概要

1901年の移民制限法により制度化された白豪主義政策は、ディクテーション・テスト(ヨーロッパ言語での書き取り試験)により事実上非白人の入国を排除した。第二次世界大戦後、人口増加の必要性からまずヨーロッパ(イタリア、ギリシャ等)からの移民を受け入れ、1973年にホイットラム労働党政権が白豪主義を正式に撤廃。1978年にフレーザー政権が多文化主義を国策として採用した。

歴史的背景

19世紀のゴールドラッシュ期に流入した中国人鉱夫への排斥運動が白豪主義の直接的起源。「黄禍論」とソーシャル・ダーウィニズムが理論的基盤を提供し、白人労働者の賃金水準防衛という経済的動機も働いた。連邦結成時に白豪主義は与野党合意の国策とされ、70年以上にわたってオーストラリアの国家アイデンティティを規定した。

地形・地理的特徴

オーストラリアは広大な国土に比して人口が少なく、沿岸部の都市に人口が集中する国である。アジアに近い北部の低人口密度地域は「アジアの脅威」という認識の地理的根拠とされ、白豪主義の正当化に利用された。戦後の移民はまずヨーロッパからの移民がメルボルンやシドニーの工業地帯に集中し、後にアジアからの移民がチャイナタウンなどの多文化地区を形成した。

歴史的重要性

アジア太平洋地域における人種差別的移民政策の典型例であり、日豪関係やアジア外交に長期的な影響を及ぼした。多文化主義への転換は、オーストラリアを世界で最も多様性に富む社会の一つに変えた。現在の人口の約30%が海外生まれであり、200以上の言語が話されている。この転換はカナダと並ぶ多文化主義の成功モデルとして国際的に評価されている。

参考文献

  • Jupp, J. 'From White Australia to Woomera: The Story of Australian Immigration' (2002)
  • Tavan, G. 'The Long, Slow Death of White Australia' (2005)