中世(476〜1453年)の歴史

392件の歴史的出来事

476年9月4日
西ローマ帝国の滅亡
ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(少年皇帝)を廃位し、帝位の標章を東ローマ皇帝ゼノンに送った。オドアケルは自らイタリア王を称した。「帝国の最後の日」は静かな権
イタリア・ラヴェンナ
477年〜495年頃
シーギリヤの建設
スリランカのカーシヤパ1世が父王を殺害して王位を奪い、巨大な岩山の頂上に宮殿を建設した。精巧な水利システム(噴水庭園)、「ライオンの門」、岩壁に描かれたフレスコ画(「シーギリヤの乙女」)が特徴。弟モッ
南アジア・スリランカ
480年頃
祖沖之の円周率計算
南朝宋の数学者・天文学者の祖沖之が円周率を3.1415926〜3.1415927の間と算出。これはヨーロッパが同精度に到達する約1000年前の業績。また大明暦を編纂し、歳差の概念を暦法に導入した。
中国・南朝宋
485年〜
均田制と府兵制の確立
北魏の孝文帝が均田制(国有地を農民に均等配分する制度)を施行。隋唐で府兵制(農民に土地を与え兵役を課す制度)と組み合わせて完成。租庸調制(税制)と三位一体で律令国家の経済的基盤を形成。
中国・華北
493年〜
龍門石窟の造営
北魏の洛陽遷都に伴い造営開始。孝文帝・宣武帝期に宮廷主導で古陽洞・賓陽洞などが開鑿された。唐代には則天武后の寄進で盧舎那仏(高さ17m)が完成。全2345窟、10万体以上の仏像を有する。
中国・河南省洛陽
494年〜499年
北魏孝文帝の漢化改革
鮮卑族の北魏・孝文帝が大規模な漢化政策を断行。494年に洛陽遷都、鮮卑語の禁止、胡服から漢服への改変、鮮卑姓から漢姓への改称(拓跋→元)、漢族との通婚奨励を実施。均田制も整備。
中国・洛陽
496年頃
クロヴィスのキリスト教改宗
フランク王クロヴィス1世がランスの司教レミギウスにより洗礼を受け、カトリックに改宗した。アリウス派を信奉していた他のゲルマン諸族と異なり、正統派カトリックを選択したことで、ガロ・ローマ系住民とカトリッ
フランス・ランス
499年
アーリヤバタの天文学・数学
インドの数学者・天文学者アーリヤバタが23歳で『アーリヤバティーヤ』を著述。地球の自転を正しく認識し、地球の円周を39,968kmと計算(実際は40,075km)。円周率を3.1416と近似し、正弦関
南アジア・ビハール
5世紀頃〜現在
東南アジアにおけるラーマーヤナのローカライゼーション
インドの叙事詩ラーマーヤナは東南アジア各地で翻案され、タイの「ラーマキエン」、ジャワの「カカウィン・ラーマーヤナ」、カンボジアの「リアムケー」、ミャンマーの「ヤーマ・ザータドー」、マレーの「ヒカヤット
東南アジア全域
507年
継体天皇の即位
武烈天皇が後嗣なく崩御し、応神天皇5世孫とされる越前の男大迹王(継体天皇)が大伴金村らに擁立された。即位後も大和入りは526年まで実現せず、異例の長期間畿内周辺に宮を置いた。王朝交替説の根拠ともされる
日本・大阪
520年頃
新羅の骨品制の確立
新羅の法興王(在位514-540年)が律令を頒布し、骨品制を公的制度として整備した。聖骨・真骨・六頭品〜一頭品の身分序列で、就任可能な官位、住居の大きさ、衣服の色まで細かく規定した。王位は当初聖骨のみ
新羅・慶州
523年
武寧王陵の築造
百済第25代王・武寧王(在位501-523年)とその王妃の合葬墓。1971年に未盗掘の状態で発見され、約5000点の副葬品が出土した。中国南朝様式の煉瓦積み横穴式石室墓で、金製冠飾り、銅鏡、中国製陶磁
百済・公州(熊津)
527年〜528年
磐井の乱
筑紫国造磐井がヤマト王権の朝鮮半島出兵に反対して挙兵。新羅と通じ、ヤマト王権軍の渡海を妨害した。528年、物部麁鹿火が率いるヤマト王権軍により鎮圧。磐井は斬殺された。岩戸山古墳が磐井の墓とされる。
日本・福岡
529年〜534年
ユスティニアヌスのローマ法大全
ユスティニアヌス1世の命により法学者トリボニアヌスが中心となって編纂した包括的法典集。『勅法彙纂(コデクス)』『学説彙纂(ディゲスタ)』『法学提要(インスティトゥティオネス)』『新勅法(ノヴェッラエ)
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
529年頃
モンテ・カッシーノ修道院の設立
ヌルシアのベネディクトゥスがモンテ・カッシーノの山頂にベネディクト修道会の母体となる修道院を設立。『戒律(レグラ)』を著し、「祈り働け(オラ・エト・ラボラ)」の精神のもと、1日を祈祷・労働・読書に体系
イタリア・ラティウム
531年〜579年
ホスロー1世の治世とササン朝の黄金期
ホスロー1世アヌーシルワーン(「不滅の魂」)はササン朝最大の名君と称される。マズダク教徒の反乱を鎮圧後、税制改革・軍制改革・行政改革を実施。ビザンツのユスティニアヌス帝と対峙し、アンティオキアを一時占
ペルシャ・クテシフォン
533〜534年
ビザンツ帝国の北アフリカ回復
ユスティニアヌス帝の命を受けた将軍ベリサリウスが、わずか1万5千の兵力でヴァンダル王国を攻撃。アド・デキムムとトリカマルムの二つの戦いでヴァンダル軍を撃破し、わずか数か月でカルタゴを奪還。ヴァンダル王
チュニジア・カルタゴ
537年12月27日
ハギア・ソフィア大聖堂の完成
ユスティニアヌス1世が建設した巨大聖堂。建築家イシドロスとアンテミオスが設計し、約1万人の労働者が5年10ヶ月で完成させた。直径31mの巨大ドームをペンデンティヴ(三角穹隅)で支える革新的構造。献堂式
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
538年(552年説あり)
仏教公伝
百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経典を献上し、日本に正式に仏教が伝来した。上宮聖徳法王帝説は538年、日本書紀は552年と記す。蘇我稲目が崇仏を主張し物部尾輿が排仏を唱え、崇仏・排仏論争が始まった。
日本・奈良(飛鳥)
541-542年
ユスティニアヌスのペスト
541年にエジプトのペルシウムから始まったペストは、穀物輸送船を通じてコンスタンティノープルに到達し、542年に最盛期を迎えた。ピーク時には一日あたり5,000〜10,000人が死亡したとされ、皇帝ユ
東ローマ帝国・コンスタンティノープル
548年〜552年
侯景の乱
東魏から梁に亡命した侯景が反乱を起こし建康を攻略。梁の武帝を幽閉して餓死させた。侯景は漢帝を称したが552年に陳覇先らに討伐された。建康は壊滅的被害を受け、南朝の国力は決定的に衰退。
中国・建康(南京)
552年〜744年
突厥帝国の建国
チュルク系遊牧民がブミン・カガンの下で柔然を打倒し建国。最盛期にはモンゴルからビザンツ帝国の国境まで及ぶ広大な帝国を形成。582年に東西に分裂。東突厥はオルホン碑文(732年)を残し、チュルク語の最古
中央アジア・モンゴル
553年
新羅の真興王による領土拡大
新羅第24代王・真興王は百済と同盟して高句麗領の漢江上流域を奪取した後、同盟を破棄して百済が獲得していた漢江下流域をも占領した。さらに大伽耶を滅ぼし(562年)、洛東江流域を完全に統合。征服地に巡狩碑
新羅・朝鮮半島中部
576年
新羅の花郎道
新羅の真興王が花郎道を公的制度として確立。貴族の青年を花郎(花郎徒)として組織し、山川遊歴を通じた心身鍛錬、歌舞、仏教修行、軍事訓練を行った。圓光法師の「世俗五戒」(事君以忠・事親以孝・交友以信・臨戦
新羅・慶州
580年頃〜897年
パッラヴァ朝とマハーバリプラムの石窟寺院
南インドのパッラヴァ朝はカーンチープラムを首都とし、マハーバリプラム(マーマッラプラム)に壮大な石窟寺院群を建設した。「アルジュナの苦行」として知られる巨大な岩面浮彫、海岸寺院、五つのラタ(戦車形石造
南アジア・タミルナードゥ
581年
隋の建国と南北統一
北周の外戚・楊堅が禅譲を受けて隋を建国。589年に南朝の陳を滅ぼし、西晋以来約300年ぶりに中国を統一した。三省六部制・科挙・均田制・府兵制を整備し、後の唐制の基礎を築いた。
中国・長安
587年
蘇我馬子と物部守屋の戦い(丁未の乱)
崇仏派の蘇我馬子が排仏派の物部守屋を滅ぼした戦い。厩戸皇子(聖徳太子)も蘇我方に参戦し、四天王に戦勝祈願したとされる。物部守屋は戦死し、物部氏の軍事的権力は崩壊。蘇我氏が朝廷の実権を掌握した。
日本・大阪
588年〜596年
飛鳥寺(法興寺)の建立
蘇我馬子が発願し建立した日本最古の本格的仏教寺院。百済から派遣された寺工・瓦博士などの技術者が建設に従事。止利仏師作の飛鳥大仏(釈迦如来像)が安置された。塔を中心に三金堂が配置される飛鳥寺式伽藍配置。
日本・奈良
593年〜622年
聖徳太子の政治改革
推古天皇の摂政として厩戸皇子(聖徳太子)が一連の政治改革を推進。603年に冠位十二階を制定し氏族の世襲ではなく個人の能力による人材登用を図った。604年に十七条憲法を制定し官僚の心構えを示した。607
日本・奈良
593年
四天王寺の建立
聖徳太子が丁未の乱の際の四天王への戦勝祈願の誓いを果たして建立した寺院。中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置は日本最古の伽藍配置の一つ。敬田院・施薬院・療病院・悲田院の四箇院を設置。
日本・大阪
600年頃〜1000年頃
エローラ石窟寺院群の造営
34の石窟からなり、仏教窟(1-12)、ヒンドゥー教窟(13-29)、ジャイナ教窟(30-34)の三群に分かれる。最大の見所はカイラーサナータ寺院(第16窟)で、一枚岩から彫り出された世界最大の一枚岩
南アジア・マハーラーシュトラ
7世紀〜17世紀
バクティ運動の展開
神への個人的な愛と献身を説く宗教運動。南インドのアールヴァール(ヴィシュヌ派)とナーヤナール(シヴァ派)の詩人たちに始まり、北インドではカビール、ミーラーバーイー、トゥルシーダース、チャイタニヤなどの
南アジア全域
600〜1221年頃
チチェン・イツァの繁栄
ユカタン半島最大のマヤ都市で、後古典期マヤの政治・宗教の中心地。ククルカン(羽毛の蛇)のピラミッド(エル・カスティーヨ)は春分・秋分に蛇の影が階段を這い降りる光の現象で有名。戦士の神殿、球技場(メソア
メソアメリカ・ユカタン半島
605年〜610年
大運河の建設
隋の煬帝が数百万人を動員して大運河を完成。通済渠・永済渠・江南河を開削し、洛陽を中心に北は涿郡(北京)、南は余杭(杭州)を結ぶ大水路網を構築。物資・人員の大量輸送を可能にした。
中国・華北〜江南
607年頃
法隆寺の建立
聖徳太子が斑鳩宮に隣接して建立した寺院。670年に焼失後再建された西院伽藍は世界最古の木造建築群として知られる。五重塔・金堂・中門・回廊からなる非対称の伽藍配置は法隆寺式と呼ばれる。
日本・奈良
607年
遣隋使の派遣(小野妹子)
推古天皇15年、小野妹子が遣隋使として隋に派遣された。国書に「日出処天子致書日没処天子」と記し、隋の煬帝を怒らせたと『隋書』に記録される。翌年、隋の裴世清が答礼使として来日。対等外交を志向した画期的な
日本・奈良〜中国
610年〜632年
ムハンマドへの天啓とイスラム教の誕生
商人ムハンマドは610年頃、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で大天使ジブリール(ガブリエル)を通じてアッラーの啓示を受けた。唯一神への帰依(イスラム)を説き、クルアーン(コーラン)として記録された啓示は約2
アラビア半島・メッカ
612年〜614年
煬帝の高句麗遠征
煬帝は3度にわたり高句麗に遠征。第1次(612年)は113万と号する大軍を動員したが、薩水(清川江)の大敗で30万の兵を失った。第2次・第3次も失敗に終わり、国力の消耗と民衆の離反を招いた。
中国東北部〜朝鮮半島
612年
隋の高句麗遠征の失敗
隋の煬帝は113万の大軍で高句麗に親征したが、乙支文徳の戦略により薩水で壊滅的敗北を喫した。渡河した隋軍30万5千のうち生還者はわずか2,700人と伝えられる。煬帝は3度(612・613・614年)遠
高句麗・遼東〜薩水
615〜683年
パレンケの黄金時代
キニチ・ハナブ・パカル(パカル大王、在位615-683年)の治世にパレンケは最盛期を迎えた。碑銘の神殿の地下から発見されたパカルの石棺と翡翠の仮面は20世紀最大のマヤ考古学的発見の一つ。宮殿群、十字架
メソアメリカ・メキシコ・チアパス
618年〜626年
唐の建国と玄武門の変
隋末の混乱の中、太原留守の李淵が挙兵し618年に唐を建国。次男の李世民が軍事的に最大の功績を挙げたが、626年に玄武門の変で兄・李建成と弟・李元吉を殺害し皇太子となった。同年即位して太宗に。
中国・長安
622年
ヒジュラ(聖遷)とイスラム暦の起点
メッカのクライシュ族による迫害を受けたムハンマドと信者たちは、622年にメディナに移住した。この「ヒジュラ」はイスラム暦の元年となった。メディナでムハンマドは「メディナ憲章」を制定し、ムスリム・ユダヤ
アラビア半島・メディナ
624年
バドルの戦い
ムハンマド率いる約313人のムスリム軍が、アブー・スフヤーン率いるメッカのクライシュ族軍約950人を撃破した。初期イスラム史における最も重要な軍事的勝利であり、クルアーンではアッラーの直接的介入(天使
アラビア半島・バドル
625年頃〜645年
蘇我蝦夷・入鹿の専横
蘇我馬子の孫・蝦夷とその子・入鹿が朝廷で絶大な権力を振るった。入鹿は643年に聖徳太子の子・山背大兄王一族を攻め滅ぼし、皇位継承にも介入。天皇家を凌ぐ専横は諸豪族の反発を招いた。
日本・奈良(飛鳥)
7世紀前半
石舞台古墳の築造
蘇我馬子の墓と伝えられる方墳。一辺約50メートル、石室は全長約19メートル。天井石は約77トンの巨岩で、封土が失われた後の露出した姿が「石舞台」の名の由来。飛鳥時代最大級の石室を持つ。
日本・奈良
627年〜649年
貞観の治
唐太宗・李世民の治世。魏徴・房玄齢・杜如晦ら賢臣を登用し、諫言を奨励する開かれた政治を行った。律令制度を完成させ、三省六部・科挙・均田制・府兵制を整備。東突厥を滅ぼし「天可汗」の称号を得た。
中国・長安
628年
ブラフマグプタによるゼロの体系化
数学者ブラフマグプタが『ブラーフマスプタシッダーンタ』を著し、ゼロを独立した数として初めて体系的に定義。ゼロの四則演算規則を明示し、負の数の演算も定義した。二次方程式の一般解法(ブラフマグプタの公式)
南アジア・ラージャスターン
629年〜645年
玄奘のインド旅行
唐の僧・玄奘が国禁を犯して出国し、シルクロードを経てインドに到達。ナーランダ僧院で唯識学を学び、657部の経典を持ち帰った。太宗の支援で大慈恩寺で翻訳事業を行い、『大唐西域記』を著した。
中国〜中央アジア〜インド
630年〜894年
遣唐使の派遣
630年から894年まで約20回にわたり派遣された唐への公式使節団。4隻の船に約500人が乗り組み、外交使節・留学生・学問僧が渡海。阿倍仲麻呂・吉備真備・最澄・空海らが参加。唐の制度・文化・宗教を日本
日本〜中国
630年〜894年
遣唐使と東アジア文化圏
日本が約260年間にわたり20回近く派遣した使節団。留学生・留学僧が唐の制度・文化・技術を吸収して持ち帰った。阿倍仲麻呂は玄宗に仕え、鑑真は6度の渡海失敗を経て来日。894年に菅原道真の建議で廃止。
中国・長安
630年
メッカ征服
ムハンマドは約1万人の軍勢を率いてメッカに無血入城し、カアバ神殿の360体の偶像を破壊してイスラムの聖地として浄化した。大多数のメッカ住民に恩赦を与え、かつての敵であったアブー・スフヤーンら有力者もイ
アラビア半島・メッカ
7世紀〜9世紀
吐蕃帝国の隆盛と唐との抗争
ソンツェン・ガンポがチベットを統一し吐蕃帝国を建国。唐の文成公主を娶り仏教を受容。8世紀にはティソン・デツェン王の下で最盛期を迎え、763年には一時長安を占領。唐と長く覇権を争った。
チベット・ラサ
636年
ヤルムークの戦い
ハーリド・イブン・アル・ワリード率いるアラブ・ムスリム軍(約2-4万)がビザンツ帝国のヘラクレイオス帝の大軍(推定4-15万)を壊滅的に撃破した。6日間の激戦の末、砂嵐と巧みな機動戦術でビザンツ軍を包
レヴァント・ヤルムーク川
636年
カーディスィーヤの戦いとササン朝の崩壊
サアド・イブン・アビー・ワッカース率いるアラブ・ムスリム軍がササン朝ペルシャのロスタム将軍率いる大軍を撃破した。3-4日間の激戦の末、ロスタムが戦死してペルシャ軍は壊走。この勝利によりメソポタミア全域
メソポタミア・カーディスィーヤ
643年
山背大兄王の滅亡
聖徳太子の子・山背大兄王が蘇我入鹿の軍勢に攻められ、斑鳩寺(法隆寺)で一族もろとも自害。上宮王家は断絶した。入鹿は皇位継承への影響力を強めるため、有力な皇位候補者を排除した。
日本・奈良
645年
乙巳の変
中大兄皇子と中臣鎌足が飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺した政変。三韓の使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子自ら入鹿を斬殺。翌日、父の蘇我蝦夷も邸宅に火を放ち自害。半世紀にわたる蘇我氏の専権体制が崩壊した。
日本・奈良(飛鳥)
645年〜
大化の改新
乙巳の変後、孝徳天皇のもとで実施された一連の政治改革。646年の改新の詔により、公地公民制、班田収授法、租庸調制、国郡里制の導入が宣言された。中国の律令制度を範に中央集権的国家体制の構築を目指した。
日本・奈良(難波)
645年〜
難波宮の造営
大化の改新後、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営(前期難波宮)。その後、聖武天皇が726年に後期難波宮を造営。前期は飛鳥時代の大規模な掘立柱建物群、後期は礎石建物の朝堂院形式。副都として平城京と並ぶ政治的
日本・大阪
645年
安市城の戦い
唐の太宗李世民は自ら15万の軍を率いて高句麗に親征。遼東城・白岩城を陥落させたが、安市城の城主(名は不詳)の頑強な抵抗に遭い88日間の攻城戦の末に撤退を余儀なくされた。太宗は撤退時に安市城主の勇敢さを
高句麗・安市城
7世紀後半〜8世紀
古代駅制・官道の整備
律令国家は都と地方を結ぶ幹線道路(官道)を整備し、約30里(約16キロ)ごとに駅家を設置。駅馬が配備され、公文書の迅速な伝達を可能にした。道幅は大路で約12メートル、中路で約9メートルと広大。現代の直
日本・全国
647〜698年
イスラムの北アフリカ征服とカイラワーンの建設
正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけて、アラブ軍が段階的に北アフリカを征服。647年のスベイトラの戦いでビザンツ軍を破り、670年にウクバ・イブン・ナーフィがカイラワーンを建設してマグレブの軍事拠点とし
チュニジア・カイラワーン
660年
百済の滅亡
唐の蘇定方率いる13万の大軍と新羅の金庾信率いる5万の軍が百済を挟撃。百済の義慈王は降伏し、約700年の歴史に幕を閉じた。落花岩の伝説(三千宮女の身投げ)は後世の創作とされるが、百済滅亡の悲劇を象徴す
百済・泗沘(扶余)
661年〜750年
ウマイヤ朝の成立とダマスカスの首都化
ムアーウィヤ1世がカリフに就任しウマイヤ朝を開き、ダマスカスを首都とした。アラブ帝国は西はイベリア半島から東はインダス川に至る史上最大のイスラム帝国に拡大。アラビア語を公用語とし、貨幣制度を整備し、ウ
シリア・ダマスカス
663年
白村江の戦い
百済復興軍を支援するため渡海した日本(倭国)の水軍約4万が、唐・新羅連合軍と白村江で激突し大敗した。日本の船400余隻が焼かれ壊滅的な打撃を受けた。この敗戦により日本は朝鮮半島への軍事介入を完全に断念
百済・白村江(錦江河口)
7世紀後半
大宰府の設置
九州全体と壱岐・対馬の統治、および外交・防衛を担う律令国家の出先機関。大宰帥を長とし、数百人の官人が勤務。外国使節の接待を行う鴻臚館を管轄し、遣唐使・遣新羅使の発着地としても機能。「遠の朝廷(とおのみ
日本・福岡
664年〜665年
水城・大野城の築造
白村江の敗戦後、唐・新羅の侵攻に備えて大宰府防衛のために築造。水城は全長1.2キロ、高さ約14メートルの大堤防で外濠を伴う。大野城は周囲約8キロの朝鮮式山城。百済からの亡命貴族の技術指導のもと建設され
日本・福岡
664年〜
防人制度の整備
白村江敗戦後に整備された辺境防衛制度。主に東国の農民が徴発され、北九州・対馬・壱岐の防衛に当たった。防人の歌は万葉集に多数収録され、故郷を離れる悲しみが詠まれている。奈良時代を通じて維持されたが、79
日本・九州
667年
金田城の築造
白村江敗戦後、対馬に築造された朝鮮式山城。周囲約2.8キロの石塁が山を囲み、城門・水門が設けられた。唐・新羅の侵攻に備える日本列島防衛の最前線として機能。防人が配置された。
日本・長崎(対馬)
667年
天智天皇の近江大津宮遷都
中大兄皇子(天智天皇)が飛鳥から近江大津宮に遷都。白村江敗戦後の防衛体制再編と、内政改革を推進するための新拠点として選定。庚午年籍(670年、日本最初の全国的戸籍)の作成など律令国家建設を加速させた。
日本・滋賀
668年
高句麗の滅亡
唐の李勣率いる大軍と新羅軍の合同攻撃により平壌が陥落。宝蔵王が降伏し、約700年の高句麗は滅亡した。淵蓋蘇文の死後(666年)、その子たちの間の内紛が滅亡を決定的にした。高句麗遺民は後に渤海を建国する
高句麗・平壌
7世紀〜14世紀
シュリーヴィジャヤ海上帝国
スマトラ島南部を拠点に7世紀から約700年間、マラッカ海峡の海上交易を支配した仏教海洋帝国。中国の義浄は671年に訪れ、1,000人以上の僧侶が学ぶ仏教学術センターとして記録。唐・宋への朝貢貿易で莫大
インドネシア・スマトラ島パレンバン
672年
壬申の乱
天智天皇の崩御後、弟の大海人皇子が天智の子・大友皇子(弘文天皇)と皇位をめぐり戦った古代最大の内乱。大海人皇子は吉野から東国へ脱出して挙兵し、美濃・伊勢の豪族を糾合。瀬田橋の決戦で近江朝廷軍を破り、大
日本・近畿〜東海
676年
新羅の三国統一
新羅は唐を朝鮮半島から駆逐し、大同江以南の朝鮮半島統一を達成した。唐は高句麗・百済の旧領に安東都護府を設置して直接支配を企図したが、新羅は唐軍と戦って撃退。金仁問・金庾信らの外交・軍事両面の努力により
朝鮮半島・新羅
680年発願〜698年完成
薬師寺の建立
天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願。金堂の薬師三尊像(国宝)は白鳳美術の最高傑作。東塔(国宝)は創建時の唯一の建造物で「凍れる音楽」と称される均整美を持つ。
日本・奈良
680年
カルバラーの悲劇とシーア派の形成
預言者ムハンマドの孫フサイン・イブン・アリーが、ウマイヤ朝カリフ・ヤズィード1世に対する反抗の途上、カルバラーで包囲された。わずか72人の一行がウマイヤ朝軍約4,000人に対して戦い、フサインを含む大
メソポタミア・カルバラー
689年
飛鳥浄御原令の施行
天武天皇が編纂を命じ、持統天皇の時代に施行された律令法典。令22巻からなるが、律は未完成であったとされる。戸籍制度(庚寅年籍)の整備と班田収授の実施を可能にし、大宝律令の前身として律令国家の基盤を形成
日本・奈良
690年〜705年
則天武后の治世
唐高宗の皇后・武則天が中国史上唯一の女帝として即位し、国号を周と改めた。科挙を拡充して寒門出身者を登用し、門閥貴族の勢力を抑制。密告政治で反対派を粛清する一方、対外的には安定した統治を実現。
中国・洛陽
691年
岩のドームの建設
ウマイヤ朝カリフ・アブドゥルマリクが建設した岩のドームは、現存する最古のイスラム建築の一つであり、ビザンツ様式の金色のドームとモザイク装飾で覆われた八角形の建造物。中央の聖岩はアブラハムのイサク奉献と
レヴァント・エルサレム
694年
藤原京の建設
持統天皇が建設した日本初の本格的都城。中国の長安を模した条坊制を採用し、東西約5.3キロ、南北約4.8キロの壮大な規模。藤原宮を中心に碁盤目状に区画された都市が計画的に建設された。約16年間、都として
日本・奈良
698年
渤海の建国
高句麗の遺将・大祚栄が靺鞨族とともに東牟山に建国。当初「震国」と称し、後に「渤海」に改称した。中国から「海東の盛国」と称されるまでに発展し、日本とも活発に交流(渤海使34回、遣渤海使15回)。926年
満州東部・敦化付近
7世紀末〜8世紀初
高松塚古墳の壁画
1972年に発見された極彩色の壁画は日本考古学史上最大級の発見。石室内に四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)、日月、男女群像が描かれていた。高句麗や唐の壁画墓との類似が指摘され、国際的な文化交流を反映する。
日本・奈良
7世紀末〜8世紀初
キトラ古墳の壁画
石室内に四神図・天文図・十二支像が描かれた壁画古墳。天井の天文図は現存する世界最古の本格的星図とされ、中国式の星座配置で約350個の星が金箔で表現されている。2000年の特別公開で全貌が明らかになった
日本・奈良
701年
大宝律令の制定
文武天皇の下、刑部親王・藤原不比等らが中心となって編纂した日本初の本格的律令法典。律(刑法)6巻・令(行政法)11巻からなる。唐の律令を基に日本の実情に適合させた独自の法体系を構築。702年から施行。
日本・奈良
708年
和同開珎の鋳造
武蔵国秩父での和銅発見を機に、元号を「和銅」に改め、日本初の本格的流通貨幣・和同開珎が鋳造された。唐の開元通宝を模した円形方孔の銅銭。蓄銭叙位令(711年)により貨幣蓄積を奨励したが、地方への浸透は限
日本・奈良
710年
平城京遷都
元明天皇が藤原京から平城京へ遷都。和銅3年3月10日に遷都が行われた。朱雀大路を中心軸に左京・右京が配置され、平城宮(大内裏)を北端に置く。人口は最盛期に10万人以上と推定される。
日本・奈良
710年
興福寺の建立
藤原不比等が藤原鎌足創建の山階寺を平城京に移転して建立した藤原氏の氏寺。法相宗の大本山。阿修羅像(国宝)をはじめとする天平彫刻の傑作を多数所蔵。五重塔(国宝)は高さ約50メートルで日本第2位。
日本・奈良
710年〜784年
平城京の市と商業活動
平城京には東市・西市の二つの公設市場が設けられ、市司が物価統制と取引監視を行った。和同開珎(708年鋳造)をはじめとする貨幣が流通し、絹・布・米・塩・鉄器・陶器など多様な商品が取引された。人口10万人
日本・奈良
711年〜712年
アラブによるシンド征服
ウマイヤ朝の将軍ムハンマド・ビン・カーシムがシンド地方を征服した。当時17歳のカーシムは6千人の軍を率いてデーバルを攻略、シンドのヒンドゥー王ダーヒルを戦死させた。シンドとパンジャーブ南部がイスラム支
南アジア・シンド
711年
イスラムのイベリア半島征服
ウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードが約7000のベルベル人・アラブ人軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、西ゴート王国に侵攻。グアダレーテの戦いで西ゴート王ロデリックを撃破し、わずか数年でイベリ
イベリア半島
712年
古事記の編纂
太安万侶が稗田阿礼の口誦を筆録して完成した日本最古の歴史書。上・中・下の3巻からなり、天地開闢の神話から推古天皇までを記述。和銅5年正月に元明天皇に献上された。日本語の音を漢字で表記する万葉仮名を多用
日本・奈良
713年命令〜順次編纂
播磨国風土記の編纂
和銅6年、元明天皇が諸国に風土記の編纂を命じた。各国の地名の由来、産物、土地の状態、古老の伝承を記録。出雲国風土記は唯一のほぼ完本で、古代出雲の地理・文化・神話を詳細に伝える。
日本・全国
713年〜763年
開元の治と安史の乱
玄宗皇帝は即位後「開元の治」と称される善政を行い、唐は最盛期を迎えた。しかし晩年は楊貴妃に溺れて政治を怠り、755年にソグド系節度使・安禄山が反乱。長安・洛陽が陥落し、玄宗は蜀に逃亡。楊貴妃は馬嵬駅で
中国・長安〜洛陽
717年〜749年
行基の社会事業
僧・行基は私度僧として畿内を中心に民衆教化と社会事業を展開。道路・橋・池(灌漑用溜池)・布施屋を建設し、「行基菩薩」と慕われた。朝廷は当初弾圧したが、後に大仏造立の勧進役に起用。745年に日本初の大僧
日本・近畿
717年〜718年
ビザンツ帝国のコンスタンティノープル防衛
ウマイヤ朝カリフのスレイマンが陸海から約12万の大軍でコンスタンティノープルを包囲。ビザンツ皇帝レオン3世は「ギリシャの火」(水上でも燃え続ける焼夷兵器)でアラブ艦隊を壊滅させ、ブルガール人の援軍もあ
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
720年
日本書紀の編纂
舎人親王らが編纂した日本初の勅撰正史。全30巻と系図1巻からなり、神代から持統天皇まで編年体で記述。中国の正史の形式に倣い漢文で書かれた。養老4年に元正天皇に奏上。六国史の第一として後世の歴史編纂の範
日本・奈良
722年頃
コバドンガの戦い
西ゴート貴族ペラーヨ率いるキリスト教戦士団が、アストゥリアスの山岳地帯でイスラム軍の討伐隊を撃退した。規模は小さかったとされるが、キリスト教勢力の最初の軍事的勝利として記録され、アストゥリアス王国の建
スペイン・アストゥリアス
723年
三世一身法の制定
新たに灌漑施設を造って開墾した者は3代、既存の施設を利用して開墾した者は本人1代に限り土地の私有を認める法令。班田収授法の行き詰まりを打開するため、開墾奨励策として制定された。
日本・奈良
724年
多賀城の設置
大野東人が陸奥国に設置した律令国家の東北経営の拠点。陸奥国府と鎮守府を兼ね、政治・軍事・外交の中心として機能。約900メートル四方の広大な城柵で、多賀城碑(重要文化財)により建設経緯が判明する。
日本・宮城
726年〜843年
イコン崇拝論争
レオン3世がイコン(聖画像)崇拝を偶像崇拝として禁止し、帝国全土で聖像の破壊を命じた。以後約120年にわたり、イコン破壊派(イコノクラスト)とイコン擁護派が激しく対立。787年のニカイア第2公会議でイ
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
729年
長屋王の変
天武天皇の孫である左大臣長屋王が、藤原四兄弟の陰謀により謀反の疑いをかけられ自殺に追い込まれた事件。密告により軍勢が邸宅を包囲し、長屋王は妻子とともに自害。皇親政治から藤原氏主導の政治への転換点。
日本・奈良
729年
光明皇后の立后
藤原不比等の娘・光明子が聖武天皇の皇后に立てられた。皇族以外からの皇后就任は史上初の画期的出来事。長屋王の変で反対勢力を排除した後に実現。光明皇后は社会事業(悲田院・施薬院)にも力を入れた。
日本・奈良
732年
トゥール・ポワティエ間の戦い
フランク王国の宮宰カール・マルテルがウマイヤ朝のアブドゥッラフマーン・アル・ガーフィキー率いるアラブ軍を撃退した。イベリア半島からピレネーを越えて北進したイスラム軍のヨーロッパ深部への進出を阻止した歴
フランス・トゥール
732年10月
トゥール・ポワティエの戦い
フランク王国の宮宰カール・マルテルが、アブドゥル・ラフマン・アル・ガーフィキー率いるウマイヤ朝の遠征軍を撃退した決定的会戦。フランク重装歩兵の密集陣形がイスラム騎兵の突撃を跳ね返し、アブドゥル・ラフマ
フランス・トゥール近郊
735年帰国
吉備真備の帰国と政治参加
吉備真備は遣唐留学生として唐で18年間学び、暦学・天文学・音楽・兵法など幅広い知識を持ち帰った。帰国後は橘諸兄政権で重用され、聖武天皇の信任を得た。右大臣にまで昇進し、学者出身としては異例の出世を遂げ
日本・奈良
735年〜737年
天平の疫病と社会変動
735年に新羅帰りの遣新羅使一行から北九州で天然痘が発生。大宰府から東進し、737年に畿内で猛威を振るった。朝廷高官の多くが死亡し、全国の人口の25〜35%が失われたと推定される。班田制の基盤が崩壊し
日本・全国
737年
藤原四兄弟の疫病死
天然痘の大流行により、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで病死。朝廷の高官の大半が罹患・死亡し、政治機能が麻痺。全国的に人口の25〜35%が死亡したと推定される。律令制の基盤である班田制に
日本・奈良
740年
藤原広嗣の乱
藤原宇合の子・広嗣が大宰府で挙兵。玄昉・吉備真備の排除と政治改革を要求したが、朝廷軍に鎮圧され処刑された。聖武天皇はこの乱を契機に平城京を離れ、恭仁京・紫香楽宮・難波京と転々とした(彷徨五年)。
日本・福岡〜奈良
740年〜745年
聖武天皇の彷徨(恭仁京・紫香楽宮)
藤原広嗣の乱をきっかけに聖武天皇が平城京を離れ、恭仁京(740年)→紫香楽宮(742年)→難波宮(744年)→平城京(745年)と約5年間都を転々とした。大仏造立は当初紫香楽宮で進められたが、山火事や
日本・京都〜滋賀
741年
国分寺・国分尼寺の建立詔
聖武天皇が全国68カ国に国分寺(僧寺)と国分尼寺の建立を命じた。各国の国分寺には七重塔を建て、金光明最勝王経を安置。国分尼寺には法華経を安置。東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺と定めた。
日本・全国
743年発願〜752年開眼
東大寺大仏の造立
聖武天皇が発願した盧舎那仏(大仏)の造立。像高約15メートル、使用した銅は約500トン、金は約440キロ。752年に盛大な開眼供養が行われ、インド僧菩提僊那が開眼導師を務めた。延べ約260万人が造立に
日本・奈良
743年
墾田永年私財法の制定
新たに開墾した土地の永久私有を認める法令。723年の三世一身法(3代限りの私有)を発展させ、開墾意欲をさらに高めるために永久私有化を認めた。貴族・寺社による大規模開墾が活発化し、荘園制の発展を促した。
日本・奈良
8世紀
李白・杜甫と唐詩の黄金時代
「詩仙」李白と「詩聖」杜甫が中国詩歌の頂点を極めた。李白は奔放な浪漫主義で「月下独酌」「蜀道難」を、杜甫は社会批判のリアリズムで「春望」「茅屋為秋風所破歌」を詠んだ。白居易の「長恨歌」「琵琶行」も後世
中国・長安〜各地
744年〜840年
ウイグル帝国とマニ教の受容
チュルク系ウイグル族が突厥帝国を打倒して建国。762年にウイグルのカガン(ベグ・カガン)がマニ教に改宗し、遊牧帝国として初めてマニ教を国教に採用した異例の出来事。唐の安史の乱(755-763年)の鎮圧
中央アジア・モンゴル
750年〜1258年
アッバース朝の成立とバグダッドの建設
アッバース家はウマイヤ朝を打倒し、カリフ・マンスールが762年にバグダッドを建設した。「円形の都市」と呼ばれる計画都市は中央にカリフの宮殿と大モスクを配置し、二重の城壁で囲まれた。人口100万人を超え
メソポタミア・バグダッド
8〜11世紀
ガーナ帝国の繁栄
ソニンケ族が建設した西アフリカ最初の大帝国(現在のモーリタニア南東部〜マリ西部)。トランスサハラ交易における金と塩の仲介で莫大な富を蓄積。王は「黄金の王」と呼ばれ、アラブの旅行家アル・バクリーは帝国の
モーリタニア・クンビ・サレー
751年
タラス河畔の戦い
唐帝国の高仙芝将軍率いる軍勢がアッバース朝の将軍ズィヤード・イブン・サーリフの軍に敗北した戦い。カルルク族の裏切りが唐軍の敗因とされる。唐の中央アジアへの進出が頓挫し、以後イスラム勢力が中央アジアを支
中央アジア・キルギス/カザフスタン
751年〜774年
仏国寺と石窟庵の建立
新羅の宰相・金大城が前世の父母のために石窟庵を、現世の父母のために仏国寺を建立したと伝える。仏国寺は精巧な石造基壇と多宝塔・釈迦塔を有し、石窟庵は花崗岩を削って造られた人工石窟に本尊釈迦如来坐像を安置
新羅・慶州
751年
仏国寺の多宝塔と釈迦塔
多宝塔(国宝第20号)は複雑な装飾を持つ異形の石塔で、新羅の石工技術の極致を示す。釈迦塔(国宝第21号)は端正な三層石塔で、1966年の解体修理時に『無垢浄光大陀羅尼経』(世界最古の木版印刷物、751
新羅・慶州
753年
鑑真の来日
唐の高僧鑑真が12年の歳月と5度の失敗を経て来日に成功。渡航中に失明したが、754年に東大寺大仏殿前で聖武上皇らに授戒。日本に正式な戒律制度を伝え、唐招提寺を創建した。
日本・奈良
756年
正倉院宝物の収蔵
聖武天皇の崩御後、光明皇后が天皇遺愛の品約600点を東大寺大仏に献納。ペルシア・唐・新羅・東南アジアなどの工芸品を含み、8世紀の国際文化交流を物語る。螺鈿紫檀五絃琵琶、漆胡瓶、鳥毛立女屏風などが代表的
日本・奈良
759年頃
万葉集の成立
日本最古の歌集。全20巻、約4500首を収録。天皇・貴族から防人・農民まで幅広い階層の和歌を収める。額田王・柿本人麻呂・山上憶良・大伴家持らが代表的歌人。万葉仮名で表記され、日本語の文学表現の原点。
日本・奈良
759年
唐招提寺の創建
鑑真が開いた律宗の総本山。金堂(国宝)は奈良時代建築の最高傑作の一つで、8本のエンタシス列柱が特徴。鑑真和上坐像(国宝)は天平彫刻の名品で、没後に弟子が制作した日本最古の肖像彫刻。
日本・奈良
768年
春日大社の創建
藤原氏の氏神を祀る神社。武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四柱を祭神とする。鹿島・香取・枚岡から神々を勧請。20年ごとの式年造替が行われ、朱塗りの社殿と約3000基の燈籠が特徴的。
日本・奈良
769年
道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)
称徳天皇に寵愛された僧道鏡が、宇佐八幡宮の神託を利用して皇位を窺った事件。「道鏡を天皇にすべし」という神託を大宰府の主神が報告したが、和気清麻呂が宇佐に赴き「無道の人を除くべし」との真の神託を持ち帰り
日本・奈良
780年
伊治呰麻呂の乱
蝦夷出身の伊治郡大領・呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀広純を殺害。多賀城を焼き討ちした。律令国家の東北支配に対する蝦夷の大規模な抵抗であり、朝廷は征夷体制の再構築を迫られた。
日本・宮城
780年
両税法の施行
宰相・楊炎の建議により、従来の租庸調制に代わり両税法を施行。夏と秋の年2回、資産額に応じて銭と穀物で徴税する制度。均田制の崩壊と荘園制の拡大を追認し、現実に即した税制に転換した。
中国・全土
8世紀末〜9世紀初頭
ボロブドゥールの建設
シャイレーンドラ朝が建設した世界最大の仏教遺跡。一辺約123mの基壇上に9層の階段ピラミッド(方形6層+円形3層)を積み上げ、頂上にストゥーパを置く。壁面の浮彫は全長約5kmに及び、仏伝と法華経の物語
インドネシア・ジャワ島中部
780年頃〜850年頃
カロリング・ルネサンス
カール大帝が推進した文化・教育復興運動。ヨーク出身の学者アルクインを宮廷学校長に招聘し、ラテン語教育の標準化、カロリング小文字体(近代ローマン体の起源)の開発、古典文献の組織的写本、修道院学校の整備を
フランク王国・アーヘン
783年頃〜1193年
ヴィクラマシーラ大学の設立
パーラ朝のダルマパーラ王が設立した仏教学術機関。密教(ヴァジュラヤーナ)の主要な研究・修行センターとして機能し、最盛期には108人の教授と1000人以上の学生を擁した。チベットへの仏教伝播に決定的な役
南アジア・ビハール
786年〜809年
ハールーン・アッ=ラシードの治世
アッバース朝第5代カリフ・ハールーン・アッ=ラシードの治世はイスラム文明の黄金期を象徴する。千夜一夜物語の舞台としても知られる。カール大帝との外交使節の交換、バルマク家の宰相による行政整備、学問・芸術
メソポタミア・バグダッド
788年
最澄による比叡山延暦寺の開創
最澄(伝教大師)が比叡山に一乗止観院(後の延暦寺)を開創。804年に入唐し天台宗を日本に伝えた。延暦寺は平安仏教の総合大学として機能し、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮など後の鎌倉新仏教の祖師たちを輩出し
日本・滋賀
788年頃〜820年頃
シャンカラの不二一元論の確立
アーディ・シャンカラは32歳の短い生涯でヴェーダーンタ哲学の不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を体系化。ブラフマンのみが唯一の実在であり、世界はマーヤー(幻影)であると説いた。ウパニシャッド・
南アジア・ケーララ
789〜985年
イドリース朝の成立(モロッコ初のイスラム王朝)
預言者ムハンマドの曾孫イドリース1世がアッバース朝の迫害を逃れてマグレブに到り、ベルベル人のアウラバ族の支持を得てイドリース朝を建国した。息子イドリース2世がフェズを建設して首都とした。シーア派(ザイ
モロッコ・ヴォルビリス
793年6月8日
バイキングのリンディスファーン修道院襲撃
ノルウェーからのバイキングがイングランド北東部のリンディスファーン修道院を襲撃し、修道士を殺害・奴隷化し、聖遺物や財宝を略奪した。アルクインが「キリスト教世界始まって以来、ブリテンにこのような恐怖が訪
イングランド・ノーサンブリア
794年
平安京遷都
桓武天皇が長岡京に代わり山背国に新都を建設。唐の長安を模した東西約4.5キロ、南北約5.2キロの条坊制都市。大内裏を北端に配し、朱雀大路が南北を貫く。以後約1000年にわたり日本の首都として機能した。
日本・京都
794年〜811年
坂上田村麻呂の蝦夷征討
桓武天皇の命を受けた征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北の蝦夷を征討。797年に征夷大将軍に任命され、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。胆沢城(802年)・志波城(803年)を築き、律令国家の支配域を北上川
日本・東北
9世紀頃〜現在
ガムラン音楽の伝統
青銅製の打楽器アンサンブル。メタロフォン(鍵盤打楽器)、ゴング、太鼓などで構成され、数十人の奏者による重層的な音響を生み出す。ジャワ・ガムランとバリ・ガムランは異なるスタイルを持つ。ドビュッシーが18
インドネシア・ジャワ島・バリ島
800年12月25日
カール大帝の西ローマ帝国復活
フランク王カール大帝が教皇レオ3世から皇帝冠を授けられ、「ローマ人の皇帝」として戴冠した。カール自身は戴冠を望んでいなかったとアインハルトは伝えるが、教皇にとっては教皇権と皇帝権の関係を規定する重要な
イタリア・ローマ
800〜900年頃
古典期マヤの崩壊
9世紀にマヤ低地の主要都市が相次いで衰退・放棄された現象。ティカル、パレンケ、コパン、カラクムルなどの大都市で碑文の建立が途絶え、建設活動が停止した。人口が劇的に減少し、政治的秩序が崩壊した。ただしマ
メソアメリカ・マヤ低地
802年
クメール帝国の建国(ジャヤヴァルマン2世)
ジャヤヴァルマン2世がジャワの支配から独立し、プノン・クレンで「転輪聖王」(チャクラヴァルティン)として即位。「カンブジャデーシャ」(カンボジアの地)の統一王国を宣言した。デーヴァラージャ(神王)信仰
カンボジア・プノン・クレン
808年
フェズの建設と発展
イドリース2世がフェズ(ファース)を建設。アンダルスとカイラワーンからの移民を受け入れて急速に成長した。859年にファーティマ・アル・フィフリーヤがカラウィーイーン大学(モスク)を創設。皮なめし工場、
モロッコ・フェズ
810年
薬子の変
平城上皇と嵯峨天皇の対立が武力衝突寸前に至った事件。平城上皇は藤原薬子・仲成兄妹の後押しで平城京への遷都を企図したが、嵯峨天皇側が先手を打って軍を差し向け、上皇は剃髪して出家。薬子は服毒自殺、仲成は射
日本・京都
9世紀
三筆と弘仁・貞観文化
平安初期の弘仁・貞観文化は唐文化の消化と日本化が進んだ時代。三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)が書道の最高峰を示し、漢詩文が隆盛した。『文華秀麗集』『経国集』が編まれ、空海の『三教指帰』など思想的著作も生
日本・京都
816年
空海による高野山開創
空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の下賜を受け、真言密教の根本道場として開創。金剛峯寺を中心に伽藍が建設された。空海は835年に高野山奥之院で入定(即身成仏)したとされ、今も生きて修行を続けていると
日本・和歌山
819年〜999年
サーマーン朝とペルシア文学の復興
イラン系のサーマーン朝はブハラを首都に中央アジアとイラン東部を支配。アッバース朝の宗主権を認めつつ事実上独立。ペルシア語文学の復興を主導し、詩人ルーダキーが「ペルシア詩の父」として活躍。医学者イブン・
中央アジア・ブハラ
820年頃
アル・フワーリズミーと代数学の誕生
ムハンマド・イブン・ムーサー・アル・フワーリズミーは著書『アル・ジャブル・ワル・ムカーバラ(還元と対比の書)』で代数学を体系化した。一次・二次方程式の解法を幾何学的に証明し、インドの数字体系(0を含む
メソポタミア・バグダッド
828年〜846年
張保皐の清海鎮と海上王国
新羅人・張保皐は唐で武人として活躍した後、帰国して莞島に清海鎮を設立。私兵1万を率いて海賊を掃討し、新羅・唐・日本を結ぶ東アジア海上交易ネットワークを支配した。事実上の「海上王国」を建設したが、新羅王
新羅・莞島
830年頃
知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)と翻訳運動
カリフ・マアムーンが設立した知恵の館は、ギリシャ語・ペルシャ語・サンスクリット語・シリア語の学術書をアラビア語に翻訳する一大プロジェクトの拠点であった。アリストテレス、プラトン、ガレノス、プトレマイオ
メソポタミア・バグダッド
842年
承和の変
842年、嵯峨上皇の崩御直後に恒貞親王の廃太子と伴健岑・橘逸勢の配流が行われた。仁明天皇と藤原良房が共謀し、皇太子を道康親王(のちの文徳天皇)に交代させた。橘逸勢は流罪地への途上で病死した。藤原北家が
日本・京都
843年8月
ヴェルダン条約によるフランク王国の三分割
カール大帝の孫3人がフランク王国を三分割した条約。長男ロタール1世が中部フランク(イタリア・ブルゴーニュ・ロタリンギア)と皇帝位を、ルートヴィヒ2世が東フランク(後のドイツ)を、シャルル禿頭王が西フラ
フランス・ヴェルダン
845年
会昌の廃仏(三武一宗の法難)
唐の武宗が大規模な仏教弾圧を断行。全国の寺院4600余りを破壊し、僧尼26万人を還俗させた。寺院の所有する田地・奴婢・財宝を没収。「三武一宗の法難」の中で最大規模の廃仏。
中国・長安
9世紀中頃
プランバナン寺院群の建設
古マタラム朝(サンジャヤ朝)のバリトゥン王の時代に建設されたジャワ最大のヒンドゥー教寺院群。中央のシヴァ堂(高さ47m)を中心にブラフマー堂・ヴィシュヌ堂が並び、回廊にはラーマーヤナの浮彫が精緻に刻ま
インドネシア・ジャワ島中部
850〜1250年頃
チャコ・キャニオンの繁栄
プエブロ・ボニートを中心とする祖先プエブロ人の大規模儀礼・行政センター。プエブロ・ボニートは4-5階建て、約650室を有する半円形の巨大建築物。峡谷内に12以上の「グレートハウス」が計画的に配置され、
北アメリカ・ニューメキシコ
866年
応天門の変
大内裏の応天門が放火され、犯人として大納言・伴善男が逮捕・配流された事件。当初は源信(左大臣)が疑われたが、藤原良房の介入で伴善男に罪が着せられた。良房は事件を利用して人臣初の摂政に就任。
日本・京都
869年
祇園御霊会の成立
貞観11年の疫病大流行に際し、怨霊を鎮めるため神泉苑に66本の鉾を立てて御霊会を行った。これが祇園祭の起源。当初は疫病退散の臨時行事であったが、次第に恒例化し、室町時代以降は町衆主導の壮大な祭礼に発展
日本・京都
874年頃
バイキングのアイスランド入植
ノルウェーの首長インゴルフル・アルナルソンが最初の恒久的入植者としてアイスランドに到着し、レイキャヴィーク(煙の入り江)に定住した。その後約60年間で約2万人のノース人がアイスランドに移住し、930年
アイスランド
875年〜884年
黄巣の乱と唐の滅亡
塩の密売人出身の黄巣が率いた大規模農民反乱。880年に長安を攻略し大斉を建国したが、884年に唐軍と沙陀族・李克用の連合軍に敗れた。乱後も唐は名目的に存続したが907年に朱全忠により滅亡。
中国・長安を中心に全土
878年
アルフレッド大王のウェセックス防衛
ウェセックス王アルフレッド大王がエディントンの戦いでデーン人の王グスルムを決定的に撃破。ウェドモアの和約によりグスルムはキリスト教に改宗し、イングランドはウェセックス支配の南部とデーンロウ(デーン人支
イングランド・ウェセックス
9世紀末〜現在
プレア・ヴィヒア寺院とタイ・カンボジア領土紛争
クメール帝国時代に建設されたヒンドゥー教寺院。ダンレック山脈の最高所に位置し、シヴァ神に奉納された。1962年に国際司法裁判所(ICJ)がカンボジアの主権を認めたが、周辺地域の帰属は未解決。2008年
カンボジア・タイ国境(ダンレック山脈)
894年
菅原道真の遣唐使廃止建議
遣唐大使に任命された菅原道真が、唐の国内混乱と航海の危険を理由に遣唐使の派遣中止を建議し、宇多天皇が受け入れた。630年以来約260年間続いた遣唐使が正式に廃止された。
日本・京都
10世紀〜11世紀
かな文字の発展と国風文化の開花
万葉仮名から平仮名・片仮名が成立し、日本語を自在に表現できる文字体系が完成。これにより和歌・物語・日記・随筆など多様な文学ジャンルが開花。大和絵、寝殿造、十二単など日本独自の美意識が確立された。
日本・京都
10世紀頃〜現在
ジャワのワヤン(影絵芝居)
水牛の革で作った精巧な人形を使い、スクリーンの背後から光を当てて影を映す伝統的人形劇。マハーバーラタとラーマーヤナのインド叙事詩をジャワ的に翻案した物語を、ダランと呼ばれる一人の人形遣いが一晩かけて語
インドネシア・ジャワ島
10世紀頃
封建制度の確立
カロリング帝国の崩壊、バイキング・マジャール・サラセンの侵入により中央権力が機能しなくなる中で、主従関係(家臣制度)と恩貸地(封土)を核とする封建制が西ヨーロッパに定着した。領主は家臣に土地を与え、家
西ヨーロッパ全域
900〜1470年頃
チムー王国とチャンチャンの繁栄
ペルー北海岸に栄えた先インカの強力な王国。首都チャンチャンは面積約20km²、人口推定6万人の世界最大の日干しレンガ都市。10の宮殿区画(シウダデラ)が王の代替わりごとに新設され、各区画は高さ9mの壁
南アメリカ・ペルー北海岸
900〜1168年頃
トルテカ帝国の繁栄
テオティワカン崩壊後にメキシコ中央高原の覇権を握った帝国。首都トゥーラには「アトランテス」と呼ばれる高さ4.6mの戦士像柱が立つピラミッドBが象徴的。ケツァルコアトル(羽毛の蛇)信仰の中心地で、伝説的
メソアメリカ・メキシコ中央高原
901年〜903年
菅原道真の大宰府左遷と太宰府天満宮
右大臣・菅原道真が藤原時平の讒言により大宰員外帥に左遷された(昌泰の変)。903年に大宰府で失意のうちに没した。死後、都で天変地異が相次いだため怨霊として恐れられ、天満大自在天神として祀られた。学問の
日本・福岡
905年
古今和歌集の編纂
日本初の勅撰和歌集。紀貫之・紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒が撰者。約1100首を収録し、四季・恋・雑などに分類。紀貫之の仮名序は日本初の文学論として名高い。和歌の規範として後世の勅撰集の模範となった。
日本・京都
911年
ノルマンディー公国の成立
西フランク王シャルル3世(単純王)とバイキングの首長ロロがサン・クレール・シュル・エプト条約を結び、ロロがキリスト教に改宗してフランク王の家臣となる代わりに、セーヌ川下流域の支配権を正式に認められた。
フランス・ノルマンディー
916年
契丹(遼)の建国
契丹族の耶律阿保機が諸部族を統一し遼を建国。南面官(漢人統治用)と北面官(契丹人統治用)の二元統治体制を確立。契丹文字を創製し、独自の文化を発展させた。
中国東北・内モンゴル
918年
王建の高麗建国
弓裔の部将であった王建が弓裔を追放し、松岳(開城)を都として高麗を建国。936年に後百済を滅ぼして後三国を統一。北方政策を推進して高句麗の旧領回復を目指し、「高麗」の国号もこれを意識したもの。豪族連合
高麗・開京(開城)
935年〜940年
平将門の乱
桓武平氏の後裔・平将門が関東で挙兵し、常陸・下野・上野の国府を次々と攻略。自ら「新皇」を称し、関東に独立王国を築こうとした。しかし940年、藤原秀郷・平貞盛の追討軍に敗れ戦死。僅か2ヶ月の「新皇」であ
日本・関東
935年頃
『土佐日記』の執筆
紀貫之が土佐守の任期を終えて帰京する55日間の旅を、女性の筆に仮託してかな文字で綴った日記文学。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」の冒頭は日本文学史上最も有名な書き出しの一つ。海
日本・京都
936年〜941年
藤原純友の乱
伊予国の国司であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱。大宰府を襲撃するなど西日本に大きな混乱をもたらした。将門の乱と同時期に発生したため「承平天慶の乱」と総称される。941年に鎮圧された。
日本・瀬戸内海
936年〜941年
承平天慶の乱(藤原純友の乱の拡大)
伊予掾であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、940年には大宰府を襲撃・焼討した。朝廷は小野好古・源経基らを追討使として派遣。941年に純友は博多湾で敗北し、伊予で捕らえられた。平将門の
日本・瀬戸内海〜九州
936年
燕雲十六州の割譲
後晋の石敬瑭が契丹(遼)の太宗・耶律徳光の支援を得て即位する代償として、燕雲十六州を割譲。石敬瑭は契丹皇帝を「父」と呼ぶ屈辱的関係を受け入れた。
中国・華北
938年
呉権の独立と越南の建国
呉権が白藤江の戦いで中国・南漢の水軍を撃破し、約1000年にわたる中国支配からの独立を達成。鉄杭を川底に打ち込んで敵船を座礁させる戦術は、後の陳朝のモンゴル撃退(1288年)でも再現された。ベトナム独
ベトナム北部・白藤江
950年頃〜1500年頃
トンガ帝国の海上覇権確立
トゥイ・トンガ王朝を中心とするポリネシア最大の海上帝国。10世紀頃から勢力を拡大し、サモア、ニウエ、ロツマ、フィジー東部、さらにはトケラウまで影響圏に収めた。朝貢システム(イナシ)により周辺島嶼から食
ポリネシア・トンガ
10世紀半ば
空也の念仏布教と市聖の活動
空也(903-972)は市中で踊り念仏を広め「市聖」と呼ばれた。阿弥陀仏の名号を唱えれば極楽往生できるという教えを、貴族だけでなく庶民にも広めた先駆者。951年に京都に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立
日本・京都
955年8月10日
レヒフェルトの戦い
東フランク王オットー1世がアウクスブルク近郊でマジャール(ハンガリー)の大軍を決定的に撃破した。ドイツ各地から集結した約8000の重装騎兵が、マジャール騎兵の背面攻撃を退けた後に総反撃を行い、マジャー
ドイツ・バイエルン
958年
高麗の科挙制度導入
高麗第4代王・光宗が後周からの帰化人・双冀の建議を受けて科挙制度を導入。製述業(文章)・明経業(儒教経典)・雑業(技術)の三科を設け、家柄によらない人材登用の道を開いた。これにより新興文臣層が台頭し、
高麗・開京
10世紀後半
安倍晴明と陰陽道の隆盛
陰陽師・安倍晴明は天文・暦学・占術に秀で、一条天皇の信任を受けて朝廷の祭祀・儀礼に深く関与した。鬼や怨霊を祓う超自然的能力を持つとされ、後世に多くの伝説が生まれた。陰陽道は平安貴族の日常生活を細部まで
日本・京都
960年
陳橋の変と北宋建国
後周の殿前都点検・趙匡胤が北征中に陳橋で部下に擁立されて即位。黄袍を着せられる形で帝位を受け、後周から禅譲を受けて宋を建国した。その後「杯酒釈兵権」で武臣から兵権を穏便に回収。
中国・開封
961年
杯酒釈兵権
宋太祖・趙匡胤が宴席で功臣の武将たちに引退を勧め、穏便に兵権を回収した故事。「杯酒」で兵権を手放させた巧みな政治手腕。これにより五代の軍人政権の弊害を断ち、文治主義への転換を実現。
中国・開封
962年2月2日
オットー1世の神聖ローマ帝国成立
ザクセン朝のオットー1世が教皇ヨハネス12世から皇帝冠を授けられ、「神聖ローマ帝国」(この名称は後世のもの)が成立した。カール大帝の帝国を継承する形で、ドイツ王が皇帝位を兼ねる体制が確立された。オット
イタリア・ローマ
969年
安和の変
969年、左大臣源高明が謀反の嫌疑で大宰府に左遷された。密告に基づく冤罪とされ、藤原氏が最後の有力な政敵を排除した事件。これにより藤原北家の政治的独占が確立し、以後約100年にわたる摂関政治全盛期が始
日本・京都
969年
ファーティマ朝のカイロ建設
イスマーイール派シーア派のファーティマ朝がチュニジアからエジプトを征服し、将軍ジャウハルが新都カイロ(アル・カーヒラ=「勝利者」)を建設した。宮殿都市として設計され、アル・アズハル・モスク(後の大学)
エジプト・カイロ
10世紀後半〜11世紀
三蹟と和様書道の確立
小野道風・藤原佐理・藤原行成の三人は「三蹟」と称され、中国書法から独立した和様書道を確立した。小野道風は柔らかな曲線と優美さで唐様から脱却し、藤原佐理は奔放な草書で知られ、藤原行成は端正で格調高い書風
日本・京都
970年
アル・アズハル大学の創設
ファーティマ朝の将軍ジャウハルがカイロ建設と同時に創設したモスク兼学院。当初はイスマーイール派の教義普及のための機関であったが、アイユーブ朝以降はスンニ派の最高学府に転換。イスラム法学、神学、アラビア
エジプト・カイロ
974年頃
蜻蛉日記の執筆
藤原道綱母が藤原兼家との結婚生活21年間(954-974年頃)を回想して綴った日記文学。夫の浮気への嫉妬、待つ女の苦悩、息子道綱への愛情が赤裸々に描かれる。「かくありし時過ぎて世の中にいとものはかなく
日本・京都
985年
浄土教の流行と源信『往生要集』
天台宗の僧・源信(恵心僧都)が著した浄土教の体系書。地獄の凄惨な描写と極楽浄土の荘厳な情景を対比し、念仏による往生を説いた。末法思想と結びつき、貴族から庶民まで広く浄土信仰が浸透する契機となった。
日本・京都
985年〜1279年
チョーラ朝の海上帝国
ラージャラージャ1世とラージェーンドラ1世の下で最盛期を迎えた南インドの海洋帝国。スリランカを征服し、シュリーヴィジャヤ王国(スマトラ)へ遠征(1025年)を行い、ベンガル湾の海上交易を支配した。タン
南アジア・タミルナードゥ
987年
カペー朝フランスの成立
カロリング朝最後の王ルイ5世の死後、パリ伯兼フランス公ユーグ・カペーが諸侯の選挙により西フランク王に即位し、カペー朝が成立した。当初の王権は極めて弱く、直轄領はパリ周辺のイル・ド・フランスに限られてい
フランス・パリ
988年
ウラジーミル1世のキリスト教改宗
キエフ大公ウラジーミル1世がビザンツ正教を国教として採用し、ドニエプル川でキエフ市民の集団洗礼を行った。ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹アンナとの結婚が改宗の条件の一つとされる。異教の偶像は破壊され、
キエフ・ルーシ
10世紀〜13世紀
カラハン朝と中央アジアのイスラム化
チュルク系遊牧民による最初のイスラム王朝。サトゥク・ブグラ・カンが10世紀半ばにイスラムに改宗したとされる。999年にサーマーン朝を滅ぼしブハラを征服。マフムード・カーシュガリーの『チュルク語集成』(
中央アジア・マー・ワラー・アンナフル
1000年頃
清少納言『枕草子』の執筆
清少納言が中宮定子に仕えた体験を基に執筆した日本最古の随筆。「春はあけぼの」に始まる鋭い感性と知性に満ちた筆致で、自然・宮廷生活・人間観察を綴る。約300段からなり、「をかし」の美意識を代表する作品。
日本・京都
10世紀頃〜現在
インドネシアのバティック文化
蝋纈(ろうけつ)染めの技法で布に文様を施す伝統的な染織技術。チャンティンと呼ばれる蝋描き道具で蝋を塗り、染色する工程を繰り返す。宮廷では特定の文様が王族のみに許された「禁制文様」が存在した。2009年
インドネシア・ジャワ島
11世紀頃〜現在
ベトナムの水上人形劇
水面を舞台に木彫りの人形を操る独自の人形劇。操者は竹のスクリーン(簾)の背後で腰まで水に浸かり、長い竹竿と水面下の糸で人形を操作する。農村の祭祀で演じられた素朴な芸能が李朝期(11世紀)に宮廷に取り入
ベトナム・紅河デルタ
10〜15世紀
キルワ・キシワニの繁栄(スワヒリ都市国家)
スワヒリ海岸の都市国家群の中で最も繁栄した交易都市。インド洋交易を通じてインド、中国、ペルシアと結ばれ、金、象牙、奴隷を輸出し、陶磁器、布、ガラスビーズを輸入した。14世紀にはイブン・バットゥータが訪
タンザニア・キルワ
11〜19世紀初頭
ハウサ諸都市国家の繁栄
カノ、カツィナ、ザリア、ゴビルなど7つのハウサ都市国家が並立し、トランスサハラ交易と手工業(皮革加工、染色、織物)で繁栄。カノ年代記は11世紀からの都市の歴史を記録。イスラム化は14世紀以降に進み、学
ナイジェリア北部・カノ
1001年〜1027年
ガズナ朝マフムードのインド侵攻
ガズナ朝のスルタン・マフムードが紀元1001年から1027年にかけてインドに17回の侵攻を繰り返した。ヒンドゥー寺院の略奪を目的とし、1025年のソムナート寺院の破壊は最も有名。莫大な財宝をガズナに持
南アジア・北西インド
1004年
澶淵の盟
契丹(遼)の聖宗が20万の大軍で南侵。宋の真宗が澶州に親征し、遼軍の先鋒指揮官・蕭撻凛が戦死したことで戦況が膠着。両国は兄弟関係を結び、宋が遼に毎年銀10万両・絹20万匹を送る条件で和平。
中国・河南省濮陽
1008年頃
紫式部『源氏物語』の執筆
紫式部が藤原彰子の女房として宮仕えしながら執筆した長編小説。全54帖で光源氏の一生と子孫の物語を描く。人間の心理を精緻に描写し、世界最古の長編小説とも称される。平安貴族社会の文化・美意識・恋愛を余すと
日本・京都
1018年
藤原道長の権力絶頂「望月の歌」
藤原道長が三女・威子の立后の日に「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ。3人の娘を天皇の后にし、外祖父として絶大な権力を握った摂関政治の絶頂を象徴する一首。
日本・京都
1019年
姜邯賛の亀州大捷
契丹(遼)の第三次侵入に対し、高麗の姜邯賛が亀州で契丹軍10万を大破した。渡河中の契丹軍に水攻めを仕掛け、壊滅的打撃を与えた。この勝利により契丹の高麗侵攻は完全に終結し、両国間の和平が成立した。
高麗・亀州(龜州)
1024年
交子の発行(世界初の紙幣)
北宋政府が四川で民間発行の交子(手形)を公的紙幣として制度化。世界初の政府発行紙幣。当初は兌換紙幣として銅銭との交換を保証していたが、次第に過剰発行によりインフレーションを引き起こした。
中国・四川(成都)
1025年頃
イブン・スィーナーの医学典範
イブン・スィーナー(アヴィケンナ)は『医学典範(アル・カーヌーン・フィッ・ティッブ)』を著し、ガレノスとヒポクラテスの医学を体系的に統合・発展させた。全5巻で薬物学、疾病分類、治療法を網羅。ラテン語に
ペルシャ・イスファハーン
1038年
西夏(タングート)の建国
タングート族の李元昊が皇帝を称し西夏を建国。独自の西夏文字を創製し、仏教を国教として独自の文化を発展させた。宋・遼・金と並立し、1227年にモンゴルのチンギス・カンに滅ぼされた。
中国・寧夏〜甘粛
1040年頃
活版印刷の発明(畢昇)
北宋の畢昇が膠泥(粘土)を用いた活字を発明。沈括の『夢渓筆談』に詳細な記録が残る。個々の文字を粘土で作り、鉄板の上に配列して印刷する方式で、木版印刷に比べ再利用が可能だった。
中国・開封
1040〜1147年
ムラービト朝の成立
サハラの遊牧ベルベル人サンハージャ族のイスラム改革運動から生まれた王朝。アブドゥッラー・イブン・ヤースィーンの宗教的指導のもと、ユースフ・イブン・ターシュフィーンがマグレブを統一し、1062年にマラケ
モロッコ・マラケシュ
11世紀
火薬の軍事利用と羅針盤の航海使用
宋代に火薬が本格的に軍事利用され、火箭・震天雷・突火槍などの火器が開発された。『武経総要』(1044年)に火薬の配合が記載。同時期に磁石の方位指示機能が航海に応用され、羅針盤として実用化。
中国・各地
1044年〜1287年
パガン朝の建国とアノーヤター王
アノーヤター王がビルマ(ミャンマー)を統一し、パガン朝を建国。モン族のタトン王国を征服して上座部仏教と文字文化を導入。以後250年間にパガン平原に約4,000の仏塔・寺院を建設した。アーナンダ寺院は白
ミャンマー・パガン(バガン)
1050〜1350年頃
カホキアの繁栄
ミシシッピ文化の最大中心地で、最盛期の人口は推定1万〜2万人。コロンブス以前の北アメリカ最大の都市であった。モンクス・マウンド(底辺316×241m、高さ30m)はメソアメリカ以北最大の土造構造物。1
北アメリカ・イリノイ
1051年〜1062年
前九年合戦
陸奥の俘囚長・安倍氏が朝廷に反抗し、源頼義・義家父子が12年かけて鎮圧。清原氏の援軍を得てようやく安倍氏を滅ぼした。源氏が東国武士団の棟梁としての地位を確立する契機となった。
日本・岩手
1053年
平等院鳳凰堂の建立
藤原頼通が父道長の別荘を寺院に改め、阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立。末法思想の広まりの中、極楽浄土を現世に再現しようとした。堂内の阿弥陀如来坐像は定朝作で、寄木造の代表作。10円硬貨のデザインとしても知られ
日本・京都(宇治)
1055年
セルジューク朝のバグダッド入城
トゥグリル・ベグ率いるセルジューク朝がバグダッドに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を受けた。シーア派ブワイフ朝を追放してスンナ派の正統性を回復した。セルジューク朝はアナトリアにも進出し、マ
メソポタミア・バグダッド
11世紀〜13世紀
上座部仏教の東南アジア大陸部への伝播
スリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)がパガン朝のアノーヤター王(11世紀)を通じてミャンマーに定着。13世紀にスコータイ朝がスリランカから僧侶を招聘して以降、タイ・ラオス・カンボジアにも拡大。そ
東南アジア大陸部
1066年10月14日
ノルマン・コンクエスト(ヘイスティングズの戦い)
ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王ハロルド2世を破り、イングランドを征服した。ハロルドは矢で目を射貫かれて戦死(バイユーのタペストリーの描写)。ウィリアムはクリスマスにウェストミンスター寺院で
イングランド・サセックス
1069年
延久の荘園整理令
後三条天皇が藤原摂関家に依存しない親政を行い、記録荘園券契所を設置して荘園の審査を実施。正規の手続きを経ていない荘園を停止し、太政官符・民部省符のない荘園は認めないとした。藤原摂関家の荘園も例外としな
日本・京都
1069年〜1085年
王安石の新法
神宗に登用された王安石が大規模な財政・軍事改革を実施。青苗法(低利融資)、募役法(免役銭)、保甲法(民兵制度)、市易法(物価安定)など。司馬光ら旧法党と激しく対立し、党争が宋の政治を分裂させた。
中国・開封
1077年1月25日〜27日
カノッサの屈辱
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世に破門の解除を求めて北イタリアのカノッサ城を訪れ、雪の中で3日間裸足で断食しながら赦しを請うた。教皇は最終的に破門を解除したが、両者の権力闘争は継続
イタリア・エミリア
11世紀後半
蘇軾(蘇東坡)と宋代文学
北宋最大の文人・蘇軾は詩・詞・散文・書画のすべてに秀でた。「赤壁の賦」「水調歌頭」など傑作を残す。唐宋八大家の一人。欧陽脩に見出され文壇の中心となったが、王安石の新法に反対して度々流刑に。
中国・開封〜各地
1083年〜1087年
後三年合戦
清原氏の内紛に源義家が介入した戦い。清原家衡・武衡と清原清衡(後の藤原清衡)の対立を義家が調停・武力介入。金沢柵を攻略して家衡を滅ぼした。清衡は奥州藤原氏の祖として平泉文化を築く。
日本・秋田
1085年5月25日
トレド奪回
カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世がイスラム支配下のトレドを征服。約370年ぶりにキリスト教勢力の手に戻った旧西ゴート王国の首都の奪回は、レコンキスタの象徴的勝利となった。トレドの「翻訳学校」で
スペイン・カスティーリャ
1086年〜1129年
白河上皇の院政開始
白河天皇が堀河天皇に譲位した後も「治天の君」として約43年間政治を主導。摂関家を抑え、天皇家の家長としての権威で院政を行った。「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にかなわぬもの」の名言で知られ
日本・京都
1087年〜
奥州藤原氏の成立
後三年合戦(1083-87)の後、藤原清衡が奥州の実質的支配者となり、平泉を拠点に独自の政権を築いた。清衡は中尊寺を建立し、基衡は毛越寺を造営。秀衡の代には平泉は京都に次ぐ日本第二の都市となり、約10
日本・平泉
1088年頃
沈括『夢渓筆談』と宋の科学技術
北宋の博学者・沈括が科学・技術・芸術の知見を集大成した百科的著作『夢渓筆談』を著した。畢昇の活版印刷、磁針の偏角、石油の命名、化石の認識など先駆的な科学的観察を記録。
中国・鎮江
1096年〜1099年
第1回十字軍とエルサレム占領
教皇ウルバヌス2世のクレルモン公会議(1095年)での呼びかけに応じ、西ヨーロッパの騎士・諸侯が聖地奪回に向かった。ゴドフロワ・ド・ブイヨン、ボエモン、レーモンらが率いる十字軍はニカイア、アンティオキ
聖地・エルサレム
1098年〜1268年
アンティオキアの十字軍国家建設
第1回十字軍はアンティオキアを8ヶ月の包囲の末に攻略し、ボエモン1世がアンティオキア公国を建てた。エデッサ伯国、トリポリ伯国、エルサレム王国と並ぶ四大十字軍国家の一つとして約170年間存続。1268年
シリア・アンティオキア
1099年
第1回十字軍のエルサレム征服
教皇ウルバヌス2世のクレルモン公会議での呼びかけ(1095年)に応じた西欧騎士団がエルサレムを征服した。城壁突破後、十字軍はムスリムとユダヤ教徒の住民を大量虐殺した。エルサレム王国が建国され、ゴドフロ
レヴァント・エルサレム
1100年頃
清明上河図と北宋の都市文化
張択端が描いた『清明上河図』は、北宋の首都・開封の汴河沿いの繁栄を全長5mの絵巻に描いた傑作。800人以上の人物、牛馬驢騾、船舶、建築が精密に描写され、宋代の都市生活を生き生きと伝える。
中国・開封
12世紀
高麗青磁の全盛期
高麗青磁は12世紀に最盛期を迎え、独自の翡色(ひすい色)の釉薬と象嵌技法で世界的に評価される。宋の使節・徐兢は『宣和奉使高麗図経』で高麗の陶器を「天下第一」と称した。象嵌青磁は高麗独自の技法で、白土と
高麗・全羅道(康津・扶安)
11〜15世紀
大ジンバブエの建設
ショナ人が建設した石造遺跡群。モルタルを使わない精巧な石積み技術で建造され、大囲壁(周壁の高さ約11m、厚さ約5m)は古代の石造建築としてサブサハラアフリカ最大。丘の上の王宮跡と谷間の囲壁群からなり、
ジンバブエ・大ジンバブエ
1100年頃〜1600年頃
イースター島モアイ像の建設
ラパ・ヌイ(イースター島)で約900体が制作された巨大石像モアイ。高さ平均4メートル、重さ約12.5トンだが最大のものは高さ10メートル・重量82トンに達する。ラノ・ララク火山の凝灰岩から彫り出され、
ポリネシア・イースター島
1113年〜1150年頃
アンコール・ワットの建設
スーリヤヴァルマン2世が建設したヒンドゥー教寺院。ヴィシュヌ神に奉献された世界最大の宗教建築物で、外濠の幅は190m、寺院全体は東西約1.5km×南北約1.3km。回廊の壁面には「乳海攪拌」「マハーバ
カンボジア・アンコール
1115年
女真族の金建国
女真族の完顔阿骨打が遼からの独立を宣言し金を建国。猛安謀克制(軍事・行政一体の組織)を基盤に急速に拡大。1125年に遼を滅ぼし、1127年の靖康の変で北宋を滅亡させて華北を支配。
中国東北・黒竜江流域
1121〜1269年
ムワッヒド朝のマグレブ統一
イブン・トゥーマルトの一神教改革運動(タウヒード=「唯一性」)に基づく王朝。弟子アブド・アル・ムーミンがムラービト朝を打倒し、マグレブからアンダルスにまたがる帝国を建設した。セビリアのヒラルダの塔(ミ
モロッコ・マラケシュ
1124年
中尊寺金色堂の建立と平泉文化
奥州藤原初代・清衡が建立した中尊寺金色堂。堂内外を金箔で覆い、螺鈿・蒔絵・象牙で装飾した極楽浄土の現世的表現。藤原三代(清衡・基衡・秀衡)のミイラが安置される。堂は覆堂に守られ現存する。国宝。
日本・岩手
1127年
靖康の変(北宋滅亡)
女真族の金が開封を攻略し、徽宗・欽宗以下3000人以上の皇族・官僚を北方に連行。北宋は滅亡した。徽宗は書画の名手であり文化的皇帝だったが、蔡京らの奸臣を登用して国政を混乱させた。
中国・開封
12世紀
鳥獣戯画の制作
『鳥獣人物戯画』は甲乙丙丁4巻からなる白描の絵巻物で、京都・高山寺に伝わる。特に甲巻は兎・蛙・猿が人間のように振る舞う姿を墨線のみで生き生きと描き、「日本最古の漫画」とも呼ばれる。作者は伝統的に鳥羽僧
日本・京都
12世紀前半
源氏物語絵巻の制作
『源氏物語絵巻』は紫式部の源氏物語を絵画化した現存最古の物語絵巻。吹抜屋台(屋根を省略して室内を俯瞰する)の技法と、引目鉤鼻(線で目と鼻を表す)の人物表現が特徴。現存する19場面は徳川美術館と五島美術
日本・京都
1134年〜1142年
岳飛の抗金戦争と冤罪死
南宋の将軍・岳飛は精鋭の岳家軍を率いて金軍を度々撃破。「直搗黄龍」(直接金の首都を突くぞ)と叫び北伐を志したが、宰相・秦檜の講和政策により十二道の金牌で召還され、「莫須有」(あったかもしれない)の罪で
中国・長江流域各地
1138年〜1276年
南宋の臨安繁栄と海上貿易
南宋は臨安(杭州)を「行在」(仮の都)と称し首都とした。人口は100万人を超え、マルコ・ポーロに「世界最大最美の都市」と評された。泉州を中心に東南アジア・インド・アラブとの海上貿易が発展。
中国・臨安(杭州)
1141年
紹興の和議
南宋と金の間で締結された和平条約。南宋は金に臣礼(臣下の礼)を取り、毎年銀25万両・絹25万匹を支払う条件。淮河を国境とし、北中国は金の支配下に。岳飛の処刑が和議の前提条件とされた。
中国・臨安(杭州)
12世紀中頃
高麗青磁の象嵌技法の発明
高麗の陶工が独自に開発した象嵌青磁の技法。素地に文様を彫り込み、白土・赤土を嵌入して翡色の釉薬をかけて焼成する。雲鶴文、柳水禽文、蒲柳文などの典型的文様が発展。高麗青磁象嵌雲鶴文梅瓶(国宝第68号)は
高麗・全羅道康津
12世紀後半
パリ大学の設立
ノートルダム大聖堂付属学校から発展し、12世紀後半に大学(ウニウェルシタス=教師と学生の組合)として組織化された。神学部が最も権威があり、トマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、アルベルトゥス・マグヌス
フランス・パリ
1156年
保元の乱
後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いに、藤原摂関家と源氏・平氏の内紛が絡んだ戦乱。後白河方の平清盛・源義朝が崇徳方を破った。京都で約350年ぶりの武力衝突となり、武士が政治の決定者となる転換点。
日本・京都
1158年〜1192年
後白河法皇の院政と『梁塵秘抄』
後白河天皇は保元の乱後に即位し、退位後は34年にわたり院政を敷いた。平清盛・源頼朝ら武家の台頭する時代に巧みな政治力を発揮し、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評された。文化面では今様(当時の流行歌)を
日本・京都
1159年〜1160年
平治の乱
源義朝と藤原信頼が後白河上皇の院御所・三条殿を襲撃し、信西(藤原通憲)を殺害。しかし熊野参詣中から帰京した平清盛が反撃し、義朝軍を撃破。義朝は敗走中に殺害され、幼い頼朝は伊豆に配流された。
日本・京都
1162年頃〜
日宋貿易の振興と大輪田泊の整備
平清盛が国家事業として推進した宋との貿易。大輪田泊を大改修し、宋の商船を直接受け入れる体制を整えた。宋銭の大量輸入は日本の貨幣経済を活性化させ、絹・香料・陶磁器・書籍などの輸入は文化にも大きな影響を与
日本・兵庫
1163年〜1345年
ノートルダム大聖堂の建設開始
パリ司教モーリス・ド・シュリーの構想により着工されたゴシック大聖堂。フライング・バットレス(飛梁)を大規模に採用した最初期の建築であり、巨大なバラ窓のステンドグラスが内部に荘厳な光を創出した。建設には
フランス・パリ
1167年〜1181年
平清盛の太政大臣就任と平氏政権
平清盛が武士として初めて太政大臣に就任。一族を朝廷の要職に配し、娘の徳子を高倉天皇に入内させ、外戚としても権力を掌握。「平氏にあらずんば人にあらず」と称される専横体制を築いた。日宋貿易を推進し経済力も
日本・兵庫(福原)
1168年
厳島神社の造営
平清盛が平氏の守護神として厳島神社を大規模に造営。海上に浮かぶ寝殿造の社殿群と高さ約16メートルの大鳥居は、清盛の権力と美意識の結晶。平家納経(国宝)をはじめとする美術工芸品も奉納された。
日本・広島
1170年
武臣政権の成立(鄭仲夫の乱)
武臣の鄭仲夫・李義方らが文臣貴族を大量殺戮するクーデタを敢行。以後約100年間、武臣が政権を握る武臣政権時代が続いた。特に崔忠献〜崔沆の崔氏四代62年間の独裁は、日本の鎌倉幕府に比される武家政権であっ
高麗・開京
1171〜1250年
サラーフッディーンのアイユーブ朝建国
クルド人出身のサラーフッディーン(サラディン)がファーティマ朝の宰相として権力を握り、シーア派カリフを廃してスンニ派のアイユーブ朝を建国。1187年のハッティーンの戦いで十字軍を撃破し、エルサレムを奪
エジプト・カイロ
1175年
鎌倉新仏教の展開:法然と浄土宗
法然(法然房源空)が専修念仏を唱え浄土宗を開創。「南無阿弥陀仏」と称名念仏を唱えるだけで誰もが極楽往生できると説き、従来の修行主義を否定した。貴族から庶民まで広く支持を集めたが、旧仏教側から弾圧も受け
日本・京都
1175年〜1200年
朱熹と朱子学の大成
南宋の朱熹が北宋の周敦頤・程顥・程頤の学説を集大成し、理気二元論に基づく体系的な儒学(朱子学・理学)を確立。四書(論語・孟子・大学・中庸)に注釈を付け、科挙の基本テキストとした。
中国・福建省
1177年
鹿ヶ谷の陰謀
1177年、後白河法皇の近臣である俊寛・藤原成親・西光らが、京都東山の鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平氏打倒を密議した。しかし多田行綱の密告で計画が露見し、平清盛は関係者を厳しく処罰。西光は処刑、成親は配流先で
日本・京都
12世紀後半
平安京の疫病と方丈記の災害記録
鴨長明の『方丈記』(1212年成立)は、1177年の安元の大火、1180年の治承の辻風(竜巻)、同年の福原遷都、1181年の養和の飢饉、1185年の元暦の大地震という五大災厄を記録。「ゆく河の流れは絶
日本・京都
1180年
源頼朝の挙兵と治承・寿永の乱の開始
以仁王の令旨を受けた源頼朝が伊豆で挙兵。石橋山の戦いで大敗するも、安房に渡り関東武士団を糾合して鎌倉に入った。富士川の戦いで平氏軍を撃退し、東国の支配を確立。以後5年にわたる源平合戦が展開される。
日本・伊豆〜関東
1180年10月20日
富士川の戦い
1180年、源頼朝の挙兵を受けて東下した平維盛率いる追討軍と源氏軍が富士川で対峙。夜間に水鳥の大群が一斉に飛び立った羽音を源氏の夜襲と誤認した平氏軍は、戦わずして潰走した。この敗北で平氏は東国の制圧を
日本・駿河
12世紀末〜13世紀初頭
アンコール・トムとバイヨン寺院の建設
ジャヤヴァルマン7世が建設したクメール帝国最後の首都。仏教(大乗仏教)に帰依した王は、バイヨン寺院の216の巨大な四面仏像で知られる壮大な都城を建設。タ・プローム(母に捧げた寺院)、プリア・カーン(父
カンボジア・アンコール
12〜13世紀
ラリベラの岩窟教会群の建設
ザグウェ朝のラリベラ王が、エルサレムへの巡礼が困難になった信徒のために「新エルサレム」として建設した11の岩窟教会群。岩盤を上から彫り下げて作られた一枚岩の教会は、最大のものが高さ約10m。十字形平面
エチオピア・ラリベラ
1183年5月11日
倶利伽羅峠の戦い
1183年、木曾義仲が平維盛率いる平氏追討軍約10万を倶利伽羅峠で大破。夜襲と地形を利用した戦術で、平氏軍は谷底に追い落とされて壊滅的敗北を喫した。火牛の計の伝承は後世の脚色とされるが、地形を利用した
日本・加賀・越中国境
1184年2月7日
一ノ谷の戦い
1184年、源義経と源範頼が平氏の拠点・一ノ谷を攻撃。義経は主力が正面から攻撃する間に精鋭70騎で鵯越の急坂を駆け下り、平氏の陣を背後から急襲した。平氏は海上に逃れたが、平敦盛と熊谷直実の一騎討ちなど
日本・摂津
1185年
壇ノ浦の戦い
源義経率いる源氏軍が平氏の水軍を壇ノ浦で壊滅させた源平合戦の最終決戦。安徳天皇と二位尼が三種の神器の一つ・草薙剣とともに入水。平氏一門は海中に没した。義経の八艘飛びなど数々の伝説が生まれた。
日本・山口
1185年2月19日
屋島の戦い
1185年、源義経が屋島の平氏本営を急襲。わずか150騎で阿波国から渡海し、陸路から屋島背後を突くという大胆な作戦で平氏を敗走させた。那須与一の扇の的のエピソードで知られる。平氏は屋島を放棄して長門国
日本・讃岐
1185年(1192年征夷大将軍任命)
鎌倉幕府の成立
源頼朝が守護・地頭の設置権を獲得し、鎌倉を本拠として武家政権を樹立。1192年に征夷大将軍に任命された。侍所・政所・問注所を設置し、御恩と奉公に基づく封建的主従関係を基盤とする統治体制を確立した。
日本・鎌倉
1187年
サラーフッディーンのエルサレム奪還
アイユーブ朝の建国者サラーフッディーン(サラディン)はハッティーンの戦いで十字軍を壊滅的に撃破した後、エルサレムを奪還した。1099年の十字軍による虐殺とは対照的に、キリスト教徒住民に身代金を支払って
レヴァント・エルサレム
1189年
奥州征伐と奥州藤原氏の滅亡
源頼朝が28万の大軍を率いて奥州藤原氏を攻撃。藤原泰衡は源義経を殺害して頼朝に服従しようとしたが認められず、敗走中に家臣に殺された。約100年にわたる奥州藤原氏の繁栄は終焉し、東北は幕府の支配下に入っ
日本・岩手
1190〜1300年頃
メサ・ヴェルデの崖住居建設
アナサジ(祖先プエブロ人)が砂岩の崖面に建設した集合住居群。クリフ・パレスは150以上の部屋と23のキヴァ(儀礼用地下室)を持つ最大の住居。スプルース・ツリー・ハウス、バルコニー・ハウスなどが残り、精
北アメリカ・コロラド
1192年
第二次タラインの戦い
ゴール朝のムハンマドがラージプート連合軍の指導者プリトヴィーラージ3世を決定的に撃破した戦い。前年の第一次タラインの戦いではラージプートが勝利したが、ムハンマドは軍を再編し、騎兵の機動戦術で反撃に成功
南アジア・ハリヤーナー
12世紀末〜
スーフィズムのインド展開(チシュティー教団)
イスラム神秘主義(スーフィズム)がインドに根付いた最も重要な経路。チシュティー教団の創始者ムイーヌッディーン・チシュティー(1141-1236年)がアジメールに定住し、ヒンドゥー教徒を含む広い層に影響
南アジア・北インド
1199年〜1220年頃
クトゥブ・ミナールの建設
デリー・スルタン朝の初代スルタン・クトゥブッディーン・アイバクが建設を開始し、イルトゥトゥミシュが完成させた高さ72.5mの石造ミナレット。赤砂岩と白大理石で構成され、5層の塔身にアラビア語のコーラン
南アジア・デリー
13世紀〜16世紀
東南アジアのイスラム化の過程
アラブ・インド・中国のムスリム商人を媒介として、東南アジア島嶼部にイスラムが伝播。マラッカ王国のイスラム改宗(15世紀初頭)が転換点となり、ジャワ北岸の港湾都市、スールー王国(フィリピン南部)、ブルネ
東南アジア島嶼部
13〜19世紀
ベニン王国の青銅文化
エド族のベニン王国は精巧な青銅・真鍮彫刻で世界的に知られる。ロスト・ワックス法(蝋型鋳造)による王の肖像、女王母の頭像、レリーフ板は、技術的にもルネサンス期のヨーロッパに匹敵する水準。宮廷文化の精緻さ
ナイジェリア・ベニン・シティ
12〜14世紀
イフェの青銅頭像の制作
ヨルバ人の聖都イフェで制作された写実的な青銅・テラコッタの頭像群。理想化された自然主義的様式は、古代ギリシャの古典期彫刻に比較される水準の高さを持つ。オニ(王)の頭像は顔面に並行線の儀式的瘢痕を持ち、
ナイジェリア・イフェ
1200〜1500年頃
イースター島のモアイ像建設
ラパ・ヌイ(イースター島)のポリネシア人が建設した巨大石像群。約900体のモアイが確認されており、最大のものは高さ10m、重さ82トン。ラノ・ララク火山の凝灰岩から彫り出され、海岸沿いのアフ(祭壇)上
太平洋・イースター島
1203年〜
北条氏の執権政治の確立
1203年、北条時政が源頼家を廃して実朝を将軍に擁立し、初代執権に就任。以後、義時・泰時と続く北条氏が執権として幕府の実権を掌握した。源氏将軍は3代で途絶え、以後は摂家将軍・皇族将軍が名目上の将軍とな
日本・鎌倉
1203年
運慶・快慶と鎌倉彫刻
運慶・快慶ら慶派の仏師たちが鎌倉彫刻に革命をもたらした。東大寺南大門の金剛力士像(1203年)は4人の仏師がわずか69日で完成させた8m超の巨作。写実的で力強い表現は武家社会の気風を反映。運慶の無著・
日本・奈良
1204年4月13日
第4回十字軍のコンスタンティノープル征服
エジプトのアイユーブ朝を攻撃目標としていた第4回十字軍が、ヴェネツィアの債務と東ローマの皇位継承争いに巻き込まれ、キリスト教国の首都コンスタンティノープルを攻撃・占領した。3日間の略奪でビザンツの90
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
1205年
新古今和歌集の編纂
後鳥羽上皇の命により藤原定家らが編纂した勅撰和歌集の最高峰。約2,000首を収め、幽玄・有心の美学を追求。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」は「三夕の歌」として有名。西行・慈円
日本・京都
1206年
チンギス・カンのモンゴル統一
テムジンがモンゴル高原の遊牧民諸部族を統一し、大クリルタイでチンギス・カン(大いなる支配者)の称号を得た。十進法に基づく軍事組織、ヤサ(法典)の制定、メリトクラシー(能力主義)の採用により、史上最大の
中央アジア・モンゴル
1206年〜1290年
デリー・スルタン朝の成立(奴隷王朝)
ゴール朝のムハンマドの死後、その奴隷出身の将軍クトゥブッディーン・アイバクがデリーに独立政権を樹立。奴隷王朝(マムルーク朝)として知られ、イルトゥトゥミシュ、ラズィーヤ・スルタナ(インド初の女性君主)
南アジア・デリー
1215年6月15日
マグナ・カルタの制定
イングランド王ジョンが貴族の反乱に直面し、テムズ川沿いのラニーミードで63条からなるマグナ・カルタ(大憲章)に署名した。国王の恣意的な課税・逮捕・裁判を制限し、「自由人は法に基づかなければ逮捕・拘禁さ
イングランド・ラニーミード
1219年〜1221年
チンギス・カンのホラズム征服
ホラズム・シャーが モンゴル商人を殺害したことへの報復として、チンギス・カンが約15万〜20万の軍を率いて遠征。サマルカンド、ブハラ、メルヴなど中央アジアの主要都市を次々と破壊。メルヴでは推定数十万人
中央アジア全域
1221年
承久の乱
後鳥羽上皇が幕府打倒を企て挙兵したが、北条義時率いる幕府軍19万に圧倒され敗北。後鳥羽上皇は隠岐に配流、順徳上皇は佐渡に配流された。朝廷の監視のため六波羅探題が京都に設置された。
日本・京都〜鎌倉
1224年頃
親鸞の浄土真宗開宗
法然の弟子・親鸞(1173-1263)は師の専修念仏をさらに深化させ、阿弥陀仏の本願力による救済(他力本願)を説いた。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悪人正機説)は浄土真宗の核心。僧侶の
日本・関東〜京都
1227年〜
道元と曹洞宗の開宗
道元(1200-1253)は入宋して天童山の如浄に学び、帰国後に曹洞宗を開いた。1244年に越前に永平寺を開山し、只管打坐を根本とする修行道場とした。主著『正法眼蔵』は95巻に及ぶ哲学的著作で、日本思
日本・越前
1231年〜1270年
モンゴルの高麗侵入と江華島遷都
モンゴル帝国は1231年から6度にわたり高麗に侵入。崔氏政権は1232年に江華島に遷都して抵抗を続けた。国土は荒廃し黄龍寺九層木塔など多くの文化財が焼失したが、江華島では大蔵経の再刻版(高麗大蔵経)が
高麗・江華島
1232年
御成敗式目(貞永式目)の制定
執権・北条泰時が制定した武家法の基本法典。全51条からなり、守護・地頭の権限、所領の相続・売買、裁判手続きなどを規定。武士の道理と慣習を成文化した日本初の武家法で、その後の武家法の規範となった。
日本・鎌倉
1234年頃
高麗の金属活字印刷
高麗で世界最初の金属活字印刷が行われた。1234年頃に『詳定古今礼文』が金属活字で印刷されたと『東国李相国集』に記録がある。現存する世界最古の金属活字印刷物は1377年の『直指心体要節』(フランス国立
高麗・開京
1235年
マリ帝国の建国(スンジャタ・ケイタ)
マンデ人の英雄スンジャタ・ケイタがキリナの戦い(1235年)でソソ王国のスマンゲル・カンテを撃破し、マリ帝国を建国。クルカン・フーガの会議で帝国の統治原則(マンデン憲章)を定めた。マリ帝国はサハラ交易
マリ・クリコロ付近
1236年〜1242年
バトゥの西征(モンゴルのヨーロッパ侵攻)
チンギス・カンの孫バトゥが15万の軍を率いてロシア・東欧に侵攻。キエフを破壊し、ポーランドのリーグニッツの戦い、ハンガリーのモヒの戦いで欧州軍を撃破。オゴデイ・カアンの死により撤退し、キプチャク・ハン
ロシア〜東欧
1237年〜1240年
モンゴルのルーシ征服
バトゥ率いるモンゴル軍(約15万)がルーシ諸公国を次々に征服。リャザン(1237年12月)、ウラジーミル(1238年2月)が陥落し、1240年12月にはキエフが壊滅的破壊を受けた。ルーシの諸都市は略奪
ルーシ(ロシア)
1238年〜1438年
スコータイ朝の建国とタイ文字の創始
シー・インタラティット王がクメール帝国から独立してスコータイ朝を建国。第3代ラームカムヘーン大王(在位1279-1298年頃)はタイ文字を創始し(1283年のラームカムヘーン碑文)、上座部仏教を国教と
タイ・スコータイ
13世紀前半
平家物語の成立と琵琶法師
『平家物語』は平氏の栄華と滅亡を描いた軍記物語。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の冒頭は日本文学で最も有名な書き出しの一つ。盲目の琵琶法師が琵琶の伴奏で語る「平曲」として広く流布。信濃前司行長
日本・京都
13世紀〜15世紀
ハンザ同盟の繁栄
リューベックとハンブルクの同盟(1241年)を起源とし、最盛期には約200の都市が加盟した北ドイツの商業同盟。ノヴゴロド、ベルゲン、ブリュージュ、ロンドンに商館(コントール)を設置し、バルト海・北海の
北ドイツ・バルト海
1242年4月5日
氷上の戦い(チュド湖の戦い)
ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーがチュートン騎士団・リヴォニア帯剣騎士団の連合軍をチュド湖の氷上で撃破した。ネフスキーは両翼に弓兵を配置し、中央の歩兵が騎士団の突撃を受け止めた後、騎兵が側面から
ロシア・チュド湖
1250〜1517年
マムルーク朝の成立
トルコ系・チェルケス系の軍人奴隷(マムルーク)がアイユーブ朝の将軍として実権を握り、最後のアイユーブ朝スルタンを排除して独自の王朝を建国。1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退し、十
エジプト・カイロ
1250年頃〜1350年頃
マオリのニュージーランド入植
東ポリネシア(おそらくクック諸島やソシエテ諸島周辺)からの航海者が大型二重カヌーでアオテアロア(ニュージーランド)に到達。口承伝統ではクペが最初の発見者とされ、その後複数のワカ(カヌー)による大移住が
ニュージーランド・北島
13世紀〜現在
マオリのハカの伝統
マオリの伝統的な戦闘舞踊で、足踏み、胸打ち、舌出し、怒りの表情を伴う力強いパフォーマンス。最も有名な「カ・マテ」はテ・ラウパラハ首長が19世紀初頭に作ったとされる。戦争の前だけでなく、歓迎、葬儀、祝祭
オセアニア・ニュージーランド
1251年
海印寺高麗大蔵経の完成
モンゴル侵入の最中、江華島で16年をかけて再刻された高麗大蔵経(八万大蔵経)が完成。81,258枚の木版に1,496部6,568巻の仏典を収録。現存する世界最古の完全な大蔵経であり、内容の正確さと木版
高麗・海印寺(伽耶山)
1258年
モンゴルのバグダッド征服とアッバース朝滅亡
チンギス・ハンの孫フレグが率いるモンゴル軍が約40日間の包囲の末にバグダッドを陥落させた。最後のアッバース朝カリフ・ムスタアスィムは処刑され、500年続いたカリフ制は断絶。市は40日間にわたり略奪・虐
メソポタミア・バグダッド
1260年
日蓮の立正安国論
日蓮(1222-1282)は1260年に『立正安国論』を北条時頼に提出し、法華経以外の宗派を排斥しなければ国難が訪れると警告。他宗を激しく批判し、松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、龍ノ口の法難、佐渡流罪を経験
日本・鎌倉
13世紀〜14世紀
駅伝制(ジャムチ)とパクス・モンゴリカ
モンゴル帝国が整備した駅伝制度(ジャムチ)により、中国から東欧まで最速2週間で情報が伝達可能に。パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)の下で東西交易が空前の規模に。ペスト(黒死病)もこの交通路で伝播した
ユーラシア大陸全域
1260年
マムルーク朝のアイン・ジャールートの戦い
マムルーク朝のスルタン・クトゥズとバイバルス将軍率いるエジプト軍が、キトブカ・ノヤン率いるモンゴル軍を撃破した。バグダッド陥落後の西進を続けるモンゴル軍に対する初の大勝利。バイバルスの伏兵戦術とマムル
パレスチナ・アイン・ジャールート
1260年〜1517年
マムルーク朝のアイン・ジャールートの戦い後のシリア・エジプト支配
マムルーク朝はアイン・ジャールートの勝利後、エジプトとシリアを統一支配した。奴隷出身の軍人(マムルーク)が支配階級を構成する独特の体制で、スルタン位は実力主義で継承された。1291年にアッコを陥落させ
エジプト・カイロ
1260年
アイン・ジャールートの戦い
マムルーク朝のスルタン・クトゥズと将軍バイバルスが、モンゴル帝国のキトブカ率いる軍勢をパレスチナのアイン・ジャールートで撃破。モンゴル軍の西方への膨張が初めて決定的に阻止された。バイバルスは戦後クトゥ
パレスチナ・アイン・ジャールート
1267年〜1273年
襄陽の戦い
元軍が南宋攻略の要衝・襄陽を6年間包囲。南宋の呂文煥が籠城を続けたが、元軍はイスラム技術者の設計した回回砲(投石器)を投入し、樊城を破壊。1273年に襄陽も陥落し、南宋の防衛線が崩壊した。
中国・湖北省襄陽
1270年〜1273年
三別抄の抵抗
高麗王室がモンゴルに降伏した後も、武臣政権下の精鋭軍事組織・三別抄は裴仲孫を指導者として抵抗を継続。珍島に拠点を置いて独自政権を樹立し、日本にも援軍を求めた。珍島陥落後は済州島に移り、1273年にモン
高麗・珍島〜済州島
1271年
クビライの元建国と大都建設
モンゴル帝国第5代カアン・クビライが国号を元と定め、大都(現北京)に壮大な都城を建設。劉秉忠の設計による計画都市で、周礼に基づく碁盤目状の都城構造を採用。南宋攻略の前線基地としても機能。
中国・大都(北京)
1274年
元寇・文永の役
モンゴル帝国(元)のクビライ・ハンが高麗軍と合わせて約3万の軍勢で日本に侵攻。対馬・壱岐を蹂躙した後、博多湾に上陸。集団戦法・てつはう(炸裂弾)に日本側は苦戦したが、暴風雨(台風)により元軍は撤退した
日本・福岡
1274年〜
一遍と時宗の踊り念仏
一遍(1239-1289)は全国を遊行し踊り念仏で念仏信仰を広めた時宗の開祖。賦算によって念仏の功徳を説き「捨聖」と呼ばれた。すべてを捨てて遊行する生き方は所有を否定する究極の宗教的実践。踊り念仏は盆
日本・全国
1274年・1281年
元寇(文永・弘安の役)
クビライが2度にわたり日本に遠征軍を派遣。文永の役(1274年)は約3万人、弘安の役(1281年)は約14万人の兵力で博多湾に来襲。いずれも暴風雨により撤退を余儀なくされ、日本側は「神風」と称した。
日本・博多湾
1275年〜1292年
マルコ・ポーロの元朝訪問
ヴェネツィア商人マルコ・ポーロが父・叔父と共に元のクビライに仕えた。17年間の滞在中に中国各地・東南アジアを歴訪。帰国後に口述した『東方見聞録』はヨーロッパに東方世界への憧憬を広めた。
中国・大都(北京)
1279年
崖山の戦い(南宋滅亡)
南宋の最後の戦い。陸秀夫が幼帝・趙昺を背負い海に身を投じ、10万人以上の将兵・官僚が殉死したと伝えられる。張世傑は脱出を図ったが暴風で水没。中華正統王朝としての宋が完全に滅亡。
中国・広東省新会
1281年
元寇・弘安の役
元が東路軍(高麗から約4万)と江南軍(中国南部から約10万)の計約14万の大軍で再侵攻。博多湾の防塁に阻まれ上陸できず、鷹島沖で暴風雨(台風)に遭遇して壊滅的打撃を受けた。元の日本征服計画は完全に頓挫
日本・福岡
1285年
霜月騒動と得宗専制
1285年、北条得宗家の内管領・平頼綱が有力御家人・安達泰盛一族を滅ぼした。泰盛一族約500名が殺害され、粛清は全国に及んだ。以後得宗専制が確立し、御家人の不満がさらに蓄積した。
日本・鎌倉
1288年
陳朝のモンゴル撃退(白藤江の戦い)
ベトナム・陳朝がモンゴル帝国(元)の第三次侵攻を撃退。陳興道将軍が白藤江で元の水軍を壊滅させた。ベトナムはモンゴルの3度の侵攻(1258年、1285年、1288年)をすべて撃退し、東南アジアで唯一モン
ベトナム北部・白藤江
1293年〜1500年頃
マジャパヒト帝国の最盛期
クルタラージャサが元(モンゴル)軍の撤退後に建国。宰相ガジャ・マダの下で最盛期を迎え、「ヌサンタラ」(群島全域)の支配を誓約した「パラパの誓い」で知られる。現在のインドネシアの領域に近い広大な範囲に影
インドネシア・東ジャワ
14〜16世紀
トンブクトゥの黄金時代
マリ帝国、そしてソンガイ帝国のもとでサハラ交易の中心地として繁栄。サンコレ大学(モスク兼学院)には約25,000人の学生が集まり、イスラム法学、天文学、医学、歴史学が教授された。数十万冊の写本が蓄積さ
マリ・トンブクトゥ
1320年頃
ダンテ『神曲』
ダンテ・アリギエーリがラテン語ではなくトスカーナ方言(俗語)で書いた叙事詩。地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部からなり、ウェルギリウスとベアトリーチェの導きで死後の世界を旅する。「ここを入る者は一切の希望を
イタリア・フィレンツェ/ラヴェンナ
1324年〜1333年
正中の変と元弘の乱
後醍醐天皇は幕府打倒を企図し、1324年の正中の変は失敗。1331年再挙兵も笠置山で敗れ隠岐に配流。しかし楠木正成が千早城で幕府軍を翻弄し、足利尊氏が六波羅探題を攻略、新田義貞が鎌倉を陥落させ、133
日本・京都
1324〜1325年
マンサ・ムーサのメッカ巡礼
マリ帝国の王マンサ・ムーサが約6万人の随行員と大量の黄金を携えてメッカ巡礼に出発。カイロでは金をばらまき、金の市場価格が10年以上にわたって下落した。この巡礼により西アフリカの富がヨーロッパ・イスラム
マリ・トンブクトゥ〜エジプト・カイロ〜メッカ
1325年
アステカ帝国テノチティトラン建設
メシカ(アステカ)人が鷲がサボテンの上で蛇を咥えている姿を見た場所(現在のメキシコ国旗の紋章)に建設した首都。最盛期の人口は推定20万〜30万人で、同時代のヨーロッパのどの都市よりも大きかった。テンプ
メソアメリカ・メキシコ盆地
1332〜1406年
イブン・ハルドゥーンの活動
チュニス生まれのイスラム歴史家・社会学者。主著『歴史序説(ムカッディマ)』で文明の興亡の循環理論を提唱。遊牧民の「アサビーヤ(連帯意識)」が王朝の建設を可能にするが、都市化・文明化とともに衰退するとい
チュニジア・チュニス〜エジプト・カイロ
1333年
鎌倉幕府滅亡
後醍醐天皇の倒幕運動を機に各地で反幕府勢力が挙兵。足利高氏(尊氏)が六波羅探題を攻略し、新田義貞が鎌倉を攻撃。北条高時以下の北条一族約870人が東勝寺で自害し、約150年間続いた鎌倉幕府は滅亡した。
日本・鎌倉
1333年〜1336年
建武の新政
後醍醐天皇が鎌倉幕府滅亡後に開始した天皇親政。記録所・雑訴決断所などを設置し、天皇中心の政治を目指したが、武士への恩賞配分の不公平、公家偏重の政策が武士の不満を招き、わずか3年で崩壊した。
日本・京都
1336年〜1392年
南北朝の分裂
足利尊氏が光明天皇を擁立して京都に北朝を樹立し、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開いた。約56年間にわたり二つの朝廷が並立し、全国の武士が南北に分かれて戦った。1392年、足利義満の仲介で南北朝合一が実
日本・京都/吉野
1336年〜1646年
ヴィジャヤナガル帝国の建国
ハリハラ1世とブッカ1世の兄弟が建国した南インド最大のヒンドゥー帝国。首都ハンピは最盛期に50万人以上の人口を擁し、ローマに匹敵すると称された。クリシュナデーヴァラーヤ王の治世(1509-1529年)
南アジア・カルナータカ
1346年8月26日
クレシーの戦い
百年戦争初期の大会戦。エドワード3世率いるイングランド軍(約1万2千)がフィリップ6世のフランス軍(約3万)を圧倒的に撃破。イングランドの長弓兵が毎分10-12本の矢を放ち、フランス騎兵の突撃を粉砕し
フランス・ピカルディー
1347年〜1527年
バフマニー朝の成立
ムハンマド・ビン・トゥグルクの統治に反発したデカンのアミールたちが反乱を起こし、アラーウッディーン・バフマン・シャーを擁立して建国。デカン高原初のイスラム王朝としてヴィジャヤナガル帝国と南インドの覇権
南アジア・デカン
1347年〜1351年
黒死病のヨーロッパ上陸
ペスト菌(エルシニア・ペスティス)によるパンデミックがヨーロッパを席巻し、1347年から1351年の間に推定2500万〜5000万人(全人口の30〜60%)が死亡した。腺ペスト(リンパ節の腫脹)と肺ペ
ヨーロッパ全域
1347-1351年
黒死病のヨーロッパ蔓延
1347年10月、クリミア半島のカファ(現フェオドシヤ)からジェノヴァ商船がシチリア島メッシーナに到着し、乗組員の多くがペストに感染していた。ペスト菌(Yersinia pestis)はネズミとノミを
ヨーロッパ全域
1349年〜1352年
観応の擾乱
1349年、室町幕府内で足利尊氏の執事・高師直と弟・足利直義の対立が武力衝突に発展。尊氏は師直派と直義派の間を揺れ動き、直義は一時南朝に降伏。1352年に直義が鎌倉で急死して決着を見たが、幕府の権威は
日本・全国
14世紀〜16世紀
倭寇の活動と東アジア海域
倭寇は14〜16世紀に東アジア海域で活動した海賊集団。前期倭寇(14世紀)は日本人中心で朝鮮半島・中国沿岸を襲撃。後期倭寇(16世紀)は中国人が主体。密貿易集団としての性格も持ち、東アジアの海上交通と
東アジア海域
1351年〜1368年
紅巾の乱と元の滅亡
白蓮教徒を中心とする紅巾軍が各地で蜂起。韓山童・劉福通らが指導したが内部分裂。朱元璋が群雄の中から台頭し、1363年に鄱陽湖の戦いで陳友諒を撃破。1368年に明を建国し、元を北方に駆逐した。
中国・華中〜華北
1351年〜1767年
アユタヤ朝の建国
ウートーン王(ラーマーティボーディー1世)がアユタヤに都を定めて建国。417年間にわたり33人の王が統治した東南アジア最長の王朝の一つ。国際貿易で繁栄し、日本人町(山田長政)、中国人街、ポルトガル人居
タイ・アユタヤ
1353年〜1707年
ラーンサーン王国の建国
ファーグム王がクメール帝国の支援を受けてラオス人最初の統一王国を建国。クメールの王女と結婚し、上座部仏教とパーバーン仏(ルアンパバーンの名の由来)を持ち帰った。「百万頭の象の国」を意味するラーンサーン
ラオス・ルアンパバーン
14世紀〜現在
ルアンパバーンの寺院群と托鉢の伝統
毎朝夜明け前に数百人の僧侶が列をなして托鉢に出る光景はルアンパバーンの象徴。ワット・シェントーン(黄金の都の寺院)は1560年建立のラオス最美の寺院で、独特の屋根の重なりが特徴。ルアンパバーン様式の仏
ラオス・ルアンパバーン
1356年
恭愍王の反元改革
高麗第31代王・恭愍王が元の支配からの脱却を図り、征東行省の理問所を廃止し、親元派の奇氏一族を粛清した。双城総管府を攻略して東北面を回復し、元の年号の使用を停止。一連の改革は元の衰退(紅巾の乱)に乗じ
高麗・開京
1356年
金印勅書の発布
皇帝カール4世(ルクセンブルク家)が発布した神聖ローマ帝国の基本法。皇帝選挙権を持つ7人の選帝侯(マインツ、ケルン、トリーア大司教、ボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯)を規定
神聖ローマ帝国
1358年5月〜6月
ジャックリーの乱
黒死病と百年戦争の二重苦に喘ぐフランス北部の農民が、ギヨーム・カールに率いられて蜂起した。貴族の城館が襲撃・焼き討ちされ、領主一家が殺害される暴力的反乱が約2週間続いた。パリの反乱指導者エティエンヌ・
フランス・イル・ド・フランス
1368年
朱元璋の明建国
紅巾の乱から身を起こした朱元璋が南京で明を建国し洪武帝と号した。北伐軍を派遣して元を北方に駆逐し、中国を統一。胡惟庸の獄・藍玉の獄で功臣を粛清し、皇帝独裁体制を確立した。
中国・南京
1370年〜1405年
ティムールの征服とサマルカンド建設
チャガタイ・ハン国の混乱の中から台頭したティムール(タメルラン)がサマルカンドを首都にティムール帝国を建国。イラン、小アジア(アンカラの戦い1402年)、インド(デリー略奪1398年)に遠征し、広大な
中央アジア・サマルカンド
1380年
胡惟庸の獄と宰相制度の廃止
洪武帝が宰相・胡惟庸を謀反の罪で処刑し、連座者3万人以上を粛清。これを機に千年以上続いた宰相制度を廃止し、皇帝が六部を直接統率する体制を確立。後に藍玉の獄(1393年)でも1万5千人を粛清。
中国・南京
1381年6月
ワット・タイラーの乱
人頭税への反発を契機に、ワット・タイラーとジョン・ボールに率いられた数万の農民・職人がロンドンに進軍。カンタベリー大司教サドベリーとランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの宮殿を襲撃した。リチャード2世
イングランド
1388年
李成桂の威化島回軍と高麗滅亡
高麗の武将・李成桂は明の遼東攻撃命令を受けて出征したが、鴨緑江の威化島で軍を反転させて開京に進撃(威化島回軍)。実権を掌握し、1392年に高麗を滅ぼして朝鮮を建国した。性理学を国是とする新王朝の誕生で
高麗・開京
14〜15世紀
コンゴ王国の成立とポルトガルとの接触
バンツー系のバコンゴ族が建設した中部アフリカの有力王国。1491年にポルトガル人が到達し、キリスト教と火器を伝えた。国王ンジンガ・ア・ンクウ(洗礼名ジョアン1世)がキリスト教に改宗。息子アフォンソ1世
コンゴ・ムバンザ・コンゴ
1392年
朝鮮王朝の建国と漢陽遷都
李成桂が高麗を倒して朝鮮を建国。1394年に漢陽(現在のソウル)に遷都し、景福宮を建設した。建国の理念は鄭道伝ら新進儒者が設計した性理学に基づく理想国家の実現であり、仏教を排して儒教を国是とした。国号
朝鮮・漢陽(ソウル)
15世紀〜19世紀
朝鮮白磁の発展
朝鮮王朝は儒教の質素な美学を反映した白磁を王室・官府の公式陶磁器とした。純白の白磁から、青花(コバルトブルー)白磁、鉄砂白磁、辰砂(赤)白磁へと多様に展開。「月壺」と呼ばれる大型の白磁壺は柳宗悦が「世
朝鮮・広州(京畿道)
朝鮮時代全期
朝鮮の身分制度と両班文化
朝鮮の身分は両班・中人・常民・賤民の四身分に大別された。両班(文班・武班)は科挙を通じて官職に就く支配層で、人口の約10%。中人は技術官僚、常民は農民、賤民は奴婢・白丁など。18世紀以降、経済力を持つ
朝鮮全域
1394年
宗廟の建設と宗廟祭礼楽
朝鮮王朝歴代の王と王妃の神位を祀る王家の廟。正殿に19室、永寧殿に16室の神室を持つ。毎年5月に行われる宗廟祭礼は、儒教の祭祀儀礼の原型をほぼ完全に残す世界唯一の事例。宗廟祭礼楽は編鐘・編磬などの雅楽
朝鮮・漢陽
1395年
景福宮の建設
朝鮮太祖の命により鄭道伝が設計した朝鮮王朝の正宮。勤政殿(正殿)、思政殿(便殿)、慶会楼(宴会場)、香遠亭(後苑の楼閣)など、儒教的政治理念に基づく空間配置。壬辰倭乱で全焼し、1865年に大院君により
朝鮮・漢陽
1397年
金閣寺(鹿苑寺)の建立と北山文化
足利義満が北山の別荘に建てた舎利殿。最上層を金箔で覆い、公家文化と武家文化と禅宗文化を融合させた北山文化の象徴。義満の絶大な権力と美意識を体現する。1950年に放火で焼失し、1955年に再建。
日本・京都
1397年
カルマル同盟の成立
デンマーク女王マルグレーテ1世の主導により、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの三王国がエーリク・フォン・ポンメルンを共通の国王として戴く同盟を結成。各王国は内政自治を維持しつつ、外交・軍事で統一行
スウェーデン・カルマル
1398年〜1399年
ティムールのデリー略奪
中央アジアのティムール帝国の創始者ティムールがデリーを攻略・略奪した。トゥグルク朝のスルタン・マフムードの軍を撃破し、デリーに入城。3日間にわたる大規模な略奪・虐殺が行われ、数万人が殺害された。莫大な
南アジア・デリー
1399年〜1402年
靖難の変と永楽帝即位
洪武帝の孫・建文帝の削藩策に反発した燕王・朱棣が挙兵。3年間の内戦の末に南京を攻略し、建文帝は行方不明となった。朱棣は永楽帝として即位し、後に北京に遷都した。
中国・北京〜南京
15世紀前半
世阿弥と能楽の大成
観阿弥・世阿弥父子が猿楽能を芸術的に洗練させた。世阿弥は『風姿花伝』をはじめとする能楽論を著し、「秘すれば花」「幽玄」の美学を確立。足利義満の庇護のもと、能は武家社会の公式芸能として定着した。
日本・京都
15世紀〜16世紀
明代小説の黄金時代
明代に中国四大奇書が成立。『三国志演義』(羅貫中)、『水滸伝』(施耐庵)、『西遊記』(呉承恩)、『金瓶梅』(蘭陵笑笑生)。白話(口語体)小説として大衆に広く読まれ、講談・戯曲の原作ともなった。
中国・各地
1400年頃〜1511年
マラッカ王国の建国と繁栄
パラメシュワラ(後にイスカンダル・シャーに改名)がマラッカ海峡に面した港町を建設。15世紀にイスラムに改宗し、東西交易の最大のハブとして繁栄。中国の鄭和の艦隊も寄港。最盛期には人口10万を超え、84の
マレーシア・マラッカ
15世紀〜現在
東南アジアの華僑ネットワーク
中国南部(福建・広東・海南)からの移民が東南アジア各地に定着し、交易・商業ネットワークを構築。植民地時代には欧州勢力の仲介商として経済的地位を確立。現在も東南アジアの経済で華人系が支配的な地位を占める
東南アジア全域
15世紀〜現在
タイの古典舞踊(コーン)
ラーマーヤナのタイ版「ラーマキエン」を題材とする仮面舞踊劇。精巧な仮面と豪華な衣装を身にまとった舞手が、ピーパートと呼ばれるタイ古典音楽の伴奏で演じる。すべての動作に象徴的意味があり、指先から足運びま
タイ・バンコク
15世紀〜17世紀
モルッカ諸島の香辛料貿易
「香辛料諸島」として知られたモルッカ諸島は、丁子とナツメグの世界唯一の産地として数世紀にわたり世界経済を動かした。ポルトガル(1512年到達)、スペイン、オランダ(VOC)が争奪戦を展開。VOCは16
インドネシア・モルッカ諸島(マルク諸島)
1401年
足利義満の日明貿易(勘合貿易)
1401年、足利義満は明に使者を送り「日本国王」に册封された。倭寇取り締まりと引き換えに朝貢形式の勘合貿易を開始。勘合符を用いた貿易は莫大な利益をもたらし、銅銭・生糸・陶磁器が輸入された。義満が册封を
日本・京都
1402年
ティムールのアンカラの戦いとオスマン帝国の危機
ティムール帝国のティムール(タメルラン)がオスマン帝国のバヤズィト1世を撃破し捕虜にした。オスマン帝国はアナトリアの領土を一時喪失し、11年間の空位期(フェトレト)に陥った。バヤズィトはティムールの鉄
アナトリア・アンカラ
1403年〜1408年
永楽大典の編纂
永楽帝の命で解縉らが編纂した世界最大の百科事典。全22,937巻、約3億7千万字を収録。経・史・子・集の全分野にわたる中国の知識を網羅的に収録した。原本は現在ほぼ散逸。
中国・南京〜北京
1405年〜1433年
鄭和の大航海
永楽帝の命を受けた宦官・鄭和が7回にわたり大艦隊を率いて遠洋航海。最大時は船舶200隻以上、乗員2万7千人以上。東南アジア・インド・アラビア・東アフリカの30カ国以上を歴訪し、朝貢関係を構築。
東南アジア〜インド洋〜東アフリカ
1405年
昌徳宮と秘苑の造営
朝鮮第3代王・太宗が建設した離宮。壬辰倭乱後は景福宮に代わって正宮として約270年間使用された。仁政殿・大造殿・楽善斎などの殿閣と、芙蓉池・不老門・演慶堂などの後苑施設が自然と調和した空間を創出。19
朝鮮・漢陽
1406年〜1420年
紫禁城の建設
永楽帝が北京遷都のために建設した世界最大の宮殿群。100万人の労働者を動員し14年をかけて完成。9999.5間と伝えられる部屋数を持ち、太和殿・中和殿・保和殿の三大殿を中心に構成。
中国・北京
1410年〜1424年
永楽帝のモンゴル親征
永楽帝が自ら大軍を率いてモンゴル諸部族を5度討伐。オイラト・タタールの勢力を一時的に圧倒したが、遊牧民の機動力に完全な勝利は得られず。1424年、第5次遠征の帰路に楡木川で崩御。
モンゴル高原
1410年7月15日
タンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)
ポーランド・リトアニア連合軍がチュートン騎士団を決定的に撃破した中世最大級の会戦。ポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとリトアニア大公ヴィータウタスが約3万9千の連合軍を率い、チュートン騎士団総長
プロイセン
1413年〜1865年
朝鮮王朝実録の編纂
朝鮮王朝の太祖から哲宗まで25代472年間の記録。1,893巻888冊に及ぶ世界最大規模の単一王朝の年代記。国王すら閲覧できない厳格な秘密保持原則により、史官は権力に屈せず事実を記録した。1997年に
朝鮮・漢陽
1419年〜1436年
フス戦争
プラハ大学教授ヤン・フスが教会改革を唱えて1415年にコンスタンツ公会議で火刑に処された後、ボヘミアで大規模な宗教・社会革命が勃発。フス派はヤン・ジシュカの天才的軍事指導のもと、5回の十字軍(教皇軍)
ボヘミア(チェコ)
1420年代〜1449年
ウルグ・ベクの天文台
ティムールの孫ウルグ・ベクが建設した中世世界最大・最精密の天文台。半径約40mの巨大な六分儀を備え、1018個の星の位置を記録した星表(ズィージ・イ・スルタニー)を編纂した。恒星年の長さを365日6時
中央アジア・サマルカンド
1428年
黎朝の成立とベトナムの独立回復
レ・ロイ(黎利)がラムソンで蜂起し、10年間のゲリラ戦の末に明の支配からベトナムを解放。黎朝(後黎朝)を建国した。参謀のグエン・トライが『平呉大誥』(独立宣言)を起草し、ベトナムの文化的独自性と自立の
ベトナム・タンロン(ハノイ)
1428年
アステカ三国同盟の形成
テノチティトランのイツコアトル王がテスココのネサワルコヨトル、トラコパンの勢力と同盟し、当時メキシコ盆地を支配していたアスカポツァルコのテパネカ族を打倒。この三国同盟(エシュカン・トラトロヤン)がアス
メソアメリカ・メキシコ盆地
1429年
琉球王国の成立と繁栄
尚巴志が三山(北山・中山・南山)を統一し、琉球王国を建国。首里城を王城として整備し、明の冊封体制に入りつつ、中継貿易で繁栄。中国・日本・朝鮮・東南アジアとの貿易で莫大な富を築いた。「万国津梁の鐘」が理
日本・沖縄
1429年5月8日
ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放
ドンレミ村出身の農民の娘ジャンヌ・ダルク(17歳)が「神の声」に導かれてシャルル王太子のもとに赴き、オルレアンの解放軍を率いた。9日間の戦闘でイングランド軍の砲台を次々に攻略し、約7ヶ月間の包囲を打ち
フランス・オルレアン
1431年
アンコール帝国の衰退と放棄
アユタヤ朝の攻撃を受けてクメール王室がアンコールを放棄し、プノンペンに遷都。約600年にわたるアンコール文明が終焉を迎えた。しかし寺院群は完全に放棄されたわけではなく、一部の僧侶や住民が残り続けた。1
カンボジア・アンコール
1432年〜1442年
世宗大王の科学技術振興
世宗の治世に朝鮮の科学技術が飛躍的に発展。測雨器(世界初の雨量計、1441年)、渾天時計(自動天文時計)、簡儀(天体観測器)、自撃漏(自動水時計)、仰釜日晷(日時計)などが蒋英実ら技術者によって開発さ
朝鮮・漢陽
1434年〜1464年
メディチ家コジモのフィレンツェ支配
メディチ銀行の頭取コジモ・デ・メディチが追放から帰還し、フィレンツェ共和国の事実上の支配者となった。公職には就かず「国父(パテル・パトリアエ)」として共和政の形式を維持しながら権力を行使。プラトン・ア
イタリア・フィレンツェ
1436年3月25日
フィレンツェ大聖堂ドームの完成
建築家フィリッポ・ブルネレスキが、支保工(型枠)なしで二重殻構造の巨大ドームを建設するという前代未聞の工法で完成させた。ヘリンボーン(魚骨)パターンの煉瓦積みと、自ら発明した起重機を使用。ドームの重量
イタリア・フィレンツェ
1438〜1533年
インカ帝国の急速な拡大
パチャクティ(在位1438-1471年)がチャンカ族の侵攻を撃退したのを契機に、クスコの一地方王国から南北アメリカ最大の帝国へと急速に拡大した。タワンティンスーユ(四つの地方)と呼ばれ、現在のペルー、
南アメリカ・ペルー
1438〜1533年
インカ道路網の建設
タワンティンスーユ(インカ帝国)全域を結ぶ総延長4万km以上の道路網(カパック・ニャン)。2本の幹線道路(海岸道と高地道)が南北に走り、多数の支線で東西に結ばれていた。チャスキ(飛脚)による駅伝制で情
南アメリカ・アンデス
1441年6月24日
嘉吉の乱
1441年、播磨守護の赤松満祐が6代将軍足利義教を自邸の宴会で暗殺。義教は「万人恐怖」と称される恐怖政治を行っていた。赤松氏は討伐されたが、将軍権力は大きく弱体化した。
日本・京都
1443年(公布1446年)
世宗大王によるハングル(訓民正音)の創制
朝鮮第4代王・世宗が独自の文字体系「訓民正音」を創制。28字(現在は24字)の音素文字で、「知恵ある者は朝の間に、愚かな者でも10日で学べる」とされる合理的な体系。1446年に『訓民正音解例本』として
朝鮮・漢陽
1449年
土木の変
宦官・王振に唆された英宗がオイラトのエセン・カン討伐に親征。土木堡でオイラト軍に包囲され、明軍は壊滅的敗北を喫し英宗が捕虜となった。王振は乱戦で殺され、高級官僚多数が戦死。
中国・河北省懐来
1449年
于謙の北京防衛
土木の変で英宗が捕虜となった危機の中、兵部尚書・于謙が北京遷都論を退け防衛を主張。景泰帝を擁立し、オイラト軍の北京攻囲を撃退。英宗帰還後の「奪門の変」で于謙は冤罪で処刑された。
中国・北京
1450年頃
グーテンベルクの活版印刷術の発明
ヨハネス・グーテンベルクが可動活字による活版印刷術を実用化した。鋳造活字、油性インク、ワイン圧搾機を改良した印刷機の三要素を組み合わせた革新。1455年頃に「42行聖書(グーテンベルク聖書)」約180
ドイツ・マインツ
1450年頃
マチュ・ピチュの建設
パチャクティが建設した王室の離宮・宗教施設。約200棟の建物、段々畑、水路、広場から構成される。インティワタナ(日時計)、太陽の神殿、三つの窓の神殿が主要建造物。精密に加工された花崗岩の石組みはモルタ
南アメリカ・ペルー
1450年頃(異説あり)
イロコイ連邦の形成
モホーク、オネイダ、オノンダガ、カユガ、セネカの五部族(後にタスカローラが加わり六部族)が平和と相互防衛のために結成した連邦制の政治組織。伝説的指導者デガナウィダとハイアワサが部族間の争いを終結させ、
北アメリカ・ニューヨーク

他の時代