ドイツの歴史
28件の歴史的出来事
955年8月10日
レヒフェルトの戦い
東フランク王オットー1世がアウクスブルク近郊でマジャール(ハンガリー)の大軍を決定的に撃破した。ドイツ各地から集結した約8000の重装騎兵が、マジャール騎兵の背面攻撃を退けた後に総反撃を行い、マジャー
ドイツ・バイエルン
1450年頃
グーテンベルクの活版印刷術の発明
ヨハネス・グーテンベルクが可動活字による活版印刷術を実用化した。鋳造活字、油性インク、ワイン圧搾機を改良した印刷機の三要素を組み合わせた革新。1455年頃に「42行聖書(グーテンベルク聖書)」約180
ドイツ・マインツ
1517年10月31日
マルティン・ルターの95ヶ条の論題
アウグスティヌス会修道士マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の論題を掲示し(伝承)、贖宥状(免罪符)販売を批判した。「信仰のみ(ソラ・フィデ)」「聖書のみ(ソラ・スクリプトゥラ)」
ドイツ・ヴィッテンベルク
1521年4月
ヴォルムス帝国議会
皇帝カール5世の前にルターが召喚され、著書の撤回を求められた。ルターは「ここに我は立つ。我にはこれ以外のことはできない。神よ助けたまえ」と述べて撤回を拒否したとされる。ヴォルムス勅令によりルターは帝国
ドイツ・ヴォルムス
1648年10月24日
ウェストファリア条約
三十年戦争を終結させた講和条約。主権国家の平等と内政不干渉の原則を確立し、近代国際法と国際関係の基礎を形成した。帝国内の300以上の領邦に実質的な主権を認め、カルヴァン派を公認宗教に追加。スウェーデン
ドイツ・ヴェストファーレン
1727年
バッハ『マタイ受難曲』
ヨハン・セバスティアン・バッハがライプツィヒの聖トーマス教会カントルとして作曲した大規模な受難曲。2つの合唱団・オーケストラ、独唱者を配した壮大な構成で、マタイ福音書のイエスの受難を劇的に描写。メンデ
ドイツ・ライプツィヒ
1781年
カント『純粋理性批判』
イマヌエル・カントが認識論の根本的転換を行った哲学の主著。経験論と合理論を総合し、人間の認識は感性と悟性の協働によって成立すると論じた。「コペルニクス的転回」として、対象が認識に従うのではなく、認識が
ドイツ・ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)
1873-1890年
ビスマルクの同盟体制
ビスマルクは三帝同盟(独墺露、1873年)、独墺同盟(1879年)、三国同盟(独墺伊、1882年)、再保障条約(独露、1887年)を重層的に締結し、フランスの孤立を維持しつつヨーロッパの平和を保った。
ドイツ・ベルリン
1878年
ベルリン会議
露土戦争後のサン・ステファノ条約を修正するため開催された国際会議。ロシアが作った大ブルガリアを三分割し、オーストリアにボスニア・ヘルツェゴビナの管理権を付与、イギリスにキプロスを確保させた。セルビア、
ドイツ・ベルリン
1883-1889年
ビスマルクの社会保険制度
ビスマルクが社会主義者鎮圧法(1878年)と並行して導入した世界初の包括的社会保険制度。疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年)の三法により、労働者の生活保障
ドイツ・ベルリン
1884〜1885年
ベルリン会議(アフリカ分割)
ビスマルクの主催により14カ国(アフリカからの参加者なし)がベルリンに集まり、アフリカ大陸の植民地分割のルールを策定。「実効支配の原則」により、領有の主張には現地での実際の支配が必要とされた。コンゴ川
ドイツ・ベルリン
1918-1919年
ドイツ革命
キール軍港の水兵反乱に端を発し、各地で労兵評議会が樹立された。シャイデマン社会民主党幹事が帝国議会のバルコニーから共和国を宣言。ヴィルヘルム2世は退位・亡命した。しかしスパルタクス団(ローザ・ルクセン
ドイツ・ベルリン
1923年
ワイマール共和国のハイパーインフレーション
フランスのルール占領に対する受動的抵抗(ストライキ)への賃金支払いのために大量の紙幣が増刷され、天文学的なインフレーションが発生。1923年11月には1ドル=4兆2千億マルクに達した。レンテンマルクの
ドイツ・ベルリン
1923年11月
ミュンヘン一揆(ビアホール暴動)
ヒトラーがルーデンドルフと共にバイエルン政府を転覆しベルリンへの進軍を企てたクーデター未遂。ビアホールで演説中のバイエルン州首相らを拘束したが、翌日のデモ行進中に警察の発砲で16人のナチ党員が死亡し、
ドイツ・ミュンヘン
1933年1月30日
ヒトラーの首相就任
ヒンデンブルク大統領がアドルフ・ヒトラーをドイツ帝国宰相(首相)に任命。パーペンら保守派はヒトラーを「コントロール」できると考えたが、ヒトラーは国会議事堂放火事件(2月27日)と全権委任法(3月23日
ドイツ・ベルリン
1933年3月23日
全権委任法(授権法)の成立
正式には「民族と国家の危難を除去するための法律」。政府に4年間の立法権を付与し、議会と大統領の承認なしに法律を制定できる権限をヒトラーに与えた。社会民主党のみが反対し、共産党議員は既に逮捕・地下潜行し
ドイツ・ベルリン
1935年9月15日
ニュルンベルク法の制定
ニュルンベルク党大会で制定された二つの法律。「帝国市民法」はドイツ人の血を持つ者のみを帝国市民と定義し、「ドイツ人の血と名誉の保護に関する法律」はユダヤ人とドイツ人の結婚と性関係を禁止した。ユダヤ人は
ドイツ・ニュルンベルク
1938年9月
ミュンヘン会談
イギリスのチェンバレン、フランスのダラディエ、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーが会談し、チェコスロバキアのズデーテン地方のドイツへの割譲に合意した。チェコスロバキアは交渉に参加を許されなかった
ドイツ・ミュンヘン
1938年11月9-10日
水晶の夜(クリスタルナハト)
在仏ドイツ大使館員のパリでの射殺をきっかけに、ナチス政権が組織的に仕掛けたユダヤ人に対する大規模な暴力行為。約1,400のシナゴーグ、7,500のユダヤ人商店が破壊され、約3万人のユダヤ人男性が強制収
ドイツ・オーストリア全域
1942年1月20日
ヴァンゼー会議
ラインハルト・ハイドリヒが主催し、アドルフ・アイヒマンが議事録を作成した高官会議。ヨーロッパの約1,100万人のユダヤ人を東方に移送し、労働で消耗させるか直接的に殺害する「最終的解決」の行政的調整が議
ドイツ・ベルリン郊外ヴァンゼー
1944-1945年
V-2ロケットの開発と使用
ヴェルナー・フォン・ブラウンが開発した世界初の弾道ミサイルV-2(報復兵器2号)。液体燃料ロケットで高度約80kmに到達し、音速の約5倍で落下するため迎撃不可能であった。1944年9月からロンドンやア
ドイツ・ペーネミュンデ
1945年4-5月
ベルリンの戦い
ジューコフとコーネフの率いるソ連軍約250万人がベルリンに総攻撃を開始。ゼーロウ高地での激戦を経て市内に突入し、建物ごとの市街戦を展開した。4月30日にヒトラーが総統地下壕で自殺し、5月2日にベルリン
ドイツ・ベルリン
1945年2月13-15日
ドレスデン爆撃
英米空軍が文化都市ドレスデンに対して3回にわたる大規模な焼夷弾爆撃を実施。火災旋風が発生し、市中心部は壊滅した。死者数は約2万5千人と推定される(かつては膨大に誇張されていた)。「エルベのフィレンツェ
ドイツ・ドレスデン
1945-1946年
ニュルンベルク裁判
連合国による国際軍事法廷がナチス指導者22名を裁いた史上初の国際戦犯裁判。ゲーリング、リッベントロップ、カイテルら12名に死刑、ヘス、シュペーアらに禁固刑が宣告された。「平和に対する罪」「人道に対する
ドイツ・ニュルンベルク
1948-1949年
ベルリン封鎖と空輸作戦
ソ連が西ベルリンへの陸上・水上交通を全面封鎖。アメリカとイギリスは約11ヶ月にわたり航空機で食料・燃料・物資を空輸する「ベルリン空輸」を実施。約27万回の飛行で約230万トンの物資を輸送した。最盛期に
ドイツ・ベルリン
1961年8月13日
ベルリンの壁建設
東ドイツ政府が西ベルリンを取り囲む壁の建設を開始。最初は有刺鉄線とコンクリートブロックであったが、最終的に高さ3.6mの二重のコンクリート壁、監視塔、地雷原を備えた要塞的構造物に発展した。壁を越えよう
ドイツ・ベルリン
1989年
ベルリンの壁崩壊
1989年11月9日夜、東ドイツ政府報道官ギュンター・シャボウスキーが記者会見で旅行自由化を「即時」と発言したことをきっかけに、数万人の東ベルリン市民が検問所に殺到。国境警備隊は群衆を止められず、ボル
ドイツ・ベルリン
1990年10月3日
ドイツ再統一
「2プラス4条約」(東西ドイツと米英仏ソの6カ国)の締結により、東ドイツが西ドイツに編入される形で再統一が実現した。コール首相の指導力とゴルバチョフの同意が鍵であった。NATOに統一ドイツが残留するこ
ドイツ・ベルリン