イタリアの歴史

30件の歴史的出来事

紀元前509年
ローマ共和政の成立
最後の王タルクィニウス・スペルブスを追放し、二名の執政官(コンスル)を最高官とする共和政体を樹立。元老院が国政の中枢を担い、民会が法律を制定する体制が整備された。「王(レクス)」という称号はローマ人に
イタリア・ローマ
紀元前451年〜紀元前449年
十二表法の制定
ローマ初の成文法典。十名の委員(デケムウィリ)がギリシャの法制度も参考にしつつ編纂した。所有権、相続、訴訟手続き、債務、家族法などを規定。法の公開により、パトリキ(貴族)による法の恣意的解釈を制限し、
イタリア・ローマ
紀元前218〜216年
ハンニバルのアルプス越えとカンナエの戦い
第二次ポエニ戦争でカルタゴの名将ハンニバル・バルカが、歩兵・騎兵・戦象を率いてアルプスを越えイタリアに侵入。紀元前216年のカンナエの戦いでは約5万のカルタゴ軍が約8万のローマ軍を完全包囲し殲滅。ロー
イタリア・カンナエ
紀元前216年
カンナエの戦い
第二次ポエニ戦争における最大の会戦。ハンニバル・バルカが約5万のカルタゴ軍で、約8万のローマ軍を完全包囲して殲滅した。中央を故意に後退させる凸型陣形から凹型に反転し、両翼の騎兵が敵後方を遮断する包囲戦
イタリア・アプリア地方
紀元前44年3月15日
カエサルの暗殺
終身独裁官に就任したユリウス・カエサルが、マルクス・ブルトゥス、カッシウスら約60名の共和派元老院議員により暗殺された。カエサルは23箇所を刺され、ポンペイウスの像の足元で絶命したとされる。「ブルトゥ
イタリア・ローマ
紀元前27年1月16日
アウグストゥスの元首政開始
オクタウィアヌスが元老院から「アウグストゥス」の称号を受け、事実上の帝政(プリンキパトゥス=元首政)を開始した。共和政の制度と名目を維持しながら、軍事指揮権(インペリウム)と護民官特権を集中して最高権
イタリア・ローマ
79年8月24日
ポンペイの埋没
ヴェスヴィオ火山の大噴火により、ポンペイ、ヘルクラネウム、スタビアエなどの都市が火山灰と火砕流に埋没した。ポンペイでは約2000人が死亡したと推定。大プリニウスが救助活動中に死亡し、甥の小プリニウスが
イタリア・カンパニア
79年8月24日
ヴェスヴィオ火山噴火とポンペイの埋没
79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が大噴火を起こし、約20時間にわたる噴火活動でポンペイ、ヘルクラネウム、スタビアエなどの都市が火山灰と火砕流に埋もれた。ポンペイには約6メートルの火山灰と軽石が堆積し
イタリア・カンパニア
80年
コロッセウムの完成
フラウィウス朝の皇帝ウェスパシアヌスが着工し、ティトゥスが完成させた巨大円形闘技場。正式名称はアンフィテアトルム・フラウィウム。長径188m、短径156m、高さ48mの4層構造で、約5万人を収容。剣闘
イタリア・ローマ
313年
コンスタンティヌスのミラノ勅令
コンスタンティヌス帝とリキニウス帝がミラノで会見し、帝国内の全宗教に信仰の自由を保障する勅令を発布。キリスト教迫害の終結を宣言し、没収されたキリスト教会の財産返還を命じた。これによりキリスト教は合法的
イタリア・ミラノ
410年8月24日
アラリック1世のローマ略奪
西ゴート王アラリック1世がローマを3日間略奪した。紀元前390年のガリア人の侵入以来、約800年ぶりの「永遠の都」の陥落。教会と聖域への攻撃は比較的制限されたが、宮殿や富裕層の邸宅は徹底的に略奪された
イタリア・ローマ
476年9月4日
西ローマ帝国の滅亡
ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(少年皇帝)を廃位し、帝位の標章を東ローマ皇帝ゼノンに送った。オドアケルは自らイタリア王を称した。「帝国の最後の日」は静かな権
イタリア・ラヴェンナ
529年頃
モンテ・カッシーノ修道院の設立
ヌルシアのベネディクトゥスがモンテ・カッシーノの山頂にベネディクト修道会の母体となる修道院を設立。『戒律(レグラ)』を著し、「祈り働け(オラ・エト・ラボラ)」の精神のもと、1日を祈祷・労働・読書に体系
イタリア・ラティウム
800年12月25日
カール大帝の西ローマ帝国復活
フランク王カール大帝が教皇レオ3世から皇帝冠を授けられ、「ローマ人の皇帝」として戴冠した。カール自身は戴冠を望んでいなかったとアインハルトは伝えるが、教皇にとっては教皇権と皇帝権の関係を規定する重要な
イタリア・ローマ
962年2月2日
オットー1世の神聖ローマ帝国成立
ザクセン朝のオットー1世が教皇ヨハネス12世から皇帝冠を授けられ、「神聖ローマ帝国」(この名称は後世のもの)が成立した。カール大帝の帝国を継承する形で、ドイツ王が皇帝位を兼ねる体制が確立された。オット
イタリア・ローマ
1077年1月25日〜27日
カノッサの屈辱
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世に破門の解除を求めて北イタリアのカノッサ城を訪れ、雪の中で3日間裸足で断食しながら赦しを請うた。教皇は最終的に破門を解除したが、両者の権力闘争は継続
イタリア・エミリア
1320年頃
ダンテ『神曲』
ダンテ・アリギエーリがラテン語ではなくトスカーナ方言(俗語)で書いた叙事詩。地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部からなり、ウェルギリウスとベアトリーチェの導きで死後の世界を旅する。「ここを入る者は一切の希望を
イタリア・フィレンツェ/ラヴェンナ
1434年〜1464年
メディチ家コジモのフィレンツェ支配
メディチ銀行の頭取コジモ・デ・メディチが追放から帰還し、フィレンツェ共和国の事実上の支配者となった。公職には就かず「国父(パテル・パトリアエ)」として共和政の形式を維持しながら権力を行使。プラトン・ア
イタリア・フィレンツェ
1436年3月25日
フィレンツェ大聖堂ドームの完成
建築家フィリッポ・ブルネレスキが、支保工(型枠)なしで二重殻構造の巨大ドームを建設するという前代未聞の工法で完成させた。ヘリンボーン(魚骨)パターンの煉瓦積みと、自ら発明した起重機を使用。ドームの重量
イタリア・フィレンツェ
1508年〜1512年
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画
教皇ユリウス2世の命により、ミケランジェロが約4年間かけて礼拝堂天井にフレスコ画を制作。中央に旧約聖書の創世記から9場面(天地創造、アダムの創造、ノアの洪水など)を描き、周囲に預言者、巫女、イグヌーデ
イタリア・ローマ(バチカン)
1545年〜1563年
トリエント公会議
カトリック教会の自己改革と対プロテスタント教義の明確化を目的とした公会議。3期18年にわたり、教義面では信仰と行いの両方の必要性、7つの秘跡、聖書と聖伝の同等の権威を確認。改革面では司教の居住義務、神
イタリア・トレント
1610年
ガリレオの望遠鏡による天体観測
ガリレオ・ガリレイがオランダで発明された望遠鏡を改良し、木星の4つの衛星(メディチ星と命名)、月の表面のクレーター、金星の満ち欠け、天の川が無数の星から成ることなどを発見。『星界の報告』で発表し、地動
イタリア・パドヴァ/フィレンツェ
1633年6月22日
ガリレオ・ガリレイの宗教裁判
ガリレオが教皇庁の異端審問所に召喚され、コペルニクスの地動説を支持する著書『天文対話』の撤回を命じられた。ガリレオは有罪判決を受け入れて地動説を「放棄」したが、退廷時に「それでも地球は動いている(エ・
イタリア・ローマ
1859年
ソルフェリーノの戦い
サルデーニャ=フランス連合軍がオーストリア軍を破った決戦。ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が率いる連合軍が勝利し、ロンバルディアのオーストリアからの解放につながった。約4万人の死傷者を
イタリア・ソルフェリーノ
1860年
ガリバルディの千人遠征
ジュゼッペ・ガリバルディが約1,000人の義勇兵(赤シャツ隊)を率いてシチリアに上陸。カラタフィミの戦いでブルボン軍を破り、パレルモを解放。その後メッシーナ海峡を渡ってナポリ王国を征服し、ヴィットーリ
イタリア・シチリア〜ナポリ
1861年
イタリア王国の成立
サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王に即位し、トリノを首都としてイタリア王国が成立。カヴールの外交・ガリバルディの軍事行動・マッツィーニの思想という三つの力が統一を実現した。ただ
イタリア・トリノ
1870年
ローマ併合(教皇領の消滅)
普仏戦争でフランス駐留軍がローマから撤退したのを機に、イタリア軍がローマに進軍。9月20日にポルタ・ピア門から突入し、教皇ピウス9世は降伏。ローマはイタリア王国の首都となり、教皇領は消滅した。教皇は「
イタリア・ローマ
1922年10月
ファシスト党のローマ進軍
ムッソリーニ率いるファシスト党の黒シャツ隊約3万人がローマに進軍。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は戒厳令への署名を拒否し、ムッソリーニに組閣を命じた。ムッソリーニ自身は列車でローマに到着し、最年
イタリア・ローマ
1944年1-5月
モンテ・カッシーノの戦い
連合軍がドイツ軍のグスタフ防衛線の中核であるモンテ・カッシーノを4次にわたり攻撃。修道院は2月15日の空爆で破壊されたが、ドイツ軍は瓦礫をさらに強固な防御陣地に転用した。5月18日にポーランド第2軍団
イタリア・モンテ・カッシーノ
1957年3月25日
ローマ条約(EEC設立)
フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)がヨーロッパ経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(ユーラトム)の設立条約に調印。関税同盟と共通市場の創設を目指し、「
イタリア・ローマ

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