中国の歴史

151件の歴史的出来事

約50万年前
北京原人の発見
1929年、裴文中が周口店龍骨山の洞窟から完全な頭蓋骨を発見。ホモ・エレクトス(北京原人、シナントロプス・ペキネンシス)と命名された。約50万年前の人類化石で、火の使用と石器製作の証拠が発見された。し
中国・北京周口店
紀元前5000年〜前3000年頃
仰韶文化(彩陶文化)
1921年にスウェーデンの考古学者アンデルソンが河南省仰韶村で発見した新石器時代文化。黄河中流域を中心に分布し、粟作農業と彩陶(彩色土器)が特徴。半坡遺跡(西安近郊)では円形・方形の竪穴住居、貯蔵穴、
中国・黄河中流域
紀元前3300年〜前2300年頃
良渚文化と玉器文明
良渚文化は長江下流域に栄えた高度な新石器文化。精緻な玉器(琮・璧・鉞)の製作技術が特に優れ、社会的階層分化の証拠を示す。良渚古城は面積約300万m²の巨大な城郭遺跡で、大規模な水利施設(ダム・運河)も
中国・長江下流域
紀元前2500年〜前2000年頃
龍山文化(黒陶文化)
仰韶文化の後に黄河中下流域で発展した新石器文化。高温焼成の黒陶、占いに用いた卜骨、版築城壁の集落が特徴。社会の階層化が進み、初期国家形成の萌芽が見られる。
中国・山東省
紀元前2070年頃〜前1600年頃
夏王朝(二里頭文化)
伝説上の最初の王朝・夏は、禹の治水伝説に始まり、約470年間17代の王が統治したとされる。河南省偃師市の二里頭遺跡が夏の都城跡と推定され、大型宮殿建築基壇、青銅器工房、玉器工房が発見されている。中国最
中国・河南
紀元前1300年〜前1046年頃
殷墟の発見と甲骨文字
殷墟は殷(商)王朝後期の都城遺跡で、盤庚の遷都(紀元前1300年頃)以降約270年間の首都。1928年から発掘が始まり、大量の甲骨文(亀甲・獣骨に刻まれた占卜の文字)が出土。甲骨文は現在確認できる中国
中国・河南省安陽
紀元前1046年頃
牧野の戦い(殷周革命)
紀元前1046年頃、周の武王が殷の紂王を牧野の戦いで破り、殷王朝を滅ぼした。紂王は酒池肉林の暴虐な君主とされ、武王は「天命」の移転を宣言して殷討伐を正当化した。殷軍の兵士は戦意を喪失し寝返ったとされる
中国・河南省
紀元前1042年頃
周公旦の礼制確立
武王の弟・周公旦が幼い成王の摂政として統治。宗法制度(嫡長子相続)と封建制度(諸侯への分封)を整備し、礼楽制度を確立した。管叔・蔡叔の乱を平定し、東方の支配を安定させた。
中国・洛邑(洛陽)
紀元前771年
西周の崩壊と平王の東遷
紀元前771年、西方の異民族・犬戎が鎬京を攻撃し、幽王を殺害。伝説では幽王が褒姒のために烽火を濫用して諸侯の信頼を失ったとされる(烽火戯諸侯)。幽王の子・平王は東の洛邑に遷都し東周が始まった。しかし遷
中国・鎬京→洛邑
紀元前7世紀
春秋五覇の時代
周王室の権威が衰え、有力諸侯が覇者として諸侯を率いた時代。斉の桓公(管仲を登用し「尊王攘夷」)、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践が春秋五覇とされる。会盟による秩序維持が特徴。
中国・黄河流域各地
紀元前6〜5世紀頃
老子と道家思想
老子は道家思想の創始者とされ、『道徳経』(老子)は「道」を万物の根源とする哲学を説いた。「道の道とすべきは常の道に非ず」に始まる81章の短い著作は、無為自然・柔弱謙下の思想を展開。儒教の礼楽制度への批
中国・楚国
紀元前551年〜前479年
孔子と儒教の成立
孔子(紀元前551-479年)は魯国の曲阜に生まれ、仁・礼・孝を核とする儒教思想を創始した。周の理想的な礼楽制度の復興を説き、諸国を歴訪して政治的理想の実現を図ったが失敗。晩年は教育に専念し、弟子30
中国・魯国(山東省曲阜)
紀元前6世紀頃
孫子『兵法』の成立
呉の孫武が著したとされる世界最古の体系的軍事書。全13篇で構成され、「兵は詭道なり」「百戦百勝は善の善なるものに非ず」「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」など普遍的な戦略原理を説く。
中国・呉
紀元前5世紀〜前3世紀
百家争鳴(諸子百家の思想)
春秋戦国時代に多様な思想家が輩出。儒家(孔子・孟子・荀子)、道家(老子・荘子)、墨家(墨子)、法家(韓非子・商鞅)、兵家(孫子)、名家、陰陽家、縦横家(蘇秦・張儀の合従連衡)など。
中国・各地
紀元前356年〜前338年
商鞅の変法(秦の改革)
衛の公族出身の商鞅が秦の孝公のもとで実施した法家思想に基づく国政改革。什伍制(連帯責任制)、軍功爵制(軍功による身分上昇)、県制(封建制の廃止)、度量衡の統一、井田制の廃止と土地の私有化を断行。秦は急
中国・秦国
紀元前260年
長平の戦い
紀元前260年、秦と趙が上党の帰属をめぐり激突。趙の老将廉頗は持久戦を選んだが、趙王は趙括に交代させた。秦の白起は偽退却で趙軍をおびき出し、46日間の包囲の末に趙軍約40万を降伏させた後、坑殺(生き埋
中国・趙国(山西省)
紀元前246年〜前210年頃
兵馬俑の造営
1974年に農民が井戸掘りの際に偶然発見した兵馬俑は、始皇帝の陵墓を守護する約8,000体の等身大の陶製兵士像。一号坑だけで6,000体以上が整然と配置され、歩兵・騎兵・戦車兵・将軍が実戦配置で並ぶ。
中国・陝西省西安
紀元前221年
秦の六国統一と始皇帝
紀元前230年から前221年にかけて、秦王政(のちの始皇帝)が韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を滅ぼし中国を統一。「皇帝」の称号を創始し、郡県制を施行して中央集権体制を確立。度量衡・文字・車軌の統一、馳道
中国・咸陽
紀元前213年〜前212年
焚書坑儒
秦の始皇帝が李斯の建議により、秦の歴史書以外の歴史書と私蔵の詩経・書経を焼却(焚書、前213年)。翌年、方士・儒生460人余りを咸陽で生き埋めにしたとされる(坑儒)。
中国・咸陽
紀元前209年
陳勝呉広の乱
紀元前209年、徭役に駆り出された900人の農民の中から陳勝と呉広が反乱を起こした。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」の檄文は中国史上最も有名な反乱宣言。陳勝は「張楚」を称して王となったが、わずか6ヶ月
中国・安徽省
紀元前206年〜前202年
項羽と劉邦の楚漢戦争・垓下の戦い
秦滅亡後、西楚の覇王・項羽と漢王・劉邦が天下を争った約4年間の戦争。鴻門の会(紀元前206年)で劉邦は暗殺を免れ、以後各地で攻防を繰り返した。紀元前202年、垓下の戦いで韓信の十面埋伏の陣に包囲された
中国・全域
紀元前202年
前漢の建国と劉邦の統治
紀元前202年、劉邦(高祖)が皇帝に即位し漢王朝を建国。長安を首都とし、郡県制と封建制を併用する郡国制を採用した。「約法三章」で秦の苛酷な法治を改め、黄老思想に基づく無為の政治で民力の回復を図った。呂
中国・長安
紀元前180年〜前141年
前漢の文景の治
文帝・景帝の治世。黄老思想(無為自然)に基づく軽税・倹約政策で農業を振興し、秦末の戦乱で疲弊した民力を回復。呉楚七国の乱(前154年)を鎮圧して中央集権を強化。武帝の積極政策の基盤を築いた。
中国・長安
紀元前141年〜前87年
漢武帝の治世と匈奴遠征
漢の武帝(在位紀元前141-87年)は中国史上最も積極的な対外政策を展開。衛青・霍去病らの将軍を用いて匈奴を漠北に駆逐し、河西四郡を設置してシルクロードを開通。南越・朝鮮にも遠征して版図を拡大。内政で
中国・長安〜中央アジア
紀元前136年頃
董仲舒と儒教の国教化
董仲舒が武帝に「罷黜百家、独尊儒術」(百家を退け儒学のみを尊ぶ)を建議。天人感応説(天が皇帝の徳に応じて災異を示す)を唱え、儒教を帝国の統治イデオロギーに格上げ。五経博士が設置された。
中国・長安
紀元前104年〜前91年頃
司馬遷『史記』の編纂
司馬遷(紀元前145-86年頃)が編纂した『史記』は、黄帝から武帝までの約3000年間を記述した中国最初の通史。本紀12巻・表10巻・書8巻・世家30巻・列伝70巻の計130巻で構成。紀伝体(人物中心
中国・長安
8年〜23年
王莽の新朝と赤眉の乱
外戚の王莽が前漢を簒奪して新朝を建国(8年)。周代の制度を復古する理想主義的な改革(土地国有化、奴婢売買の禁止、貨幣改鋳)を断行したがすべて失敗。社会の混乱の中で赤眉の乱(18年〜)・緑林の乱が勃発し
中国・長安
25年
光武帝の後漢建国
劉秀(光武帝)は前漢の宗室の末裔として挙兵し、各地の群雄を平定して25年に後漢を建国。洛陽を首都とし、柔和な統治で戦乱からの復興を図った。奴婢の解放、税の軽減、兵役の免除などの民政に力を入れ、「光武中
中国・洛陽
105年
蔡倫の製紙法改良
105年、宦官の蔡倫が樹皮・麻くず・ぼろ布・古い魚網を原料とする製紙法を改良し、和帝に献上した。紙自体は前漢時代から存在したが、蔡倫の改良により品質が向上し、竹簡や絹に代わる安価な書写材料として広く普
中国・洛陽
132年
張衡の地動儀と天文学
後漢の科学者・張衡が世界初の地震計(候風地動儀)を発明。銅製の壺の外周に8匹の龍を配し、地震波の方向を検知した。また渾天儀(天球儀)を水力で駆動させ、円周率を約3.1622と計算した。
中国・洛陽
166年・169年
党錮の禁と宦官専横
後漢末期、宦官と士大夫(儒学官僚)の対立が激化。166年と169年の二度にわたり、宦官が「党人」と認定した士大夫を投獄・禁錮(公職追放)した。李膺・陳蕃ら「清流」の士大夫が犠牲となった。
中国・洛陽
184年
黄巾の乱
184年、張角が率いる太平道の信者が「蒼天已に死す、黄天当に立つべし」のスローガンのもと大規模反乱を起こした。黄色い頭巾を目印としたため黄巾の乱と呼ばれる。全国36の方から数十万人が一斉蜂起。朝廷は各
中国・華北
208年
赤壁の戦い
208年、曹操の南征軍約20万(自称80万)に対し、孫権と劉備の連合軍約5万が長江の赤壁で迎え撃った。周瑜の指揮のもと、黄蓋の偽降計と火攻めにより曹操の水軍は壊滅的打撃を受け、曹操は北方に撤退した。こ
中国・湖北省
220年
曹丕の魏建国
曹操の死後、子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け、魏を建国。屯田制による農業生産の安定化、九品中正法による官吏登用制度を整備した。華北の政治・経済的中心として約45年間存続。
中国・洛陽
221年
劉備の蜀漢建国
劉備が漢の正統を継承すると称して蜀漢を建国。丞相諸葛亮の補佐のもと内政を整え、魏への北伐を繰り返した。しかし荊州を失い、夷陵の戦いで大敗。263年に魏の鄧艾・鍾会により滅亡。
中国・成都
222年
夷陵の戦い
関羽の仇討ちを名目に劉備が呉に大軍を率いて侵攻。呉の陸遜は持久戦に徹し、蜀軍が疲弊したところで火攻めを敢行。蜀軍は壊滅的敗北を喫し、劉備は白帝城に退いて翌年病没した。
中国・湖北省宜昌
228年〜234年
諸葛亮の北伐と五丈原
諸葛亮は5度にわたり魏への北伐を実行。街亭の戦いでの馬謖の敗北、木牛流馬による補給改善など試みたが、司馬懿の持久戦術に阻まれた。234年、五丈原で陣中に病没。享年54歳。
中国・陝西省宝鶏
229年
孫権の呉建国
孫権が229年に正式に皇帝を称し、建業を都に呉を建国。父孫堅・兄孫策から受け継いだ江東の地盤を基盤とし、長江水軍を最大の軍事力とした。海上交易や山越の開発にも力を注いだ。
中国・建業(南京)
265年
司馬炎の西晋建国
司馬懿の孫・司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて晋(西晋)を建国。280年に呉を滅ぼして約100年ぶりに中国を統一した。しかし一族への分封策が八王の乱を招く原因となった。
中国・洛陽
291年〜306年
八王の乱
西晋の皇族である八人の王が皇帝位をめぐって争った大規模内乱。賈后の専横に端を発し、趙王倫の簒奪を経て各王が次々に兵を挙げた。15年間の戦乱で華北は荒廃し、異民族の傭兵が力を持つようになった。
中国・洛陽を中心に各地
311年
永嘉の乱と西晋滅亡
匈奴の劉聡率いる前趙軍が洛陽を攻略し、懐帝を捕虜とした(永嘉の乱)。316年には長安も陥落して愍帝も捕えられ、西晋は完全に滅亡。華北は異民族支配下に入った。
中国・洛陽
317年
東晋の建国
西晋の皇族・司馬睿が建康に遷り東晋を建国。王導・王敦ら琅琊王氏を中心とした門閥貴族の支持を受けた。「王と馬、天下を共にす」と評される貴族合議体制で約100年間存続。
中国・建康(南京)
353年
書聖・王羲之と六朝文化
東晋の王羲之が永和9年(353年)の蘭亭の宴で『蘭亭序』を書いた。「天下第一行書」と称される書の最高傑作。行書の完成者であり、後世「書聖」と尊称される。原本は唐太宗が殉葬したとされ現存しない。
中国・会稽(紹興)
383年
淝水の戦い
前秦の苻堅が80万と号する大軍で東晋に南征したが、謝安・謝玄率いる東晋の北府兵8万に淝水で大敗。苻堅軍は「風声鶴唳、草木皆兵」のパニックに陥り壊走。中国史上最大級の逆転劇。
中国・安徽省寿県
405年頃
陶淵明と田園詩
東晋末〜宋初の詩人・陶淵明(陶潜)が「帰去来兮辞」で官界からの離脱を宣言。「桃花源記」で理想郷を描き、「飲酒」「帰園田居」など田園生活の詩を多数残した。
中国・江西省九江
460年頃〜
雲岡石窟の開鑿
北魏の文成帝の命を受けた僧・曇曜が武周山の断崖に石窟寺院の造営を開始。曇曜五窟と呼ばれる初期窟には北魏5代の皇帝を模した大仏が安置された。全53窟、5万1千体以上の仏像を有する。
中国・山西省大同
480年頃
祖沖之の円周率計算
南朝宋の数学者・天文学者の祖沖之が円周率を3.1415926〜3.1415927の間と算出。これはヨーロッパが同精度に到達する約1000年前の業績。また大明暦を編纂し、歳差の概念を暦法に導入した。
中国・南朝宋
485年〜
均田制と府兵制の確立
北魏の孝文帝が均田制(国有地を農民に均等配分する制度)を施行。隋唐で府兵制(農民に土地を与え兵役を課す制度)と組み合わせて完成。租庸調制(税制)と三位一体で律令国家の経済的基盤を形成。
中国・華北
493年〜
龍門石窟の造営
北魏の洛陽遷都に伴い造営開始。孝文帝・宣武帝期に宮廷主導で古陽洞・賓陽洞などが開鑿された。唐代には則天武后の寄進で盧舎那仏(高さ17m)が完成。全2345窟、10万体以上の仏像を有する。
中国・河南省洛陽
494年〜499年
北魏孝文帝の漢化改革
鮮卑族の北魏・孝文帝が大規模な漢化政策を断行。494年に洛陽遷都、鮮卑語の禁止、胡服から漢服への改変、鮮卑姓から漢姓への改称(拓跋→元)、漢族との通婚奨励を実施。均田制も整備。
中国・洛陽
548年〜552年
侯景の乱
東魏から梁に亡命した侯景が反乱を起こし建康を攻略。梁の武帝を幽閉して餓死させた。侯景は漢帝を称したが552年に陳覇先らに討伐された。建康は壊滅的被害を受け、南朝の国力は決定的に衰退。
中国・建康(南京)
581年
隋の建国と南北統一
北周の外戚・楊堅が禅譲を受けて隋を建国。589年に南朝の陳を滅ぼし、西晋以来約300年ぶりに中国を統一した。三省六部制・科挙・均田制・府兵制を整備し、後の唐制の基礎を築いた。
中国・長安
605年〜610年
大運河の建設
隋の煬帝が数百万人を動員して大運河を完成。通済渠・永済渠・江南河を開削し、洛陽を中心に北は涿郡(北京)、南は余杭(杭州)を結ぶ大水路網を構築。物資・人員の大量輸送を可能にした。
中国・華北〜江南
618年〜626年
唐の建国と玄武門の変
隋末の混乱の中、太原留守の李淵が挙兵し618年に唐を建国。次男の李世民が軍事的に最大の功績を挙げたが、626年に玄武門の変で兄・李建成と弟・李元吉を殺害し皇太子となった。同年即位して太宗に。
中国・長安
627年〜649年
貞観の治
唐太宗・李世民の治世。魏徴・房玄齢・杜如晦ら賢臣を登用し、諫言を奨励する開かれた政治を行った。律令制度を完成させ、三省六部・科挙・均田制・府兵制を整備。東突厥を滅ぼし「天可汗」の称号を得た。
中国・長安
630年〜894年
遣唐使と東アジア文化圏
日本が約260年間にわたり20回近く派遣した使節団。留学生・留学僧が唐の制度・文化・技術を吸収して持ち帰った。阿倍仲麻呂は玄宗に仕え、鑑真は6度の渡海失敗を経て来日。894年に菅原道真の建議で廃止。
中国・長安
690年〜705年
則天武后の治世
唐高宗の皇后・武則天が中国史上唯一の女帝として即位し、国号を周と改めた。科挙を拡充して寒門出身者を登用し、門閥貴族の勢力を抑制。密告政治で反対派を粛清する一方、対外的には安定した統治を実現。
中国・洛陽
713年〜763年
開元の治と安史の乱
玄宗皇帝は即位後「開元の治」と称される善政を行い、唐は最盛期を迎えた。しかし晩年は楊貴妃に溺れて政治を怠り、755年にソグド系節度使・安禄山が反乱。長安・洛陽が陥落し、玄宗は蜀に逃亡。楊貴妃は馬嵬駅で
中国・長安〜洛陽
8世紀
李白・杜甫と唐詩の黄金時代
「詩仙」李白と「詩聖」杜甫が中国詩歌の頂点を極めた。李白は奔放な浪漫主義で「月下独酌」「蜀道難」を、杜甫は社会批判のリアリズムで「春望」「茅屋為秋風所破歌」を詠んだ。白居易の「長恨歌」「琵琶行」も後世
中国・長安〜各地
780年
両税法の施行
宰相・楊炎の建議により、従来の租庸調制に代わり両税法を施行。夏と秋の年2回、資産額に応じて銭と穀物で徴税する制度。均田制の崩壊と荘園制の拡大を追認し、現実に即した税制に転換した。
中国・全土
845年
会昌の廃仏(三武一宗の法難)
唐の武宗が大規模な仏教弾圧を断行。全国の寺院4600余りを破壊し、僧尼26万人を還俗させた。寺院の所有する田地・奴婢・財宝を没収。「三武一宗の法難」の中で最大規模の廃仏。
中国・長安
875年〜884年
黄巣の乱と唐の滅亡
塩の密売人出身の黄巣が率いた大規模農民反乱。880年に長安を攻略し大斉を建国したが、884年に唐軍と沙陀族・李克用の連合軍に敗れた。乱後も唐は名目的に存続したが907年に朱全忠により滅亡。
中国・長安を中心に全土
936年
燕雲十六州の割譲
後晋の石敬瑭が契丹(遼)の太宗・耶律徳光の支援を得て即位する代償として、燕雲十六州を割譲。石敬瑭は契丹皇帝を「父」と呼ぶ屈辱的関係を受け入れた。
中国・華北
960年
陳橋の変と北宋建国
後周の殿前都点検・趙匡胤が北征中に陳橋で部下に擁立されて即位。黄袍を着せられる形で帝位を受け、後周から禅譲を受けて宋を建国した。その後「杯酒釈兵権」で武臣から兵権を穏便に回収。
中国・開封
961年
杯酒釈兵権
宋太祖・趙匡胤が宴席で功臣の武将たちに引退を勧め、穏便に兵権を回収した故事。「杯酒」で兵権を手放させた巧みな政治手腕。これにより五代の軍人政権の弊害を断ち、文治主義への転換を実現。
中国・開封
1004年
澶淵の盟
契丹(遼)の聖宗が20万の大軍で南侵。宋の真宗が澶州に親征し、遼軍の先鋒指揮官・蕭撻凛が戦死したことで戦況が膠着。両国は兄弟関係を結び、宋が遼に毎年銀10万両・絹20万匹を送る条件で和平。
中国・河南省濮陽
1024年
交子の発行(世界初の紙幣)
北宋政府が四川で民間発行の交子(手形)を公的紙幣として制度化。世界初の政府発行紙幣。当初は兌換紙幣として銅銭との交換を保証していたが、次第に過剰発行によりインフレーションを引き起こした。
中国・四川(成都)
1038年
西夏(タングート)の建国
タングート族の李元昊が皇帝を称し西夏を建国。独自の西夏文字を創製し、仏教を国教として独自の文化を発展させた。宋・遼・金と並立し、1227年にモンゴルのチンギス・カンに滅ぼされた。
中国・寧夏〜甘粛
1040年頃
活版印刷の発明(畢昇)
北宋の畢昇が膠泥(粘土)を用いた活字を発明。沈括の『夢渓筆談』に詳細な記録が残る。個々の文字を粘土で作り、鉄板の上に配列して印刷する方式で、木版印刷に比べ再利用が可能だった。
中国・開封
11世紀
火薬の軍事利用と羅針盤の航海使用
宋代に火薬が本格的に軍事利用され、火箭・震天雷・突火槍などの火器が開発された。『武経総要』(1044年)に火薬の配合が記載。同時期に磁石の方位指示機能が航海に応用され、羅針盤として実用化。
中国・各地
1069年〜1085年
王安石の新法
神宗に登用された王安石が大規模な財政・軍事改革を実施。青苗法(低利融資)、募役法(免役銭)、保甲法(民兵制度)、市易法(物価安定)など。司馬光ら旧法党と激しく対立し、党争が宋の政治を分裂させた。
中国・開封
11世紀後半
蘇軾(蘇東坡)と宋代文学
北宋最大の文人・蘇軾は詩・詞・散文・書画のすべてに秀でた。「赤壁の賦」「水調歌頭」など傑作を残す。唐宋八大家の一人。欧陽脩に見出され文壇の中心となったが、王安石の新法に反対して度々流刑に。
中国・開封〜各地
1088年頃
沈括『夢渓筆談』と宋の科学技術
北宋の博学者・沈括が科学・技術・芸術の知見を集大成した百科的著作『夢渓筆談』を著した。畢昇の活版印刷、磁針の偏角、石油の命名、化石の認識など先駆的な科学的観察を記録。
中国・鎮江
1100年頃
清明上河図と北宋の都市文化
張択端が描いた『清明上河図』は、北宋の首都・開封の汴河沿いの繁栄を全長5mの絵巻に描いた傑作。800人以上の人物、牛馬驢騾、船舶、建築が精密に描写され、宋代の都市生活を生き生きと伝える。
中国・開封
1127年
靖康の変(北宋滅亡)
女真族の金が開封を攻略し、徽宗・欽宗以下3000人以上の皇族・官僚を北方に連行。北宋は滅亡した。徽宗は書画の名手であり文化的皇帝だったが、蔡京らの奸臣を登用して国政を混乱させた。
中国・開封
1134年〜1142年
岳飛の抗金戦争と冤罪死
南宋の将軍・岳飛は精鋭の岳家軍を率いて金軍を度々撃破。「直搗黄龍」(直接金の首都を突くぞ)と叫び北伐を志したが、宰相・秦檜の講和政策により十二道の金牌で召還され、「莫須有」(あったかもしれない)の罪で
中国・長江流域各地
1138年〜1276年
南宋の臨安繁栄と海上貿易
南宋は臨安(杭州)を「行在」(仮の都)と称し首都とした。人口は100万人を超え、マルコ・ポーロに「世界最大最美の都市」と評された。泉州を中心に東南アジア・インド・アラブとの海上貿易が発展。
中国・臨安(杭州)
1141年
紹興の和議
南宋と金の間で締結された和平条約。南宋は金に臣礼(臣下の礼)を取り、毎年銀25万両・絹25万匹を支払う条件。淮河を国境とし、北中国は金の支配下に。岳飛の処刑が和議の前提条件とされた。
中国・臨安(杭州)
1175年〜1200年
朱熹と朱子学の大成
南宋の朱熹が北宋の周敦頤・程顥・程頤の学説を集大成し、理気二元論に基づく体系的な儒学(朱子学・理学)を確立。四書(論語・孟子・大学・中庸)に注釈を付け、科挙の基本テキストとした。
中国・福建省
1267年〜1273年
襄陽の戦い
元軍が南宋攻略の要衝・襄陽を6年間包囲。南宋の呂文煥が籠城を続けたが、元軍はイスラム技術者の設計した回回砲(投石器)を投入し、樊城を破壊。1273年に襄陽も陥落し、南宋の防衛線が崩壊した。
中国・湖北省襄陽
1271年
クビライの元建国と大都建設
モンゴル帝国第5代カアン・クビライが国号を元と定め、大都(現北京)に壮大な都城を建設。劉秉忠の設計による計画都市で、周礼に基づく碁盤目状の都城構造を採用。南宋攻略の前線基地としても機能。
中国・大都(北京)
1275年〜1292年
マルコ・ポーロの元朝訪問
ヴェネツィア商人マルコ・ポーロが父・叔父と共に元のクビライに仕えた。17年間の滞在中に中国各地・東南アジアを歴訪。帰国後に口述した『東方見聞録』はヨーロッパに東方世界への憧憬を広めた。
中国・大都(北京)
1279年
崖山の戦い(南宋滅亡)
南宋の最後の戦い。陸秀夫が幼帝・趙昺を背負い海に身を投じ、10万人以上の将兵・官僚が殉死したと伝えられる。張世傑は脱出を図ったが暴風で水没。中華正統王朝としての宋が完全に滅亡。
中国・広東省新会
1351年〜1368年
紅巾の乱と元の滅亡
白蓮教徒を中心とする紅巾軍が各地で蜂起。韓山童・劉福通らが指導したが内部分裂。朱元璋が群雄の中から台頭し、1363年に鄱陽湖の戦いで陳友諒を撃破。1368年に明を建国し、元を北方に駆逐した。
中国・華中〜華北
1368年
朱元璋の明建国
紅巾の乱から身を起こした朱元璋が南京で明を建国し洪武帝と号した。北伐軍を派遣して元を北方に駆逐し、中国を統一。胡惟庸の獄・藍玉の獄で功臣を粛清し、皇帝独裁体制を確立した。
中国・南京
1380年
胡惟庸の獄と宰相制度の廃止
洪武帝が宰相・胡惟庸を謀反の罪で処刑し、連座者3万人以上を粛清。これを機に千年以上続いた宰相制度を廃止し、皇帝が六部を直接統率する体制を確立。後に藍玉の獄(1393年)でも1万5千人を粛清。
中国・南京
1399年〜1402年
靖難の変と永楽帝即位
洪武帝の孫・建文帝の削藩策に反発した燕王・朱棣が挙兵。3年間の内戦の末に南京を攻略し、建文帝は行方不明となった。朱棣は永楽帝として即位し、後に北京に遷都した。
中国・北京〜南京
15世紀〜16世紀
明代小説の黄金時代
明代に中国四大奇書が成立。『三国志演義』(羅貫中)、『水滸伝』(施耐庵)、『西遊記』(呉承恩)、『金瓶梅』(蘭陵笑笑生)。白話(口語体)小説として大衆に広く読まれ、講談・戯曲の原作ともなった。
中国・各地
1403年〜1408年
永楽大典の編纂
永楽帝の命で解縉らが編纂した世界最大の百科事典。全22,937巻、約3億7千万字を収録。経・史・子・集の全分野にわたる中国の知識を網羅的に収録した。原本は現在ほぼ散逸。
中国・南京〜北京
1406年〜1420年
紫禁城の建設
永楽帝が北京遷都のために建設した世界最大の宮殿群。100万人の労働者を動員し14年をかけて完成。9999.5間と伝えられる部屋数を持ち、太和殿・中和殿・保和殿の三大殿を中心に構成。
中国・北京
1449年
土木の変
宦官・王振に唆された英宗がオイラトのエセン・カン討伐に親征。土木堡でオイラト軍に包囲され、明軍は壊滅的敗北を喫し英宗が捕虜となった。王振は乱戦で殺され、高級官僚多数が戦死。
中国・河北省懐来
1449年
于謙の北京防衛
土木の変で英宗が捕虜となった危機の中、兵部尚書・于謙が北京遷都論を退け防衛を主張。景泰帝を擁立し、オイラト軍の北京攻囲を撃退。英宗帰還後の「奪門の変」で于謙は冤罪で処刑された。
中国・北京
16世紀〜17世紀
景徳鎮磁器と銀の大量流入
明代の景徳鎮は世界最大の磁器生産地となり、年間数百万点を生産。ポルトガル・オランダ・スペインの商人が大量に購入し、メキシコ銀・日本銀が対価として中国に流入。マニラのガレオン貿易が環太平洋の銀経済を形成
中国・江西省景徳鎮
1508年〜1529年
王陽明の陽明学
明の儒学者・王守仁(号・陽明)が朱子学を批判し、心即理・知行合一・致良知を核心とする陽明学を創始。良知(生まれながらの道徳的判断力)を万人が持つとし、実践を重視した。
中国・貴州〜浙江
1555年〜1567年
戚継光の倭寇掃討
明の将軍・戚継光が精鋭の「戚家軍」を率いて倭寇を掃討。鴛鴦陣(11人一組の連携戦法)を編み出し、台州九捷など連戦連勝。兪大猷と共に江南沿岸の倭寇を壊滅させた。
中国・浙江〜福建沿岸
1572年〜1582年
張居正の改革
明の内閣首輔・張居正が万暦帝の幼少期に実権を掌握し大改革を断行。一条鞭法(諸税の銀納一本化)を全国に施行、考成法で官僚の業績評価を厳格化。財政を立て直し国庫に10年分の歳入を蓄積した。
中国・北京
1578年
李時珍『本草綱目』
明の医学者・李時珍が27年の歳月をかけて『本草綱目』を完成。1892種の薬物、11,096の処方を収録した世界最大の薬学書。動植物・鉱物を体系的に分類し、従来の本草書の誤りを修正した。
中国・湖北省蘄春
1583年〜1610年
マテオ・リッチの来華と西洋科学
イエズス会宣教師マテオ・リッチが中国に渡り、儒服を着て中国文化に適応しつつ布教。坤輿万国全図(世界地図)を作製し、ユークリッド幾何学を徐光啓と共訳。西洋天文学・数学・地理学を中国に紹介した。
中国・北京
1588年〜1620年
万暦帝の怠政
張居正の死後、万暦帝は28年間朝廷に出席せず(「万暦怠政」)。官僚の任命を放置して多くのポストが空席のまま放置された。鉱税の徴収に宦官を派遣して民衆の怨嗟を招いた。一方で万暦の三大征には莫大な軍費を費
中国・北京
1604年〜1627年
東林党と閹党の党争
無錫の東林書院を拠点に顧憲成らが政治改革を訴え(東林党)、宦官・魏忠賢率いる閹党と激しく対立。魏忠賢は「九千九百歳」と称され、東林派知識人を大量に投獄・処刑した。崇禎帝即位後に魏忠賢は自殺。
中国・北京〜無錫
1607年〜1633年
徐光啓と西洋科学の導入
明末の官僚・科学者の徐光啓がマテオ・リッチとユークリッド『幾何原本』を共訳(前6巻、1607年)。キリスト教に改宗し、西洋天文学を取り入れた暦法改革を推進。『農政全書』で農業技術を集大成。
中国・上海〜北京
1644年
李自成の乱と明の滅亡
農民反乱軍の指導者・李自成が北京を攻略し大順を建国。崇禎帝は景山で自縊して明は滅亡。しかし李自成は呉三桂の投降に失敗し、呉三桂が引き入れた清軍に敗れて北京を追われた。
中国・北京
1644年
山海関の戦いと清の入関
明の将軍・呉三桂が李自成軍に対抗するため清の摂政ドルゴンに山海関を開放。清軍は山海関を突破して李自成を撃破し、順治帝が北京に入城。約270年にわたる清の中国支配が始まった。
中国・河北省山海関
1645年
揚州十日と辮髪令
清の多鐸率いる軍が揚州を攻略後、10日間にわたり虐殺・略奪を行った(揚州十日)。同時期に「薙髪令」(辮髪令)が発布され、漢人に満州式の辮髪を強制。「髪を留むる者は頭を留めず」の方針で抵抗者を処刑した。
中国・揚州
1661年〜1722年
康熙帝の治世
清の第4代皇帝・康熙帝は61年間在位し、清朝最長の治世を誇った。三藩の乱を平定、台湾を統一、ジュンガルを撃退、ネルチンスク条約でロシアとの国境を画定。科挙を重視し漢人知識人の支持を獲得。
中国・北京
1673年〜1681年
三藩の乱
康熙帝の撤藩令に反発した呉三桂が反乱を起こし、尚・耿も呼応。一時は中国南半分を支配下に置いたが、呉三桂の死後に後継者が降伏し8年間の乱は終結。
中国・雲南〜華南
1722年〜1735年
雍正帝の改革と軍機処設置
康熙帝の第四子・雍正帝が13年間の短い治世で徹底的な行政改革を実行。軍機処を設置して皇帝独裁を強化、養廉銀制度で官僚の汚職を抑制、摊丁入畝で人頭税を廃止して地税に統合した。
中国・北京
1735年〜1796年
乾隆帝の治世と版図の最大化
乾隆帝は60年間在位し、清朝の最盛期を現出。ジュンガル帝国を滅亡させて新疆を征服、チベット・ネパールにも出兵。四庫全書の編纂を命じ、同時に禁書・焚書で思想統制を強化。人口は3億人に達した。
中国・北京
1773年〜1782年
四庫全書の編纂と文字の獄
乾隆帝が命じた中国史上最大の叢書編纂事業。経・史・子・集の四部に分類し、3461種・約8億字を収録。同時に反清的な書物を徹底的に焚書・改竄する「文字の獄」を断行。知識人への思想統制を強化。
中国・北京
1793年
マカートニー使節団
イギリス国王ジョージ3世の使節としてマカートニーが清を訪問。通商拡大・常駐使節の設置・関税引き下げを要求したが、乾隆帝は「天朝は万物を豊かに産する。外夷の貨物を必要としない」と拒絶。
中国・北京〜承徳
1796年〜1804年
白蓮教の乱
白蓮教徒が「弥勒下生」(弥勒仏の降臨)を唱えて蜂起。清軍は鎮圧に8年を要し、軍費2億両を費やした。正規軍の腐敗が露呈し、郷勇(地方民兵)が実質的な戦力となった。
中国・湖北〜四川〜陝西
1839年
林則徐のアヘン没収
道光帝に命じられた欽差大臣・林則徐が広州でイギリス商人からアヘン2万箱以上(約1400トン)を没収し、虎門で石灰を混ぜて海中に廃棄(虎門銷煙)。これがアヘン戦争の直接的原因となった。
中国・広州
1840年〜1842年
アヘン戦争
林則徐のアヘン没収を口実にイギリスが開戦。イギリス海軍は広東から北上し沿岸都市を次々に攻略。清軍は近代兵器に対抗できず大敗。1842年の南京条約で香港割譲、5港開港、賠償金2100万ドルを受諾。
中国・広東〜浙江沿岸
1851年〜1864年
太平天国の乱
洪秀全が独自のキリスト教解釈に基づき「太平天国」を建国。1853年に南京を攻略して天京とし、天朝田畝制度(土地均分)、男女平等、纏足禁止などの革命的政策を掲げた。曾国藩の湘軍・李鴻章の淮軍により186
中国・南京を中心に華中〜華南
1856年〜1860年
アロー戦争と円明園の破壊
アロー号事件を口実にイギリス・フランスが第二次アヘン戦争を開始。1860年に英仏連合軍が北京を占領し、報復として円明園を略奪・焼却。北京条約で天津開港、九龍割譲、外国公使の北京駐在を受諾。
中国・広東〜北京
1860年
円明園の略奪と破壊
アロー戦争の最終段階で英仏連合軍が北京を占領。エルギン卿の命で円明園が3日間にわたり略奪・放火された。数万点の宝物が奪われ、「万園の園」と称された庭園は廃墟と化した。
中国・北京
1861年〜1895年
洋務運動
曾国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞ら漢人官僚が「中体西用」(中国の伝統を本体とし西洋技術を手段とする)をスローガンに近代化を推進。江南製造局、福州船政局、漢陽鉄廠などを建設し北洋艦隊を整備。
中国・各地
1876年〜1878年
左宗棠の新疆回復
洋務派の将軍・左宗棠が新疆に侵入したヤクブ・ベグ政権を討伐し、新疆を回復。1884年に新疆省を設置して中国の直接統治下に。海防論と塞防論の論争で左宗棠は塞防(内陸防衛)を主張して勝利。
中国・新疆
1898年
戊戌の変法(百日維新)
日清戦争の敗北に衝撃を受けた光緒帝が康有為・梁啓超らの建議を採り入れ、明治維新をモデルとする制度改革に着手。103日間で科挙改革・新学校設立・軍制改革など多数の詔書を発した。しかし西太后のクーデターで
中国・北京
1900年〜1901年
義和団事件
「扶清滅洋」(清を助け西洋を滅ぼす)を掲げる義和団が北京の外国公使館を包囲。西太后が列国に宣戦布告する暴挙に出たが、日英米仏独露伊墺の八カ国連合軍に敗北。辛丑条約で巨額の賠償金(4.5億両)を課された
中国・北京〜天津〜山東
1904年〜1905年
日露戦争と日本海海戦
満州・朝鮮の覇権をめぐり日本とロシアが開戦。旅順攻囲戦・203高地の激戦・奉天会戦での陸戦と、日本海海戦での東郷平八郎によるバルチック艦隊の壊滅が戦局を決した。ポーツマス条約で日本は南樺太と満州の権益
中国・満州/対馬海峡
1905年
科挙制度の廃止
清末新政の一環として1300年以上続いた科挙制度が廃止。西洋式の学校教育制度への移行を図った。最後の殿試は1904年に行われ、劉春霖が中国史上最後の状元(首席合格者)となった。
中国・北京
1911年〜1912年
辛亥革命と清朝滅亡
1911年10月10日、武昌の新軍が蜂起し辛亥革命が勃発。各省が清からの独立を宣言し、孫文が南京で中華民国臨時大総統に就任。袁世凱の仲介で宣統帝(溥儀)が1912年2月に退位し、清朝は滅亡。
中国・武昌〜南京〜北京
1914年〜1918年
第一次世界大戦への参戦と二十一カ条の要求
1914年、日本は日英同盟を根拠に第一次世界大戦に参戦し、ドイツの中国権益(山東半島の青島)を占領。1915年には中国に対して二十一カ条の要求を突きつけ、山東半島のドイツ権益の継承、南満洲の権益拡大な
中国・山東半島
1915年〜1916年
袁世凱の帝制復活の挫折
中華民国大総統の袁世凱が帝制復活を宣言し「洪憲帝」を称した。蔡鍔らが雲南で護国戦争を起こし、各省が独立を宣言。内外の反対で83日で帝制を撤回し、袁世凱は1916年に病死。以後、軍閥割拠の時代に突入。
中国・北京
1919年
五四運動
パリ講和会議で日本の山東権益継承が決定したことに反発し、北京大学の学生3000人が天安門前でデモを実施。「外争国権、内懲国賊」をスローガンに全国に拡大。各地でストライキ・不買運動が展開された。
中国・北京
1921年
中国共産党の結成
陳独秀・李大釗らを中心に上海で中国共産党第一回全国代表大会を開催。毛沢東ら13名の代表が参加。コミンテルンの代表マーリンも出席。マルクス・レーニン主義に基づく革命政党として出発した。
中国・上海〜嘉興
1926年〜1928年
北伐と国民革命
蒋介石率いる国民革命軍が広州を出発し北伐を開始。国共合作の下で軍閥を打倒しながら北上。1927年4月、蒋介石は上海で四一二事件(上海クーデター)を起こし共産党を弾圧。1928年に北京入城で名目上の中国
中国・広州〜南京〜北京
1927年4月12日
四一二事件(上海クーデター)
蒋介石が上海で共産党員・労働組合の大弾圧を断行。青幇(秘密結社)と結んで武装工人糾察隊を襲撃し、数千人を殺害。第一次国共合作が崩壊し、以後22年にわたる国共対立が始まった。
中国・上海
1928年6月4日
張作霖爆殺事件
1928年6月4日、関東軍参謀の河本大作大佐らが、北京から奉天に帰還中の張作霖の列車を皇姑屯で爆破し暗殺した。関東軍は張作霖が日本の満洲権益拡大に非協力的になったとして排除を計画。田中義一首相は事件の
中国・奉天
1931年9月18日
満州事変(柳条湖事件)
1931年9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾らが柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し、中国軍の仕業と偽って軍事行動を開始。わずか5ヶ月で満洲全域を制圧した。若槻内閣は不拡大方針を表明したが関東軍の独
中国・満洲
1934年〜1936年
長征
蒋介石の第五次囲剿作戦に包囲された中国共産党が瑞金ソビエトを放棄し、約8万6千人で長征を開始。途中の遵義会議(1935年)で毛沢東が指導権を確立。1年以上かけて延安に到達したのは約8千人。
中国・江西〜貴州〜四川〜陝西
1936年
西安事件
東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で蒋介石を監禁し、内戦停止と一致抗日を要求。共産党の周恩来が調停に入り、蒋介石は第二次国共合作に同意して釈放された。張学良は蒋介石に従い南京に戻り以後半世紀軟禁され
中国・西安
1937年7月7日
盧溝橋事件(日中戦争開始)
1937年7月7日夜、盧溝橋付近で日本軍と中国軍の間で銃撃が発生し、日中全面戦争に発展した。当初は現地解決が図られたが、近衛文麿内閣の対応が二転三転する中で戦線は拡大。8月には第二次上海事変に発展し、
中国・北京
1937年12月
南京事件
1937年12月、日本軍は南京を占領。占領前後に捕虜・敗残兵・民間人に対する大規模な殺害、暴行、略奪が行われた。犠牲者数は日中間で見解が分かれるが、東京裁判では20万人以上、中国側は30万人以上と主張
中国・南京
1937年12月
南京事件(南京大虐殺)
日中戦争で日本軍が中華民国の首都・南京を攻略。占領後、大規模な殺害・暴行・略奪が行われた。中国側は犠牲者30万人以上と主張。日本側の研究では数万〜20万人程度の見解が多い。規模について日中間で見解が分
中国・南京
1937年7月7日
盧溝橋事件と日中戦争の全面化
1937年7月7日夜、盧溝橋付近で日中両軍が交戦し日中戦争が全面化。日本軍は華北・上海・南京を攻略。蒋介石は首都を重慶に遷し持久戦を展開。共産党は延安を拠点にゲリラ戦(百団大戦など)を展開した。
中国・北京郊外
1948年〜1949年
国共内戦・三大戦役
1948年9月から49年1月にかけて遼瀋・淮海・平津の三大戦役が行われ、国民党軍は150万以上の兵力を失った。林彪の東北野戦軍、劉伯承・鄧小平の中原野戦軍が主力。渡江戦役で南京を攻略し、国民党は台湾に
中国・東北〜華北〜華東
1949年10月1日
中華人民共和国の建国
国共内戦に勝利した毛沢東が天安門楼上から「中華人民共和国中央人民政府は本日成立した」と宣言。社会主義国家として建国。蒋介石の国民政府は台湾に撤退。土地改革、反右派闘争、社会主義改造を推進。
中国・北京
1958年〜1962年
大躍進運動と大飢饉
毛沢東が15年でイギリスを追い越すと宣言し大躍進運動を発動。人民公社の設立と土法製鉄を推進。農業生産の水増し報告と農村からの過度な穀物徴発が大飢饉を招き、推定1500万〜5500万人が餓死した。
中国・全土
1966年〜1976年
文化大革命
毛沢東が「資本主義の道を歩む実権派」の打倒を呼びかけ文化大革命を発動。紅衛兵が全国で「破四旧」(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣の破壊)を実行。劉少奇は失脚して獄死、鄧小平も2度失脚。林彪事件(1971
中国・全土
1969年
中ソ対立と珍宝島事件
ウスリー川の珍宝島で中ソ両軍が武力衝突。ソ連はT-62戦車を投入し、核攻撃まで検討された。両国の死傷者は計100人以上。フルシチョフのスターリン批判以来の中ソ関係悪化の頂点。
中国・黒竜江省
1972年9月29日
日中国交正常化
1972年9月29日、田中角栄首相が北京を訪問し、周恩来首相との間で日中共同声明に調印。日本は中華人民共和国を中国の唯一の合法政府と承認し、台湾(中華民国)との外交関係を断絶した。中国は日本に対する戦
中国・北京
1972年
ニクソン訪中と米中接近
1971年のキッシンジャー秘密訪中を経て、1972年2月にニクソン大統領が北京を訪問。毛沢東と会談し上海コミュニケを発表。「一つの中国」原則を確認し、米中関係の正常化に向けた歴史的一歩を踏み出した。
中国・北京
1978年
改革開放政策の開始
鄧小平が中共十一期三中全会で改革開放路線を決定。人民公社を解体して農家請負制を導入、深圳・珠海・汕頭・厦門に経済特区を設置。「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕る猫が良い猫だ」と実用主義を唱えた。
中国・深圳を中心に全国
1989年6月4日
天安門事件
胡耀邦の死を契機に学生の民主化要求運動が拡大。天安門広場を中心に100万人規模のデモが展開されたが、6月4日に人民解放軍が武力鎮圧。死者数は数百人〜数千人と推定されるが中国政府は公式発表を行っていない
中国・北京
1992年
鄧小平の南巡講話
天安門事件後の保守化に抗し、引退した鄧小平が南方を視察して改革開放の加速を主張。「発展は硬い道理」「社会主義市場経済」を提唱。この講話を受けて改革が再加速し、中国は高度経済成長の軌道に乗った。
中国・深圳〜珠海〜上海
1997年7月1日
香港返還
155年間のイギリス統治を経て香港が中国に返還された。鄧小平の「一国二制度」方針に基づき、資本主義体制を50年間維持する香港特別行政区が設立。初代行政長官に董建華が就任。
中国・香港
2008年
北京オリンピック
北京で第29回夏季オリンピックが開催。開会式は張芸謀が演出し、中国の歴史と文化を壮大に表現。中国は金メダル51個を獲得して1位に。大国としての復活を世界に印象づけた。総費用は約400億ドル。
中国・北京
2013年〜
習近平体制と一帯一路
2012年に中共総書記に就任した習近平が反腐敗運動を推進しつつ権力を集中。2013年に一帯一路構想を提唱し、インフラ投資を通じた国際的影響力の拡大を図る。2018年に国家主席の任期制限を撤廃。
中国・北京
2019年12月-
COVID-19パンデミック
2019年12月に中国・武漢で新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による感染症が初めて確認された。2020年1月にWHOが「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言、3月にパンデミックを宣
中国・武漢(発生地)、世界全域

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