朝鮮半島の歴史
37件の歴史的出来事
紀元前2333年頃(伝承)
古朝鮮(檀君朝鮮)の建国伝説
『三国遺事』に記される檀君王倹による古朝鮮建国の伝説。天帝桓因の子・桓雄が太白山に降臨し、熊女との間に生まれた檀君が阿斯達に都を開いたとされる。歴史学的には青銅器時代の部族連合国家の成立を反映する建国
朝鮮半島・平壌
紀元前194年頃
衛氏朝鮮の建国
燕の亡命者・衛満が準王を追放し、王険城(現在の平壌付近)を都として建国した。中国の鉄器文化と先進的な政治制度を導入し、周辺の真番・臨屯などの部族を従属させて勢力を拡大した。漢との冊封関係を結びつつも独
朝鮮半島・平壌
4世紀〜7世紀
高句麗壁画古墳群
高句麗の貴族墓に描かれた壁画群。四神図(青龍・白虎・朱雀・玄武)、狩猟図、生活風俗図、飛天図など多様な主題を含む。江西大墓の四神図は東アジア壁画芸術の最高傑作とされる。集安と平壌に約100基が確認され
高句麗・国内城〜平壌
391年〜413年
広開土大王の征服事業
高句麗第19代王・広開土大王(好太王)は在位中に64城1400村を征服したと碑文に記される。後燕を破って遼東を確保し、南方では百済を攻撃して漢江以北を奪取。新羅の要請に応じて倭軍を撃退した。息子の長寿
高句麗・満州〜朝鮮半島
5世紀〜6世紀
慶州の古墳群(天馬塚・大陵苑)
慶州市内に約200基以上が現存する新羅王族・貴族の古墳群。天馬塚(1973年発掘)からは天馬図を描いた馬鞍垂飾、金冠、金帯などが出土。皇南大塚(双円墳)からは約3万点の遺物が出土した。金冠は新羅独自の
新羅・慶州
427年
長寿王の平壌遷都
高句麗第20代王・長寿王が国内城(現在の中国吉林省集安)から平壌に都を移した。これは高句麗の国家戦略が満州から朝鮮半島に重心を移したことを示す。長寿王は在位79年(413-491年)と朝鮮史上最長在位
高句麗・平壌
520年頃
新羅の骨品制の確立
新羅の法興王(在位514-540年)が律令を頒布し、骨品制を公的制度として整備した。聖骨・真骨・六頭品〜一頭品の身分序列で、就任可能な官位、住居の大きさ、衣服の色まで細かく規定した。王位は当初聖骨のみ
新羅・慶州
523年
武寧王陵の築造
百済第25代王・武寧王(在位501-523年)とその王妃の合葬墓。1971年に未盗掘の状態で発見され、約5000点の副葬品が出土した。中国南朝様式の煉瓦積み横穴式石室墓で、金製冠飾り、銅鏡、中国製陶磁
百済・公州(熊津)
553年
新羅の真興王による領土拡大
新羅第24代王・真興王は百済と同盟して高句麗領の漢江上流域を奪取した後、同盟を破棄して百済が獲得していた漢江下流域をも占領した。さらに大伽耶を滅ぼし(562年)、洛東江流域を完全に統合。征服地に巡狩碑
新羅・朝鮮半島中部
576年
新羅の花郎道
新羅の真興王が花郎道を公的制度として確立。貴族の青年を花郎(花郎徒)として組織し、山川遊歴を通じた心身鍛錬、歌舞、仏教修行、軍事訓練を行った。圓光法師の「世俗五戒」(事君以忠・事親以孝・交友以信・臨戦
新羅・慶州
612年
隋の高句麗遠征の失敗
隋の煬帝は113万の大軍で高句麗に親征したが、乙支文徳の戦略により薩水で壊滅的敗北を喫した。渡河した隋軍30万5千のうち生還者はわずか2,700人と伝えられる。煬帝は3度(612・613・614年)遠
高句麗・遼東〜薩水
645年
安市城の戦い
唐の太宗李世民は自ら15万の軍を率いて高句麗に親征。遼東城・白岩城を陥落させたが、安市城の城主(名は不詳)の頑強な抵抗に遭い88日間の攻城戦の末に撤退を余儀なくされた。太宗は撤退時に安市城主の勇敢さを
高句麗・安市城
660年
百済の滅亡
唐の蘇定方率いる13万の大軍と新羅の金庾信率いる5万の軍が百済を挟撃。百済の義慈王は降伏し、約700年の歴史に幕を閉じた。落花岩の伝説(三千宮女の身投げ)は後世の創作とされるが、百済滅亡の悲劇を象徴す
百済・泗沘(扶余)
663年
白村江の戦い
百済復興軍を支援するため渡海した日本(倭国)の水軍約4万が、唐・新羅連合軍と白村江で激突し大敗した。日本の船400余隻が焼かれ壊滅的な打撃を受けた。この敗戦により日本は朝鮮半島への軍事介入を完全に断念
百済・白村江(錦江河口)
668年
高句麗の滅亡
唐の李勣率いる大軍と新羅軍の合同攻撃により平壌が陥落。宝蔵王が降伏し、約700年の高句麗は滅亡した。淵蓋蘇文の死後(666年)、その子たちの間の内紛が滅亡を決定的にした。高句麗遺民は後に渤海を建国する
高句麗・平壌
676年
新羅の三国統一
新羅は唐を朝鮮半島から駆逐し、大同江以南の朝鮮半島統一を達成した。唐は高句麗・百済の旧領に安東都護府を設置して直接支配を企図したが、新羅は唐軍と戦って撃退。金仁問・金庾信らの外交・軍事両面の努力により
朝鮮半島・新羅
751年〜774年
仏国寺と石窟庵の建立
新羅の宰相・金大城が前世の父母のために石窟庵を、現世の父母のために仏国寺を建立したと伝える。仏国寺は精巧な石造基壇と多宝塔・釈迦塔を有し、石窟庵は花崗岩を削って造られた人工石窟に本尊釈迦如来坐像を安置
新羅・慶州
751年
仏国寺の多宝塔と釈迦塔
多宝塔(国宝第20号)は複雑な装飾を持つ異形の石塔で、新羅の石工技術の極致を示す。釈迦塔(国宝第21号)は端正な三層石塔で、1966年の解体修理時に『無垢浄光大陀羅尼経』(世界最古の木版印刷物、751
新羅・慶州
828年〜846年
張保皐の清海鎮と海上王国
新羅人・張保皐は唐で武人として活躍した後、帰国して莞島に清海鎮を設立。私兵1万を率いて海賊を掃討し、新羅・唐・日本を結ぶ東アジア海上交易ネットワークを支配した。事実上の「海上王国」を建設したが、新羅王
新羅・莞島
918年
王建の高麗建国
弓裔の部将であった王建が弓裔を追放し、松岳(開城)を都として高麗を建国。936年に後百済を滅ぼして後三国を統一。北方政策を推進して高句麗の旧領回復を目指し、「高麗」の国号もこれを意識したもの。豪族連合
高麗・開京(開城)
958年
高麗の科挙制度導入
高麗第4代王・光宗が後周からの帰化人・双冀の建議を受けて科挙制度を導入。製述業(文章)・明経業(儒教経典)・雑業(技術)の三科を設け、家柄によらない人材登用の道を開いた。これにより新興文臣層が台頭し、
高麗・開京
1019年
姜邯賛の亀州大捷
契丹(遼)の第三次侵入に対し、高麗の姜邯賛が亀州で契丹軍10万を大破した。渡河中の契丹軍に水攻めを仕掛け、壊滅的打撃を与えた。この勝利により契丹の高麗侵攻は完全に終結し、両国間の和平が成立した。
高麗・亀州(龜州)
12世紀
高麗青磁の全盛期
高麗青磁は12世紀に最盛期を迎え、独自の翡色(ひすい色)の釉薬と象嵌技法で世界的に評価される。宋の使節・徐兢は『宣和奉使高麗図経』で高麗の陶器を「天下第一」と称した。象嵌青磁は高麗独自の技法で、白土と
高麗・全羅道(康津・扶安)
12世紀中頃
高麗青磁の象嵌技法の発明
高麗の陶工が独自に開発した象嵌青磁の技法。素地に文様を彫り込み、白土・赤土を嵌入して翡色の釉薬をかけて焼成する。雲鶴文、柳水禽文、蒲柳文などの典型的文様が発展。高麗青磁象嵌雲鶴文梅瓶(国宝第68号)は
高麗・全羅道康津
1170年
武臣政権の成立(鄭仲夫の乱)
武臣の鄭仲夫・李義方らが文臣貴族を大量殺戮するクーデタを敢行。以後約100年間、武臣が政権を握る武臣政権時代が続いた。特に崔忠献〜崔沆の崔氏四代62年間の独裁は、日本の鎌倉幕府に比される武家政権であっ
高麗・開京
1231年〜1270年
モンゴルの高麗侵入と江華島遷都
モンゴル帝国は1231年から6度にわたり高麗に侵入。崔氏政権は1232年に江華島に遷都して抵抗を続けた。国土は荒廃し黄龍寺九層木塔など多くの文化財が焼失したが、江華島では大蔵経の再刻版(高麗大蔵経)が
高麗・江華島
1234年頃
高麗の金属活字印刷
高麗で世界最初の金属活字印刷が行われた。1234年頃に『詳定古今礼文』が金属活字で印刷されたと『東国李相国集』に記録がある。現存する世界最古の金属活字印刷物は1377年の『直指心体要節』(フランス国立
高麗・開京
1251年
海印寺高麗大蔵経の完成
モンゴル侵入の最中、江華島で16年をかけて再刻された高麗大蔵経(八万大蔵経)が完成。81,258枚の木版に1,496部6,568巻の仏典を収録。現存する世界最古の完全な大蔵経であり、内容の正確さと木版
高麗・海印寺(伽耶山)
1270年〜1273年
三別抄の抵抗
高麗王室がモンゴルに降伏した後も、武臣政権下の精鋭軍事組織・三別抄は裴仲孫を指導者として抵抗を継続。珍島に拠点を置いて独自政権を樹立し、日本にも援軍を求めた。珍島陥落後は済州島に移り、1273年にモン
高麗・珍島〜済州島
1356年
恭愍王の反元改革
高麗第31代王・恭愍王が元の支配からの脱却を図り、征東行省の理問所を廃止し、親元派の奇氏一族を粛清した。双城総管府を攻略して東北面を回復し、元の年号の使用を停止。一連の改革は元の衰退(紅巾の乱)に乗じ
高麗・開京
1388年
李成桂の威化島回軍と高麗滅亡
高麗の武将・李成桂は明の遼東攻撃命令を受けて出征したが、鴨緑江の威化島で軍を反転させて開京に進撃(威化島回軍)。実権を掌握し、1392年に高麗を滅ぼして朝鮮を建国した。性理学を国是とする新王朝の誕生で
高麗・開京
1592年〜1598年
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)
豊臣秀吉が明の征服を目指して約15万の軍を朝鮮に派遣。文禄の役(1592年)で漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍と明の援軍に苦戦。慶長の役(1597年)も膠着し、秀吉の死(1598年)により撤退。日
朝鮮半島
1592年〜1598年
万暦の朝鮮出兵(壬辰倭乱)
豊臣秀吉の朝鮮侵攻に対し、明が宗主国として大軍を派遣。第1次(壬辰倭乱1592年)は李如松率いる明軍4万が平壌を奪還。第2次(丁酉再乱1597年)も日本軍を撃退。明は延べ10万以上の兵を投入。
朝鮮半島
1894年〜1895年
日清戦争
朝鮮の支配権をめぐり日本と清国が開戦。日本は陸海両面で清軍を圧倒し、下関条約で台湾・遼東半島の割譲と賠償金2億テールを獲得。しかし三国干渉により遼東半島を返還。日本は東アジアの列強の一員となった。
朝鮮半島・中国
1897年
大韓帝国の成立
高宗が国号を「大韓帝国」に改め、皇帝に即位。清の冊封体制からの脱却と自主独立を宣言した。光武改革として近代化政策を推進し、量田事業(近代的土地測量)、学校設立、軍制改革を行ったが、列強の干渉で成果は限
大韓帝国・漢城
1910年
韓国併合
日本が韓国併合条約により大韓帝国を完全に植民地化。朝鮮総督府を設置し、初代総督に寺内正毅が就任。土地調査事業(1910-18年)により多くの農民が土地を失い、憲兵警察による武断統治が敷かれた。朝鮮は3
大韓帝国・漢城
1950年〜1953年
朝鮮戦争参戦(抗美援朝)
1950年10月、彭徳懐率いる中国人民志願軍約30万が「抗美援朝」(アメリカに抵抗し朝鮮を援助)の名目で参戦。国連軍を38度線以南に押し返した。毛沢東の長男・毛岸英も戦死。約3年の戦闘で推定死者18万
朝鮮半島