朝鮮の歴史
33件の歴史的出来事
1392年
朝鮮王朝の建国と漢陽遷都
李成桂が高麗を倒して朝鮮を建国。1394年に漢陽(現在のソウル)に遷都し、景福宮を建設した。建国の理念は鄭道伝ら新進儒者が設計した性理学に基づく理想国家の実現であり、仏教を排して儒教を国是とした。国号
朝鮮・漢陽(ソウル)
15世紀〜19世紀
朝鮮白磁の発展
朝鮮王朝は儒教の質素な美学を反映した白磁を王室・官府の公式陶磁器とした。純白の白磁から、青花(コバルトブルー)白磁、鉄砂白磁、辰砂(赤)白磁へと多様に展開。「月壺」と呼ばれる大型の白磁壺は柳宗悦が「世
朝鮮・広州(京畿道)
1394年
宗廟の建設と宗廟祭礼楽
朝鮮王朝歴代の王と王妃の神位を祀る王家の廟。正殿に19室、永寧殿に16室の神室を持つ。毎年5月に行われる宗廟祭礼は、儒教の祭祀儀礼の原型をほぼ完全に残す世界唯一の事例。宗廟祭礼楽は編鐘・編磬などの雅楽
朝鮮・漢陽
1395年
景福宮の建設
朝鮮太祖の命により鄭道伝が設計した朝鮮王朝の正宮。勤政殿(正殿)、思政殿(便殿)、慶会楼(宴会場)、香遠亭(後苑の楼閣)など、儒教的政治理念に基づく空間配置。壬辰倭乱で全焼し、1865年に大院君により
朝鮮・漢陽
1405年
昌徳宮と秘苑の造営
朝鮮第3代王・太宗が建設した離宮。壬辰倭乱後は景福宮に代わって正宮として約270年間使用された。仁政殿・大造殿・楽善斎などの殿閣と、芙蓉池・不老門・演慶堂などの後苑施設が自然と調和した空間を創出。19
朝鮮・漢陽
1413年〜1865年
朝鮮王朝実録の編纂
朝鮮王朝の太祖から哲宗まで25代472年間の記録。1,893巻888冊に及ぶ世界最大規模の単一王朝の年代記。国王すら閲覧できない厳格な秘密保持原則により、史官は権力に屈せず事実を記録した。1997年に
朝鮮・漢陽
1432年〜1442年
世宗大王の科学技術振興
世宗の治世に朝鮮の科学技術が飛躍的に発展。測雨器(世界初の雨量計、1441年)、渾天時計(自動天文時計)、簡儀(天体観測器)、自撃漏(自動水時計)、仰釜日晷(日時計)などが蒋英実ら技術者によって開発さ
朝鮮・漢陽
1443年(公布1446年)
世宗大王によるハングル(訓民正音)の創制
朝鮮第4代王・世宗が独自の文字体系「訓民正音」を創制。28字(現在は24字)の音素文字で、「知恵ある者は朝の間に、愚かな者でも10日で学べる」とされる合理的な体系。1446年に『訓民正音解例本』として
朝鮮・漢陽
15世紀
海印寺蔵経板殿の建築
高麗大蔵経の経板8万余枚を保管するために建設された収蔵施設。窓の配置と大きさを南北面で変えて自然な空気循環を実現し、床下に調湿材を敷いて湿度を一定に保つ。近代的な空調技術なしに木版を完璧に保存する「科
朝鮮・海印寺(伽耶山)
1498年〜1545年
士禍(四大士禍)
朝鮮前期に4度にわたって新興の士林派が勲旧派により大量粛清された事件。戊午士禍(1498年)、甲子士禍(1504年)、己卯士禍(1519年、趙光祖の粛清)、乙巳士禍(1545年)。しかし士林派は地方の
朝鮮・漢陽
1543年〜
書院文化の発展と陶山書院
朝鮮の書院は私設の儒学教育機関兼先賢祭祀施設。1543年に周世鵬が白雲洞書院(紹修書院)を設立したのが最初。以後全国に700以上の書院が建立された。退溪の陶山書院、栗谷の紹賢書院など、各学派の拠点とし
朝鮮・安東
16世紀中頃
退溪李滉と性理学の大成
退溪李滉(1501-1570年)は朝鮮性理学を大成した最大の儒学者。朱子学を朝鮮の風土に即して再解釈し、「理気互発説」を提唱。理(道徳的原理)の能動性を強調し、栗谷李珥の「気発理乗一途説」と大論争を展
朝鮮・安東
16世紀後半
栗谷李珥の学問と改革思想
栗谷李珥(1536-1584年)は退溪と並ぶ朝鮮最大の儒学者。「気発理乗一途説」を唱え、気(物質的エネルギー)の能動性を強調。社会改革にも積極的で、十万養兵説を唱えて国防強化を訴えたが容れられず、その
朝鮮・坡州
1592年
李舜臣の閑山島海戦
朝鮮水軍の統制使・李舜臣が閑山島沖で日本水軍を大破。鶴翼の陣形で73隻の日本船を包囲し、47隻を撃沈した。この勝利により日本軍の海上補給路は遮断され、戦争の趨勢が大きく変わった。壬辰倭乱における朝鮮側
朝鮮・閑山島
1597年
李舜臣の鳴梁海戦
丁酉再乱(慶長の役)で元均の敗死により朝鮮水軍が壊滅した後、白衣従軍していた李舜臣が再び統制使に任命された。わずか13隻の船で133隻の日本水軍に挑み、鳴梁海峡の潮流を利用して31隻を撃沈する大勝利を
朝鮮・鳴梁(珍島海峡)
1607年〜1811年
朝鮮通信使(12回の日本派遣)
壬辰倭乱後の日朝関係修復のため、朝鮮が日本に12回にわたって派遣した外交使節団。300-500人規模の大使節団で、外交交渉のみならず文化交流の場としても機能。儒学者・画家・医者が同行し、各地で日本の文
朝鮮・漢陽〜日本・江戸
1636年〜1637年
丙子胡乱(清の侵入)
清の太宗ホンタイジが12万の大軍で朝鮮に侵入。仁祖は南漢山城に籠城するも47日後に降伏し、三田渡で清の太宗に三跪九叩頭の礼を行う屈辱を受けた。朝鮮は清への臣従と明との断交を強要され、王子2人が人質とし
朝鮮・南漢山城
1724年〜1800年
英祖・正祖の蕩平策
朝鮮第21代王・英祖と第22代王・正祖が約76年間にわたって推進した政治改革。朋党間の均衡人事(蕩平策)により、老論・少論・南人・北人の党派対立の調整を図った。正祖は奎章閣を設置して国王直属の学問・政
朝鮮・漢陽
18世紀前半
鄭敾の真景山水画
謙斎・鄭敾(1676-1759年)は「真景山水画」の創始者。中国の理想的山水を描く伝統から離れ、金剛山・仁王山などの朝鮮の実景を独自の筆法で描いた。代表作『金剛全図』『仁王霽色図』は朝鮮絵画の最高傑作
朝鮮・漢陽
18世紀中頃
パンソリの発展
一人の唱者(広大)が鼓手の太鼓伴奏に合わせ、歌(唱)・語り(アニリ)・身振り(バルリム)で物語を演じる韓国独自の音楽劇。最長8時間に及ぶ大作もある。現存する5曲は春香歌・沈清歌・興夫歌・水宮歌・赤壁歌
朝鮮・全羅道〜全国
1762年
思悼世子の悲劇(壬午禍変)
朝鮮第21代王・英祖が息子の世子(思悼世子、荘献世子)を米櫃(ティジュ)に閉じ込めて8日後に餓死させた事件。英祖と世子の間の深刻な父子対立、老論派の世子排除の画策が背景にある。世子の妃・恵慶宮洪氏の回
朝鮮・漢陽(昌慶宮)
18世紀後半
金弘道と申潤福の風俗画
檀園・金弘道(1745-1806年頃)は農民・職人・庶民の生活を生き生きと描いた風俗画で知られる。『씨름図(相撲図)』『書堂図』など25点の風俗画帖は国宝に指定。蕙園・申潤福(1758-?)は妓生や遊
朝鮮・漢陽
1784年〜1801年
天主教の伝来と辛酉迫害
1784年、李承薫が北京で洗礼を受けて帰国し、朝鮮初のカトリック信者となった。「西学」として知識人層に広まったが、祖先祭祀の拒否が儒教秩序への挑戦と見なされた。辛酉迫害(1801年)では中国人神父・周
朝鮮・漢陽
1794年〜1796年
正祖の水原華城建設
朝鮮第22代王・正祖が父・思悼世子(荘献世子)の墓を水原に移し、その周囲に新都市・華城を建設。丁若鎔(茶山)が設計を担当し、挙重機(クレーン)を用いた当時最先端の建設技術を導入。城壁の総延長は5.74
朝鮮・水原
1801年〜1818年
丁若鎔(茶山)と実学の集大成
丁若鎔(1762-1836年)は朝鮮最大の実学者。18年間の流配生活中に500余巻の著作を完成。『牧民心書』(地方行政論)、『経世遺表』(国家制度改革論)、『欽欽新書』(法学)の三大著作のほか、農学・
朝鮮・康津(全羅道)
1860年
東学の創始
没落両班の崔済愚(1824-1864年)が「西学」(天主教)に対抗する「東学」を創始。「人乃天」(人がすなわち天)の思想は人間の平等と尊厳を説き、下層民に広まった。崔済愚は1864年に処刑されたが、東
朝鮮・慶州
1866年
大院君の鎖国政策と丙寅洋擾
摂政・興宣大院君がフランス人宣教師9名と朝鮮人カトリック信者約8,000人を処刑(丙寅迫害)。フランスはこれに報復してロズ提督率いる艦隊を派遣し江華島を攻撃した。朝鮮軍は頑強に抵抗し、フランス軍は撤退
朝鮮・江華島
1875年〜1876年
江華島事件と日朝修好条規
日本の軍艦・雲揚号が江華島付近で朝鮮側砲台と交戦した事件。翌1876年、日本はこれを口実に朝鮮に開国を迫り、日朝修好条規(江華島条約)を締結。朝鮮は釜山・仁川・元山の3港を開港し、日本の領事裁判権を認
朝鮮・江華島
1882年
壬午軍乱
開化政策への不満と給料の遅配に怒った旧式軍隊の兵士が反乱。日本公使館を襲撃し、日本人教官・堀本礼造らを殺害。大院君が一時的に政権を回復したが、清が3,000の軍を派遣して鎮圧し、大院君を天津に連行した
朝鮮・漢陽
1883年〜1910年
朝鮮の近代教育と新式学校の設立
1883年の同文学(英語学校)設立を皮切りに、近代的な教育制度が導入された。アメリカ人宣教師アペンゼラーが培材学堂(1885年)、スクラントンが梨花学堂(1886年、韓国初の女子教育機関)を設立。甲午
朝鮮・漢陽
1884年
甲申政変
金玉均・朴泳孝ら開化派が日本公使・竹添進一郎の支援を受けてクーデタを敢行。新政権を樹立し14か条の改革綱領を発表したが、袁世凱率いる清軍の介入によりわずか3日で失敗。金玉均は日本に亡命し、10年後に上
朝鮮・漢陽
1894年
甲午農民戦争(東学党の乱)
全琫準率いる東学農民軍が不正な地方官への抗議から蜂起。黄土峴で官軍を破り全州を占領。朝鮮政府が清に援軍を要請すると日本も出兵し、日清戦争の直接的原因となった。農民軍は12か条の弊政改革案を掲げ、身分制
朝鮮・全羅道
1895年
閔妃暗殺(乙未事変)
日本公使・三浦梧楼の指揮の下、日本人壮士と訓練隊兵士が景福宮に侵入し、朝鮮王妃・閔妃(明成皇后)を殺害。遺体を焼却するという残虐な犯行であった。ロシアに接近して日本の影響力排除を図る閔妃を除去する目的
朝鮮・漢陽(景福宮)