フランスの歴史

45件の歴史的出来事

496年頃
クロヴィスのキリスト教改宗
フランク王クロヴィス1世がランスの司教レミギウスにより洗礼を受け、カトリックに改宗した。アリウス派を信奉していた他のゲルマン諸族と異なり、正統派カトリックを選択したことで、ガロ・ローマ系住民とカトリッ
フランス・ランス
732年
トゥール・ポワティエ間の戦い
フランク王国の宮宰カール・マルテルがウマイヤ朝のアブドゥッラフマーン・アル・ガーフィキー率いるアラブ軍を撃退した。イベリア半島からピレネーを越えて北進したイスラム軍のヨーロッパ深部への進出を阻止した歴
フランス・トゥール
732年10月
トゥール・ポワティエの戦い
フランク王国の宮宰カール・マルテルが、アブドゥル・ラフマン・アル・ガーフィキー率いるウマイヤ朝の遠征軍を撃退した決定的会戦。フランク重装歩兵の密集陣形がイスラム騎兵の突撃を跳ね返し、アブドゥル・ラフマ
フランス・トゥール近郊
843年8月
ヴェルダン条約によるフランク王国の三分割
カール大帝の孫3人がフランク王国を三分割した条約。長男ロタール1世が中部フランク(イタリア・ブルゴーニュ・ロタリンギア)と皇帝位を、ルートヴィヒ2世が東フランク(後のドイツ)を、シャルル禿頭王が西フラ
フランス・ヴェルダン
911年
ノルマンディー公国の成立
西フランク王シャルル3世(単純王)とバイキングの首長ロロがサン・クレール・シュル・エプト条約を結び、ロロがキリスト教に改宗してフランク王の家臣となる代わりに、セーヌ川下流域の支配権を正式に認められた。
フランス・ノルマンディー
987年
カペー朝フランスの成立
カロリング朝最後の王ルイ5世の死後、パリ伯兼フランス公ユーグ・カペーが諸侯の選挙により西フランク王に即位し、カペー朝が成立した。当初の王権は極めて弱く、直轄領はパリ周辺のイル・ド・フランスに限られてい
フランス・パリ
12世紀後半
パリ大学の設立
ノートルダム大聖堂付属学校から発展し、12世紀後半に大学(ウニウェルシタス=教師と学生の組合)として組織化された。神学部が最も権威があり、トマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、アルベルトゥス・マグヌス
フランス・パリ
1163年〜1345年
ノートルダム大聖堂の建設開始
パリ司教モーリス・ド・シュリーの構想により着工されたゴシック大聖堂。フライング・バットレス(飛梁)を大規模に採用した最初期の建築であり、巨大なバラ窓のステンドグラスが内部に荘厳な光を創出した。建設には
フランス・パリ
1346年8月26日
クレシーの戦い
百年戦争初期の大会戦。エドワード3世率いるイングランド軍(約1万2千)がフィリップ6世のフランス軍(約3万)を圧倒的に撃破。イングランドの長弓兵が毎分10-12本の矢を放ち、フランス騎兵の突撃を粉砕し
フランス・ピカルディー
1358年5月〜6月
ジャックリーの乱
黒死病と百年戦争の二重苦に喘ぐフランス北部の農民が、ギヨーム・カールに率いられて蜂起した。貴族の城館が襲撃・焼き討ちされ、領主一家が殺害される暴力的反乱が約2週間続いた。パリの反乱指導者エティエンヌ・
フランス・イル・ド・フランス
1429年5月8日
ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放
ドンレミ村出身の農民の娘ジャンヌ・ダルク(17歳)が「神の声」に導かれてシャルル王太子のもとに赴き、オルレアンの解放軍を率いた。9日間の戦闘でイングランド軍の砲台を次々に攻略し、約7ヶ月間の包囲を打ち
フランス・オルレアン
1572年8月24日
サン・バルテルミの虐殺
ユグノー戦争の最中、カトリック勢力がパリに集まっていたプロテスタント(ユグノー)の指導者と市民を大量虐殺した。サン・バルテルミの祝日の早朝に始まった暴力は数日間続き、パリだけで約3000人、フランス全
フランス・パリ
1598年4月13日
ナントの勅令
フランス王アンリ4世(元ユグノーの指導者ナバラ王アンリ)が発布した宗教的寛容の勅令。ユグノーにカトリックとほぼ同等の市民的権利と信仰の自由を保障し、約200の安全保障都市の保持を認めた。「パリはミサに
フランス・ナント
1637年
デカルト『方法序説』
ルネ・デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり(Cogito, ergo sum)」の命題で知られる方法論的懐疑を展開。すべてを疑い尽くしても疑っている自分の存在は疑えないとして、主体的な理性を哲学の出発
フランス・パリ(出版はオランダ)
1661年〜1715年
ルイ14世のヴェルサイユ宮殿建設
「太陽王」ルイ14世がフランス絶対王政の象徴として建設した世界最大級の宮殿。主設計はル・ヴォーとマンサール、庭園設計はル・ノートル。鏡の間(ガラリー・デ・グラス)は長さ73m、357枚の鏡を配した壮麗
フランス・ヴェルサイユ
1685年10月18日
ナントの勅令廃止(フォンテーヌブロー勅令)
ルイ14世がフォンテーヌブロー勅令を発布し、1598年のナントの勅令を廃止。プロテスタント(ユグノー)の礼拝を禁止し、教会を破壊、聖職者を追放した。「ドラゴナード」(軍隊の強制宿営による改宗強要)が各
フランス
1751年〜1772年
百科全書の出版
ドゥニ・ディドロとジャン・ル・ロン・ダランベールが編纂した『百科全書、あるいは科学・芸術・技能の合理的辞典』。全28巻(本文17巻、図版11巻)に約7万2千の項目と2885枚の図版を収録。ヴォルテール
フランス・パリ
1789年7月14日
バスティーユ襲撃
パリ市民約1000人がバスティーユ要塞を襲撃し占領した。要塞には実際にはわずか7名の囚人しかいなかったが、政治犯収容の象徴として絶対王政の圧制を体現していた。守備隊司令官ドゥ・ローネー侯爵は降伏後に群
フランス・パリ
1789年8月26日
人権宣言の採択
国民議会が「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」を採択。全17条で、人間の自由・平等の自然権、言論・出版の自由、所有権の不可侵、法の前の平等、国民主権、三権分立を宣言した。ラファイエットが起草に大きく
フランス・パリ
1793年1月21日
ルイ16世の処刑
国民公会の裁判でルイ16世(「ルイ・カペー」と呼ばれた)が反逆罪で有罪判決を受け、ギロチンで処刑された。賛成387対反対334の僅差で死刑が決定。処刑人シャルル=アンリ・サンソンが執行し、助手が国王の
フランス・パリ
1793年6月〜1794年7月
ロベスピエールの恐怖政治
ジャコバン派の指導者マクシミリアン・ド・ロベスピエールが公安委員会を通じて独裁的権力を行使した恐怖政治の時代。革命裁判所が簡易な裁判で大量の死刑判決を下し、パリだけで約2600人、フランス全土で推定1
フランス・パリ
1830年
フランス七月革命
シャルル10世が出版の自由を制限する七月勅令を発布したことに対し、パリ市民が3日間の市街戦(栄光の三日間、7月27-29日)で蜂起。シャルル10世は亡命し、自由主義的なオルレアン家のルイ・フィリップが
フランス・パリ
1848年
フランス二月革命
七月王政のルイ・フィリップに対する改革要求運動が弾圧されたことで武装蜂起に発展。2月22-24日の市街戦の末にルイ・フィリップが亡命し、第二共和政が成立。男子普通選挙が実施され、国立工場の設置など社会
フランス・パリ
1852-1870年
フランス第二帝政とルイ・ナポレオン
ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が1851年のクーデターで権力を掌握し、翌年皇帝に即位して第二帝政を開始。パリの大改造、鉄道網の整備、産業振興などの近代化政策を推進する一方、クリミア戦争・イタリア統
フランス・パリ
1870-1871年
普仏戦争・セダンの戦い
エムス電報事件を契機にフランスが宣戦布告。1870年9月1-2日のセダンの戦いでナポレオン3世が降伏・捕虜となった。パリは4ヶ月間包囲され、1871年1月に降伏。フランクフルト講和条約でアルザス=ロレ
フランス・セダン
1870-1940年
フランス第三共和政の成立
セダンの戦いでのナポレオン3世降伏後、1870年9月4日に共和制が宣言された。当初は暫定体制と見なされ、王政復古派が多数を占めたが、共和派が漸次勢力を拡大。1875年の憲法改正で共和制が確定し、以後7
フランス・パリ
1871年
ドイツ帝国成立宣言
普仏戦争の勝利を背景に、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立した。ビスマルクが帝国宰相となり、25の領邦国家からなる連邦制の統一国家が誕生した。
フランス・ヴェルサイユ宮殿
1871年
パリ・コミューン
普仏戦争の敗北と包囲の苦難を経たパリ市民が、臨時政府に反旗を翻し自治政府(コミューン)を樹立。労働者の権利保護、政教分離、女性の権利拡大などの革命的施策を実施したが、72日間で政府軍に鎮圧された。「血
フランス・パリ
1874年
印象派の誕生
モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ピサロ、モリゾらが官展(サロン)に対抗して独立展覧会を開催。モネの『印象、日の出』が批評家ルロワに揶揄的に「印象派」と名づけられた。光と色彩の瞬間的印象を戸外で直接描
フランス・パリ
1894-1906年
ドレフュス事件
ユダヤ系フランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスがドイツへのスパイ容疑で有罪判決を受けた冤罪事件。エミール・ゾラが新聞に「私は弾劾する(J'accuse)」を発表し、フランス社会はドレフュス派と反ドレ
フランス・パリ
1898年
キュリー夫妻の放射能研究
マリー・キュリーとピエール・キュリーが「放射能(radioactivity)」という概念を確立し、ポロニウム(マリーの祖国ポーランドにちなむ)とラジウムの2つの新元素を発見した。マリーは女性初のノーベ
フランス・パリ
1914年9月
第一次マルヌの戦い
シュリーフェン計画に基づくドイツ軍の電撃的なフランス侵攻を、仏英連合軍がマルヌ川沿いで阻止した決定的な防御戦。ジョッフル将軍の冷静な指揮とガリエニ将軍のパリ防衛軍の側面攻撃により、ドイツ軍は約60km
フランス・マルヌ川流域
1916年2-12月
ヴェルダンの戦い
ドイツ軍が「フランス軍を白くなるまで血を流させる」(ファルケンハインの消耗戦略)ためにヴェルダン要塞群を攻撃。10ヶ月に及ぶ激戦で、ドゥオーモン砦の争奪戦が繰り返された。ペタン将軍の「彼らは通さない(
フランス・ヴェルダン
1916年7-11月
ソンムの戦い
英仏連合軍がドイツ軍の防衛線に対して大攻勢を開始。初日(7月1日)だけでイギリス軍は約57,000人の死傷者(うち約19,000人戦死)を出し、イギリス軍史上最悪の一日となった。9月15日には戦車が史
フランス・ソンム川流域
1918年7月
第二次マルヌの戦い(カイザーシュラハト)
ルーデンドルフの1918年春季攻勢(カイザーシュラハト)の最終段階。ドイツ軍はパリに約70kmまで迫ったが、フォッシュ元帥の統一指揮のもとフランス・イギリス・アメリカ連合軍が反撃し、ドイツ軍を後退させ
フランス・マルヌ川流域
1918年11月11日
第一次世界大戦の休戦
連合国とドイツの間で休戦協定が締結され、11月11日午前11時に西部戦線の戦闘が停止した。ドイツは占領地からの撤退、大量の武器・車両・列車の引き渡し、ラインラントの連合軍占領を受け入れた。約4年間の戦
フランス・コンピエーニュの森
1919年6月28日
ヴェルサイユ条約
パリ講和会議の結果、連合国とドイツの間で締結された講和条約。ドイツにアルザス=ロレーヌの返還、植民地の放棄、軍備制限(陸軍10万人)、1320億金マルクの賠償金を課した。戦争責任条項(第231条)はド
フランス・ヴェルサイユ
1940年5-6月
フランスの戦い(アルデンヌ突破)
ドイツ軍がマンシュタインの「鎌の一振り」作戦でアルデンヌの森を突破し、フランス軍の背後に回り込んだ。連合軍をダンケルクに追い詰め、パリは6月14日に無防備都市宣言のもと陥落。6月22日にペタン政権がコ
フランス・ベルギー・オランダ
1940年5月26日-6月4日
ダンケルク撤退(ダイナモ作戦)
アルデンヌ突破によりダンケルク周辺に包囲された英仏連合軍約33万人を、イギリス海軍と民間小型船舶が9日間で救出した。ヒトラーの装甲部隊停止命令(ルントシュテットの進言)とRAFの航空支援が撤退を可能に
フランス・ダンケルク
1943年
サルトルの実存主義
ジャン=ポール・サルトルが『存在と無』で「実存は本質に先立つ」という命題を提示。人間は予め定められた本質を持たず、自由な選択によって自己を形成するとした。戦後の1945年の講演『実存主義はヒューマニズ
フランス・パリ
1944年6月6日
ノルマンディー上陸作戦(D-Day)
アイゼンハワー最高司令官の指揮のもと、約15万人の連合軍が5つの海岸に上陸した史上最大の水陸両用作戦。約1万人の死傷者を出しながら橋頭堡を確保し、西ヨーロッパの解放への第一歩を踏み出した。約1,200
フランス・ノルマンディー
1944年8月25日
パリ解放
パリのレジスタンスが蜂起し、ルクレール将軍率いる自由フランス第2機甲師団がパリに入城。ドイツ軍司令官コルティッツ将軍はヒトラーのパリ破壊命令に従わず降伏した。ド・ゴールがシャンゼリゼを凱旋し、パリ市庁
フランス・パリ
1948年
世界人権宣言の採択
1948年12月10日、国連総会で世界人権宣言が採択された。エレノア・ルーズヴェルト(フランクリン・ルーズヴェルトの夫人)が起草委員長を務め、フランスのルネ・カサン、レバノンのシャルル・マリク、中国の
フランス・パリ
2015年11月13日
パリ同時多発テロ
ISISに忠誠を誓う実行犯がパリの6カ所を同時攻撃。バタクラン劇場ではイーグルス・オブ・デス・メタルのコンサート中に銃撃が行われ、89人が死亡。スタッド・ド・フランスでは仏独サッカー親善試合中に自爆テ
フランス・パリ
2015年
パリ協定の採択
2015年12月12日、196カ国が参加するCOP21でパリ協定が採択された。産業革命前からの世界平均気温上昇を2度未満、できれば1.5度以内に抑えることを目標に掲げた。各国が自主的に削減目標(NDC
フランス・パリ

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