宗教・思想の歴史

91件の歴史的出来事

4万年以上前〜現在
ウルル(エアーズロック)とドリームタイム信仰
アナング族にとって最も神聖な場所であり、ドリームタイム(チュクルパ)の創造の物語が岩の各所に刻まれている。岩の洞窟には数万年前の岩壁画が残り、洞窟ごとに異なる儀礼の場として使い分けられてきた。2019
オセアニア・オーストラリア中央部
紀元前1500年頃〜前1200年頃
リグ・ヴェーダの成立
インド最古の宗教文献で、世界最古の口承文学の一つ。1028の讃歌からなり、インドラ、アグニ、ヴァルナなどの神々への祈りと儀式の詩句を収録。口伝による驚異的な精度の伝承が数千年にわたり維持された。言語学
南アジア・パンジャーブ
紀元前1353〜1336年
アクエンアテンの宗教改革とアマルナ遷都
第18王朝のアメンホテプ4世が自らアクエンアテン(アテンに有益なる者)と改名し、唯一神アテン(太陽円盤)の崇拝を推進。テーベのアメン神官団の権力を排除するため、新都アケトアテン(現アマルナ)を建設して
エジプト・アマルナ
紀元前1200〜200年頃
チャビン・デ・ワンタルの繁栄
アンデス文明初期の宗教的中心地。旧神殿と新神殿から成る石造神殿複合体で、内部には複雑な地下通路(ガレリア)が張り巡らされている。ランソン(高さ4.5mの花崗岩の神像)が地下の十字形の部屋に安置され、ジ
南アメリカ・ペルー
紀元前957年頃
ソロモン王のエルサレム第一神殿建設
ダビデ王の統一王国を継いだソロモン王は、フェニキアのテュロス王ヒラムの援助を受けてエルサレムに壮麗な神殿を建設した。レバノン杉の梁、金箔の至聖所、契約の箱を安置する内陣を備えた。建設には7年を要し、イ
レヴァント・エルサレム
紀元前800年頃〜前500年頃
ウパニシャッドの成立
ヴェーダ文献の最終部分として成立した哲学的文献群。ブラフマン(宇宙原理)とアートマン(個我)の同一性を説く梵我一如の思想を中核とする。主要な初期ウパニシャッド(ブリハドアーラニヤカ、チャーンドーギヤ等
南アジア・北インド
紀元前586年〜前539年
バビロン捕囚とエルサレム神殿の破壊
ネブカドネザル2世はユダ王国の反乱に対し、紀元前586年にエルサレムを包囲・攻略し、ソロモン王が建設した第一神殿を破壊した。ユダの王族・祭司・職人らがバビロンに連行され、約半世紀にわたる捕囚生活を送っ
レヴァント・エルサレム
紀元前6〜5世紀頃
老子と道家思想
老子は道家思想の創始者とされ、『道徳経』(老子)は「道」を万物の根源とする哲学を説いた。「道の道とすべきは常の道に非ず」に始まる81章の短い著作は、無為自然・柔弱謙下の思想を展開。儒教の礼楽制度への批
中国・楚国
紀元前551年〜前479年
孔子と儒教の成立
孔子(紀元前551-479年)は魯国の曲阜に生まれ、仁・礼・孝を核とする儒教思想を創始した。周の理想的な礼楽制度の復興を説き、諸国を歴訪して政治的理想の実現を図ったが失敗。晩年は教育に専念し、弟子30
中国・魯国(山東省曲阜)
紀元前540年頃〜前468年頃
マハーヴィーラとジャイナ教の成立
ヴァルダマーナ・マハーヴィーラはクシャトリヤの家系に生まれ、30歳で出家し12年間の苦行の後にケーヴァラ(完全知)を得た。不殺生(アヒンサー)を最高の徳とし、厳格な禁欲と非暴力を説いた。ジャイナ教の2
南アジア・ビハール
紀元前539年
キュロスの勅令とユダヤ人帰還
キュロス2世は紀元前539年にバビロンを征服した後、捕囚民の帰還と神殿再建を許可する勅令を発した。ユダヤ人はエルサレムに帰還し、紀元前516年頃に第二神殿を完成させた。この寛容政策はペルシャ帝国の多文
レヴァント・エルサレム
紀元前531年頃
ブッダの悟り(ブッダガヤ)
ゴータマ・シッダールタが菩提樹の下で49日間の瞑想を経て悟り(サンボーディ)を得た場所。苦行を放棄し中道を見出した後、縁起・四聖諦・十二因縁などの根本教理を体得した。マハーボーディ寺院が後に建立され、
南アジア・ビハール
紀元前528年頃
ブッダの初転法輪(サールナート)
ゴータマ・シッダールタ(ブッダ)がブッダガヤで悟りを開いた後、最初の説法を行った場所。かつての修行仲間5人に対して四聖諦と八正道を説き、仏教の教団(サンガ)が誕生した。この出来事は「法輪を転じる」(ダ
南アジア・ウッタル・プラデーシュ
神話時代(創建年不詳)
出雲大社の創建伝承
大国主命を祭神とする日本最古級の神社。『古事記』の国譲り神話で、天照大神に国を譲った大国主命のために壮大な神殿が建てられたとされる。2000年に境内から巨大な柱(宇豆柱)が出土し、高層神殿の実在可能性
日本・島根
紀元前5世紀〜前3世紀
百家争鳴(諸子百家の思想)
春秋戦国時代に多様な思想家が輩出。儒家(孔子・孟子・荀子)、道家(老子・荘子)、墨家(墨子)、法家(韓非子・商鞅)、兵家(孫子)、名家、陰陽家、縦横家(蘇秦・張儀の合従連衡)など。
中国・各地
紀元前500年頃〜現在
ヨルバのオリシャ信仰とその世界的拡散
ヨルバ人の伝統宗教はオロドゥマレ(至高神)のもとに約400柱のオリシャ(神々)が存在する多神教体系。シャンゴ(雷神)、オシュン(愛と豊穣の女神)、オグン(鉄と戦争の神)、エシュ(道の神)などが崇拝され
ナイジェリア・ヨルバランド
紀元前399年
ソクラテスの裁判と処刑
アテネの哲学者ソクラテスが「国家の神々を認めず、青年を堕落させた」罪で告発され、501人の陪審員による投票で有罪・死刑が確定。獄中でドクニンジンの毒杯を仰いで死去した。プラトンの対話篇『ソクラテスの弁
ギリシャ・アテネ
紀元前380年頃〜550年
フィラエ島のイシス神殿
ネクタネボ1世からローマ時代にかけて建設されたイシス女神の主要な祭祀中心。プトレマイオス朝・ローマ期に大規模に拡充され、地中海世界全域からのイシス信仰の巡礼地となった。エジプト古来の宗教が最後まで存続
エジプト・フィラエ
紀元前136年頃
董仲舒と儒教の国教化
董仲舒が武帝に「罷黜百家、独尊儒術」(百家を退け儒学のみを尊ぶ)を建議。天人感応説(天が皇帝の徳に応じて災異を示す)を唱え、儒教を帝国の統治イデオロギーに格上げ。五経博士が設置された。
中国・長安
30年頃
イエス・キリストの磔刑
ナザレのイエスはガリラヤ地方で約3年間の宣教活動を行った後、エルサレムでローマ総督ポンティウス・ピラトゥスの命令により十字架刑に処された。弟子たちはイエスの復活を証言し、この信仰がキリスト教の核心的教
レヴァント・エルサレム
45年頃〜67年頃
パウロの宣教旅行とキリスト教の地中海拡散
タルソス出身のユダヤ人パウロ(サウロ)はダマスカスへの途上で回心し、異邦人へのキリスト教宣教者となった。三度の宣教旅行でアナトリア、ギリシャ、ローマに教会を設立。割礼なしに異邦人がキリスト教徒になれる
アナトリア・タルソス
313年
コンスタンティヌスのミラノ勅令
コンスタンティヌス帝とリキニウス帝がミラノで会見し、帝国内の全宗教に信仰の自由を保障する勅令を発布。キリスト教迫害の終結を宣言し、没収されたキリスト教会の財産返還を命じた。これによりキリスト教は合法的
イタリア・ミラノ
325年
ニケーア公会議とキリスト教教義の確定
コンスタンティヌス1世が召集した最初の全地公会議で、約300人の主教が参加。アリウス派(キリストは被造物)対アタナシウス派(キリストは神と同質)の論争を裁定し、ニケーア信条を採択してキリストの神性を確
アナトリア・ニケーア
325年
ニカイア公会議
コンスタンティヌス帝が召集した最初のキリスト教全地公会議。約300名の主教が参加し、アリウス派の教義(キリストは神に創造された被造物とする説)を異端として排斥。ニカイア信条を採択し、キリストが「父と同
アナトリア・ビテュニア
330年頃
アクスム王国のキリスト教受容
アクスム王エザナがキリスト教に改宗し、国教とした。ティルスのフルメンティウスがアクスムに渡来しエザナ王を改宗させ、アレクサンドリア総主教により初代エチオピア大主教に任命された。これによりエチオピアは世
エチオピア・アクスム
4世紀〜現在
エチオピア正教の独自的発展
エチオピア正教テワヒド教会は4世紀のエザナ王の改宗以来、約1700年の歴史を持つアフリカ最古のキリスト教会。カルケドン公会議(451年)後に単性論教会として独自の発展を遂げた。契約の箱(アーク)がアク
エチオピア全域
395〜430年
聖アウグスティヌスの活動(ヒッポ司教)
北アフリカのタガステ出身のアウグスティヌスは、マニ教を経てキリスト教に改宗し、395年にヒッポの司教に就任。『告白』『神の国』『三位一体論』などの著作で西方キリスト教神学の基礎を築いた。430年、ヴァ
アルジェリア・ヒッポ・レギウス
496年頃
クロヴィスのキリスト教改宗
フランク王クロヴィス1世がランスの司教レミギウスにより洗礼を受け、カトリックに改宗した。アリウス派を信奉していた他のゲルマン諸族と異なり、正統派カトリックを選択したことで、ガロ・ローマ系住民とカトリッ
フランス・ランス
529年頃
モンテ・カッシーノ修道院の設立
ヌルシアのベネディクトゥスがモンテ・カッシーノの山頂にベネディクト修道会の母体となる修道院を設立。『戒律(レグラ)』を著し、「祈り働け(オラ・エト・ラボラ)」の精神のもと、1日を祈祷・労働・読書に体系
イタリア・ラティウム
538年(552年説あり)
仏教公伝
百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経典を献上し、日本に正式に仏教が伝来した。上宮聖徳法王帝説は538年、日本書紀は552年と記す。蘇我稲目が崇仏を主張し物部尾輿が排仏を唱え、崇仏・排仏論争が始まった。
日本・奈良(飛鳥)
7世紀〜17世紀
バクティ運動の展開
神への個人的な愛と献身を説く宗教運動。南インドのアールヴァール(ヴィシュヌ派)とナーヤナール(シヴァ派)の詩人たちに始まり、北インドではカビール、ミーラーバーイー、トゥルシーダース、チャイタニヤなどの
南アジア全域
610年〜632年
ムハンマドへの天啓とイスラム教の誕生
商人ムハンマドは610年頃、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で大天使ジブリール(ガブリエル)を通じてアッラーの啓示を受けた。唯一神への帰依(イスラム)を説き、クルアーン(コーラン)として記録された啓示は約2
アラビア半島・メッカ
622年
ヒジュラ(聖遷)とイスラム暦の起点
メッカのクライシュ族による迫害を受けたムハンマドと信者たちは、622年にメディナに移住した。この「ヒジュラ」はイスラム暦の元年となった。メディナでムハンマドは「メディナ憲章」を制定し、ムスリム・ユダヤ
アラビア半島・メディナ
680年
カルバラーの悲劇とシーア派の形成
預言者ムハンマドの孫フサイン・イブン・アリーが、ウマイヤ朝カリフ・ヤズィード1世に対する反抗の途上、カルバラーで包囲された。わずか72人の一行がウマイヤ朝軍約4,000人に対して戦い、フサインを含む大
メソポタミア・カルバラー
717年〜749年
行基の社会事業
僧・行基は私度僧として畿内を中心に民衆教化と社会事業を展開。道路・橋・池(灌漑用溜池)・布施屋を建設し、「行基菩薩」と慕われた。朝廷は当初弾圧したが、後に大仏造立の勧進役に起用。745年に日本初の大僧
日本・近畿
726年〜843年
イコン崇拝論争
レオン3世がイコン(聖画像)崇拝を偶像崇拝として禁止し、帝国全土で聖像の破壊を命じた。以後約120年にわたり、イコン破壊派(イコノクラスト)とイコン擁護派が激しく対立。787年のニカイア第2公会議でイ
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
741年
国分寺・国分尼寺の建立詔
聖武天皇が全国68カ国に国分寺(僧寺)と国分尼寺の建立を命じた。各国の国分寺には七重塔を建て、金光明最勝王経を安置。国分尼寺には法華経を安置。東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺と定めた。
日本・全国
753年
鑑真の来日
唐の高僧鑑真が12年の歳月と5度の失敗を経て来日に成功。渡航中に失明したが、754年に東大寺大仏殿前で聖武上皇らに授戒。日本に正式な戒律制度を伝え、唐招提寺を創建した。
日本・奈良
768年
春日大社の創建
藤原氏の氏神を祀る神社。武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四柱を祭神とする。鹿島・香取・枚岡から神々を勧請。20年ごとの式年造替が行われ、朱塗りの社殿と約3000基の燈籠が特徴的。
日本・奈良
788年
最澄による比叡山延暦寺の開創
最澄(伝教大師)が比叡山に一乗止観院(後の延暦寺)を開創。804年に入唐し天台宗を日本に伝えた。延暦寺は平安仏教の総合大学として機能し、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮など後の鎌倉新仏教の祖師たちを輩出し
日本・滋賀
788年頃〜820年頃
シャンカラの不二一元論の確立
アーディ・シャンカラは32歳の短い生涯でヴェーダーンタ哲学の不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を体系化。ブラフマンのみが唯一の実在であり、世界はマーヤー(幻影)であると説いた。ウパニシャッド・
南アジア・ケーララ
816年
空海による高野山開創
空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の下賜を受け、真言密教の根本道場として開創。金剛峯寺を中心に伽藍が建設された。空海は835年に高野山奥之院で入定(即身成仏)したとされ、今も生きて修行を続けていると
日本・和歌山
845年
会昌の廃仏(三武一宗の法難)
唐の武宗が大規模な仏教弾圧を断行。全国の寺院4600余りを破壊し、僧尼26万人を還俗させた。寺院の所有する田地・奴婢・財宝を没収。「三武一宗の法難」の中で最大規模の廃仏。
中国・長安
10世紀半ば
空也の念仏布教と市聖の活動
空也(903-972)は市中で踊り念仏を広め「市聖」と呼ばれた。阿弥陀仏の名号を唱えれば極楽往生できるという教えを、貴族だけでなく庶民にも広めた先駆者。951年に京都に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立
日本・京都
10世紀後半
安倍晴明と陰陽道の隆盛
陰陽師・安倍晴明は天文・暦学・占術に秀で、一条天皇の信任を受けて朝廷の祭祀・儀礼に深く関与した。鬼や怨霊を祓う超自然的能力を持つとされ、後世に多くの伝説が生まれた。陰陽道は平安貴族の日常生活を細部まで
日本・京都
985年
浄土教の流行と源信『往生要集』
天台宗の僧・源信(恵心僧都)が著した浄土教の体系書。地獄の凄惨な描写と極楽浄土の荘厳な情景を対比し、念仏による往生を説いた。末法思想と結びつき、貴族から庶民まで広く浄土信仰が浸透する契機となった。
日本・京都
988年
ウラジーミル1世のキリスト教改宗
キエフ大公ウラジーミル1世がビザンツ正教を国教として採用し、ドニエプル川でキエフ市民の集団洗礼を行った。ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹アンナとの結婚が改宗の条件の一つとされる。異教の偶像は破壊され、
キエフ・ルーシ
11世紀〜13世紀
上座部仏教の東南アジア大陸部への伝播
スリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)がパガン朝のアノーヤター王(11世紀)を通じてミャンマーに定着。13世紀にスコータイ朝がスリランカから僧侶を招聘して以降、タイ・ラオス・カンボジアにも拡大。そ
東南アジア大陸部
1175年
鎌倉新仏教の展開:法然と浄土宗
法然(法然房源空)が専修念仏を唱え浄土宗を開創。「南無阿弥陀仏」と称名念仏を唱えるだけで誰もが極楽往生できると説き、従来の修行主義を否定した。貴族から庶民まで広く支持を集めたが、旧仏教側から弾圧も受け
日本・京都
1175年〜1200年
朱熹と朱子学の大成
南宋の朱熹が北宋の周敦頤・程顥・程頤の学説を集大成し、理気二元論に基づく体系的な儒学(朱子学・理学)を確立。四書(論語・孟子・大学・中庸)に注釈を付け、科挙の基本テキストとした。
中国・福建省
12世紀末〜
スーフィズムのインド展開(チシュティー教団)
イスラム神秘主義(スーフィズム)がインドに根付いた最も重要な経路。チシュティー教団の創始者ムイーヌッディーン・チシュティー(1141-1236年)がアジメールに定住し、ヒンドゥー教徒を含む広い層に影響
南アジア・北インド
13世紀〜16世紀
東南アジアのイスラム化の過程
アラブ・インド・中国のムスリム商人を媒介として、東南アジア島嶼部にイスラムが伝播。マラッカ王国のイスラム改宗(15世紀初頭)が転換点となり、ジャワ北岸の港湾都市、スールー王国(フィリピン南部)、ブルネ
東南アジア島嶼部
1224年頃
親鸞の浄土真宗開宗
法然の弟子・親鸞(1173-1263)は師の専修念仏をさらに深化させ、阿弥陀仏の本願力による救済(他力本願)を説いた。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悪人正機説)は浄土真宗の核心。僧侶の
日本・関東〜京都
1227年〜
道元と曹洞宗の開宗
道元(1200-1253)は入宋して天童山の如浄に学び、帰国後に曹洞宗を開いた。1244年に越前に永平寺を開山し、只管打坐を根本とする修行道場とした。主著『正法眼蔵』は95巻に及ぶ哲学的著作で、日本思
日本・越前
1251年
海印寺高麗大蔵経の完成
モンゴル侵入の最中、江華島で16年をかけて再刻された高麗大蔵経(八万大蔵経)が完成。81,258枚の木版に1,496部6,568巻の仏典を収録。現存する世界最古の完全な大蔵経であり、内容の正確さと木版
高麗・海印寺(伽耶山)
1260年
日蓮の立正安国論
日蓮(1222-1282)は1260年に『立正安国論』を北条時頼に提出し、法華経以外の宗派を排斥しなければ国難が訪れると警告。他宗を激しく批判し、松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、龍ノ口の法難、佐渡流罪を経験
日本・鎌倉
1274年〜
一遍と時宗の踊り念仏
一遍(1239-1289)は全国を遊行し踊り念仏で念仏信仰を広めた時宗の開祖。賦算によって念仏の功徳を説き「捨聖」と呼ばれた。すべてを捨てて遊行する生き方は所有を否定する究極の宗教的実践。踊り念仏は盆
日本・全国
14世紀〜現在
ルアンパバーンの寺院群と托鉢の伝統
毎朝夜明け前に数百人の僧侶が列をなして托鉢に出る光景はルアンパバーンの象徴。ワット・シェントーン(黄金の都の寺院)は1560年建立のラオス最美の寺院で、独特の屋根の重なりが特徴。ルアンパバーン様式の仏
ラオス・ルアンパバーン
1394年
宗廟の建設と宗廟祭礼楽
朝鮮王朝歴代の王と王妃の神位を祀る王家の廟。正殿に19室、永寧殿に16室の神室を持つ。毎年5月に行われる宗廟祭礼は、儒教の祭祀儀礼の原型をほぼ完全に残す世界唯一の事例。宗廟祭礼楽は編鐘・編磬などの雅楽
朝鮮・漢陽
1499年頃
シク教の創始(グル・ナーナク)
グル・ナーナク(1469-1539年)がスルタンプール近郊で啓示を受け、シク教を創始。「ヒンドゥーもなくムスリムもなし」と宣言し、一神教・カースト否定・男女平等を説いた。ヒンドゥー教のバクティ運動とイ
南アジア・パンジャーブ
16世紀〜現在
バリ島のヒンドゥー文化の保持
インドネシアのイスラム化の中で、バリ島のみがヒンドゥー教を維持。マジャパヒト帝国滅亡時(15-16世紀)にジャワの貴族・僧侶・芸術家がバリに逃れ、ヒンドゥー・ジャワ文化が保存された。バリ・ヒンドゥーは
インドネシア・バリ島
1508年〜1529年
王陽明の陽明学
明の儒学者・王守仁(号・陽明)が朱子学を批判し、心即理・知行合一・致良知を核心とする陽明学を創始。良知(生まれながらの道徳的判断力)を万人が持つとし、実践を重視した。
中国・貴州〜浙江
1517年10月31日
マルティン・ルターの95ヶ条の論題
アウグスティヌス会修道士マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の論題を掲示し(伝承)、贖宥状(免罪符)販売を批判した。「信仰のみ(ソラ・フィデ)」「聖書のみ(ソラ・スクリプトゥラ)」
ドイツ・ヴィッテンベルク
1521年〜現在
フィリピンにおけるカトリックの伝来と定着
1565年のレガスピによるセブ征服以降、スペインのアウグスティノ会・フランシスコ会・ドミニコ会・イエズス会の修道士が組織的に布教を展開。教会が行政・教育・文化の中心となり、フィリピンは東南アジア唯一の
フィリピン・セブ島
1521年4月
ヴォルムス帝国議会
皇帝カール5世の前にルターが召喚され、著書の撤回を求められた。ルターは「ここに我は立つ。我にはこれ以外のことはできない。神よ助けたまえ」と述べて撤回を拒否したとされる。ヴォルムス勅令によりルターは帝国
ドイツ・ヴォルムス
1523年
ツヴィングリのチューリヒ宗教改革
フルドリヒ・ツヴィングリがチューリヒの大聖堂司祭として宗教改革を推進。67ヶ条の提題を公開討論にかけ、都市参事会の支持を得て聖像の撤去、ミサの廃止、修道院の解散を実施した。聖書のみに基づく信仰を主張し
スイス・チューリヒ
1534年
ヘンリー8世のイングランド国教会設立
ヘンリー8世が国王至上法(首長令)を議会で制定し、イングランド国教会をローマ教皇から独立させた。国王が「イングランド国教会の唯一の最高首長」と宣言。1536-39年に約800の修道院を解散し、膨大な教
イングランド・ロンドン
1541年〜1564年
カルヴァンのジュネーヴ宗教改革
フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンがジュネーヴの宗教改革を指導。『キリスト教綱要』で予定説(二重予定説)を体系化し、教会と国家の協力による道徳的規律の厳格な実施を推進。長老制度(プレスビテリアン)
スイス・ジュネーヴ
1543年〜
書院文化の発展と陶山書院
朝鮮の書院は私設の儒学教育機関兼先賢祭祀施設。1543年に周世鵬が白雲洞書院(紹修書院)を設立したのが最初。以後全国に700以上の書院が建立された。退溪の陶山書院、栗谷の紹賢書院など、各学派の拠点とし
朝鮮・安東
1545年〜1563年
トリエント公会議
カトリック教会の自己改革と対プロテスタント教義の明確化を目的とした公会議。3期18年にわたり、教義面では信仰と行いの両方の必要性、7つの秘跡、聖書と聖伝の同等の権威を確認。改革面では司教の居住義務、神
イタリア・トレント
1549年
フランシスコ・ザビエルのキリスト教伝来
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた。島津貴久の許可を得て布教を開始し、その後山口・豊後・京都にも赴いた。約2年間の滞在で日本のキリスト教布教の基盤を築い
日本・鹿児島
16世紀後半
大友宗麟とキリシタン大名の時代
大友宗麟(1530-1587)は九州最大の勢力を持つ大名であり、キリスト教に帰依してキリシタン大名の代表格となった。フランシスコ・ザビエルとの出会いが転機で、洗礼名はドン・フランシスコ。府内にはコレジ
日本・豊後国
16世紀中頃
退溪李滉と性理学の大成
退溪李滉(1501-1570年)は朝鮮性理学を大成した最大の儒学者。朱子学を朝鮮の風土に即して再解釈し、「理気互発説」を提唱。理(道徳的原理)の能動性を強調し、栗谷李珥の「気発理乗一途説」と大論争を展
朝鮮・安東
16世紀後半
栗谷李珥の学問と改革思想
栗谷李珥(1536-1584年)は退溪と並ぶ朝鮮最大の儒学者。「気発理乗一途説」を唱え、気(物質的エネルギー)の能動性を強調。社会改革にも積極的で、十万養兵説を唱えて国防強化を訴えたが容れられず、その
朝鮮・坡州
1597年2月5日
日本二十六聖人殉教
1597年2月5日、京都・大坂で逮捕されたフランシスコ会の宣教師6名と日本人信徒20名が、長崎の西坂で十字架に架けられて処刑された。豊臣秀吉のバテレン追放令(1587年)後初の大規模な殉教事件。京都か
日本・長崎
1637年
デカルト『方法序説』
ルネ・デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり(Cogito, ergo sum)」の命題で知られる方法論的懐疑を展開。すべてを疑い尽くしても疑っている自分の存在は疑えないとして、主体的な理性を哲学の出発
フランス・パリ(出版はオランダ)
1675年
グル・テーグ・バハードゥルの処刑
シク教第9代グル・テーグ・バハードゥルがムガル皇帝アウラングゼーブの命により斬首された。カシミールのヒンドゥー教バラモンがイスラムへの強制改宗を逃れるために助けを求め、グルは「ヒンドの盾」として自らを
南アジア・デリー
1685年10月18日
ナントの勅令廃止(フォンテーヌブロー勅令)
ルイ14世がフォンテーヌブロー勅令を発布し、1598年のナントの勅令を廃止。プロテスタント(ユグノー)の礼拝を禁止し、教会を破壊、聖職者を追放した。「ドラゴナード」(軍隊の強制宿営による改宗強要)が各
フランス
1699年
カールサーの創設
シク教第10代グル・ゴービンド・シンがバイサーキー祭の日にカールサー(純粋な者たち)を創設。信徒に五つのK(ケーシュ=未剃の髪、カンガー=櫛、カラー=鋼の腕輪、カッチャー=半ズボン、キルパーン=短剣)
南アジア・パンジャーブ
1744年
ワッハーブ運動とサウード家の台頭
宗教学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブとディルイーヤの首長ムハンマド・イブン・サウードが同盟を結び、イスラムの純化運動を開始した。聖者崇拝・墓参り・スーフィズムを偶像崇拝として排撃し、クルア
アラビア半島・ディルイーヤ
1781年
カント『純粋理性批判』
イマヌエル・カントが認識論の根本的転換を行った哲学の主著。経験論と合理論を総合し、人間の認識は感性と悟性の協働によって成立すると論じた。「コペルニクス的転回」として、対象が認識に従うのではなく、認識が
ドイツ・ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)
1784年〜1801年
天主教の伝来と辛酉迫害
1784年、李承薫が北京で洗礼を受けて帰国し、朝鮮初のカトリック信者となった。「西学」として知識人層に広まったが、祖先祭祀の拒否が儒教秩序への挑戦と見なされた。辛酉迫害(1801年)では中国人神父・周
朝鮮・漢陽
1784年
ワット・プラケーオとエメラルド仏
エメラルド仏(プラケーオ・モーラコット)を本尊とするタイで最も神聖な寺院。エメラルド仏は高さ約66cmの翡翠製で、季節ごとに国王自ら衣を替える儀式が行われる。回廊にはラーマキエン(ラーマーヤナのタイ版
タイ・バンコク
1801年〜1818年
丁若鎔(茶山)と実学の集大成
丁若鎔(1762-1836年)は朝鮮最大の実学者。18年間の流配生活中に500余巻の著作を完成。『牧民心書』(地方行政論)、『経世遺表』(国家制度改革論)、『欽欽新書』(法学)の三大著作のほか、農学・
朝鮮・康津(全羅道)
1828年
ベンガル・ルネサンスの始まり
ラーム・モーハン・ローイがブラフモ・サマージ(ブラフマー協会)を設立。ヒンドゥー教の一神教的改革を唱え、サティー(寡婦殉死)の廃止運動を展開。イギリス総督ベンティンクによるサティー禁止令(1829年)
南アジア・ベンガル
1848年
マルクスとエンゲルス『共産党宣言』発表
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが共産主義者同盟の綱領として執筆。「ヨーロッパに幽霊が出る、共産主義という幽霊が」の有名な冒頭で始まり、階級闘争史観、ブルジョワジーとプロレタリアートの対立、
イギリス・ロンドン(出版はドイツ語)
1860年
東学の創始
没落両班の崔済愚(1824-1864年)が「西学」(天主教)に対抗する「東学」を創始。「人乃天」(人がすなわち天)の思想は人間の平等と尊厳を説き、下層民に広まった。崔済愚は1864年に処刑されたが、東
朝鮮・慶州
1897年
第一回シオニスト会議
テオドール・ヘルツルが主催した第一回シオニスト会議がバーゼル市立カジノで開催。約200名の代議員が参加し、パレスチナにユダヤ人の民族的故郷を建設するという「バーゼル綱領」を採択した。世界シオニスト機構
スイス・バーゼル
1930年〜現在
ラスタファリ運動の誕生
1930年のハイレ・セラシエ(ラス・タファリ・マコンネン)のエチオピア皇帝即位を契機に、ジャマイカで誕生した宗教・社会運動。セラシエをメシア(救世主)、エチオピアを約束の地と見なす。ドレッドロックス(
ジャマイカ・キングストン〜エチオピア
1940年代〜
カーゴ・カルト(積荷信仰)
第二次世界大戦中に太平洋諸島に進出した軍隊がもたらした大量の工業製品(缶詰、衣服、武器、車両等)に触発されて発生した宗教運動。最も有名なジョン・フラム運動(バヌアツのタナ島)では、アメリカ人の精霊「ジ
オセアニア・メラネシア
1943年
サルトルの実存主義
ジャン=ポール・サルトルが『存在と無』で「実存は本質に先立つ」という命題を提示。人間は予め定められた本質を持たず、自由な選択によって自己を形成するとした。戦後の1945年の講演『実存主義はヒューマニズ
フランス・パリ

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