近世(1453〜1789年)の歴史

231件の歴史的出来事

1453年
メフメト2世のコンスタンティノープル征服
オスマン帝国のスルタン・メフメト2世(ファーティフ=征服者)が53日間の包囲の末にコンスタンティノープルを征服し、1100年以上続いたビザンツ帝国を滅亡させた。ウルバンの巨大砲による城壁破壊と、陸路で
アナトリア・コンスタンティノープル
1457年
コシャマインの戦い
アイヌの首長コシャマインが和人の交易拠点・道南十二館を次々と攻撃した大規模な蜂起。和人との交易上の不公正への怒りが原因。12の館のうち10が陥落したが、武田信広が反撃してコシャマインを殺害し鎮圧。武田
日本・北海道
1467年〜1477年
応仁の乱
将軍足利義政の後継問題に有力守護大名の対立が絡み、約11年間にわたる大規模内乱に発展。東軍16万と西軍11万が京都を舞台に戦い、京都は壊滅的被害を受けた。戦後、幕府の権威は失墜し、戦国時代への扉が開か
日本・京都
15世紀後半
雪舟の水墨画
室町時代最大の画家・雪舟は禅僧として明に渡り、帰国後に日本独自の水墨画を確立。『秋冬山水図』『天橋立図』『四季山水図巻(山水長巻)』など国宝6点を残す。中国の模倣ではない日本の風土に根ざした水墨画の完
日本・山口
15世紀後半
村田珠光と侘び茶の成立
村田珠光(1423-1502)は華美な唐物茶会から離れ、簡素で精神性を重視する侘び茶を創始。一休宗純に参禅して禅の精神を茶に取り込み、四畳半の小間での茶会を確立。和物の茶碗を積極的に用い、「冷え枯れる
日本・京都〜奈良
1472年〜1519年
レオナルド・ダ・ヴィンチの活動
画家・彫刻家・建築家・技術者・解剖学者・科学者として、ルネサンスの「万能人(ウォモ・ウニヴェルサーレ)」を体現した天才。『モナリザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』を制作し、約7000ページ
イタリア各地
1482年
銀閣寺と東山文化
足利義政が東山に建てた山荘(後の慈照寺)。応仁の乱で荒廃した京都を避け、文化・芸術に没頭した義政の美意識の結晶。書院造・枯山水庭園・能楽・茶の湯・水墨画・花道など後世の日本文化の基盤となる東山文化が開
日本・京都
1485年〜1493年
山城国一揆
1485年、山城国南部の国人と農民が畠山政長・義就両軍に国外退去を要求し自力で追い出した。「国中掟法」を定めて約8年間自治を行った。36人の月行事による合議制で運営され、惣の自治原理が国レベルで実現し
日本・山城国
1488年〜1580年
加賀一向一揆
浄土真宗(一向宗)の門徒が加賀の守護・富樫政親を攻め滅ぼし、以後約100年間にわたり門徒による自治が行われた。「百姓の持ちたる国」と称される農民自治の実験であった。1580年に織田信長軍により鎮圧。
日本・石川
15世紀
海印寺蔵経板殿の建築
高麗大蔵経の経板8万余枚を保管するために建設された収蔵施設。窓の配置と大きさを南北面で変えて自然な空気循環を実現し、床下に調湿材を敷いて湿度を一定に保つ。近代的な空調技術なしに木版を完璧に保存する「科
朝鮮・海印寺(伽耶山)
1488年
バルトロメウ・ディアスの喜望峰到達
ポルトガルの航海者バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸の南端を初めて回航した。嵐に流されてアフリカ南端を通過し、東海岸のアルゴア湾に到達。帰路に岬を発見し「嵐の岬(カボ・ダス・トルメンタス)」と命名し
南アフリカ・喜望峰
1492年10月12日
コロンブスのアメリカ到達
ジェノヴァ出身の航海者クリストファー・コロンブスが、スペインのイサベル1世とフェルナンド2世の支援を受け、3隻の船(サンタ・マリア、ピンタ、ニーニャ)でバハマ諸島に到達した。大西洋横断に約5週間を要し
カリブ海・バハマ諸島
1492年
コロンブスの新大陸到達
ジェノヴァ出身のクリストーファー・コロンブスがスペイン王室の支援を受け、3隻の船(サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号)で大西洋を横断。1492年10月12日にバハマ諸島に到達した。イスパニョーラ島
カリブ海・イスパニョーラ島
1493年
北条早雲の伊豆制圧
1493年、伊勢新九郎(北条早雲)が堀越公方・足利茶々丸を攻撃して伊豆国を制圧。1495年には小田原城を奪取し、後北条氏5代の基盤を築いた。近年の研究では幕府奉公衆出身と判明している。
日本・伊豆
1493〜1528年
ソンガイ帝国の最盛期(アスキア・ムハンマド)
ソンニ・アリーの征服事業を継承したアスキア・ムハンマドが、西アフリカ史上最大の帝国を建設。行政制度の整備、イスラム法の導入、学術の奨励を推進した。メッカ巡礼(1496-98年)で「カリフ」の称号を得て
マリ・ガオ
1494年6月7日
トルデシリャス条約
スペインとポルトガルが教皇アレクサンデル6世の仲介のもと、新発見地の分割線を定めた条約。カーボヴェルデ諸島の西370レグア(約1770km)の子午線を境界とし、西側をスペイン、東側をポルトガルの勢力圏
スペイン・トルデシリャス
1498年〜1545年
士禍(四大士禍)
朝鮮前期に4度にわたって新興の士林派が勲旧派により大量粛清された事件。戊午士禍(1498年)、甲子士禍(1504年)、己卯士禍(1519年、趙光祖の粛清)、乙巳士禍(1545年)。しかし士林派は地方の
朝鮮・漢陽
1498年5月20日
ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達
ポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが4隻の船団でリスボンを出航し、喜望峰を回ってインドのカリカットに到達した。往路約10ヶ月の航海で、アフリカ東岸のマリンディでアラブ人水先案内人を雇い入れた。香辛料
インド・カリカット
1498年
ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓
1497年7月にリスボンを出航したヴァスコ・ダ・ガマは、1498年5月20日にインドのカリカットに到達。ヨーロッパからインドへの海上直行ルートの開拓に成功した。アフリカ東岸のモザンビーク、モンバサ、マ
インド洋・ポルトガル〜インド
1499年頃
シク教の創始(グル・ナーナク)
グル・ナーナク(1469-1539年)がスルタンプール近郊で啓示を受け、シク教を創始。「ヒンドゥーもなくムスリムもなし」と宣言し、一神教・カースト否定・男女平等を説いた。ヒンドゥー教のバクティ運動とイ
南アジア・パンジャーブ
16世紀〜17世紀
景徳鎮磁器と銀の大量流入
明代の景徳鎮は世界最大の磁器生産地となり、年間数百万点を生産。ポルトガル・オランダ・スペインの商人が大量に購入し、メキシコ銀・日本銀が対価として中国に流入。マニラのガレオン貿易が環太平洋の銀経済を形成
中国・江西省景徳鎮
16世紀〜現在
バリ島のヒンドゥー文化の保持
インドネシアのイスラム化の中で、バリ島のみがヒンドゥー教を維持。マジャパヒト帝国滅亡時(15-16世紀)にジャワの貴族・僧侶・芸術家がバリに逃れ、ヒンドゥー・ジャワ文化が保存された。バリ・ヒンドゥーは
インドネシア・バリ島
1500年〜1920年
ブハラ・ハン国の繁栄
シャイバーニー朝がティムール朝を駆逐して建国。ウズベク三ハン国(ブハラ・ヒヴァ・コーカンド)の中で最も権威ある国家。イスラム学問の中心として「イスラムの柱」の異名を持ち、中央アジア全域から留学生を集め
中央アジア・ウズベキスタン
16〜19世紀初頭
大西洋奴隷貿易の拡大
15世紀のポルトガルの進出に始まり、16-19世紀にかけて約1200万人のアフリカ人が大西洋を越えてアメリカ大陸に強制移送された。「三角貿易」(ヨーロッパの工業製品→アフリカの奴隷→アメリカの砂糖・綿
西アフリカ沿岸全域
1500年
ポルトガルのブラジル植民地化
ペドロ・アルヴァレス・カブラルが1500年4月22日にブラジルに到達。当初はパウ・ブラジル(染料用の赤い木材)の採取が主目的であったが、16世紀半ばから北東部でサトウキビ・プランテーションが急速に発展
南アメリカ・ブラジル
1501年〜1736年
サファヴィー朝の成立とシーア派国教化
イスマーイール1世はサファヴィー教団の軍事力を背景にタブリーズを征服し、シーア派十二イマーム派を国教とするサファヴィー朝を建国した。これはイランのシーア派化の決定的転換点であった。赤い帽子のキズルバシ
ペルシャ・タブリーズ
1508年〜1529年
王陽明の陽明学
明の儒学者・王守仁(号・陽明)が朱子学を批判し、心即理・知行合一・致良知を核心とする陽明学を創始。良知(生まれながらの道徳的判断力)を万人が持つとし、実践を重視した。
中国・貴州〜浙江
1508年〜1512年
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画
教皇ユリウス2世の命により、ミケランジェロが約4年間かけて礼拝堂天井にフレスコ画を制作。中央に旧約聖書の創世記から9場面(天地創造、アダムの創造、ノアの洪水など)を描き、周囲に預言者、巫女、イグヌーデ
イタリア・ローマ(バチカン)
1510年
ポルトガルのゴア占領
ポルトガル総督アフォンソ・デ・アルブケルケがビジャープル・スルタン朝からゴアを奪取。インド洋におけるポルトガル帝国の中核拠点として「東方のローマ」と称された。異端審問所の設置(1560年)、聖フランシ
南アジア・ゴア
1511年
ポルトガルのマラッカ征服
ポルトガルの提督アルブケルケがマラッカ王国を征服。ア・ファモサ要塞を建設してマラッカ海峡の制海権を掌握した。マラッカ王室は南方のジョホールに逃れ、ジョホール王国を建国。ポルトガルは香辛料貿易の独占を目
マレーシア・マラッカ
1511年〜1920年
ヒヴァ・ハン国と奴隷交易
アム川下流域のホラズム地方を支配したウズベク系ハン国。ペルシャやカザフから捕らえた奴隷の交易で悪名高く、ロシア人奴隷の解放が後のロシアの征服の口実の一つとなった。壮大な建築群(イチャン・カラ)を残し、
中央アジア・ホラズム
16世紀〜17世紀
香辛料諸島(モルッカ諸島)の争奪
丁子(クローブ)とナツメグの世界唯一の産地であったモルッカ諸島をめぐり、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスが争奪戦を展開。オランダVOCが最終的に支配権を確立し、バンダ諸島では住民を虐殺・追放し
インドネシア・モルッカ諸島
1514年
チャルディラーンの戦い
オスマン帝国のセリム1世がサファヴィー朝のイスマーイール1世をチャルディラーンで撃破した。サファヴィー軍のキズルバシュ騎兵は勇猛であったが、オスマン軍の大砲と鉄砲の前に大敗。イスマーイールは辛うじて逃
アナトリア東部・チャルディラーン
16〜19世紀
バルバリア海賊の全盛期
16世紀初頭、オスマン帝国の私掠船長バルバロッサ兄弟(ウルージとハイレッディン)がアルジェを占領し、オスマンの海軍力と結びついたバルバリア海賊が地中海の脅威となった。キリスト教徒の船舶を襲撃し、約30
アルジェリア・アルジェ
1517年
セリム1世のマムルーク朝征服
オスマン帝国のセリム1世はチャルディラーンの戦い(1514年)でサファヴィー朝を破った後、マムルーク朝に矛先を転じた。マルジュ・ダービクの戦いとリダーニーヤの戦いでマムルーク軍を撃破し、エジプト・シリ
エジプト・カイロ
1517年
オスマン帝国のエジプト征服
オスマン帝国のセリム1世がマムルーク朝を滅ぼしエジプトを征服。1516年のマルジュ・ダービクの戦い(シリア)と1517年のリダーニヤの戦い(エジプト)でマムルーク軍を火器の優位により撃破。最後のマムル
エジプト・カイロ
1517年10月31日
マルティン・ルターの95ヶ条の論題
アウグスティヌス会修道士マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の論題を掲示し(伝承)、贖宥状(免罪符)販売を批判した。「信仰のみ(ソラ・フィデ)」「聖書のみ(ソラ・スクリプトゥラ)」
ドイツ・ヴィッテンベルク
1519〜1521年
コルテスのアステカ帝国征服
エルナン・コルテスが約600人のスペイン兵と先住民同盟軍を率いてアステカ帝国を征服。1519年にベラクルスに上陸し、トラスカラ人などの同盟者を獲得。テノチティトランに入城してモクテスマ2世を軟禁したが
メソアメリカ・メキシコ
1519〜1522年
マゼランの世界一周航海
フェルディナンド・マゼラン(ポルトガル人、スペイン王室の支援)が1519年9月にセビリアを5隻の船で出航。南アメリカ南端の海峡(マゼラン海峡)を発見・通過して太平洋に入り、1521年4月にフィリピンの
世界全域
1520年〜1566年
スレイマン1世(壮麗帝)の治世
スレイマン1世はオスマン帝国最盛期の君主で、西洋では「壮麗帝(マグニフィセント)」、オスマンでは「立法者(カーヌーニー)」と称される。モハーチの戦い(1526年)でハンガリーを征服、ウィーンを包囲(1
オスマン帝国・イスタンブール
1520年頃-
天然痘のアメリカ大陸伝播
1520年、スペイン征服者に随行していたアフリカ人奴隷の一人から天然痘がメキシコのアステカ帝国に持ち込まれた。免疫を持たない先住民の間で爆発的に感染が拡大し、アステカ帝国の最後の皇帝クイトラワクも天然
アメリカ大陸全域
1521年
マゼランのフィリピン到来とラプラプの抵抗
世界一周航海中のフェルディナンド・マゼランがフィリピン諸島に到達。セブ島の首長フマボンをキリスト教に改宗させたが、マクタン島の首長ラプラプとの戦闘で戦死(マクタンの戦い、1521年4月27日)。ラプラ
フィリピン・セブ島〜マクタン島
1521年〜現在
フィリピンにおけるカトリックの伝来と定着
1565年のレガスピによるセブ征服以降、スペインのアウグスティノ会・フランシスコ会・ドミニコ会・イエズス会の修道士が組織的に布教を展開。教会が行政・教育・文化の中心となり、フィリピンは東南アジア唯一の
フィリピン・セブ島
1521年4月
ヴォルムス帝国議会
皇帝カール5世の前にルターが召喚され、著書の撤回を求められた。ルターは「ここに我は立つ。我にはこれ以外のことはできない。神よ助けたまえ」と述べて撤回を拒否したとされる。ヴォルムス勅令によりルターは帝国
ドイツ・ヴォルムス
1521年
マゼラン艦隊の太平洋横断
ポルトガル人航海者フェルディナンド・マゼランが率いるスペイン艦隊が、1520年11月にマゼラン海峡を通過し太平洋に入った。穏やかな海況から「太平洋(Mar Pacífico)」と命名。約3カ月半の航海
太平洋
1523年
ツヴィングリのチューリヒ宗教改革
フルドリヒ・ツヴィングリがチューリヒの大聖堂司祭として宗教改革を推進。67ヶ条の提題を公開討論にかけ、都市参事会の支持を得て聖像の撤去、ミサの廃止、修道院の解散を実施した。聖書のみに基づく信仰を主張し
スイス・チューリヒ
1526年
第一次パーニーパットの戦い
ティムールの子孫バーブルがローディー朝最後のスルタン・イブラーヒームを破り、ムガル帝国を建国した決定的な戦い。バーブル軍は約1万2千人に対し、ローディー軍は10万人と戦象千頭を有したが、バーブルは火砲
南アジア・ハリヤーナー
16〜19世紀
大西洋奴隷貿易と三角貿易
16-19世紀にわたる大西洋を横断した人類史上最大規模の強制移住。推定1200万〜1500万人のアフリカ人が奴隷として新大陸に輸送され、「中間航路」(大西洋横断航海)では約200万人が航海中に死亡した
大西洋世界
1531年〜1581年
タウングー朝とバインナウンの征服
タウングー朝のバインナウン王(在位1551-1581年)は「戦象王」と呼ばれ、東南アジア大陸部で最大の版図を築いた。ビルマ全土を統一し、シャン諸侯国、ラーンサーン(ラオス)、アユタヤ(タイ)を征服。戦
ミャンマー・タウングー〜ペグー
1532〜1533年
ピサロのインカ帝国征服
フランシスコ・ピサロが約168人のスペイン兵でインカ皇帝アタワルパを捕えた事件。1532年11月16日、カハマルカの広場でアタワルパと会見。聖書を手渡されたアタワルパがそれを投げ捨てたことを口実にスペ
南アメリカ・ペルー
1534年
ヘンリー8世のイングランド国教会設立
ヘンリー8世が国王至上法(首長令)を議会で制定し、イングランド国教会をローマ教皇から独立させた。国王が「イングランド国教会の唯一の最高首長」と宣言。1536-39年に約800の修道院を解散し、膨大な教
イングランド・ロンドン
1535年
ヌエバ・エスパーニャ副王領の成立
スペイン王室がアステカ征服後のメキシコを統治するために設立した副王領で、初代副王アントニオ・デ・メンドーサが就任。コンキスタドールの独立傾向を抑制し、王室による直接統治を確立した。アウディエンシア(高
メソアメリカ・メキシコ
1539〜1542年
エルナンド・デ・ソトの北アメリカ探検
スペインのコンキスタドールがフロリダからアーカンソーまで約6400kmを踏破した北アメリカ内陸部最初の大規模探検。約600人の兵と200頭以上の馬を率い、1541年にヨーロッパ人として初めてミシシッピ
北アメリカ・南東部
1540年〜1555年
シェール・シャーのスール朝とグランド・トランク・ロード
アフガン系のシェール・シャーがフマーユーンを追放しスール朝を建国。わずか5年の治世だが、行政改革に多大な功績を残した。グランド・トランク・ロード(大幹道)の整備、ルピー銀貨の統一、効率的な徴税制度、キ
南アジア・北インド
1541年〜1564年
カルヴァンのジュネーヴ宗教改革
フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンがジュネーヴの宗教改革を指導。『キリスト教綱要』で予定説(二重予定説)を体系化し、教会と国家の協力による道徳的規律の厳格な実施を推進。長老制度(プレスビテリアン)
スイス・ジュネーヴ
1542年
バルトロメ・デ・ラス・カサスの先住民擁護
ドミニコ会修道士バルトロメ・デ・ラス・カサスが著作『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(1552年出版)でスペインの先住民に対する残虐行為を告発。1542年の新法(レイェス・ヌエバス)の制定に影
メソアメリカ・メキシコ
1543年
鉄砲伝来
ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、火縄銃2挺が島主・種子島時堯に伝わった。時堯は鍛冶職人に複製を命じ、瞬く間に国内生産が開始。堺・国友・根来などで量産体制が確立し、戦国時代の戦術を根本的に変
日本・鹿児島(種子島)
1543年〜
書院文化の発展と陶山書院
朝鮮の書院は私設の儒学教育機関兼先賢祭祀施設。1543年に周世鵬が白雲洞書院(紹修書院)を設立したのが最初。以後全国に700以上の書院が建立された。退溪の陶山書院、栗谷の紹賢書院など、各学派の拠点とし
朝鮮・安東
1543年
コペルニクスの地動説
ニコラウス・コペルニクスが死の直前に主著『天球の回転について(デ・レヴォリューティオニブス)』を出版し、太陽中心説(地動説)を体系的に提唱した。地球を含む惑星が太陽の周りを公転するモデルで、プトレマイ
ポーランド
1545年〜1563年
トリエント公会議
カトリック教会の自己改革と対プロテスタント教義の明確化を目的とした公会議。3期18年にわたり、教義面では信仰と行いの両方の必要性、7つの秘跡、聖書と聖伝の同等の権威を確認。改革面では司教の居住義務、神
イタリア・トレント
1545年
ポトシ銀山の発見と操業開始
ディエゴ・ワルパが1545年に発見したとされる世界最大の銀鉱山。16-17世紀にかけて世界の銀生産の約半分を占めた。最盛期の1650年頃、ポトシの人口は推定16万人に達し、当時のロンドンやパリを凌ぐ規
南アメリカ・ボリビア
1547年1月16日
イヴァン雷帝のツァーリ戴冠
モスクワ大公イヴァン4世が16歳でロシア初の「ツァーリ(皇帝)」の称号を正式に使用して戴冠。中央集権化を推進し、法典の編纂、地方行政改革、常備軍(ストレリツィ)の創設を行った。後半生にはオプリーチニナ
ロシア・モスクワ
1549年
フランシスコ・ザビエルのキリスト教伝来
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた。島津貴久の許可を得て布教を開始し、その後山口・豊後・京都にも赴いた。約2年間の滞在で日本のキリスト教布教の基盤を築い
日本・鹿児島
16世紀後半
大友宗麟とキリシタン大名の時代
大友宗麟(1530-1587)は九州最大の勢力を持つ大名であり、キリスト教に帰依してキリシタン大名の代表格となった。フランシスコ・ザビエルとの出会いが転機で、洗礼名はドン・フランシスコ。府内にはコレジ
日本・豊後国
1553年〜1564年(5回)
川中島の戦い
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権をめぐって5回にわたり激突。特に第4次合戦(1561年)は最大規模で、信玄の啄木鳥戦法に対する謙信の車懸の陣など激しい戦闘が展開。信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助が討死した
日本・長野
16世紀〜現在
北極航路の探検と開拓
16世紀以来、ヨーロッパからアジアへの近道として北西航路の探索が繰り返された。フロビッシャー(1576年)、ハドソン(1610年)、フランクリン(1845年、全員死亡)らの探検は失敗に終わり、ロアール
北極海
1555年10月1日
厳島の戦い
1555年、毛利元就が陶晴賢の大軍を厳島に誘い込み奇襲で壊滅させた。元就は約4千の兵で2万の陶軍を撃破。嵐の中を小早川水軍・村上水軍が海を渡り、背後から急襲した。陶晴賢は自刃。この勝利で毛利氏は中国地
日本・安芸国
1555年〜1567年
戚継光の倭寇掃討
明の将軍・戚継光が精鋭の「戚家軍」を率いて倭寇を掃討。鴛鴦陣(11人一組の連携戦法)を編み出し、台州九捷など連戦連勝。兪大猷と共に江南沿岸の倭寇を壊滅させた。
中国・浙江〜福建沿岸
1556年〜1605年
アクバル大帝の統治
ムガル帝国第3代皇帝アクバルは13歳で即位し、帝国を北インドからデカン北部まで拡大。マンサブダール制(位階制)を導入し効率的な軍事・行政制度を確立。ジズヤ税を廃止し宗教融和政策を推進、ディーン・イ・イ
南アジア・アーグラ
1560年
桶狭間の戦い
織田信長がわずか約3000の兵で今川義元の約25000の大軍を急襲し、義元を討ち取った戦国史上最大の奇襲戦。豪雨に乗じた急襲が成功し、東海の覇者・今川氏は衰退。信長の天下統一への第一歩となった。
日本・愛知
16世紀中頃
退溪李滉と性理学の大成
退溪李滉(1501-1570年)は朝鮮性理学を大成した最大の儒学者。朱子学を朝鮮の風土に即して再解釈し、「理気互発説」を提唱。理(道徳的原理)の能動性を強調し、栗谷李珥の「気発理乗一途説」と大論争を展
朝鮮・安東
1565年〜1898年
スペインのフィリピン植民地化
ミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島に上陸し、1571年にマニラを首都として植民地を建設。333年にわたるスペイン支配の下、カトリック教の布教、マニラ・ガレオン貿易(マニラ〜アカプルコ間の太平洋横断交
フィリピン・マニラ
1565年〜1572年
フマーユーン廟の建設
ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの妻ハミーダ・バーヌーが建設を命じた霊廟。ペルシャ人建築家ミーラク・ミルザ・ギヤースが設計し、インド亜大陸初の大規模なペルシャ式庭園墓廟となった。二重殻ドーム構造はター
南アジア・デリー
1565年
セント・オーガスティン建設
ペドロ・メネンデス・デ・アビレスが建設したアメリカ合衆国最古の継続的に人が居住する植民地都市。フランスのユグノー植民地(フォート・キャロライン)に対抗して設立された。カスティーリョ・デ・サン・マルコス
北アメリカ・フロリダ
1565〜1815年
マニラ・ガレオン貿易の開始
アカプルコ(メキシコ)とマニラ(フィリピン)を結ぶ太平洋横断貿易路。中国の絹・磁器・香辛料がマニラ経由でメキシコに運ばれ、ポトシ銀が対価として中国に流入した。年に1-2隻のガレオン船が往復し、1隻の貨
太平洋・メキシコ〜フィリピン
16世紀後半
千利休と茶道の大成
千利休が侘茶を大成し、茶道を日本文化の核心的芸術に昇華させた。二畳の極小茶室「待庵」(国宝)に象徴される究極の侘びの美学を追求。織田信長・豊臣秀吉に仕え、政治的にも大きな影響力を持ったが、1591年に
日本・京都/大阪
1570年6月28日
姉川の戦い
1570年、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉義景連合軍と姉川で激突。浅井長政の裏切り(金ヶ崎の退き口の因縁)に激怒した信長が反撃に出た。徳川軍の奮戦が勝敗を決し、織田・徳川連合軍が勝利。しかし
日本・近江国
1570年〜1580年
石山合戦(石山本願寺と織田信長の戦い)
1570年から10年間、本願寺顕如率いる一向宗門徒が織田信長と戦い続けた。全国の一向一揆と連携し、毛利水軍からの補給を受けて頑強に抵抗。木津川口の海戦では毛利水軍が織田水軍を破ったが、信長は鉄甲船を建
日本・摂津国
1571年9月30日
比叡山焼き討ち
1571年、織田信長が比叡山延暦寺を全山焼き討ちにした。僧侶・女性・子供を問わず殺戮が行われ、数千人が犠牲になったとされる。延暦寺が浅井・朝倉に味方したことが直接の原因。延暦寺の堂塔は灰燼に帰し、古代
日本・近江国
1571年〜1585年
ファテープル・シークリーの建設
アクバル大帝がスーフィーの聖者シェーフ・サリーム・チシュティーの予言により男子を授かったことを記念して建設した新都城。インド・イスラム建築の傑作であり、ブランド・ダルワーザー(勝利の門)、パンチ・マハ
南アジア・ウッタル・プラデーシュ
1572年〜1582年
張居正の改革
明の内閣首輔・張居正が万暦帝の幼少期に実権を掌握し大改革を断行。一条鞭法(諸税の銀納一本化)を全国に施行、考成法で官僚の業績評価を厳格化。財政を立て直し国庫に10年分の歳入を蓄積した。
中国・北京
1572年8月24日
サン・バルテルミの虐殺
ユグノー戦争の最中、カトリック勢力がパリに集まっていたプロテスタント(ユグノー)の指導者と市民を大量虐殺した。サン・バルテルミの祝日の早朝に始まった暴力は数日間続き、パリだけで約3000人、フランス全
フランス・パリ
1575年
長篠の戦い
織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の騎馬軍団を設楽原で撃破。信長は約3000挺の鉄砲を三段に配置し、武田の騎馬突撃を壊滅させたとされる。武田軍は1万余の死者を出し、戦国最強と呼ばれた武田騎馬軍団は事実
日本・愛知
16世紀後半
栗谷李珥の学問と改革思想
栗谷李珥(1536-1584年)は退溪と並ぶ朝鮮最大の儒学者。「気発理乗一途説」を唱え、気(物質的エネルギー)の能動性を強調。社会改革にも積極的で、十万養兵説を唱えて国防強化を訴えたが容れられず、その
朝鮮・坡州
1576年〜1579年
安土城の築城
織田信長が琵琶湖畔の安土山に築いた革新的な城。地下1階・地上6階の天主(天守)は高さ約32メートルで、内部は狩野永徳の障壁画で飾られた。石垣の上に壮麗な天主を載せる近世城郭の原型であり、信長の権力と美
日本・滋賀
1576年〜1590年
狩野永徳の障壁画と安土桃山美術
狩野永徳(1543-1590)は安土桃山時代を代表する画家。安土城天主の障壁画、大坂城・聚楽第の装飾を手がけ、金碧障壁画の様式を確立した。「唐獅子図屏風」「洛中洛外図屏風」が代表作。力強い太い筆致と金
日本・京都〜安土
1578年
李時珍『本草綱目』
明の医学者・李時珍が27年の歳月をかけて『本草綱目』を完成。1892種の薬物、11,096の処方を収録した世界最大の薬学書。動植物・鉱物を体系的に分類し、従来の本草書の誤りを修正した。
中国・湖北省蘄春
16世紀後半〜17世紀
バンデイランテスの奥地探検
サンパウロを拠点としたポルトガル系・メスティソの探検隊(バンデイラ)がブラジル内陸部を探索した。目的は先住民の奴隷狩り、鉱物資源の探索、イエズス会ミッションの破壊であった。バンデイランテスの活動はトル
南アメリカ・ブラジル
1582年
本能寺の変
織田信長の重臣・明智光秀が約13000の兵で京都本能寺を急襲し、信長を自害に追い込んだ。信長は「是非に及ばず」と言って炎の中に消えたとされる。天下統一目前での謀反は日本史上最大の事件の一つ。光秀の動機
日本・京都
1582年〜1590年
天正遣欧少年使節
九州のキリシタン大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)が、イエズス会の勧めで少年4人(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノ)をローマ教皇のもとに派遣。教皇グレゴリウス13世に謁見し、
日本・長崎〜ヨーロッパ
1582年6月13日
山崎の戦いと中国大返し
1582年、本能寺の変を知った羽柴秀吉が備中高松城から急行し、明智光秀を山崎で破った。秀吉は毛利氏と即座に和議を結び、史上最速の行軍「中国大返し」を敢行。天王山を確保した秀吉軍が優勢に立ち、光秀は敗走
日本・山城国
1582年〜1598年
太閤検地と刀狩令
豊臣秀吉が全国の農地を統一基準で測量した太閤検地(1582年開始)と、農民から武器を没収した刀狩令(1588年)は、兵農分離を推進する一対の政策。検地によって一地一作人の原則が確立され、中世的な重層的
日本・全国
1583年〜1590年
豊臣秀吉の天下統一と大坂城築城
秀吉は山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いで信長の後継者の地位を確立。大坂城を築いて本拠とし、四国征伐・九州征伐・小田原攻めを経て1590年に全国統一を達成。太閤検地・刀狩・身分統制令により近世社会の基盤を形成し
日本・大阪
1583年4月21日
賤ヶ岳の戦い
1583年、羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継をめぐって激突。長期対陣の後、秀吉は美濃方面から急行して勝家軍を撃破。「賤ヶ岳の七本槍」(加藤清正・福島正則ら)の活躍が知られる。敗北した柴田勝家は北ノ庄城で
日本・近江国
1583年〜1610年
マテオ・リッチの来華と西洋科学
イエズス会宣教師マテオ・リッチが中国に渡り、儒服を着て中国文化に適応しつつ布教。坤輿万国全図(世界地図)を作製し、ユークリッド幾何学を徐光啓と共訳。西洋天文学・数学・地理学を中国に紹介した。
中国・北京
1588年〜1620年
万暦帝の怠政
張居正の死後、万暦帝は28年間朝廷に出席せず(「万暦怠政」)。官僚の任命を放置して多くのポストが空席のまま放置された。鉱税の徴収に宦官を派遣して民衆の怨嗟を招いた。一方で万暦の三大征には莫大な軍費を費
中国・北京
1588年7月〜8月
スペイン無敵艦隊の敗北
スペイン王フェリペ2世が130隻の「無敵艦隊(アルマダ)」をイングランド侵攻のために派遣。ドレーク、ホーキンスら英艦隊は機動力のある小型船で遠距離砲撃戦を展開し、カレー沖で火船攻撃を行って艦隊を分散さ
イギリス海峡
1589年
伊達政宗の奥州制覇と摺上原の戦い
1589年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名義広を破り、会津を制圧して奥州の覇者となった。「独眼竜」の異名を持つ政宗は18歳で家督を継ぎ、南奥州の諸勢力を次々と制圧。しかし豊臣秀吉の小田原征伐への参陣が遅
日本・陸奥国
1590年
小田原征伐と天下統一完成
1590年、豊臣秀吉が約20万の大軍で後北条氏の小田原城を包囲。秀吉は石垣山に一夜城を築く見せかけで敵の士気を挫き、約3ヶ月の包囲で北条氏政・氏直を降伏させた。これにより東国の平定が完了し、続く奥州仕
日本・相模国
16世紀後半〜18世紀
ホイアンの日本橋と国際貿易港
16-17世紀に日本・中国・ポルトガル・オランダの商人が集まる東南アジア有数の国際貿易港として繁栄。日本人町には1,000人以上の日本人が居住し、日本橋(1593年建造とされる)は日本人コミュニティの
ベトナム・ホイアン
1590-1613年頃
シェイクスピアの劇作活動
ウィリアム・シェイクスピアが約20年間に37篇(異説あり)の戯曲を執筆。『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』の四大悲劇、『ロミオとジュリエット』『真夏の夜の夢』『テンペスト』など多様なジャ
イギリス・ロンドン
1592年〜1598年
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)
豊臣秀吉が明の征服を目指して約15万の軍を朝鮮に派遣。文禄の役(1592年)で漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍と明の援軍に苦戦。慶長の役(1597年)も膠着し、秀吉の死(1598年)により撤退。日
朝鮮半島
1592年〜1598年
万暦の朝鮮出兵(壬辰倭乱)
豊臣秀吉の朝鮮侵攻に対し、明が宗主国として大軍を派遣。第1次(壬辰倭乱1592年)は李如松率いる明軍4万が平壌を奪還。第2次(丁酉再乱1597年)も日本軍を撃退。明は延べ10万以上の兵を投入。
朝鮮半島
1592年〜1598年
壬辰倭乱(文禄の役)
豊臣秀吉が朝鮮に侵攻(日本側名称:文禄・慶長の役)。15万8千の日本軍は釜山上陸後わずか20日でソウルを占領。しかし李舜臣率いる朝鮮水軍が日本の補給路を遮断し、明の援軍も加わって戦況が逆転。1597年
朝鮮半島全域
1592年
李舜臣の閑山島海戦
朝鮮水軍の統制使・李舜臣が閑山島沖で日本水軍を大破。鶴翼の陣形で73隻の日本船を包囲し、47隻を撃沈した。この勝利により日本軍の海上補給路は遮断され、戦争の趨勢が大きく変わった。壬辰倭乱における朝鮮側
朝鮮・閑山島
1597年2月5日
日本二十六聖人殉教
1597年2月5日、京都・大坂で逮捕されたフランシスコ会の宣教師6名と日本人信徒20名が、長崎の西坂で十字架に架けられて処刑された。豊臣秀吉のバテレン追放令(1587年)後初の大規模な殉教事件。京都か
日本・長崎
1597年
李舜臣の鳴梁海戦
丁酉再乱(慶長の役)で元均の敗死により朝鮮水軍が壊滅した後、白衣従軍していた李舜臣が再び統制使に任命された。わずか13隻の船で133隻の日本水軍に挑み、鳴梁海峡の潮流を利用して31隻を撃沈する大勝利を
朝鮮・鳴梁(珍島海峡)
1598年
朝鮮陶工の日本連行と有田焼の起源
壬辰倭乱・丁酉再乱の際、日本の各大名が朝鮮の陶工を連行。李参平(有田焼の祖)、沈壽官(薩摩焼の祖)ら数百人の陶工が日本各地で陶磁器生産を開始した。「焼き物戦争」とも呼ばれる。有田焼は伊万里港から輸出さ
朝鮮半島南部〜日本(九州)
1598年〜1629年
アッバース1世のイスファハーン遷都と「世界の半分」
サファヴィー朝のアッバース1世はイスファハーンに遷都し、イマーム広場(ナクシェ・ジャハーン=「世界の模範」)を中心とする壮大な都市計画を実施した。イマーム・モスク、シェイフ・ロトフォッラー・モスク、ア
ペルシャ・イスファハーン
1598年4月13日
ナントの勅令
フランス王アンリ4世(元ユグノーの指導者ナバラ王アンリ)が発布した宗教的寛容の勅令。ユグノーにカトリックとほぼ同等の市民的権利と信仰の自由を保障し、約200の安全保障都市の保持を認めた。「パリはミサに
フランス・ナント
1598年〜1613年
ロシアの動乱時代
リューリク朝の断絶後、ロシアが深刻な政治的混乱に陥った時代。ボリス・ゴドゥノフの即位、偽ドミトリー(イヴァン雷帝の息子を騙る複数の人物)の出現、ポーランドとスウェーデンの軍事介入が重なった。1612年
ロシア・モスクワ
1600年
関ヶ原の戦い
徳川家康率いる東軍約7万と石田三成率いる西軍約8万が激突した天下分け目の合戦。小早川秀秋の裏切りが勝敗を決し、わずか半日で東軍の大勝に終わった。家康は全国の支配権を掌握し、1603年に征夷大将軍に就任
日本・岐阜
17世紀〜19世紀
ラージプート絵画の発展
ラージプート諸藩王国の宮廷で発展した細密画の伝統。クリシュナ伝説、ラーマーヤナ、季節画(バーラマーサー)、ラーガマーラー(楽曲の絵画化)が主要な主題。鮮やかな色彩と情感豊かな表現が特徴。パハーリー派(
南アジア・ラージャスターン
17世紀〜現在
アフリカのテキスタイル文化(ケンテ布)
アシャンティのケンテ布は、細い帯状の布を織機で織り上げ、それを縫い合わせて大きな布にする独特の技法で制作される。鮮やかな色彩と幾何学的パターンが特徴で、各パターンには固有の名称と意味がある。かつては王
ガーナ・クマシ
1600年
イギリス東インド会社の設立
1600年12月31日にエリザベス1世の勅許状により設立された東インド会社(EIC)。当初はインドネシアの香辛料貿易を目的としたが、オランダのVOCとの競争に敗れインドに軸足を移した。茶、綿織物、アヘ
イギリス・ロンドン
1602年3月20日
オランダ東インド会社(VOC)の設立
オランダ連邦議会の特許状により設立された世界初の株式会社。Vereenigde Oost-Indische Compagnie(VOC)は、喜望峰以東の貿易独占権、条約締結権、軍事行動権を持つ国家的企
オランダ・アムステルダム
1603年頃
出雲阿国と歌舞伎の始まり
1603年頃、出雲大社の巫女と称する出雲阿国が京都の四条河原で「かぶき踊り」を披露し、歌舞伎の起源となった。阿国は男装して茶屋遊びの場面を演じる「阿国歌舞伎」で大人気を博した。以後、遊女歌舞伎・若衆歌
日本・京都
1603年
江戸幕府の成立
徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。武家諸法度・参勤交代制度・鎖国政策により約260年間の平和を実現。幕藩体制のもと、約270の藩が全国を統治する分権的統一国家が成立した。
日本・江戸
1604年〜1627年
東林党と閹党の党争
無錫の東林書院を拠点に顧憲成らが政治改革を訴え(東林党)、宦官・魏忠賢率いる閹党と激しく対立。魏忠賢は「九千九百歳」と称され、東林派知識人を大量に投獄・処刑した。崇禎帝即位後に魏忠賢は自殺。
中国・北京〜無錫
1605〜1694年
パルマレスの逃亡奴隷共同体
砂糖プランテーションから逃亡したアフリカ人奴隷が建設した南北アメリカ最大のマルーン(逃亡奴隷)共同体。最盛期には人口2万〜3万人に達し、約1世紀にわたって存続した。最後の指導者ズンビ(1655-169
南アメリカ・ブラジル北東部
1607年〜1633年
徐光啓と西洋科学の導入
明末の官僚・科学者の徐光啓がマテオ・リッチとユークリッド『幾何原本』を共訳(前6巻、1607年)。キリスト教に改宗し、西洋天文学を取り入れた暦法改革を推進。『農政全書』で農業技術を集大成。
中国・上海〜北京
1607年〜1811年
朝鮮通信使(12回の日本派遣)
壬辰倭乱後の日朝関係修復のため、朝鮮が日本に12回にわたって派遣した外交使節団。300-500人規模の大使節団で、外交交渉のみならず文化交流の場としても機能。儒学者・画家・医者が同行し、各地で日本の文
朝鮮・漢陽〜日本・江戸
1607年〜1811年
朝鮮通信使と日本での文化交流
朝鮮通信使は300-500人の大使節団で、正使・副使のほか製述官(文人)・画員・医員・楽工などが同行。各地で日本の儒学者・文人と漢詩の応酬、書画の交換、医術の伝授が行われた。雨森芳洲(対馬藩)は「誠信
対馬〜江戸
1607年
ジェームズタウン植民地の建設
ヴァージニア会社が設立したイギリス初の永続的北アメリカ植民地。初期の入植者104人の大半は紳士や職人で農業経験がなく、最初の冬に過半数が死亡した(飢餓の時期、スターヴィング・タイム)。ジョン・スミスの
北アメリカ・バージニア
1608年
ケベック建設とヌーヴェル・フランス
サミュエル・ド・シャンプランがセント・ローレンス川沿いに建設したフランス植民地の中心都市。毛皮交易(特にビーバーの毛皮)を主要目的とし、先住民(ヒューロン族、アルゴンキン族)と同盟関係を築いた。フラン
北アメリカ・カナダ
1609年〜
薩摩藩の琉球支配と奄美の砂糖専売
1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻して服属させた。琉球は表面上独立王国を維持しつつ、実質的に薩摩の支配下に置かれた。薩摩は琉球を通じた中国との密貿易で莫大な利益を得た。奄美群島は薩摩の直轄地となり、砂
日本・琉球・奄美
1610年
ガリレオの望遠鏡による天体観測
ガリレオ・ガリレイがオランダで発明された望遠鏡を改良し、木星の4つの衛星(メディチ星と命名)、月の表面のクレーター、金星の満ち欠け、天の川が無数の星から成ることなどを発見。『星界の報告』で発表し、地動
イタリア・パドヴァ/フィレンツェ
17世紀前半
山田長政とアユタヤ日本人町
16世紀末〜17世紀初頭、東南アジア各地に日本人町が形成された。アユタヤの日本人町は最盛期に1,000〜1,500人が居住。駿河出身の山田長政は日本人傭兵隊を率いてアユタヤ王室の信任を得、オークヤー(
タイ・アユタヤ
1614年〜1615年
大坂の陣と豊臣家滅亡
徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を攻めた二度の合戦。冬の陣(1614年)では和議となったが外堀を埋め、夏の陣(1615年)で大坂城は落城し豊臣家は滅亡。真田幸村の奮戦が語り継がれる。以後、徳川の天下が確定。
日本・大阪
1615年
武家諸法度と参勤交代制度
1615年、徳川秀忠が武家諸法度を発布。大名の城郭修築制限、無届婚姻の禁止などを定めた。1635年の寛永令で参勤交代が制度化され、大名は隔年で江戸と領国を往復することが義務付けられた。大名の妻子は人質
日本・江戸
1616年
ヌルハチの後金建国
女真族の統一者ヌルハチが後金(後の清)を建国しカンを称した。八旗制度(軍事・行政・社会組織)を創設し、満洲文字を制定。1619年のサルフの戦いで明軍を撃破し遼東を制圧した。
中国東北・遼寧省
1618年5月23日
プラハ窓外放出事件
ボヘミアのプロテスタント貴族が皇帝の代理人2名と書記1名をプラハ城の窓から投げ落とした。3名とも堆肥の山に落ちて生存(カトリック側は天使が救ったと主張)。この事件が三十年戦争の直接的な引き金となり、ヨ
ボヘミア・プラハ
1619年
オランダ東インド会社とバタヴィア建設
オランダ東インド会社(VOC)のヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャワ島のジャヤカルタを占領し、バタヴィア(現在のジャカルタ)を建設。東南アジアにおけるオランダ植民地帝国の首都として約350年間機能し
インドネシア・バタヴィア(ジャカルタ)
17世紀
大坂・堺の町人自治と商業発展
江戸時代の大坂は「天下の台所」として全国の物流を支配した。堂島米会所では先物取引が行われ、米価が全国の経済を左右した。諸藩の蔵屋敷が中之島に並び、蔵元・掛屋が金融を担った。淀屋・鴻池など豪商が経済の実
日本・大坂
1620年11月8日
白山の戦い
カトリック同盟軍(ティリー伯指揮)がプロテスタントのボヘミア反乱軍を約2時間で壊滅させた。ボヘミア王に選出されていたプファルツ選帝侯フリードリヒ5世は「冬の王」と嘲られて逃亡。フェルディナント2世はボ
ボヘミア・プラハ近郊
1620年
プリマス植民地の建設
メイフラワー号で到着した102人のピルグリム(巡礼者)が建設した植民地。出航前に船上でメイフラワー誓約を結び、合意に基づく自治の原則を確立した。最初の冬に約半数が死亡したが、ワンパノアグ族のスクァント
北アメリカ・マサチューセッツ
1623年〜1651年
徳川家光の政治と鎖国の完成
3代将軍徳川家光は「生まれながらの将軍」として幕府の体制を確立した。1635年に武家諸法度を改定して参勤交代を制度化、1637年の島原の乱後にポルトガル船の来航を禁止(1639年)して鎖国を完成。老中
日本・江戸
1625〜1894年
ダホメ王国の成立
フォン族が建設した中央集権的な軍事王国。精強な常備軍と女性戦士部隊(「ダホメのアマゾン」、約6000人)で知られる。奴隷貿易と後のパーム油貿易で経済力を維持。毎年行われる「年の慣習」(祖先への大規模な
ベナン・アボメー
1626年
ニューアムステルダムの建設
オランダ西インド会社がマンハッタン島にレナペ族から60ギルダー相当の品物で「購入」(先住民にとっては使用権の一時的譲渡の概念)して建設した植民地。ピーター・ミヌイットが初代総督。多民族・多宗教の寛容な
北アメリカ・ニューヨーク
1630〜1654年
オランダのブラジル北東部占領
オランダ西インド会社がポルトガル・スペイン同君連合下のブラジル北東部を征服・占領した。ヨハン・マウリッツ総督(1637-44年)の下で砂糖産業が発展し、宗教的寛容政策でユダヤ人コミュニティも繁栄した。
南アメリカ・ブラジル北東部
1631年9月17日
ブライテンフェルトの戦い
スウェーデン王グスタフ・アドルフがカトリック同盟のティリー伯を撃破した三十年戦争の転換点。スウェーデン軍は軽量な野砲を歩兵と連携させ、機動的な小隊戦術でテルシオ方陣を圧倒した。同盟のザクセン軍は初戦で
ザクセン・ライプツィヒ近郊
1632年〜1653年
タージ・マハルの建設
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルの死を悼んで建設した白大理石の霊廟。2万人以上の職人が約20年をかけて完成。左右対称の完璧な設計、大理石の透かし彫り(ジャーリー)、宝石象
南アジア・アーグラ
1633年6月22日
ガリレオ・ガリレイの宗教裁判
ガリレオが教皇庁の異端審問所に召喚され、コペルニクスの地動説を支持する著書『天文対話』の撤回を命じられた。ガリレオは有罪判決を受け入れて地動説を「放棄」したが、退廷時に「それでも地球は動いている(エ・
イタリア・ローマ
1636年〜1637年
丙子胡乱(清の侵入)
清の太宗ホンタイジが12万の大軍で朝鮮に侵入。仁祖は南漢山城に籠城するも47日後に降伏し、三田渡で清の太宗に三跪九叩頭の礼を行う屈辱を受けた。朝鮮は清への臣従と明との断交を強要され、王子2人が人質とし
朝鮮・南漢山城
1637年〜1638年
島原の乱
島原・天草地方のキリシタン農民約37000人が、苛政と信仰弾圧に耐えかね蜂起。天草四郎時貞を指導者として原城に籠城したが、幕府軍12万の攻撃を受けて全滅。江戸時代最大の内乱であり、鎖国政策と禁教令の強
日本・長崎
1637年2月
チューリップ・バブル
オランダで発生した世界初の投機バブル。珍しい品種のチューリップ球根の価格が異常に高騰し、「永遠のアウグストゥス」という品種の球根1個がアムステルダムの運河沿いの住宅1軒分の価格(約1万ギルダー)に達し
オランダ
1637年
デカルト『方法序説』
ルネ・デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり(Cogito, ergo sum)」の命題で知られる方法論的懐疑を展開。すべてを疑い尽くしても疑っている自分の存在は疑えないとして、主体的な理性を哲学の出発
フランス・パリ(出版はオランダ)
1639年
鎖国体制の確立と出島
島原の乱後、ポルトガル船の来航を全面禁止。オランダ商館を平戸から出島に移転させ、対外貿易を長崎の出島(オランダ)と唐人屋敷(中国)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)の4口に限定する鎖国体制が完成した。
日本・長崎
1639年〜1648年
赤い城(ラール・キラー)の建設
シャー・ジャハーンがアーグラからデリーに遷都する際に建設した新宮殿。赤砂岩と白大理石を組み合わせた壮大な城塞宮殿で、ディーワーネ・アーム(公謁殿)、ディーワーネ・カース(私謁殿)、王室浴場、庭園を擁す
南アジア・デリー
1642年
タスマンのニュージーランド到達
オランダ東インド会社の命を受けたアベル・タスマンが、バタビア(ジャカルタ)から南方大陸「テラ・アウストラリス」探索に出航。1642年11月にタスマニア島(当初「ファン・ディーメンスラント」と命名)に到
ニュージーランド・南島西岸
1644年
李自成の乱と明の滅亡
農民反乱軍の指導者・李自成が北京を攻略し大順を建国。崇禎帝は景山で自縊して明は滅亡。しかし李自成は呉三桂の投降に失敗し、呉三桂が引き入れた清軍に敗れて北京を追われた。
中国・北京
1644年
山海関の戦いと清の入関
明の将軍・呉三桂が李自成軍に対抗するため清の摂政ドルゴンに山海関を開放。清軍は山海関を突破して李自成を撃破し、順治帝が北京に入城。約270年にわたる清の中国支配が始まった。
中国・河北省山海関
1645年
揚州十日と辮髪令
清の多鐸率いる軍が揚州を攻略後、10日間にわたり虐殺・略奪を行った(揚州十日)。同時期に「薙髪令」(辮髪令)が発布され、漢人に満州式の辮髪を強制。「髪を留むる者は頭を留めず」の方針で抵抗者を処刑した。
中国・揚州
1648年10月24日
ウェストファリア条約
三十年戦争を終結させた講和条約。主権国家の平等と内政不干渉の原則を確立し、近代国際法と国際関係の基礎を形成した。帝国内の300以上の領邦に実質的な主権を認め、カルヴァン派を公認宗教に追加。スウェーデン
ドイツ・ヴェストファーレン
1648年〜1654年
フメリニツキーの乱
ザポロージャ・コサックのヘトマン(統領)ボフダン・フメリニツキーが、ポーランド・リトアニア共和国に対して大規模な反乱を起こした。クリミア・タタールの援軍を得て1648年にゾフティ・ヴォーディの戦いなど
ウクライナ
1649年1月30日
チャールズ1世の処刑
イングランド内戦で議会軍に敗れたチャールズ1世が、「暴君、反逆者、殺人者、国家の公敵」として裁判にかけられ、公開斬首された。ヨーロッパの近代史上、正当な裁判手続きを経て処刑された最初の君主。チャールズ
イングランド・ロンドン
17世紀後半〜18世紀前半
メキシコのバロック文化の開花
ヨーロッパのバロック様式がメキシコで先住民の装飾感覚と融合し、「ウルトラバロック」とも称される独自の豪華絢爛な様式を生み出した。テポソトランのイエズス会教会、プエブラのサント・ドミンゴ教会ロサリオ礼拝
メソアメリカ・メキシコ
1657年
明暦の大火
振袖火事とも呼ばれる江戸史上最大の大火。死者は約10万人と推定され、江戸城天守閣も焼失(以後再建されず)。焼失面積は江戸市街の約60%に及んだ。幕府はこれを機に都市計画を根本的に見直し、広小路・火除地
日本・江戸
1658年〜1707年
アウラングゼーブの帝国最大版図
ムガル帝国第6代皇帝。兄弟間の後継争いで勝利し即位。帝国を最大版図に拡大したが、正統イスラム政策(ジズヤ税の復活、ヒンドゥー寺院の破壊命令)により非ムスリムの反発を招いた。デカン遠征に後半生の大半を費
南アジア全域
1661年〜1722年
康熙帝の治世
清の第4代皇帝・康熙帝は61年間在位し、清朝最長の治世を誇った。三藩の乱を平定、台湾を統一、ジュンガルを撃退、ネルチンスク条約でロシアとの国境を画定。科挙を重視し漢人知識人の支持を獲得。
中国・北京
1661年〜1715年
ルイ14世のヴェルサイユ宮殿建設
「太陽王」ルイ14世がフランス絶対王政の象徴として建設した世界最大級の宮殿。主設計はル・ヴォーとマンサール、庭園設計はル・ノートル。鏡の間(ガラリー・デ・グラス)は長さ73m、357枚の鏡を配した壮麗
フランス・ヴェルサイユ
1662年
鄭成功の台湾占領
明の遺臣・鄭成功が2万5千の軍でオランダ東インド会社の拠点・台湾を攻撃。9カ月の包囲の末にゼーランディア城を陥落させ、オランダを駆逐。台湾を反清復明の拠点とした。
台湾・台南
1665-1666年
1665年ロンドンのペスト大流行
1665年春、ロンドン郊外のセント・ジャイルズ教区でペストが発生し、夏季に爆発的に拡大した。ピーク時の1665年9月には週あたり7,000人以上が死亡した。国王チャールズ2世と宮廷はオックスフォードに
イギリス・ロンドン
1669年
シャクシャインの戦い
日高地方のアイヌ首長シャクシャインが松前藩の交易独占と不公正な取引に反発して蜂起。全道のアイヌを結集し和人の交易所を襲撃したが、松前藩と東北諸藩の鎮圧軍に敗北。和議の場でシャクシャインは謀殺された。
日本・北海道
1670年〜1671年
慶州の庚辛大飢饉
朝鮮王朝最大の飢饉。庚戌年(1670年)から辛亥年(1671年)にかけて全国的な凶作が続き、数十万〜百万人規模の死者が出たとされる。壬辰倭乱・丙子胡乱からの復興途上での大災害であり、朝鮮社会に深刻な影
朝鮮全域
17〜19世紀
アシャンティ帝国の台頭
アカン系アシャンティ族がオセイ・トゥトゥ1世のもとで諸部族を統一し、クマシを首都とする強力な帝国を建設。黄金の椅子(スィカ・グア)が国家統合のシンボルとなった。金の採掘と奴隷貿易で富を蓄積。精巧な金細
ガーナ・クマシ
1673年
三井高利の越後屋と商業革命
三井高利が江戸に越後屋呉服店を開業し、「現金掛け値なし」「店前売り」の革新的商法を開始。従来の掛売り・訪問販売に代わる定価現金販売は商業革命と呼ばれ、庶民にも高級呉服を手の届くものにした。三井財閥の起
日本・江戸/大阪
1673年〜1681年
三藩の乱
康熙帝の撤藩令に反発した呉三桂が反乱を起こし、尚・耿も呼応。一時は中国南半分を支配下に置いたが、呉三桂の死後に後継者が降伏し8年間の乱は終結。
中国・雲南〜華南
1674年
シヴァージーのマラーター王国建国
シヴァージー・ボーンスレーがライガド城で正式に戴冠し、マラーター王国を建国。ムガル帝国やビジャープル・スルタン朝からの独立を宣言。巧みなゲリラ戦術(ガニーミー・カーヴァー)で大帝国に対抗し、「山の鼠」
南アジア・マハーラーシュトラ
1675年
グル・テーグ・バハードゥルの処刑
シク教第9代グル・テーグ・バハードゥルがムガル皇帝アウラングゼーブの命により斬首された。カシミールのヒンドゥー教バラモンがイスラムへの強制改宗を逃れるために助けを求め、グルは「ヒンドの盾」として自らを
南アジア・デリー
1675〜1678年
キング・フィリップ戦争
ワンパノアグ族の首長メタコメット(イギリス人がフィリップ王と呼んだ)が率いた先住民連合とニューイングランド植民者の戦争。植民者の13の町が完全に破壊され、約3000人の先住民と600人以上の植民者が死
北アメリカ・ニューイングランド
17〜19世紀
イースター島の文明崩壊とモアイの倒壊
16-17世紀にかけてイースター島の森林が完全に消滅した後、氏族間の戦争が激化しモアイが組織的に倒壊された(フリ・モアイ)。鳥人崇拝(タンガタ・マヌ)の新たな宗教が台頭し、毎年オロンゴ村でマケマケ神へ
太平洋・イースター島
1683年
第二次ウィーン包囲の失敗
大宰相カラ・ムスタファ・パシャ率いるオスマン軍約15万がウィーンを約2ヶ月包囲した。ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる救援軍が決定的な騎兵突撃を行い、オスマン軍は壊走。カラ・ムスタファは敗北の責任を
オーストリア・ウィーン
1683年7月〜9月
第二次ウィーン包囲
オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャが約15万の大軍でウィーンを包囲。シュターレンベルク伯が約1万5千の守備隊で約2ヶ月間持ちこたえた。ポーランド王ヤン3世ソビエスキーが率いる約7万の救援軍が
オーストリア・ウィーン
1685年〜1709年
生類憐れみの令
5代将軍徳川綱吉が動物の殺傷を禁じた一連の法令。特に犬の保護が厳格で、犬を傷つけた者は厳罰に処された。綱吉は「犬公方」と揶揄された。中野に巨大な犬収容施設が設けられた。綱吉の死後、6代家宣により直ちに
日本・江戸
1685年10月18日
ナントの勅令廃止(フォンテーヌブロー勅令)
ルイ14世がフォンテーヌブロー勅令を発布し、1598年のナントの勅令を廃止。プロテスタント(ユグノー)の礼拝を禁止し、教会を破壊、聖職者を追放した。「ドラゴナード」(軍隊の強制宿営による改宗強要)が各
フランス
1687年7月5日
ニュートンの『プリンキピア』出版
アイザック・ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』を出版。万有引力の法則と運動の三法則を定式化し、ケプラーの惑星運動法則を力学的に説明した。天体の運動と地上の物体の運動を統一的に説明す
イングランド・ケンブリッジ
1688年〜1704年
元禄文化の開花
元禄時代は町人文化が開花した時代。井原西鶴の浮世草子(『好色一代男』)、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の浄瑠璃が三大文学。菱川師宣の浮世絵、尾形光琳の琳派絵画、野々村仁清の色絵陶器など美術も隆盛。上方を
日本・上方〜江戸
1688年〜1689年
名誉革命と権利章典
カトリックのジェームズ2世を追放し、その娘メアリー2世とオランダ総督ウィリアム3世を共同統治者として迎えた「無血革命」。1689年に議会が権利章典を制定し、国王の権力を法的に制限。議会の同意なき課税・
イングランド
1689年
松尾芭蕉『おくのほそ道』
松尾芭蕉が弟子の曾良と東北・北陸を巡った約150日間の旅の紀行文。「夏草や兵どもが夢の跡」(平泉)、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(立石寺)など珠玉の句を含む。俳諧を芸術の域に高めた不朽の名作。
日本・江戸〜東北〜北陸
1689年
ネルチンスク条約
清とロシア帝国の間で結ばれた最初の対等条約。外興安嶺(スタノヴォイ山脈)をロシアとの国境と定め、アムール川流域を清の領域と確認。ラテン語・満洲語・ロシア語で調印された。
ロシア・ネルチンスク
1689年〜1725年
ピョートル大帝の西欧化改革
ツァーリ・ピョートル1世が推進した急進的な西欧化・近代化改革。1697-98年の大使節団(自ら偽名で参加)で西欧の技術を学んだ後、軍制改革(常備陸海軍の創設)、行政改革(参議会制度)、文化改革(貴族の
ロシア
1692〜1693年
セイラム魔女裁判
1692年2月に始まった一連の魔女裁判で、200人以上が告発され、19人が絞首刑、1人が圧殺刑で処刑された。少女たちの「憑依」症状を発端に、告発の連鎖がコミュニティ全体を巻き込んだ。スペクトラル・エビ
北アメリカ・マサチューセッツ
1697〜1791年
サン=ドマング(ハイチ)の砂糖プランテーション
フランス植民地サン=ドマングは18世紀にカリブ海最大の砂糖生産地となり、フランスの植民地収入の40%以上を占めた。約50万人の奴隷が約8000のプランテーションで過酷な労働に従事した。奴隷の死亡率は出
カリブ海・ハイチ
1699年
カールサーの創設
シク教第10代グル・ゴービンド・シンがバイサーキー祭の日にカールサー(純粋な者たち)を創設。信徒に五つのK(ケーシュ=未剃の髪、カンガー=櫛、カラー=鋼の腕輪、カッチャー=半ズボン、キルパーン=短剣)
南アジア・パンジャーブ
18〜19世紀
寺子屋と江戸の教育普及
江戸時代に全国に普及した寺子屋は庶民の初等教育機関。読み・書き・算盤(そろばん)を教え、幕末には全国に1万5千〜2万の寺子屋があったとされる。識字率は当時の世界でも最高水準(男性約50-60%、女性約
日本・全国
1701年〜1703年
元禄赤穂事件(忠臣蔵)
赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び切腹。赤穂浪士47人は約2年の潜伏の後、元禄15年12月14日に吉良邸に討ち入り、主君の仇を討った。浪士は切腹を命じられたが、その忠義は後世
日本・江戸〜兵庫
1703年(曾根崎心中初演)
近松門左衛門と人形浄瑠璃
近松門左衛門は「日本のシェイクスピア」と称される劇作家。人形浄瑠璃の脚本家として『曾根崎心中』『心中天網島』『国性爺合戦』など約100作を執筆。町人の恋愛と義理人情の葛藤を描き、元禄文化を代表する。
日本・大阪
1707年
富士山宝永大噴火
宝永4年11月23日に富士山が大噴火。約2週間にわたり噴火が続き、大量の火山灰が関東一円に降り積もった。江戸では昼間でも暗くなるほどの降灰。富士山東麓の村々は埋没し、酒匂川の土石流は長年にわたり洪水被
日本・静岡
1709年6月27日
ポルタヴァの戦い
大北方戦争の決定的会戦。ロシアのピョートル大帝がスウェーデン王カール12世の精鋭軍を撃破した。カール12世は負傷しながら戦場を指揮したが、ロシア軍の野戦築城と砲兵の優位を克服できなかった。スウェーデン
ウクライナ・ポルタヴァ
1716年〜1745年
徳川吉宗の享保の改革
第8代将軍吉宗が実施した幕政改革。目安箱の設置で庶民の声を直接聴取し、公事方御定書で裁判の統一基準を制定。新田開発の奨励、上げ米の制による参勤交代の緩和、甘藷栽培の奨励なども行った。
日本・江戸
1722年〜1735年
雍正帝の改革と軍機処設置
康熙帝の第四子・雍正帝が13年間の短い治世で徹底的な行政改革を実行。軍機処を設置して皇帝独裁を強化、養廉銀制度で官僚の汚職を抑制、摊丁入畝で人頭税を廃止して地税に統合した。
中国・北京
1724年〜1800年
英祖・正祖の蕩平策
朝鮮第21代王・英祖と第22代王・正祖が約76年間にわたって推進した政治改革。朋党間の均衡人事(蕩平策)により、老論・少論・南人・北人の党派対立の調整を図った。正祖は奎章閣を設置して国王直属の学問・政
朝鮮・漢陽
1727年
バッハ『マタイ受難曲』
ヨハン・セバスティアン・バッハがライプツィヒの聖トーマス教会カントルとして作曲した大規模な受難曲。2つの合唱団・オーケストラ、独唱者を配した壮大な構成で、マタイ福音書のイエスの受難を劇的に描写。メンデ
ドイツ・ライプツィヒ
18世紀前半
鄭敾の真景山水画
謙斎・鄭敾(1676-1759年)は「真景山水画」の創始者。中国の理想的山水を描く伝統から離れ、金剛山・仁王山などの朝鮮の実景を独自の筆法で描いた。代表作『金剛全図』『仁王霽色図』は朝鮮絵画の最高傑作
朝鮮・漢陽
1735年〜1796年
乾隆帝の治世と版図の最大化
乾隆帝は60年間在位し、清朝の最盛期を現出。ジュンガル帝国を滅亡させて新疆を征服、チベット・ネパールにも出兵。四庫全書の編纂を命じ、同時に禁書・焚書で思想統制を強化。人口は3億人に達した。
中国・北京
1739年
ナーディル・シャーのデリー略奪
イランのアフシャール朝のナーディル・シャーがムガル帝国に侵攻し、カルナールの戦いでムガル軍を撃破。デリーに入城し、住民の暴動をきっかけに大虐殺を命じ、推定2万〜3万人を殺害。孔雀の玉座(タフテ・ターウ
南アジア・デリー
1744年
ワッハーブ運動とサウード家の台頭
宗教学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブとディルイーヤの首長ムハンマド・イブン・サウードが同盟を結び、イスラムの純化運動を開始した。聖者崇拝・墓参り・スーフィズムを偶像崇拝として排撃し、クルア
アラビア半島・ディルイーヤ
1747年〜1826年
ドゥッラーニー朝の建国
パシュトゥーン族のアフマド・シャー・ドゥッラーニーがナーディル・シャーの死後にアフガニスタン最初の統一国家を建国。最盛期には現在のアフガニスタン、パキスタン東部、イラン東部、インド北西部を支配。第三次
中央アジア・アフガニスタン
18世紀中頃
パンソリの発展
一人の唱者(広大)が鼓手の太鼓伴奏に合わせ、歌(唱)・語り(アニリ)・身振り(バルリム)で物語を演じる韓国独自の音楽劇。最長8時間に及ぶ大作もある。現存する5曲は春香歌・沈清歌・興夫歌・水宮歌・赤壁歌
朝鮮・全羅道〜全国
1751年〜1772年
百科全書の出版
ドゥニ・ディドロとジャン・ル・ロン・ダランベールが編纂した『百科全書、あるいは科学・芸術・技能の合理的辞典』。全28巻(本文17巻、図版11巻)に約7万2千の項目と2885枚の図版を収録。ヴォルテール
フランス・パリ
1754〜1763年
フレンチ・インディアン戦争
七年戦争の北アメリカ戦線。イギリスとその植民地が、フランスとその先住民同盟者に対して戦った。若きジョージ・ワシントンが初期にフォート・ネセシティで敗北。1759年のエイブラハム平原の戦い(ウルフ将軍v
北アメリカ
1755年11月1日
リスボン地震
1755年11月1日(万聖節の朝)、推定マグニチュード8.5-9.0の大地震がリスボンを襲った。地震動は約6分間続き、市内の建造物の85%が倒壊。万聖節のため教会に集まっていた信者が多数犠牲となった。
ポルトガル・リスボン
1756年〜1763年
七年戦争
プロイセンのフリードリヒ大王が、オーストリア、フランス、ロシア、スウェーデンの包囲網に対して戦った「最初の世界大戦」。ロスバッハの戦い(1757年)でフランス軍を撃破、ロイテンの戦い(1757年)でオ
ヨーロッパ・北米・インド
1757年
プラッシーの戦い
イギリス東インド会社のロバート・クライヴがベンガル太守シラージュ・ウッダウラを破った戦い。クライヴ軍は約3千人に対し、太守軍は5万人を擁したが、太守の将軍ミール・ジャアファルの裏切りにより大勢が決した
南アジア・ベンガル
1760年代〜1830年代
イギリス産業革命の進展
紡績機(ハーグリーヴズのジェニー紡績機1764年、アークライトの水力紡績機1769年、クロンプトンのミュール紡績機1779年)と蒸気機関(ワットの改良蒸気機関1769年)の発明・改良が産業構造を根本的
イギリス・ランカシャー
1761年
第三次パーニーパットの戦い
アフガニスタンのドゥッラーニー朝アフマド・シャーがマラーター同盟軍を壊滅的に撃破した18世紀アジア最大の戦い。双方合わせて約15万人の兵力が激突し、マラーターは推定4万〜7万人の死者を出した。マラータ
南アジア・ハリヤーナー
1762年
思悼世子の悲劇(壬午禍変)
朝鮮第21代王・英祖が息子の世子(思悼世子、荘献世子)を米櫃(ティジュ)に閉じ込めて8日後に餓死させた事件。英祖と世子の間の深刻な父子対立、老論派の世子排除の画策が背景にある。世子の妃・恵慶宮洪氏の回
朝鮮・漢陽(昌慶宮)
1764年
バクサルの戦い
イギリス東インド会社の軍がベンガル太守ミール・カーシム、アウド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世の連合軍を破った戦い。プラッシーの戦い以上に決定的な軍事的勝利であり、アラーハー
南アジア・ビハール
1767年
アユタヤの陥落
ビルマ・コンバウン朝のシンビューシン王がアユタヤを包囲・陥落させ、417年の王朝を滅亡させた。都市は徹底的に破壊され、住民は虜囚として連行された。しかし中華系タイ人の将軍タークシンがわずか7ヶ月で残存
タイ・アユタヤ
1767年〜1799年
マイソール戦争(ティープー・スルタン)
マイソール王国のハイダル・アリーとその子ティープー・スルタンがイギリス東インド会社と4次にわたり戦った戦争。ティープーは「マイソールの虎」と呼ばれ、フランスと同盟を結び、ロケット兵器を使用してイギリス
南アジア・カルナータカ
1769年〜1770年
クック船長のニュージーランド測量航海
イギリス海軍のジェームズ・クック中尉がHMSエンデヴァー号で第1回航海の途上、1769年10月にニュージーランド北島東岸のポバティー湾に到達。約6カ月をかけてニュージーランドの海岸線を周航し、驚異的な
ニュージーランド
1772年〜1786年
田沼意次の重商主義政策
老中田沼意次は重商主義的な経済政策を推進した。株仲間の公認による営業独占と運上金・冥加金の徴収、長崎貿易の拡大、蝦夷地開発の計画、印旛沼干拓などを実施。賄賂政治の代名詞とされたが、近年は先進的な経済政
日本・江戸
1772年〜1795年
ポーランド分割(第1回〜第3回)
ロシア、プロイセン、オーストリアの三大国がポーランド・リトアニア共和国を三度にわたり分割・消滅させた。第1回(1772年)で約30%、第2回(1793年)でさらに大幅な領土を喪失。コシュシューシコの蜂
ポーランド・リトアニア
1773年〜1782年
四庫全書の編纂と文字の獄
乾隆帝が命じた中国史上最大の叢書編纂事業。経・史・子・集の四部に分類し、3461種・約8億字を収録。同時に反清的な書物を徹底的に焚書・改竄する「文字の獄」を断行。知識人への思想統制を強化。
中国・北京
1773年
ボストン茶会事件
1773年12月16日夜、サミュエル・アダムズらが率いる約150人の植民地人がモホーク族に変装してボストン港に停泊中の3隻の船に乗り込み、342箱の茶(約4万6千ポンド、現在の約170万ドル相当)を海
北アメリカ・マサチューセッツ
1774年
杉田玄白・前野良沢『解体新書』の刊行
杉田玄白・前野良沢らがオランダ語の解剖学書を翻訳し『解体新書』として刊行。人体の構造を正確に記述した西洋医学書の翻訳は、日本の医学・科学を飛躍的に進歩させた。蘭学興隆の出発点。
日本・江戸
1775年
レキシントン・コンコードの戦い
1775年4月19日、イギリス正規軍約700人がコンコードの植民地民兵の武器庫を破壊するために出動。レキシントンで約80人のミニットマン(民兵)と最初の銃撃戦が発生(「世界に響いた一発」)。コンコード
北アメリカ・マサチューセッツ
1776年7月4日
アメリカ独立宣言
1776年7月4日、第二回大陸会議がフィラデルフィアの独立ホールでアメリカ独立宣言を採択。トマス・ジェファーソンが主に起草し、ベンジャミン・フランクリンとジョン・アダムズが修正を加えた。「すべての人間
北アメリカ・フィラデルフィア
1777年
サラトガの戦い
1777年9-10月、ニューヨーク州サラトガでイギリスのジョン・バーゴイン将軍の軍勢約6000人がアメリカ軍に包囲され降伏した。フリーマンズ・ファーム(9月19日)とベミス・ハイツ(10月7日)の二度
北アメリカ・ニューヨーク
1779年
クック船長のハワイでの死
第3回航海中のジェームズ・クック船長が1779年2月14日、ハワイ島ケアラケクア湾でハワイ先住民との衝突により殺害された。クックは1778年1月にハワイ諸島を「発見」(ヨーロッパ人として初)し、マカヒ
ハワイ・ケアラケクア湾
18世紀後半
金弘道と申潤福の風俗画
檀園・金弘道(1745-1806年頃)は農民・職人・庶民の生活を生き生きと描いた風俗画で知られる。『씨름図(相撲図)』『書堂図』など25点の風俗画帖は国宝に指定。蕙園・申潤福(1758-?)は妓生や遊
朝鮮・漢陽
1781年
カント『純粋理性批判』
イマヌエル・カントが認識論の根本的転換を行った哲学の主著。経験論と合理論を総合し、人間の認識は感性と悟性の協働によって成立すると論じた。「コペルニクス的転回」として、対象が認識に従うのではなく、認識が
ドイツ・ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)
1781年
ヨークタウンの戦い
1781年9-10月、ワシントンとフランスのロシャンボー伯爵の連合軍(約17000人)がコーンウォリス将軍のイギリス軍(約8000人)を包囲。フランスのド・グラス提督の艦隊がチェサピーク湾海戦でイギリ
北アメリカ・バージニア
1782年
チャクリー朝(ラタナコーシン朝)の建国
タークシンのトンブリー朝を継承したチャクリー将軍(ラーマ1世)がチャオプラヤー川東岸のバンコクに遷都し、現在のタイ王室であるチャクリー朝(ラタナコーシン朝)を建国。アユタヤの文化・制度を復興させ、ワッ
タイ・バンコク
1784年〜1801年
天主教の伝来と辛酉迫害
1784年、李承薫が北京で洗礼を受けて帰国し、朝鮮初のカトリック信者となった。「西学」として知識人層に広まったが、祖先祭祀の拒否が儒教秩序への挑戦と見なされた。辛酉迫害(1801年)では中国人神父・周
朝鮮・漢陽
1784年
ワット・プラケーオとエメラルド仏
エメラルド仏(プラケーオ・モーラコット)を本尊とするタイで最も神聖な寺院。エメラルド仏は高さ約66cmの翡翠製で、季節ごとに国王自ら衣を替える儀式が行われる。回廊にはラーマキエン(ラーマーヤナのタイ版
タイ・バンコク
1787年〜1793年
寛政の改革
老中松平定信が天明の飢饉後に実施。朱子学以外を禁じた寛政異学の禁、旗本の借金帳消し(棄捐令)、囲米制度、出版統制を実施。質素倹約を掲げたが厳格すぎる統制は反発を招き「白河の清きに魚のすみかねて もとの
日本・江戸
1787年
合衆国憲法の制定
1787年5月25日から9月17日まで、フィラデルフィアで憲法制定会議が開催され、連合規約に代わる新憲法が起草された。ジェームズ・マディソン(「憲法の父」)が中心的役割を果たし、連邦主義者と反連邦主義
北アメリカ・フィラデルフィア
1789年
西山朝と阮文恵の北伐
西山(タイソン)朝の阮文恵(光中帝)が清の20万の干渉軍をテト(旧正月)の奇襲攻撃で壊滅させた。ドンダーの戦い(1789年1月30日)では清軍のドンダー要塞を夜襲で陥落。ベトナム軍事史上最も鮮やかな勝
ベトナム・タンロン(ハノイ)
1788年1月26日
第一船団のシドニー到着とオーストラリア植民地建設
アーサー・フィリップ海軍大佐率いる11隻の「第一船団」(First Fleet)がシドニー湾に到着し、イギリスの流刑植民地を建設。約750名の囚人と約550名の海兵隊員・役人・家族が上陸した。当初ボタ
オーストラリア・ニューサウスウェールズ

他の時代