。藤原三代(清衡・基衡・秀衡)のミイラが安置される。堂は覆堂に守られ現存する。国宝。
日本・岩手
12世紀
鳥獣戯画の制作
『鳥獣人物戯画』は甲乙丙丁4巻からなる白描の絵巻物で、京都・高山寺に伝わる。特に甲巻は兎・蛙・猿が人間のように振る舞う姿を墨線のみで生き生きと描き、「日本最古の漫画」とも呼ばれる。作者は伝統的に鳥羽僧
日本・京都
12世紀前半
源氏物語絵巻の制作
『源氏物語絵巻』は紫式部の源氏物語を絵画化した現存最古の物語絵巻。吹抜屋台(屋根を省略して室内を俯瞰する)の技法と、引目鉤鼻(線で目と鼻を表す)の人物表現が特徴。現存する19場面は徳川美術館と五島美術
日本・京都
1156年
保元の乱
後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いに、藤原摂関家と源氏・平氏の内紛が絡んだ戦乱。後白河方の平清盛・源義朝が崇徳方を破った。京都で約350年ぶりの武力衝突となり、武士が政治の決定者となる転換点。
日本・京都
1158年〜1192年
後白河法皇の院政と『梁塵秘抄』
後白河天皇は保元の乱後に即位し、退位後は34年にわたり院政を敷いた。平清盛・源頼朝ら武家の台頭する時代に巧みな政治力を発揮し、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評された。文化面では今様(当時の流行歌)を
日本・京都
1159年〜1160年
平治の乱
源義朝と藤原信頼が後白河上皇の院御所・三条殿を襲撃し、信西(藤原通憲)を殺害。しかし熊野参詣中から帰京した平清盛が反撃し、義朝軍を撃破。義朝は敗走中に殺害され、幼い頼朝は伊豆に配流された。
日本・京都
1162年頃〜
日宋貿易の振興と大輪田泊の整備
平清盛が国家事業として推進した宋との貿易。大輪田泊を大改修し、宋の商船を直接受け入れる体制を整えた。宋銭の大量輸入は日本の貨幣経済を活性化させ、絹・香料・陶磁器・書籍などの輸入は文化にも大きな影響を与
日本・兵庫
1167年〜1181年
平清盛の太政大臣就任と平氏政権
平清盛が武士として初めて太政大臣に就任。一族を朝廷の要職に配し、娘の徳子を高倉天皇に入内させ、外戚としても権力を掌握。「平氏にあらずんば人にあらず」と称される専横体制を築いた。日宋貿易を推進し経済力も
日本・兵庫(福原)
1168年
厳島神社の造営
平清盛が平氏の守護神として厳島神社を大規模に造営。海上に浮かぶ寝殿造の社殿群と高さ約16メートルの大鳥居は、清盛の権力と美意識の結晶。平家納経(国宝)をはじめとする美術工芸品も奉納された。
日本・広島
1175年
鎌倉新仏教の展開:法然と浄土宗
法然(法然房源空)が専修念仏を唱え浄土宗を開創。「南無阿弥陀仏」と称名念仏を唱えるだけで誰もが極楽往生できると説き、従来の修行主義を否定した。貴族から庶民まで広く支持を集めたが、旧仏教側から弾圧も受け
日本・京都
1177年
鹿ヶ谷の陰謀
1177年、後白河法皇の近臣である俊寛・藤原成親・西光らが、京都東山の鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平氏打倒を密議した。しかし多田行綱の密告で計画が露見し、平清盛は関係者を厳しく処罰。西光は処刑、成親は配流先で
日本・京都
12世紀後半
平安京の疫病と方丈記の災害記録
鴨長明の『方丈記』(1212年成立)は、1177年の安元の大火、1180年の治承の辻風(竜巻)、同年の福原遷都、1181年の養和の飢饉、1185年の元暦の大地震という五大災厄を記録。「ゆく河の流れは絶
日本・京都
1180年
源頼朝の挙兵と治承・寿永の乱の開始
以仁王の令旨を受けた源頼朝が伊豆で挙兵。石橋山の戦いで大敗するも、安房に渡り関東武士団を糾合して鎌倉に入った。富士川の戦いで平氏軍を撃退し、東国の支配を確立。以後5年にわたる源平合戦が展開される。
日本・伊豆〜関東
1180年10月20日
富士川の戦い
1180年、源頼朝の挙兵を受けて東下した平維盛率いる追討軍と源氏軍が富士川で対峙。夜間に水鳥の大群が一斉に飛び立った羽音を源氏の夜襲と誤認した平氏軍は、戦わずして潰走した。この敗北で平氏は東国の制圧を
日本・駿河
1183年5月11日
倶利伽羅峠の戦い
1183年、木曾義仲が平維盛率いる平氏追討軍約10万を倶利伽羅峠で大破。夜襲と地形を利用した戦術で、平氏軍は谷底に追い落とされて壊滅的敗北を喫した。火牛の計の伝承は後世の脚色とされるが、地形を利用した
日本・加賀・越中国境
1184年2月7日
一ノ谷の戦い
1184年、源義経と源範頼が平氏の拠点・一ノ谷を攻撃。義経は主力が正面から攻撃する間に精鋭70騎で鵯越の急坂を駆け下り、平氏の陣を背後から急襲した。平氏は海上に逃れたが、平敦盛と熊谷直実の一騎討ちなど
日本・摂津
1185年
壇ノ浦の戦い
源義経率いる源氏軍が平氏の水軍を壇ノ浦で壊滅させた源平合戦の最終決戦。安徳天皇と二位尼が三種の神器の一つ・草薙剣とともに入水。平氏一門は海中に没した。義経の八艘飛びなど数々の伝説が生まれた。
日本・山口
1185年2月19日
屋島の戦い
1185年、源義経が屋島の平氏本営を急襲。わずか150騎で阿波国から渡海し、陸路から屋島背後を突くという大胆な作戦で平氏を敗走させた。那須与一の扇の的のエピソードで知られる。平氏は屋島を放棄して長門国
日本・讃岐
1185年(1192年征夷大将軍任命)
鎌倉幕府の成立
源頼朝が守護・地頭の設置権を獲得し、鎌倉を本拠として武家政権を樹立。1192年に征夷大将軍に任命された。侍所・政所・問注所を設置し、御恩と奉公に基づく封建的主従関係を基盤とする統治体制を確立した。
日本・鎌倉
1189年
奥州征伐と奥州藤原氏の滅亡
源頼朝が28万の大軍を率いて奥州藤原氏を攻撃。藤原泰衡は源義経を殺害して頼朝に服従しようとしたが認められず、敗走中に家臣に殺された。約100年にわたる奥州藤原氏の繁栄は終焉し、東北は幕府の支配下に入っ
日本・岩手
1203年〜
北条氏の執権政治の確立
1203年、北条時政が源頼家を廃して実朝を将軍に擁立し、初代執権に就任。以後、義時・泰時と続く北条氏が執権として幕府の実権を掌握した。源氏将軍は3代で途絶え、以後は摂家将軍・皇族将軍が名目上の将軍とな
日本・鎌倉
1203年
運慶・快慶と鎌倉彫刻
運慶・快慶ら慶派の仏師たちが鎌倉彫刻に革命をもたらした。東大寺南大門の金剛力士像(1203年)は4人の仏師がわずか69日で完成させた8m超の巨作。写実的で力強い表現は武家社会の気風を反映。運慶の無著・
日本・奈良
1205年
新古今和歌集の編纂
後鳥羽上皇の命により藤原定家らが編纂した勅撰和歌集の最高峰。約2,000首を収め、幽玄・有心の美学を追求。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」は「三夕の歌」として有名。西行・慈円
日本・京都
1221年
承久の乱
後鳥羽上皇が幕府打倒を企て挙兵したが、北条義時率いる幕府軍19万に圧倒され敗北。後鳥羽上皇は隠岐に配流、順徳上皇は佐渡に配流された。朝廷の監視のため六波羅探題が京都に設置された。
日本・京都〜鎌倉
1224年頃
親鸞の浄土真宗開宗
法然の弟子・親鸞(1173-1263)は師の専修念仏をさらに深化させ、阿弥陀仏の本願力による救済(他力本願)を説いた。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悪人正機説)は浄土真宗の核心。僧侶の
日本・関東〜京都
1227年〜
道元と曹洞宗の開宗
道元(1200-1253)は入宋して天童山の如浄に学び、帰国後に曹洞宗を開いた。1244年に越前に永平寺を開山し、只管打坐を根本とする修行道場とした。主著『正法眼蔵』は95巻に及ぶ哲学的著作で、日本思
日本・越前
1232年
御成敗式目(貞永式目)の制定
執権・北条泰時が制定した武家法の基本法典。全51条からなり、守護・地頭の権限、所領の相続・売買、裁判手続きなどを規定。武士の道理と慣習を成文化した日本初の武家法で、その後の武家法の規範となった。
日本・鎌倉
13世紀前半
平家物語の成立と琵琶法師
『平家物語』は平氏の栄華と滅亡を描いた軍記物語。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の冒頭は日本文学で最も有名な書き出しの一つ。盲目の琵琶法師が琵琶の伴奏で語る「平曲」として広く流布。信濃前司行長
日本・京都
1260年
日蓮の立正安国論
日蓮(1222-1282)は1260年に『立正安国論』を北条時頼に提出し、法華経以外の宗派を排斥しなければ国難が訪れると警告。他宗を激しく批判し、松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、龍ノ口の法難、佐渡流罪を経験
日本・鎌倉
1274年
元寇・文永の役
モンゴル帝国(元)のクビライ・ハンが高麗軍と合わせて約3万の軍勢で日本に侵攻。対馬・壱岐を蹂躙した後、博多湾に上陸。集団戦法・てつはう(炸裂弾)に日本側は苦戦したが、暴風雨(台風)により元軍は撤退した
日本・福岡
1274年〜
一遍と時宗の踊り念仏
一遍(1239-1289)は全国を遊行し踊り念仏で念仏信仰を広めた時宗の開祖。賦算によって念仏の功徳を説き「捨聖」と呼ばれた。すべてを捨てて遊行する生き方は所有を否定する究極の宗教的実践。踊り念仏は盆
日本・全国
1274年・1281年
元寇(文永・弘安の役)
クビライが2度にわたり日本に遠征軍を派遣。文永の役(1274年)は約3万人、弘安の役(1281年)は約14万人の兵力で博多湾に来襲。いずれも暴風雨により撤退を余儀なくされ、日本側は「神風」と称した。
日本・博多湾
1281年
元寇・弘安の役
元が東路軍(高麗から約4万)と江南軍(中国南部から約10万)の計約14万の大軍で再侵攻。博多湾の防塁に阻まれ上陸できず、鷹島沖で暴風雨(台風)に遭遇して壊滅的打撃を受けた。元の日本征服計画は完全に頓挫
日本・福岡
1285年
霜月騒動と得宗専制
1285年、北条得宗家の内管領・平頼綱が有力御家人・安達泰盛一族を滅ぼした。泰盛一族約500名が殺害され、粛清は全国に及んだ。以後得宗専制が確立し、御家人の不満がさらに蓄積した。
日本・鎌倉
1324年〜1333年
正中の変と元弘の乱
後醍醐天皇は幕府打倒を企図し、1324年の正中の変は失敗。1331年再挙兵も笠置山で敗れ隠岐に配流。しかし楠木正成が千早城で幕府軍を翻弄し、足利尊氏が六波羅探題を攻略、新田義貞が鎌倉を陥落させ、133
日本・京都
1333年
鎌倉幕府滅亡
後醍醐天皇の倒幕運動を機に各地で反幕府勢力が挙兵。足利高氏(尊氏)が六波羅探題を攻略し、新田義貞が鎌倉を攻撃。北条高時以下の北条一族約870人が東勝寺で自害し、約150年間続いた鎌倉幕府は滅亡した。
日本・鎌倉
1333年〜1336年
建武の新政
後醍醐天皇が鎌倉幕府滅亡後に開始した天皇親政。記録所・雑訴決断所などを設置し、天皇中心の政治を目指したが、武士への恩賞配分の不公平、公家偏重の政策が武士の不満を招き、わずか3年で崩壊した。
日本・京都
1336年〜1392年
南北朝の分裂
足利尊氏が光明天皇を擁立して京都に北朝を樹立し、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開いた。約56年間にわたり二つの朝廷が並立し、全国の武士が南北に分かれて戦った。1392年、足利義満の仲介で南北朝合一が実
日本・京都/吉野
1349年〜1352年
観応の擾乱
1349年、室町幕府内で足利尊氏の執事・高師直と弟・足利直義の対立が武力衝突に発展。尊氏は師直派と直義派の間を揺れ動き、直義は一時南朝に降伏。1352年に直義が鎌倉で急死して決着を見たが、幕府の権威は
日本・全国
1397年
金閣寺(鹿苑寺)の建立と北山文化
足利義満が北山の別荘に建てた舎利殿。最上層を金箔で覆い、公家文化と武家文化と禅宗文化を融合させた北山文化の象徴。義満の絶大な権力と美意識を体現する。1950年に放火で焼失し、1955年に再建。
日本・京都
15世紀前半
世阿弥と能楽の大成
観阿弥・世阿弥父子が猿楽能を芸術的に洗練させた。世阿弥は『風姿花伝』をはじめとする能楽論を著し、「秘すれば花」「幽玄」の美学を確立。足利義満の庇護のもと、能は武家社会の公式芸能として定着した。
日本・京都
1401年
足利義満の日明貿易(勘合貿易)
1401年、足利義満は明に使者を送り「日本国王」に册封された。倭寇取り締まりと引き換えに朝貢形式の勘合貿易を開始。勘合符を用いた貿易は莫大な利益をもたらし、銅銭・生糸・陶磁器が輸入された。義満が册封を
日本・京都
1429年
琉球王国の成立と繁栄
尚巴志が三山(北山・中山・南山)を統一し、琉球王国を建国。首里城を王城として整備し、明の冊封体制に入りつつ、中継貿易で繁栄。中国・日本・朝鮮・東南アジアとの貿易で莫大な富を築いた。「万国津梁の鐘」が理
日本・沖縄
1441年6月24日
嘉吉の乱
1441年、播磨守護の赤松満祐が6代将軍足利義教を自邸の宴会で暗殺。義教は「万人恐怖」と称される恐怖政治を行っていた。赤松氏は討伐されたが、将軍権力は大きく弱体化した。
日本・京都
1457年
コシャマインの戦い
アイヌの首長コシャマインが和人の交易拠点・道南十二館を次々と攻撃した大規模な蜂起。和人との交易上の不公正への怒りが原因。12の館のうち10が陥落したが、武田信広が反撃してコシャマインを殺害し鎮圧。武田
日本・北海道
1467年〜1477年
応仁の乱
将軍足利義政の後継問題に有力守護大名の対立が絡み、約11年間にわたる大規模内乱に発展。東軍16万と西軍11万が京都を舞台に戦い、京都は壊滅的被害を受けた。戦後、幕府の権威は失墜し、戦国時代への扉が開か
日本・京都
15世紀後半
雪舟の水墨画
室町時代最大の画家・雪舟は禅僧として明に渡り、帰国後に日本独自の水墨画を確立。『秋冬山水図』『天橋立図』『四季山水図巻(山水長巻)』など国宝6点を残す。中国の模倣ではない日本の風土に根ざした水墨画の完
日本・山口
15世紀後半
村田珠光と侘び茶の成立
村田珠光(1423-1502)は華美な唐物茶会から離れ、簡素で精神性を重視する侘び茶を創始。一休宗純に参禅して禅の精神を茶に取り込み、四畳半の小間での茶会を確立。和物の茶碗を積極的に用い、「冷え枯れる
日本・京都〜奈良
1482年
銀閣寺と東山文化
足利義政が東山に建てた山荘(後の慈照寺)。応仁の乱で荒廃した京都を避け、文化・芸術に没頭した義政の美意識の結晶。書院造・枯山水庭園・能楽・茶の湯・水墨画・花道など後世の日本文化の基盤となる東山文化が開
日本・京都
1485年〜1493年
山城国一揆
1485年、山城国南部の国人と農民が畠山政長・義就両軍に国外退去を要求し自力で追い出した。「国中掟法」を定めて約8年間自治を行った。36人の月行事による合議制で運営され、惣の自治原理が国レベルで実現し
日本・山城国
1488年〜1580年
加賀一向一揆
浄土真宗(一向宗)の門徒が加賀の守護・富樫政親を攻め滅ぼし、以後約100年間にわたり門徒による自治が行われた。「百姓の持ちたる国」と称される農民自治の実験であった。1580年に織田信長軍により鎮圧。
日本・石川
1493年
北条早雲の伊豆制圧
1493年、伊勢新九郎(北条早雲)が堀越公方・足利茶々丸を攻撃して伊豆国を制圧。1495年には小田原城を奪取し、後北条氏5代の基盤を築いた。近年の研究では幕府奉公衆出身と判明している。
日本・伊豆
1543年
鉄砲伝来
ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、火縄銃2挺が島主・種子島時堯に伝わった。時堯は鍛冶職人に複製を命じ、瞬く間に国内生産が開始。堺・国友・根来などで量産体制が確立し、戦国時代の戦術を根本的に変
日本・鹿児島(種子島)
1549年
フランシスコ・ザビエルのキリスト教伝来
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた。島津貴久の許可を得て布教を開始し、その後山口・豊後・京都にも赴いた。約2年間の滞在で日本のキリスト教布教の基盤を築い
日本・鹿児島
16世紀後半
大友宗麟とキリシタン大名の時代
大友宗麟(1530-1587)は九州最大の勢力を持つ大名であり、キリスト教に帰依してキリシタン大名の代表格となった。フランシスコ・ザビエルとの出会いが転機で、洗礼名はドン・フランシスコ。府内にはコレジ
日本・豊後国
1553年〜1564年(5回)
川中島の戦い
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権をめぐって5回にわたり激突。特に第4次合戦(1561年)は最大規模で、信玄の啄木鳥戦法に対する謙信の車懸の陣など激しい戦闘が展開。信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助が討死した
日本・長野
1555年10月1日
厳島の戦い
1555年、毛利元就が陶晴賢の大軍を厳島に誘い込み奇襲で壊滅させた。元就は約4千の兵で2万の陶軍を撃破。嵐の中を小早川水軍・村上水軍が海を渡り、背後から急襲した。陶晴賢は自刃。この勝利で毛利氏は中国地
日本・安芸国
1560年
桶狭間の戦い
織田信長がわずか約3000の兵で今川義元の約25000の大軍を急襲し、義元を討ち取った戦国史上最大の奇襲戦。豪雨に乗じた急襲が成功し、東海の覇者・今川氏は衰退。信長の天下統一への第一歩となった。
日本・愛知
16世紀後半
千利休と茶道の大成
千利休が侘茶を大成し、茶道を日本文化の核心的芸術に昇華させた。二畳の極小茶室「待庵」(国宝)に象徴される究極の侘びの美学を追求。織田信長・豊臣秀吉に仕え、政治的にも大きな影響力を持ったが、1591年に
日本・京都/大阪
1570年6月28日
姉川の戦い
1570年、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉義景連合軍と姉川で激突。浅井長政の裏切り(金ヶ崎の退き口の因縁)に激怒した信長が反撃に出た。徳川軍の奮戦が勝敗を決し、織田・徳川連合軍が勝利。しかし
日本・近江国
1570年〜1580年
石山合戦(石山本願寺と織田信長の戦い)
1570年から10年間、本願寺顕如率いる一向宗門徒が織田信長と戦い続けた。全国の一向一揆と連携し、毛利水軍からの補給を受けて頑強に抵抗。木津川口の海戦では毛利水軍が織田水軍を破ったが、信長は鉄甲船を建
日本・摂津国
1571年9月30日
比叡山焼き討ち
1571年、織田信長が比叡山延暦寺を全山焼き討ちにした。僧侶・女性・子供を問わず殺戮が行われ、数千人が犠牲になったとされる。延暦寺が浅井・朝倉に味方したことが直接の原因。延暦寺の堂塔は灰燼に帰し、古代
日本・近江国
1575年
長篠の戦い
織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の騎馬軍団を設楽原で撃破。信長は約3000挺の鉄砲を三段に配置し、武田の騎馬突撃を壊滅させたとされる。武田軍は1万余の死者を出し、戦国最強と呼ばれた武田騎馬軍団は事実
日本・愛知
1576年〜1579年
安土城の築城
織田信長が琵琶湖畔の安土山に築いた革新的な城。地下1階・地上6階の天主(天守)は高さ約32メートルで、内部は狩野永徳の障壁画で飾られた。石垣の上に壮麗な天主を載せる近世城郭の原型であり、信長の権力と美
日本・滋賀
1576年〜1590年
狩野永徳の障壁画と安土桃山美術
狩野永徳(1543-1590)は安土桃山時代を代表する画家。安土城天主の障壁画、大坂城・聚楽第の装飾を手がけ、金碧障壁画の様式を確立した。「唐獅子図屏風」「洛中洛外図屏風」が代表作。力強い太い筆致と金
日本・京都〜安土
1582年
本能寺の変
織田信長の重臣・明智光秀が約13000の兵で京都本能寺を急襲し、信長を自害に追い込んだ。信長は「是非に及ばず」と言って炎の中に消えたとされる。天下統一目前での謀反は日本史上最大の事件の一つ。光秀の動機
日本・京都
1582年〜1590年
天正遣欧少年使節
九州のキリシタン大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)が、イエズス会の勧めで少年4人(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノ)をローマ教皇のもとに派遣。教皇グレゴリウス13世に謁見し、
日本・長崎〜ヨーロッパ
1582年6月13日
山崎の戦いと中国大返し
1582年、本能寺の変を知った羽柴秀吉が備中高松城から急行し、明智光秀を山崎で破った。秀吉は毛利氏と即座に和議を結び、史上最速の行軍「中国大返し」を敢行。天王山を確保した秀吉軍が優勢に立ち、光秀は敗走
日本・山城国
1582年〜1598年
太閤検地と刀狩令
豊臣秀吉が全国の農地を統一基準で測量した太閤検地(1582年開始)と、農民から武器を没収した刀狩令(1588年)は、兵農分離を推進する一対の政策。検地によって一地一作人の原則が確立され、中世的な重層的
日本・全国
1583年〜1590年
豊臣秀吉の天下統一と大坂城築城
秀吉は山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いで信長の後継者の地位を確立。大坂城を築いて本拠とし、四国征伐・九州征伐・小田原攻めを経て1590年に全国統一を達成。太閤検地・刀狩・身分統制令により近世社会の基盤を形成し
日本・大阪
1583年4月21日
賤ヶ岳の戦い
1583年、羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継をめぐって激突。長期対陣の後、秀吉は美濃方面から急行して勝家軍を撃破。「賤ヶ岳の七本槍」(加藤清正・福島正則ら)の活躍が知られる。敗北した柴田勝家は北ノ庄城で
日本・近江国
1589年
伊達政宗の奥州制覇と摺上原の戦い
1589年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名義広を破り、会津を制圧して奥州の覇者となった。「独眼竜」の異名を持つ政宗は18歳で家督を継ぎ、南奥州の諸勢力を次々と制圧。しかし豊臣秀吉の小田原征伐への参陣が遅
日本・陸奥国
1590年
小田原征伐と天下統一完成
1590年、豊臣秀吉が約20万の大軍で後北条氏の小田原城を包囲。秀吉は石垣山に一夜城を築く見せかけで敵の士気を挫き、約3ヶ月の包囲で北条氏政・氏直を降伏させた。これにより東国の平定が完了し、続く奥州仕
日本・相模国
1597年2月5日
日本二十六聖人殉教
1597年2月5日、京都・大坂で逮捕されたフランシスコ会の宣教師6名と日本人信徒20名が、長崎の西坂で十字架に架けられて処刑された。豊臣秀吉のバテレン追放令(1587年)後初の大規模な殉教事件。京都か
日本・長崎
1600年
関ヶ原の戦い
徳川家康率いる東軍約7万と石田三成率いる西軍約8万が激突した天下分け目の合戦。小早川秀秋の裏切りが勝敗を決し、わずか半日で東軍の大勝に終わった。家康は全国の支配権を掌握し、1603年に征夷大将軍に就任
日本・岐阜
1603年頃
出雲阿国と歌舞伎の始まり
1603年頃、出雲大社の巫女と称する出雲阿国が京都の四条河原で「かぶき踊り」を披露し、歌舞伎の起源となった。阿国は男装して茶屋遊びの場面を演じる「阿国歌舞伎」で大人気を博した。以後、遊女歌舞伎・若衆歌
日本・京都
1603年
江戸幕府の成立
徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。武家諸法度・参勤交代制度・鎖国政策により約260年間の平和を実現。幕藩体制のもと、約270の藩が全国を統治する分権的統一国家が成立した。
日本・江戸
1609年〜
薩摩藩の琉球支配と奄美の砂糖専売
1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻して服属させた。琉球は表面上独立王国を維持しつつ、実質的に薩摩の支配下に置かれた。薩摩は琉球を通じた中国との密貿易で莫大な利益を得た。奄美群島は薩摩の直轄地となり、砂
日本・琉球・奄美
1614年〜1615年
大坂の陣と豊臣家滅亡
徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を攻めた二度の合戦。冬の陣(1614年)では和議となったが外堀を埋め、夏の陣(1615年)で大坂城は落城し豊臣家は滅亡。真田幸村の奮戦が語り継がれる。以後、徳川の天下が確定。
日本・大阪
1615年
武家諸法度と参勤交代制度
1615年、徳川秀忠が武家諸法度を発布。大名の城郭修築制限、無届婚姻の禁止などを定めた。1635年の寛永令で参勤交代が制度化され、大名は隔年で江戸と領国を往復することが義務付けられた。大名の妻子は人質
日本・江戸
17世紀
大坂・堺の町人自治と商業発展
江戸時代の大坂は「天下の台所」として全国の物流を支配した。堂島米会所では先物取引が行われ、米価が全国の経済を左右した。諸藩の蔵屋敷が中之島に並び、蔵元・掛屋が金融を担った。淀屋・鴻池など豪商が経済の実
日本・大坂
1623年〜1651年
徳川家光の政治と鎖国の完成
3代将軍徳川家光は「生まれながらの将軍」として幕府の体制を確立した。1635年に武家諸法度を改定して参勤交代を制度化、1637年の島原の乱後にポルトガル船の来航を禁止(1639年)して鎖国を完成。老中
日本・江戸
1637年〜1638年
島原の乱
島原・天草地方のキリシタン農民約37000人が、苛政と信仰弾圧に耐えかね蜂起。天草四郎時貞を指導者として原城に籠城したが、幕府軍12万の攻撃を受けて全滅。江戸時代最大の内乱であり、鎖国政策と禁教令の強
日本・長崎
1639年
鎖国体制の確立と出島
島原の乱後、ポルトガル船の来航を全面禁止。オランダ商館を平戸から出島に移転させ、対外貿易を長崎の出島(オランダ)と唐人屋敷(中国)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)の4口に限定する鎖国体制が完成した。
日本・長崎
1657年
明暦の大火
振袖火事とも呼ばれる江戸史上最大の大火。死者は約10万人と推定され、江戸城天守閣も焼失(以後再建されず)。焼失面積は江戸市街の約60%に及んだ。幕府はこれを機に都市計画を根本的に見直し、広小路・火除地
日本・江戸
1669年
シャクシャインの戦い
日高地方のアイヌ首長シャクシャインが松前藩の交易独占と不公正な取引に反発して蜂起。全道のアイヌを結集し和人の交易所を襲撃したが、松前藩と東北諸藩の鎮圧軍に敗北。和議の場でシャクシャインは謀殺された。
日本・北海道
1673年
三井高利の越後屋と商業革命
三井高利が江戸に越後屋呉服店を開業し、「現金掛け値なし」「店前売り」の革新的商法を開始。従来の掛売り・訪問販売に代わる定価現金販売は商業革命と呼ばれ、庶民にも高級呉服を手の届くものにした。三井財閥の起
日本・江戸/大阪
1685年〜1709年
生類憐れみの令
5代将軍徳川綱吉が動物の殺傷を禁じた一連の法令。特に犬の保護が厳格で、犬を傷つけた者は厳罰に処された。綱吉は「犬公方」と揶揄された。中野に巨大な犬収容施設が設けられた。綱吉の死後、6代家宣により直ちに
日本・江戸
1688年〜1704年
元禄文化の開花
元禄時代は町人文化が開花した時代。井原西鶴の浮世草子(『好色一代男』)、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の浄瑠璃が三大文学。菱川師宣の浮世絵、尾形光琳の琳派絵画、野々村仁清の色絵陶器など美術も隆盛。上方を
日本・上方〜江戸
1689年
松尾芭蕉『おくのほそ道』
松尾芭蕉が弟子の曾良と東北・北陸を巡った約150日間の旅の紀行文。「夏草や兵どもが夢の跡」(平泉)、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(立石寺)など珠玉の句を含む。俳諧を芸術の域に高めた不朽の名作。
日本・江戸〜東北〜北陸
18〜19世紀
寺子屋と江戸の教育普及
江戸時代に全国に普及した寺子屋は庶民の初等教育機関。読み・書き・算盤(そろばん)を教え、幕末には全国に1万5千〜2万の寺子屋があったとされる。識字率は当時の世界でも最高水準(男性約50-60%、女性約
日本・全国
1701年〜1703年
元禄赤穂事件(忠臣蔵)
赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び切腹。赤穂浪士47人は約2年の潜伏の後、元禄15年12月14日に吉良邸に討ち入り、主君の仇を討った。浪士は切腹を命じられたが、その忠義は後世
日本・江戸〜兵庫
1703年(曾根崎心中初演)
近松門左衛門と人形浄瑠璃
近松門左衛門は「日本のシェイクスピア」と称される劇作家。人形浄瑠璃の脚本家として『曾根崎心中』『心中天網島』『国性爺合戦』など約100作を執筆。町人の恋愛と義理人情の葛藤を描き、元禄文化を代表する。
日本・大阪
1707年
富士山宝永大噴火
宝永4年11月23日に富士山が大噴火。約2週間にわたり噴火が続き、大量の火山灰が関東一円に降り積もった。江戸では昼間でも暗くなるほどの降灰。富士山東麓の村々は埋没し、酒匂川の土石流は長年にわたり洪水被
日本・静岡
1716年〜1745年
徳川吉宗の享保の改革
第8代将軍吉宗が実施した幕政改革。目安箱の設置で庶民の声を直接聴取し、公事方御定書で裁判の統一基準を制定。新田開発の奨励、上げ米の制による参勤交代の緩和、甘藷栽培の奨励なども行った。
日本・江戸
1772年〜1786年
田沼意次の重商主義政策
老中田沼意次は重商主義的な経済政策を推進した。株仲間の公認による営業独占と運上金・冥加金の徴収、長崎貿易の拡大、蝦夷地開発の計画、印旛沼干拓などを実施。賄賂政治の代名詞とされたが、近年は先進的な経済政
日本・江戸
1774年
杉田玄白・前野良沢『解体新書』の刊行
杉田玄白・前野良沢らがオランダ語の解剖学書を翻訳し『解体新書』として刊行。人体の構造を正確に記述した西洋医学書の翻訳は、日本の医学・科学を飛躍的に進歩させた。蘭学興隆の出発点。
日本・江戸
1787年〜1793年
寛政の改革
老中松平定信が天明の飢饉後に実施。朱子学以外を禁じた寛政異学の禁、旗本の借金帳消し(棄捐令)、囲米制度、出版統制を実施。質素倹約を掲げたが厳格すぎる統制は反発を招き「白河の清きに魚のすみかねて もとの
日本・江戸
1800年〜1816年
伊能忠敬の日本地図作成
伊能忠敬が50歳から始めた全国測量事業。10回にわたる測量旅行で日本列島の海岸線を実測し、『大日本沿海輿地全図』を完成させた。緯度1度の距離を28.2里と算出した精度は、現代の値とほぼ一致する驚異的な
日本・全国
1804年〜1830年
化政文化と歌舞伎・浮世絵の隆盛
文化・文政期の江戸を中心とする町人文化の爛熟。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』、小林一茶の俳句、東洲斎写楽の役者絵、歌川広重の『東海道五十三次』など。歌舞伎は7代目市川團十
日本・江戸
1831年頃
葛飾北斎『富嶽三十六景』
葛飾北斎が70歳を超えて制作した浮世絵風景版画の傑作。全46図(追加含む)で様々な角度から富士山を描く。「神奈川沖浪裏」はゴッホやドビュッシーに影響を与え、世界で最も有名な日本美術作品となった。
日本・江戸
1833年〜1837年
天保の大飢饉と大塩平八郎の乱
天保の大飢饉(1833-37年)の中、1837年に元大坂東町奉行所与力の大塩平八郎が「救民」を掲げて蜂起。富商を襲撃したがわずか半日で鎮圧された。元幕臣による反乱は体制の危機を象徴する事件。
日本・大坂
1853年
ペリー来航
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻で浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を要求。蒸気船(黒船)の威容は日本に大きな衝撃を与えた。翌1854年に日米和親条約が締結され、約200年
日本・神奈川
1854年3月31日
日米和親条約と開国
1854年、ペリー再来航を受けて幕府は日米和親条約を締結。下田・箱館の2港を開港し200年以上の鎖国が終了。1858年には日米修好通商条約で治外法権・関税自主権喪失という不平等条件が課された。
日本・神奈川
1858年〜1859年
安政の大獄
1858年、大老井伊直弼が将軍継嗣問題と条約問題の反対派を大規模に弾圧。吉田松陰・橋本左内を処刑し100名以上が処罰された。幕府の強権的対応は尊攘派をかえって先鋭化させ桜田門外の変を招いた。
日本・江戸
1860年
桜田門外の変
安政の大獄で尊攘派を弾圧した大老・井伊直弼が、水戸藩・薩摩藩の浪士に江戸城桜田門外で暗殺された。幕府最高権力者の暗殺は幕府の権威を決定的に失墜させ、幕末の政局を一変させた。
日本・江戸
1862年〜1863年
生麦事件と薩英戦争
1862年、薩摩藩主の行列を横切った英国人を薩摩藩士が殺傷。1863年に英艦隊7隻が鹿児島湾で薩摩藩と交戦。薩摩は甚大な被害を受けたが英艦にも損傷を与え、互いに実力を認めた。この経験で薩摩は攘夷から開
日本・横浜〜鹿児島
1863年〜1864年
下関戦争(馬関戦争)
1863年、長州藩が攘夷実行として下関海峡の外国船を砲撃。1864年に英仏蘭米の四国連合艦隊17隻が報復攻撃を行い砲台を壊滅させた。この敗北で長州も攘夷の不可能を認識し開国・近代化路線に転換。高杉晋作
日本・長門国
1863年〜1869年
新選組の活動
新選組は幕末京都で尊攘派浪士を取り締まった武装組織。近藤勇を局長、土方歳三を副長として1864年の池田屋事件で長州藩の志士を急襲し名を上げた。最盛期約200名。戊辰戦争では幕府側として戦い、土方歳三は
日本・京都
1866年
薩長同盟
薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が坂本龍馬の仲介で軍事同盟を締結。幕府に対抗する最大勢力の結集であり、倒幕運動の決定的転換点。この同盟が大政奉還・王政復古・戊辰戦争へとつながる。
日本・京都
1867年
大政奉還
第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上。約260年にわたる徳川幕府が平和的に終焉した。慶喜は新体制下での主導権維持を狙ったが、王政復古の大号令により実権を失った。
日本・京都
1868年
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争開始)
旧幕府軍と薩長中心の新政府軍(官軍)が京都南部で激突した戊辰戦争最初の戦い。数で劣る新政府軍が最新の銃器と錦の御旗の政治的効果で圧勝。慶喜は大坂城から海路江戸に逃走。以後、新政府軍は東へ進軍。
日本・京都
1868年〜1869年
箱館戦争と五稜郭
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が蝦夷地に渡り、五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立。しかし新政府軍の攻撃を受け、1869年5月に降伏。戊辰戦争の最後の戦いとなった。土方歳三は箱館の戦いで戦死。
日本・北海道
1868年
会津戦争と白虎隊
1868年、新政府軍が会津藩を攻撃。約1ヶ月の篭城戦の後に降伏。15〜17歳の白虎隊士中二番隊が飯盛山で城が燃えるのを見て自刃した悲劇は戊辰戦争の象徴。会津藩は斗南藩に移封される厳しい処分を受けた。
日本・会津
1868年
明治維新と五箇条の御誓文
明治天皇が五箇条の御誓文を発布し、「広く会議を興し万機公論に決すべし」など近代国家建設の方針を宣言。版籍奉還(1869年)、廃藩置県(1871年)により封建制度を解体し、中央集権的近代国家の基盤を構築
日本・京都/東京
1871年7月14日
廃藩置県
1871年、明治政府は全国の藩を廃止して府県を設置し、中央集権的な統一国家を確立した。薩摩・長州・土佐の藩兵を御親兵として東京に集め、軍事力を背景に断行。約260の藩が一朝にして消滅し、旧藩主は華族と
日本・東京
1872年
富岡製糸場の開業と殖産興業
明治政府が殖産興業政策の模範工場として設立した官営製糸場。フランスの最新技術を導入し、日本の近代製糸業の発展を牽引。生糸は明治期最大の輸出品となり、日本の工業化を支えた。2014年にユネスコ世界文化遺
日本・群馬
1874年〜1890年
自由民権運動
1874年、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を提出し、自由民権運動が本格化。国会開設、憲法制定、地租軽減、不平等条約改正などを要求。1881年に国会開設の勅諭が出され、1890年の帝国議会開設で一応
日本・全国
1877年
西南戦争
西郷隆盛が率いる旧薩摩藩士約13000人が明治政府に対して挙兵した日本最後の内戦。熊本城の攻防、田原坂の激戦を経て政府軍が勝利。西郷は城山で自刃。約7ヶ月の戦闘で双方合わせて約14000人が死亡。
日本・鹿児島〜熊本
1889年
大日本帝国憲法の発布
伊藤博文を中心に起草されたアジア初の近代憲法。プロイセン憲法を範とし、天皇主権・帝国議会・臣民の権利を規定。1890年に第1回帝国議会が開かれ、立憲政治が開始された。
日本・東京
1891年〜1901年
足尾鉱毒事件と田中正造の直訴
足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川流域の農業に壊滅的被害を与えた日本初の公害事件。衆議院議員・田中正造は議会で再三問題を取り上げ、1901年には議員を辞して明治天皇に直訴を試みた。谷中村の強制廃村は近代日本の暗
日本・栃木
1891年10月28日
濃尾地震
1891年10月28日、マグニチュード8.0の巨大地震が濃尾平野を襲い、死者7,273名、全壊家屋約14万棟の被害を出した。根尾谷断層は世界的にも最大級の地表断層で、現在も国の特別天然記念物として保存
日本・愛知県
1894年〜1895年
日清戦争・下関条約
1895年4月、日清戦争の講和として下関条約が調印された。伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章が交渉。清国は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲、賠償金2億両(約3億円)を支払った。しかしロシア・フ
日本・下関
1918年
米騒動
1918年7月、富山県の漁村の主婦たちが米の県外移出に抗議したことをきっかけに、米価高騰に怒る暴動が全国に拡大。約70万人が参加し、369市町村に波及した。軍隊が出動して鎮圧されたが、寺内正毅内閣は退
日本・全国
1923年9月1日
関東大震災
1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生した。東京・横浜を中心に建造物が倒壊し、直後に130箇所以上から同時に出火。強風に煽られた火災は2日間燃え
日本・関東地方
1925年
大正デモクラシーと普通選挙法
25歳以上の全ての男子に選挙権を付与する普通選挙法が成立。有権者数は約330万人から約1240万人に拡大。しかし同時に治安維持法も成立し、社会主義運動の取り締まりが強化された。「飴と鞭」の二面性を持つ
日本・東京
1927年
金融恐慌
1927年、片岡蔵相が国会答弁で東京渡辺銀行の破綻を失言したことをきっかけに取り付け騒ぎが全国に波及。台湾銀行が鈴木商店への巨額融資で経営危機に陥り、枢密院がモラトリアム緊急勅令を否認したため若槻内閣
日本
1932年5月15日
五・一五事件
1932年5月15日、海軍青年将校と陸軍士官候補生、血盟団関係者らが首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を射殺した。「話せばわかる」「問答無用」のやり取りは有名。日本銀行や変電所も襲撃されたが、大規模な蜂起に
日本・東京
1936年2月26日
二・二六事件
1936年2月26日、皇道派の陸軍青年将校約1,400名が首相官邸・警視庁などを襲撃・占拠。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。岡田啓介首相は間一
日本・東京
1938年4月1日
国家総動員法制定
1938年4月1日に公布された国家総動員法は、戦時に際し国家の人的・物的資源を政府が統制・動員する権限を規定した包括的授権法。議会の承認なく勅令で広範な統制が可能となった。物資の統制、価格統制、労働力
日本・東京
1945年2月〜3月
硫黄島の戦い
1945年2月19日から3月26日にかけて、米海兵隊約7万名と栗林忠道指揮下の日本軍約2万1千名が激突。栗林は従来の水際撃滅戦術を廃し、地下陣地からの持久戦を展開。米軍は36日間の激戦で約7千名の戦死
日本・小笠原諸島
1945年3月〜6月
沖縄戦
1945年3月26日から6月23日にかけて、沖縄本島を中心に日米両軍が激突した太平洋戦争最大の地上戦。牛島満中将率いる第32軍約10万名に対し、米軍は約18万名が上陸。日本軍は首里防衛線で持久戦を展開
日本・沖縄
1945年3月10日
東京大空襲
1945年3月10日未明、B-29爆撃機約300機が東京下町に約1,700トンの焼夷弾を投下。カーティス・ルメイ少将の指揮のもと、従来の高高度精密爆撃から低高度夜間焼夷弾攻撃に転換した最初の大規模作戦
日本・東京
1945年8月6日
広島への原子爆弾投下
1945年8月6日午前8時15分、B-29「エノラ・ゲイ」がウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下。爆心地上空約600mで炸裂し、TNT換算約15キロトンの威力で市街地を壊滅させた。1945年末までに
日本・広島
1945年8月9日
長崎への原子爆弾投下
1945年8月9日午前11時2分、B-29「ボックスカー」がプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下。本来の目標は小倉であったが視界不良のため長崎に変更された。TNT換算約22キロトンの威力で浦上
日本・長崎
1945年8月15日
ポツダム宣言受諾・終戦
1945年8月14日の御前会議で昭和天皇が「聖断」を下し、ポツダム宣言受諾を決定。8月15日正午、天皇の録音による終戦の詔書(玉音放送)がラジオで放送された。「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の一節は日
日本・東京
1946年11月3日
日本国憲法公布
1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された日本国憲法は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三大原則とする。GHQ民政局のケーディス大佐らが起草した草案をもとに、日本側が修正を加えた
日本・東京
1946年〜1948年
東京裁判(極東国際軍事裁判)
1946年5月3日から1948年11月12日まで、A級戦犯28名が「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通常の戦争犯罪」で起訴された。東条英機元首相ら7名に死刑、16名に終身禁固刑が言い渡された。イン
日本・東京
1949年
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
1949年、湯川秀樹が中間子の存在を理論的に予言した功績でノーベル物理学賞を受賞。日本人として初のノーベル賞であった。1935年に発表した中間子理論は、原子核内で陽子と中性子を結びつける核力を媒介する
日本・京都
1950年〜1953年
朝鮮戦争特需
1950年6月の朝鮮戦争勃発により、米軍は日本を兵站基地として大量の物資を調達した。繊維・金属・機械など幅広い産業に特需が発生し、1950年から1953年までの特需総額は約10億ドルに達した。「もはや
日本
1956年5月1日
水俣病の公式確認
1956年5月1日、水俣市の病院が「原因不明の中枢神経疾患」を保健所に報告し、水俣病が公式に確認された。チッソ水俣工場が排出したメチル水銀が食物連鎖で濃縮され、魚介類を摂取した住民に深刻な神経障害を引
日本・熊本県水俣
1960年
安保闘争
1960年、日米安全保障条約の改定をめぐり戦後最大の大衆運動が展開された。岸信介首相が5月20日に衆議院で新安保条約を強行採決すると、反対運動は安保改定反対から民主主義擁護へと性格を変えた。6月15日
日本・東京
1964年10月10日
東京オリンピック
1964年10月10日から24日まで、アジア初のオリンピックが東京で開催された。93カ国・地域から5,151名の選手が参加。柔道が初めて正式種目となり、女子バレーボール日本代表「東洋の魔女」が金メダル
日本・東京
1970年
大阪万博(日本万国博覧会)
1970年3月15日から9月13日まで、「人類の進歩と調和」をテーマにアジア初の万国博覧会が開催された。77カ国が参加し、総入場者数は約6,422万人で当時の万博史上最多。岡本太郎の太陽の塔、月の石の
日本・大阪
1972年5月15日
沖縄返還
1972年5月15日、27年間の米国施政権下にあった沖縄が日本に復帰した。佐藤栄作首相とニクソン大統領の1969年の共同声明で返還が合意され、1971年の沖縄返還協定で具体化された。「核抜き、本土並み
日本・沖縄
1991年
バブル経済崩壊
1989年12月29日に日経平均株価が38,915円の史上最高値を記録した後、1990年から株価と地価が急落しバブル経済が崩壊した。日銀の金融引き締め(公定歩合の引き上げ)と大蔵省の総量規制が引き金と
日本
1995年1月17日
阪神・淡路大震災
1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3(Mj)の直下型地震が発生した。神戸市を中心に震度7を記録し、阪神高速道路の倒壊、建造物の大規模崩壊、長田区の大火災が発生
日本・兵庫県
1995年3月20日
地下鉄サリン事件
1995年3月20日朝、オウム真理教の信者5名が東京の地下鉄5路線の車内でサリンを散布した。13名が死亡、約6,300名が負傷した。宗教団体による世界初の大規模化学兵器テロであり、麻原彰晃(松本智津夫
日本・東京
2011年3月11日
東日本大震災・福島第一原発事故
2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の超巨大地震が発生。東北太平洋沿岸に巨大津波が襲来し、死者・行方不明者は約2万2千人に達した。福島第一原子力発電所では全電源喪失
日本・東北地方
2011年3月11日
東日本大震災と福島第一原発事故
2011年3月11日14時46分、宮城県沖を震源とするモーメントマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。最大震度7を記録し、巨大津波が東北地方太平洋沿岸を襲った。津波の最大遡上高は40.1メートル(
日本・東北地方太平洋沖
2020年〜2023年
COVID-19パンデミック(日本)
2020年1月に日本国内初のCOVID-19感染者が確認され、以後3年以上にわたりパンデミックが続いた。2020年4月に初の緊急事態宣言が発令され、外出自粛・休業要請が行われた。日本は欧米に比べ死亡率
日本
2021年7月〜8月
東京オリンピック2020
2020年東京オリンピックはCOVID-19パンデミックにより1年延期され、2021年7月23日から8月8日まで開催された。33競技339種目が実施され、日本は金メダル27個を獲得して過去最多を記録。
日本・東京
2022年7月8日
安倍晋三銃撃事件
2022年7月8日、安倍晋三元首相が奈良市で参議院選挙の応援演説中に手製の銃で背後から銃撃され死亡した。容疑者の山上徹也は、母親が旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への多額の献金で家庭崩壊したことへの
日本・奈良

他の地域