エジプトの歴史

43件の歴史的出来事

紀元前4000〜3100年頃
ナカダ文化の発展
エジプト先王朝時代の主要な文化で、ナカダI期(アムラティアン)、ナカダII期(ゲルゼアン)、ナカダIII期に区分される。彩色土器、石製容器、銅器、黄金装飾品などの工芸技術が発展し、社会的階層化と地域的
エジプト・ナカダ
紀元前3100年頃
上下エジプトの統一(ナルメル王)
ナルメル王(メネス王と同一視される)が上エジプトから下エジプトを征服し、エジプト初の統一国家を樹立した。ナルメル・パレットには白冠(上エジプト)と赤冠(下エジプト)の両方を被る王が描かれ、二つの地域の
エジプト・ヒエラコンポリス
紀元前3100年頃
メンフィスの首都建設
統一王ナルメル(メネス)が上下エジプトの境界地点にメンフィス(古名インブ・ヘジ=白い壁)を建設し、統一国家の首都とした。プタハ神を主神とする神殿が建てられ、行政・宗教の中心として機能した。古王国時代を
エジプト・メンフィス
紀元前2667年頃
ジョセル王の階段ピラミッド建設
第3王朝のジョセル王の宰相イムホテプが設計した世界最古の大規模石造建築。当初マスタバ(平らな墓)として計画されたが、6段に重ねた階段状の構造に発展した。高さ約62m。周囲には祭殿、中庭、模擬建築を含む
エジプト・サッカラ
紀元前2560年頃
ギザの大ピラミッド(クフ王)建設
第4王朝のクフ王(ケオプス)のために建設された世界最大のピラミッド。底辺約230m、元の高さ約146.5m、推定230万個の石材ブロック(総重量約600万トン)を使用。四辺は正確に東西南北を向き、誤差
エジプト・ギザ
紀元前2530年頃
スフィンクスの建造
カフラー王の命で建造されたとされる巨大なスフィンクス像。全長約73m、高さ約20m。人間の頭部(王の顔)とライオンの体を持ち、王権の威厳と獅子の力を象徴する。石灰岩の自然露頭を彫り込んで制作された世界
エジプト・ギザ
紀元前2055年頃
テーベによるエジプト再統一(中王国)
第11王朝のメンチュホテプ2世が約130年間続いた第一中間期を終結させ、ヘラクレオポリスの第10王朝を打倒してエジプトを再統一した。テーベを首都として中王国時代を開いた。デイル・エル・バハリに壮大な葬
エジプト・テーベ
紀元前2000〜300年
カルナック神殿群の建設
古代エジプト最大の神殿複合施設。約1700年にわたって増改築が続けられ、30以上のファラオが建設に関わった。中心のアメン大神殿の大列柱室は134本の巨大石柱(最大高さ23m)が林立する圧倒的空間。歴代
エジプト・カルナック
紀元前1850年頃
ファイユーム灌漑事業
第12王朝のアメンエムハト3世を中心とする王たちが、ファイユーム盆地の大規模灌漑事業を実施。バハル・ユースフ運河の整備とモエリス湖の水位管理により、広大な農耕地を創出した。堤防と水門のシステムによりナ
エジプト・ファイユーム
紀元前1650年頃
ヒクソスのエジプト侵入と支配
西アジアから移住してきたセム系民族ヒクソス(「異国の支配者」の意)が下エジプトを支配し、アヴァリスを首都として第15王朝を樹立した。馬匹と戦車、複合弓、青銅製武器などの軍事技術の優位によりエジプト軍を
エジプト・アヴァリス
紀元前1550年頃
エーベルス・パピルスと古代エジプト医学
全長約20m、110欄からなる古代エジプト最長の医学パピルス。約700の処方箋と治療法を記録し、内科、外科、眼科、婦人科、皮膚科にわたる幅広い医学知識を含む。心臓を中心とする血管系の記述、各種薬草の処
エジプト・テーベ
紀元前1479〜1458年
ハトシェプスト女王の治世
トトメス2世の王妃であったハトシェプストは、幼い継子トトメス3世の摂政として権力を握り、やがて自らファラオを称した。古代エジプト史上最も成功した女性統治者。プント(ソマリア付近)への大規模交易遠征を実
エジプト・テーベ
紀元前1353〜1336年
アクエンアテンの宗教改革とアマルナ遷都
第18王朝のアメンホテプ4世が自らアクエンアテン(アテンに有益なる者)と改名し、唯一神アテン(太陽円盤)の崇拝を推進。テーベのアメン神官団の権力を排除するため、新都アケトアテン(現アマルナ)を建設して
エジプト・アマルナ
紀元前1332年頃
ツタンカーメンの即位と伝統回帰
アクエンアテンの死後、幼くして即位したツタンカーメン(当初ツタンカーテン)は、アメン神官団と重臣アイ・ホレムヘブの影響下でアテン信仰を放棄し、伝統的な多神教に復帰。首都をテーベに戻し、アメン神殿の修復
エジプト・テーベ
紀元前1264年頃
アブ・シンベル神殿の建設
ラムセス2世がヌビア南端に建設した巨大岩窟神殿。正面に高さ約20mのラムセス2世の座像4体が並ぶ。隣接して王妃ネフェルタリのための小神殿も建設された。1960年代のアスワン・ハイ・ダム建設に伴い、ユネ
エジプト・アブ・シンベル
紀元前1178年頃
海の民の侵入とエジプトの防衛
第20王朝のラムセス3世が、東地中海全域を荒廃させた「海の民」の大規模侵入をエジプト国境で撃退した。ナイルデルタの水上戦と陸上戦の二方面で決定的勝利を収め、ペリシテ人、テケル人、デニェン人などの連合軍
エジプト・ナイルデルタ
紀元前747〜656年
ヌビア(クシュ)によるエジプト支配(第25王朝)
ヌビアのクシュ王国のピアンキ(ピイ)王がエジプトに侵攻し、分裂状態にあったエジプトを統一して第25王朝(ヌビア王朝)を樹立した。クシュの王たちはエジプトの伝統的な王権を尊重し、ピラミッド建設やアメン信
エジプト・テーベ〜ヌビア
紀元前671年
アッシリアのエジプト侵攻
アッシリア王エサルハドンがエジプトに侵攻し、メンフィスを占領してヌビア第25王朝のタハルカ王を追放した。続くアッシュルバニパル王の遠征(紀元前663年)ではテーベが徹底的に略奪・破壊された。この事件は
エジプト・メンフィス〜テーベ
紀元前380年頃〜550年
フィラエ島のイシス神殿
ネクタネボ1世からローマ時代にかけて建設されたイシス女神の主要な祭祀中心。プトレマイオス朝・ローマ期に大規模に拡充され、地中海世界全域からのイシス信仰の巡礼地となった。エジプト古来の宗教が最後まで存続
エジプト・フィラエ
紀元前331年
アレクサンドリアの建設
アレクサンドロス大王がエジプト征服後、建築家ディノクラテスの設計によりナイルデルタ西端に新都市を建設。碁盤目状の計画都市として設計され、最盛期には人口50万を超えた。プトレマイオス朝の首都となり、ムセ
エジプト・アレクサンドリア
紀元前295年頃
アレクサンドリア図書館の設立
プトレマイオス1世ソテルが創設し、プトレマイオス2世フィラデルフォスが拡充したムセイオン(学術殿堂)付属の図書館。最盛期には40万〜70万巻のパピルス巻物を所蔵したとされる。エウクレイデス(幾何学)、
エジプト・アレクサンドリア
紀元前280年頃
ファロス灯台の建設
プトレマイオス2世の命で建築家ソストラトスが設計・建設した高さ約120〜140mの灯台。古代世界の七不思議の一つ。三段構造(下部は四角形、中部は八角形、上部は円筒形)で、頂上の火による光は50km以上
エジプト・アレクサンドリア
紀元前196年
ロゼッタ・ストーンの原碑文制定(プトレマイオス5世即位記念)
プトレマイオス5世の即位を記念する神官会議の勅令が、ヒエログリフ、デモティック(民衆文字)、ギリシャ語の三言語で石碑に刻まれた。1799年にナポレオンのエジプト遠征中にロゼッタで発見され、1822年に
エジプト・メンフィス
紀元前51〜30年
クレオパトラ7世の治世
プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ7世は、卓越した知性と政治手腕でエジプトの独立を維持しようとした。カエサルとの同盟(カエサリオンを出産)、続いてマルクス・アントニウスとの同盟を結び、ローマの勢力
エジプト・アレクサンドリア
紀元前30年
ローマのエジプト属州化
クレオパトラとアントニウスの死後、オクタウィアヌスがエジプトをローマの属州として編入。ただし他の属州と異なり、皇帝の個人的領地として直轄統治され、元老院議員の入国すら禁じられた。エジプトの穀物はローマ
エジプト・アレクサンドリア
969年
ファーティマ朝のカイロ建設
イスマーイール派シーア派のファーティマ朝がチュニジアからエジプトを征服し、将軍ジャウハルが新都カイロ(アル・カーヒラ=「勝利者」)を建設した。宮殿都市として設計され、アル・アズハル・モスク(後の大学)
エジプト・カイロ
970年
アル・アズハル大学の創設
ファーティマ朝の将軍ジャウハルがカイロ建設と同時に創設したモスク兼学院。当初はイスマーイール派の教義普及のための機関であったが、アイユーブ朝以降はスンニ派の最高学府に転換。イスラム法学、神学、アラビア
エジプト・カイロ
1171〜1250年
サラーフッディーンのアイユーブ朝建国
クルド人出身のサラーフッディーン(サラディン)がファーティマ朝の宰相として権力を握り、シーア派カリフを廃してスンニ派のアイユーブ朝を建国。1187年のハッティーンの戦いで十字軍を撃破し、エルサレムを奪
エジプト・カイロ
1250〜1517年
マムルーク朝の成立
トルコ系・チェルケス系の軍人奴隷(マムルーク)がアイユーブ朝の将軍として実権を握り、最後のアイユーブ朝スルタンを排除して独自の王朝を建国。1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退し、十
エジプト・カイロ
1260年〜1517年
マムルーク朝のアイン・ジャールートの戦い後のシリア・エジプト支配
マムルーク朝はアイン・ジャールートの勝利後、エジプトとシリアを統一支配した。奴隷出身の軍人(マムルーク)が支配階級を構成する独特の体制で、スルタン位は実力主義で継承された。1291年にアッコを陥落させ
エジプト・カイロ
1517年
セリム1世のマムルーク朝征服
オスマン帝国のセリム1世はチャルディラーンの戦い(1514年)でサファヴィー朝を破った後、マムルーク朝に矛先を転じた。マルジュ・ダービクの戦いとリダーニーヤの戦いでマムルーク軍を撃破し、エジプト・シリ
エジプト・カイロ
1517年
オスマン帝国のエジプト征服
オスマン帝国のセリム1世がマムルーク朝を滅ぼしエジプトを征服。1516年のマルジュ・ダービクの戦い(シリア)と1517年のリダーニヤの戦い(エジプト)でマムルーク軍を火器の優位により撃破。最後のマムル
エジプト・カイロ
1798〜1801年
ナポレオンのエジプト遠征
ナポレオン・ボナパルトがイギリスのインド航路を断つために3万8千の兵と167人の学者・芸術家を率いてエジプトに遠征。ピラミッドの戦いでマムルーク軍を撃破しカイロを占領したが、ネルソンのアブキール湾の海
エジプト・カイロ
1805〜1849年
ムハンマド・アリーの権力掌握と近代化改革
アルバニア系オスマン軍人ムハンマド・アリーがエジプト総督(ワーリー)として権力を握り、1811年にシタデルの宴でマムルーク指導者を一掃。ヨーロッパ式の軍制改革、工業化(繊維工場)、教育改革(留学生派遣
エジプト・カイロ
1859〜1869年
スエズ運河の建設と開通
フランス人外交官フェルディナン・ド・レセップスの主導でスエズ運河が建設された。全長約164km、幅22m(当初)。約150万人のエジプト人労働者が動員され、多数の犠牲者を出した。1869年11月17日
エジプト・スエズ地峡
1869年
スエズ運河の開通
フェルディナン・ド・レセップスの主導で1859年に着工し、1869年11月17日に開通。約150万人の労働者(多くはエジプト人の強制労働)が10年にわたり建設に従事し、約12万人が死亡したとされる。開
エジプト・中東
1882年
イギリスのエジプト占領
エジプト民族主義将校アフマド・アラービー・パシャの反乱を口実に、イギリス軍がエジプトに軍事介入。アレクサンドリアの砲撃とテル・エル・ケビールの戦いでエジプト軍を撃破し、カイロを占領した。形式的にはオス
エジプト・カイロ
1942年10-11月
エル・アラメインの戦い
モントゴメリー元帥率いるイギリス第8軍が、ロンメル元帥のアフリカ軍団を決定的に撃破した。12日間の戦いでロンメルは撤退を開始し、枢軸国の北アフリカにおける攻勢能力は失われた。チャーチルは「これは終わり
エジプト・エル・アラメイン
1952年
エジプト1952年革命(自由将校団のクーデター)
ガマール・アブドゥル・ナセルを実質的指導者とする自由将校団がクーデターを起こし、国王ファルーク1世を追放。ムハンマド・アリー朝を廃止して共和制を宣言。土地改革、工業化、外国軍の撤退を推進し、1956年
エジプト・カイロ
1956年
スエズ危機(第二次中東戦争)
ナセルがスエズ運河を国有化したことに対し、イギリス・フランス・イスラエルが秘密協定(セーヴル議定書)を結び軍事介入。イスラエルがシナイ半島に侵攻し、英仏がスエズ運河地帯に上陸した。しかしアメリカとソ連
エジプト・スエズ
1960〜1970年
アスワン・ハイ・ダム建設
ソ連の技術・資金援助により建設された巨大ダム。高さ111m、全長3830m。ナイルの洪水を制御し、通年灌漑と水力発電(設備容量2100MW)を実現。一方でナセル湖の形成によりヌビアの遺跡群(アブ・シン
エジプト・アスワン
1973年
ヨム・キプール戦争と石油ショック
ユダヤ教の最も神聖な祝日ヨム・キプール(贖罪の日)にエジプトとシリアがイスラエルに奇襲攻撃。初期のアラブ軍の成功にもかかわらず、イスラエルは米国の緊急軍事支援を受けて反攻に転じた。OPEC(アラブ石油
エジプト・シナイ半島
2011年
エジプト革命(タハリール広場)
チュニジアのジャスミン革命に触発され、2011年1月25日からタハリール広場で大規模な反政府デモが開始。「パンと自由と社会正義と人間の尊厳を」のスローガンのもと、18日間にわたる抗議の末、2月11日に
エジプト・カイロ

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