戦争・紛争の歴史
356件の歴史的出来事
紀元前2500年頃〜前2350年頃
ラガシュとウンマの国境紛争
ラガシュとウンマの国境紛争は約150年間にわたって継続し、記録に残る最古の国際紛争の一つである。エアンナトゥムの「鷲碑」にはラガシュの勝利が詳細に描かれ、密集隊形で進む兵士と倒れた敵兵の上を飛ぶ鷲が彫
メソポタミア・ラガシュ
紀元前1650年頃
ヒクソスのエジプト侵入と支配
西アジアから移住してきたセム系民族ヒクソス(「異国の支配者」の意)が下エジプトを支配し、アヴァリスを首都として第15王朝を樹立した。馬匹と戦車、複合弓、青銅製武器などの軍事技術の優位によりエジプト軍を
エジプト・アヴァリス
紀元前1457年
トトメス3世のメギドの戦い
ハトシェプスト死後に単独統治を開始したトトメス3世が、カデシュ王率いるシリア・パレスチナ連合軍をメギドで撃破。エジプト軍記の最も詳細な戦闘記録として知られる。カルメル山脈の3つの隘路のうち最も危険な中
パレスチナ・メギド
紀元前1274年
カデシュの戦い
ラムセス2世率いるエジプト軍がヒッタイト王ムワタリ2世の軍とシリアのカデシュで激突した古代最大規模の戦車戦。約5000台の戦車と数万の兵士が参加。ラムセス2世はヒッタイト軍の偽情報に欺かれて奇襲を受け
シリア・カデシュ
紀元前1250年頃
トロイア戦争
ギリシャ連合軍がトロイアを10年間包囲したとされる戦争。ホメロスの『イリアス』で伝承されるが、考古学的にはトロイア第VIIa層の破壊(紀元前1250年頃)がこれに対応する可能性がある。シュリーマンの発
アナトリア・トロアス地方
紀元前1178年頃
海の民の侵入とエジプトの防衛
第20王朝のラムセス3世が、東地中海全域を荒廃させた「海の民」の大規模侵入をエジプト国境で撃退した。ナイルデルタの水上戦と陸上戦の二方面で決定的勝利を収め、ペリシテ人、テケル人、デニェン人などの連合軍
エジプト・ナイルデルタ
紀元前1046年頃
牧野の戦い(殷周革命)
紀元前1046年頃、周の武王が殷の紂王を牧野の戦いで破り、殷王朝を滅ぼした。紂王は酒池肉林の暴虐な君主とされ、武王は「天命」の移転を宣言して殷討伐を正当化した。殷軍の兵士は戦意を喪失し寝返ったとされる
中国・河南省
紀元前671年
アッシリアのエジプト侵攻
アッシリア王エサルハドンがエジプトに侵攻し、メンフィスを占領してヌビア第25王朝のタハルカ王を追放した。続くアッシュルバニパル王の遠征(紀元前663年)ではテーベが徹底的に略奪・破壊された。この事件は
エジプト・メンフィス〜テーベ
紀元前612年
ニネヴェの陥落とアッシリア帝国の滅亡
新バビロニアのナボポラッサルとメディアのキュアクサレス2世の連合軍がニネヴェを包囲・攻略し、300年にわたるアッシリア帝国が滅亡した。ティグリス川の洪水が城壁を破壊し、市は徹底的に略奪・破壊された。残
メソポタミア・ニネヴェ
紀元前6世紀頃
孫子『兵法』の成立
呉の孫武が著したとされる世界最古の体系的軍事書。全13篇で構成され、「兵は詭道なり」「百戦百勝は善の善なるものに非ず」「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」など普遍的な戦略原理を説く。
中国・呉
紀元前490年
マラトンの戦い
第一次ペルシャ戦争の決戦。アテネの将軍ミルティアデスが約1万のアテネ・プラタイア連合軍を率い、ダティスとアルタフェルネス指揮下の約2万5千のペルシャ遠征軍を撃破。両翼を強化する陣形で敵を包囲し、ペルシ
ギリシャ・アッティカ
紀元前480年
テルモピュライの戦い
第二次ペルシャ戦争において、スパルタ王レオニダス1世が率いる約7000のギリシャ連合軍(うちスパルタ精鋭300名)が、クセルクセス1世の大軍(推定10万〜30万)を3日間にわたり隘路で食い止めた。裏切
ギリシャ・中部
紀元前480年
サラミスの海戦
テミストクレスの策略によりペルシャ艦隊を狭い海峡に誘い込み、約370隻のギリシャ連合艦隊が約800隻のペルシャ艦隊を撃破した歴史的海戦。ギリシャ側は三段櫂船の衝角攻撃と機動力を活かし、ペルシャ艦隊に壊
ギリシャ・サロニコス湾
紀元前431年〜紀元前404年
ペロポネソス戦争の勃発
アテネを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟の全面戦争。アルキダモス戦争(前431-421年)、ニキアスの和約、シチリア遠征の壊滅的失敗(前415-413年)、イオニア戦争(前4
ギリシャ全域
紀元前334年〜前323年
アレクサンドロス大王のペルシャ征服とペルセポリス焼却
マケドニアのアレクサンドロス3世はグラニコス川(前334年)、イッソス(前333年)、ガウガメラ(前331年)の三大会戦でアケメネス朝を撃破。ダレイオス3世を追走し、紀元前330年にペルセポリスを占領
ペルシャ・ペルセポリス
紀元前333年
イッソスの戦い
アレクサンドロス大王がダレイオス3世率いるペルシャ軍を撃破した会戦。アレクサンドロスは右翼のヘタイロイ騎兵を自ら率いてダレイオスの本陣に突撃。ダレイオスは戦車を捨てて逃走し、ペルシャ王の母・妻・子供が
アナトリア南東部・キリキア
紀元前331年
ガウガメラの戦い
アレクサンドロス大王がダレイオス3世に最終的な決定的勝利を収めた会戦。ペルシャ軍は鎌付き戦車200両を含む約20万(諸説あり)の大軍を展開。アレクサンドロスは斜行戦術で右翼から突破口を作り、ヘタイロイ
メソポタミア北部
紀元前329年〜前326年
アレクサンドロス大王のバクトリア征服
アレクサンドロス大王がバクトリア・ソグディアナに遠征。ベッソスを捕えた後、スピタメネスの率いるソグド人のゲリラ抵抗に約2年間苦しんだ。ソグディアナ・ロック(岩壁要塞)を攻略し、現地の王女ロクサネと結婚
中央アジア・アフガニスタン/ウズベキスタン
紀元前261年頃
アショーカ王のカリンガ戦争と仏教帰依
マウリヤ朝第3代アショーカ王がカリンガ国を征服した戦争。推定10万人が戦死、15万人が連行され、さらに多くが飢餓と疫病で死亡。この凄惨な結果にアショーカ王は深く後悔し、武力による征服を放棄してダルマ(
南アジア・オリッサ
紀元前260年
長平の戦い
紀元前260年、秦と趙が上党の帰属をめぐり激突。趙の老将廉頗は持久戦を選んだが、趙王は趙括に交代させた。秦の白起は偽退却で趙軍をおびき出し、46日間の包囲の末に趙軍約40万を降伏させた後、坑殺(生き埋
中国・趙国(山西省)
紀元前218〜216年
ハンニバルのアルプス越えとカンナエの戦い
第二次ポエニ戦争でカルタゴの名将ハンニバル・バルカが、歩兵・騎兵・戦象を率いてアルプスを越えイタリアに侵入。紀元前216年のカンナエの戦いでは約5万のカルタゴ軍が約8万のローマ軍を完全包囲し殲滅。ロー
イタリア・カンナエ
紀元前216年
カンナエの戦い
第二次ポエニ戦争における最大の会戦。ハンニバル・バルカが約5万のカルタゴ軍で、約8万のローマ軍を完全包囲して殲滅した。中央を故意に後退させる凸型陣形から凹型に反転し、両翼の騎兵が敵後方を遮断する包囲戦
イタリア・アプリア地方
紀元前206年〜前202年
項羽と劉邦の楚漢戦争・垓下の戦い
秦滅亡後、西楚の覇王・項羽と漢王・劉邦が天下を争った約4年間の戦争。鴻門の会(紀元前206年)で劉邦は暗殺を免れ、以後各地で攻防を繰り返した。紀元前202年、垓下の戦いで韓信の十面埋伏の陣に包囲された
中国・全域
紀元前202年
ザマの戦い
第二次ポエニ戦争の最終決戦。スキピオ・アフリカヌスがハンニバルをカルタゴ本国近くで撃破。スキピオはハンニバルの戦象突撃を隊列の隙間で通過させる戦術で無力化し、マシニッサのヌミディア騎兵がカルタゴ軍の後
北アフリカ・カルタゴ近郊
紀元前146年
カルタゴの滅亡(第三次ポエニ戦争)
ローマの元老院議員カトーの「カルタゴは滅ぼされるべし」の繰り返し主張により、第三次ポエニ戦争が開始された。3年間の包囲戦の末、スキピオ・アエミリアヌスがカルタゴを陥落させた。住民約50万のうち生存者は
チュニジア・カルタゴ
紀元前141年〜前87年
漢武帝の治世と匈奴遠征
漢の武帝(在位紀元前141-87年)は中国史上最も積極的な対外政策を展開。衛青・霍去病らの将軍を用いて匈奴を漠北に駆逐し、河西四郡を設置してシルクロードを開通。南越・朝鮮にも遠征して版図を拡大。内政で
中国・長安〜中央アジア
紀元前112〜106年
ユグルタ戦争
ヌミディア王ユグルタがローマの宗主権に反旗を翻し、北アフリカで約6年にわたるゲリラ戦を展開。ローマ元老院議員の腐敗を利用して外交戦でも善戦した。最終的にマリウスの軍制改革軍とスッラの謀略により捕縛され
アルジェリア・ヌミディア
紀元前53年
カルラエの戦い
三頭政治の一角クラッススが率いるローマ軍約4万が、スレナス将軍率いるパルティア軍約1万の騎馬弓兵に壊滅的敗北を喫した。パルティア弓兵は「パルティアン・ショット」(後退しながらの射撃)でローマ軍を消耗さ
メソポタミア・カルラエ
紀元前31年
アクティウムの海戦
オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)の艦隊が、マルクス・アントニウスとクレオパトラの連合艦隊をアクティウム沖で撃破。クレオパトラが旗艦とともに戦場を離脱し、アントニウスもこれを追った。この敗北により
ギリシャ・アクティウム
66年〜73年
ユダヤ戦争とマサダ陥落
ローマの重税と宗教弾圧に対するユダヤ人の大反乱。紀元70年にティトゥス率いるローマ軍がエルサレムを陥落させ、第二神殿を破壊した。最後の拠点マサダでは約960人の防衛者がローマ軍の包囲に約2年間抵抗し、
レヴァント・マサダ
132年〜135年
バル・コクバの乱とユダヤ人のディアスポラ
シモン・バル・コクバが率いたローマ帝国に対する最後のユダヤ人大反乱。ハドリアヌス帝のエルサレムへのローマ植民市建設と割礼禁止令が直接の原因。約3年半にわたる激戦の末にローマ軍が鎮圧し、58万人のユダヤ
レヴァント・エルサレム
147年頃〜189年頃
倭国大乱
2世紀後半、倭国で大規模な内乱が発生。『魏志倭人伝』によれば「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」と記される。男王の統治が破綻し、最終的に卑弥呼が共立されることで収束した。考古学的には高地性集落の増加や武器
日本・北部九州
208年
赤壁の戦い
208年、曹操の南征軍約20万(自称80万)に対し、孫権と劉備の連合軍約5万が長江の赤壁で迎え撃った。周瑜の指揮のもと、黄蓋の偽降計と火攻めにより曹操の水軍は壊滅的打撃を受け、曹操は北方に撤退した。こ
中国・湖北省
222年
夷陵の戦い
関羽の仇討ちを名目に劉備が呉に大軍を率いて侵攻。呉の陸遜は持久戦に徹し、蜀軍が疲弊したところで火攻めを敢行。蜀軍は壊滅的敗北を喫し、劉備は白帝城に退いて翌年病没した。
中国・湖北省宜昌
228年〜234年
諸葛亮の北伐と五丈原
諸葛亮は5度にわたり魏への北伐を実行。街亭の戦いでの馬謖の敗北、木牛流馬による補給改善など試みたが、司馬懿の持久戦術に阻まれた。234年、五丈原で陣中に病没。享年54歳。
中国・陝西省宝鶏
260年
シャープール1世によるローマ皇帝ウァレリアヌスの捕虜
ササン朝のシャープール1世はエデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にするという前代未聞の勝利を収めた。約7万人のローマ兵が捕虜となり、ペルシャ国内のインフラ建設に使役された。ナクシェ・ロスタム
メソポタミア・エデッサ
291年〜306年
八王の乱
西晋の皇族である八人の王が皇帝位をめぐって争った大規模内乱。賈后の専横に端を発し、趙王倫の簒奪を経て各王が次々に兵を挙げた。15年間の戦乱で華北は荒廃し、異民族の傭兵が力を持つようになった。
中国・洛陽を中心に各地
311年
永嘉の乱と西晋滅亡
匈奴の劉聡率いる前趙軍が洛陽を攻略し、懐帝を捕虜とした(永嘉の乱)。316年には長安も陥落して愍帝も捕えられ、西晋は完全に滅亡。華北は異民族支配下に入った。
中国・洛陽
383年
淝水の戦い
前秦の苻堅が80万と号する大軍で東晋に南征したが、謝安・謝玄率いる東晋の北府兵8万に淝水で大敗。苻堅軍は「風声鶴唳、草木皆兵」のパニックに陥り壊走。中国史上最大級の逆転劇。
中国・安徽省寿県
391年〜413年
広開土大王の征服事業
高句麗第19代王・広開土大王(好太王)は在位中に64城1400村を征服したと碑文に記される。後燕を破って遼東を確保し、南方では百済を攻撃して漢江以北を奪取。新羅の要請に応じて倭軍を撃退した。息子の長寿
高句麗・満州〜朝鮮半島
410年8月24日
アラリック1世のローマ略奪
西ゴート王アラリック1世がローマを3日間略奪した。紀元前390年のガリア人の侵入以来、約800年ぶりの「永遠の都」の陥落。教会と聖域への攻撃は比較的制限されたが、宮殿や富裕層の邸宅は徹底的に略奪された
イタリア・ローマ
533〜534年
ビザンツ帝国の北アフリカ回復
ユスティニアヌス帝の命を受けた将軍ベリサリウスが、わずか1万5千の兵力でヴァンダル王国を攻撃。アド・デキムムとトリカマルムの二つの戦いでヴァンダル軍を撃破し、わずか数か月でカルタゴを奪還。ヴァンダル王
チュニジア・カルタゴ
553年
新羅の真興王による領土拡大
新羅第24代王・真興王は百済と同盟して高句麗領の漢江上流域を奪取した後、同盟を破棄して百済が獲得していた漢江下流域をも占領した。さらに大伽耶を滅ぼし(562年)、洛東江流域を完全に統合。征服地に巡狩碑
新羅・朝鮮半島中部
587年
蘇我馬子と物部守屋の戦い(丁未の乱)
崇仏派の蘇我馬子が排仏派の物部守屋を滅ぼした戦い。厩戸皇子(聖徳太子)も蘇我方に参戦し、四天王に戦勝祈願したとされる。物部守屋は戦死し、物部氏の軍事的権力は崩壊。蘇我氏が朝廷の実権を掌握した。
日本・大阪
612年〜614年
煬帝の高句麗遠征
煬帝は3度にわたり高句麗に遠征。第1次(612年)は113万と号する大軍を動員したが、薩水(清川江)の大敗で30万の兵を失った。第2次・第3次も失敗に終わり、国力の消耗と民衆の離反を招いた。
中国東北部〜朝鮮半島
612年
隋の高句麗遠征の失敗
隋の煬帝は113万の大軍で高句麗に親征したが、乙支文徳の戦略により薩水で壊滅的敗北を喫した。渡河した隋軍30万5千のうち生還者はわずか2,700人と伝えられる。煬帝は3度(612・613・614年)遠
高句麗・遼東〜薩水
624年
バドルの戦い
ムハンマド率いる約313人のムスリム軍が、アブー・スフヤーン率いるメッカのクライシュ族軍約950人を撃破した。初期イスラム史における最も重要な軍事的勝利であり、クルアーンではアッラーの直接的介入(天使
アラビア半島・バドル
630年
メッカ征服
ムハンマドは約1万人の軍勢を率いてメッカに無血入城し、カアバ神殿の360体の偶像を破壊してイスラムの聖地として浄化した。大多数のメッカ住民に恩赦を与え、かつての敵であったアブー・スフヤーンら有力者もイ
アラビア半島・メッカ
636年
ヤルムークの戦い
ハーリド・イブン・アル・ワリード率いるアラブ・ムスリム軍(約2-4万)がビザンツ帝国のヘラクレイオス帝の大軍(推定4-15万)を壊滅的に撃破した。6日間の激戦の末、砂嵐と巧みな機動戦術でビザンツ軍を包
レヴァント・ヤルムーク川
636年
カーディスィーヤの戦いとササン朝の崩壊
サアド・イブン・アビー・ワッカース率いるアラブ・ムスリム軍がササン朝ペルシャのロスタム将軍率いる大軍を撃破した。3-4日間の激戦の末、ロスタムが戦死してペルシャ軍は壊走。この勝利によりメソポタミア全域
メソポタミア・カーディスィーヤ
643年
山背大兄王の滅亡
聖徳太子の子・山背大兄王が蘇我入鹿の軍勢に攻められ、斑鳩寺(法隆寺)で一族もろとも自害。上宮王家は断絶した。入鹿は皇位継承への影響力を強めるため、有力な皇位候補者を排除した。
日本・奈良
645年
安市城の戦い
唐の太宗李世民は自ら15万の軍を率いて高句麗に親征。遼東城・白岩城を陥落させたが、安市城の城主(名は不詳)の頑強な抵抗に遭い88日間の攻城戦の末に撤退を余儀なくされた。太宗は撤退時に安市城主の勇敢さを
高句麗・安市城
647〜698年
イスラムの北アフリカ征服とカイラワーンの建設
正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけて、アラブ軍が段階的に北アフリカを征服。647年のスベイトラの戦いでビザンツ軍を破り、670年にウクバ・イブン・ナーフィがカイラワーンを建設してマグレブの軍事拠点とし
チュニジア・カイラワーン
660年
百済の滅亡
唐の蘇定方率いる13万の大軍と新羅の金庾信率いる5万の軍が百済を挟撃。百済の義慈王は降伏し、約700年の歴史に幕を閉じた。落花岩の伝説(三千宮女の身投げ)は後世の創作とされるが、百済滅亡の悲劇を象徴す
百済・泗沘(扶余)
663年
白村江の戦い
百済復興軍を支援するため渡海した日本(倭国)の水軍約4万が、唐・新羅連合軍と白村江で激突し大敗した。日本の船400余隻が焼かれ壊滅的な打撃を受けた。この敗戦により日本は朝鮮半島への軍事介入を完全に断念
百済・白村江(錦江河口)
668年
高句麗の滅亡
唐の李勣率いる大軍と新羅軍の合同攻撃により平壌が陥落。宝蔵王が降伏し、約700年の高句麗は滅亡した。淵蓋蘇文の死後(666年)、その子たちの間の内紛が滅亡を決定的にした。高句麗遺民は後に渤海を建国する
高句麗・平壌
672年
壬申の乱
天智天皇の崩御後、弟の大海人皇子が天智の子・大友皇子(弘文天皇)と皇位をめぐり戦った古代最大の内乱。大海人皇子は吉野から東国へ脱出して挙兵し、美濃・伊勢の豪族を糾合。瀬田橋の決戦で近江朝廷軍を破り、大
日本・近畿〜東海
711年〜712年
アラブによるシンド征服
ウマイヤ朝の将軍ムハンマド・ビン・カーシムがシンド地方を征服した。当時17歳のカーシムは6千人の軍を率いてデーバルを攻略、シンドのヒンドゥー王ダーヒルを戦死させた。シンドとパンジャーブ南部がイスラム支
南アジア・シンド
711年
イスラムのイベリア半島征服
ウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードが約7000のベルベル人・アラブ人軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、西ゴート王国に侵攻。グアダレーテの戦いで西ゴート王ロデリックを撃破し、わずか数年でイベリ
イベリア半島
717年〜718年
ビザンツ帝国のコンスタンティノープル防衛
ウマイヤ朝カリフのスレイマンが陸海から約12万の大軍でコンスタンティノープルを包囲。ビザンツ皇帝レオン3世は「ギリシャの火」(水上でも燃え続ける焼夷兵器)でアラブ艦隊を壊滅させ、ブルガール人の援軍もあ
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
722年頃
コバドンガの戦い
西ゴート貴族ペラーヨ率いるキリスト教戦士団が、アストゥリアスの山岳地帯でイスラム軍の討伐隊を撃退した。規模は小さかったとされるが、キリスト教勢力の最初の軍事的勝利として記録され、アストゥリアス王国の建
スペイン・アストゥリアス
732年
トゥール・ポワティエ間の戦い
フランク王国の宮宰カール・マルテルがウマイヤ朝のアブドゥッラフマーン・アル・ガーフィキー率いるアラブ軍を撃退した。イベリア半島からピレネーを越えて北進したイスラム軍のヨーロッパ深部への進出を阻止した歴
フランス・トゥール
732年10月
トゥール・ポワティエの戦い
フランク王国の宮宰カール・マルテルが、アブドゥル・ラフマン・アル・ガーフィキー率いるウマイヤ朝の遠征軍を撃退した決定的会戦。フランク重装歩兵の密集陣形がイスラム騎兵の突撃を跳ね返し、アブドゥル・ラフマ
フランス・トゥール近郊
751年
タラス河畔の戦い
唐帝国の高仙芝将軍率いる軍勢がアッバース朝の将軍ズィヤード・イブン・サーリフの軍に敗北した戦い。カルルク族の裏切りが唐軍の敗因とされる。唐の中央アジアへの進出が頓挫し、以後イスラム勢力が中央アジアを支
中央アジア・キルギス/カザフスタン
793年6月8日
バイキングのリンディスファーン修道院襲撃
ノルウェーからのバイキングがイングランド北東部のリンディスファーン修道院を襲撃し、修道士を殺害・奴隷化し、聖遺物や財宝を略奪した。アルクインが「キリスト教世界始まって以来、ブリテンにこのような恐怖が訪
イングランド・ノーサンブリア
794年〜811年
坂上田村麻呂の蝦夷征討
桓武天皇の命を受けた征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北の蝦夷を征討。797年に征夷大将軍に任命され、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。胆沢城(802年)・志波城(803年)を築き、律令国家の支配域を北上川
日本・東北
878年
アルフレッド大王のウェセックス防衛
ウェセックス王アルフレッド大王がエディントンの戦いでデーン人の王グスルムを決定的に撃破。ウェドモアの和約によりグスルムはキリスト教に改宗し、イングランドはウェセックス支配の南部とデーンロウ(デーン人支
イングランド・ウェセックス
936年〜941年
承平天慶の乱(藤原純友の乱の拡大)
伊予掾であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、940年には大宰府を襲撃・焼討した。朝廷は小野好古・源経基らを追討使として派遣。941年に純友は博多湾で敗北し、伊予で捕らえられた。平将門の
日本・瀬戸内海〜九州
955年8月10日
レヒフェルトの戦い
東フランク王オットー1世がアウクスブルク近郊でマジャール(ハンガリー)の大軍を決定的に撃破した。ドイツ各地から集結した約8000の重装騎兵が、マジャール騎兵の背面攻撃を退けた後に総反撃を行い、マジャー
ドイツ・バイエルン
1001年〜1027年
ガズナ朝マフムードのインド侵攻
ガズナ朝のスルタン・マフムードが紀元1001年から1027年にかけてインドに17回の侵攻を繰り返した。ヒンドゥー寺院の略奪を目的とし、1025年のソムナート寺院の破壊は最も有名。莫大な財宝をガズナに持
南アジア・北西インド
1019年
姜邯賛の亀州大捷
契丹(遼)の第三次侵入に対し、高麗の姜邯賛が亀州で契丹軍10万を大破した。渡河中の契丹軍に水攻めを仕掛け、壊滅的打撃を与えた。この勝利により契丹の高麗侵攻は完全に終結し、両国間の和平が成立した。
高麗・亀州(龜州)
1051年〜1062年
前九年合戦
陸奥の俘囚長・安倍氏が朝廷に反抗し、源頼義・義家父子が12年かけて鎮圧。清原氏の援軍を得てようやく安倍氏を滅ぼした。源氏が東国武士団の棟梁としての地位を確立する契機となった。
日本・岩手
1066年10月14日
ノルマン・コンクエスト(ヘイスティングズの戦い)
ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王ハロルド2世を破り、イングランドを征服した。ハロルドは矢で目を射貫かれて戦死(バイユーのタペストリーの描写)。ウィリアムはクリスマスにウェストミンスター寺院で
イングランド・サセックス
1083年〜1087年
後三年合戦
清原氏の内紛に源義家が介入した戦い。清原家衡・武衡と清原清衡(後の藤原清衡)の対立を義家が調停・武力介入。金沢柵を攻略して家衡を滅ぼした。清衡は奥州藤原氏の祖として平泉文化を築く。
日本・秋田
1085年5月25日
トレド奪回
カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世がイスラム支配下のトレドを征服。約370年ぶりにキリスト教勢力の手に戻った旧西ゴート王国の首都の奪回は、レコンキスタの象徴的勝利となった。トレドの「翻訳学校」で
スペイン・カスティーリャ
1096年〜1099年
第1回十字軍とエルサレム占領
教皇ウルバヌス2世のクレルモン公会議(1095年)での呼びかけに応じ、西ヨーロッパの騎士・諸侯が聖地奪回に向かった。ゴドフロワ・ド・ブイヨン、ボエモン、レーモンらが率いる十字軍はニカイア、アンティオキ
聖地・エルサレム
1099年
第1回十字軍のエルサレム征服
教皇ウルバヌス2世のクレルモン公会議での呼びかけ(1095年)に応じた西欧騎士団がエルサレムを征服した。城壁突破後、十字軍はムスリムとユダヤ教徒の住民を大量虐殺した。エルサレム王国が建国され、ゴドフロ
レヴァント・エルサレム
1127年
靖康の変(北宋滅亡)
女真族の金が開封を攻略し、徽宗・欽宗以下3000人以上の皇族・官僚を北方に連行。北宋は滅亡した。徽宗は書画の名手であり文化的皇帝だったが、蔡京らの奸臣を登用して国政を混乱させた。
中国・開封
1134年〜1142年
岳飛の抗金戦争と冤罪死
南宋の将軍・岳飛は精鋭の岳家軍を率いて金軍を度々撃破。「直搗黄龍」(直接金の首都を突くぞ)と叫び北伐を志したが、宰相・秦檜の講和政策により十二道の金牌で召還され、「莫須有」(あったかもしれない)の罪で
中国・長江流域各地
1156年
保元の乱
後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いに、藤原摂関家と源氏・平氏の内紛が絡んだ戦乱。後白河方の平清盛・源義朝が崇徳方を破った。京都で約350年ぶりの武力衝突となり、武士が政治の決定者となる転換点。
日本・京都
1159年〜1160年
平治の乱
源義朝と藤原信頼が後白河上皇の院御所・三条殿を襲撃し、信西(藤原通憲)を殺害。しかし熊野参詣中から帰京した平清盛が反撃し、義朝軍を撃破。義朝は敗走中に殺害され、幼い頼朝は伊豆に配流された。
日本・京都
1180年
源頼朝の挙兵と治承・寿永の乱の開始
以仁王の令旨を受けた源頼朝が伊豆で挙兵。石橋山の戦いで大敗するも、安房に渡り関東武士団を糾合して鎌倉に入った。富士川の戦いで平氏軍を撃退し、東国の支配を確立。以後5年にわたる源平合戦が展開される。
日本・伊豆〜関東
1180年10月20日
富士川の戦い
1180年、源頼朝の挙兵を受けて東下した平維盛率いる追討軍と源氏軍が富士川で対峙。夜間に水鳥の大群が一斉に飛び立った羽音を源氏の夜襲と誤認した平氏軍は、戦わずして潰走した。この敗北で平氏は東国の制圧を
日本・駿河
1183年5月11日
倶利伽羅峠の戦い
1183年、木曾義仲が平維盛率いる平氏追討軍約10万を倶利伽羅峠で大破。夜襲と地形を利用した戦術で、平氏軍は谷底に追い落とされて壊滅的敗北を喫した。火牛の計の伝承は後世の脚色とされるが、地形を利用した
日本・加賀・越中国境
1184年2月7日
一ノ谷の戦い
1184年、源義経と源範頼が平氏の拠点・一ノ谷を攻撃。義経は主力が正面から攻撃する間に精鋭70騎で鵯越の急坂を駆け下り、平氏の陣を背後から急襲した。平氏は海上に逃れたが、平敦盛と熊谷直実の一騎討ちなど
日本・摂津
1185年
壇ノ浦の戦い
源義経率いる源氏軍が平氏の水軍を壇ノ浦で壊滅させた源平合戦の最終決戦。安徳天皇と二位尼が三種の神器の一つ・草薙剣とともに入水。平氏一門は海中に没した。義経の八艘飛びなど数々の伝説が生まれた。
日本・山口
1185年2月19日
屋島の戦い
1185年、源義経が屋島の平氏本営を急襲。わずか150騎で阿波国から渡海し、陸路から屋島背後を突くという大胆な作戦で平氏を敗走させた。那須与一の扇の的のエピソードで知られる。平氏は屋島を放棄して長門国
日本・讃岐
1187年
サラーフッディーンのエルサレム奪還
アイユーブ朝の建国者サラーフッディーン(サラディン)はハッティーンの戦いで十字軍を壊滅的に撃破した後、エルサレムを奪還した。1099年の十字軍による虐殺とは対照的に、キリスト教徒住民に身代金を支払って
レヴァント・エルサレム
1189年
奥州征伐と奥州藤原氏の滅亡
源頼朝が28万の大軍を率いて奥州藤原氏を攻撃。藤原泰衡は源義経を殺害して頼朝に服従しようとしたが認められず、敗走中に家臣に殺された。約100年にわたる奥州藤原氏の繁栄は終焉し、東北は幕府の支配下に入っ
日本・岩手
1192年
第二次タラインの戦い
ゴール朝のムハンマドがラージプート連合軍の指導者プリトヴィーラージ3世を決定的に撃破した戦い。前年の第一次タラインの戦いではラージプートが勝利したが、ムハンマドは軍を再編し、騎兵の機動戦術で反撃に成功
南アジア・ハリヤーナー
1204年4月13日
第4回十字軍のコンスタンティノープル征服
エジプトのアイユーブ朝を攻撃目標としていた第4回十字軍が、ヴェネツィアの債務と東ローマの皇位継承争いに巻き込まれ、キリスト教国の首都コンスタンティノープルを攻撃・占領した。3日間の略奪でビザンツの90
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
1219年〜1221年
チンギス・カンのホラズム征服
ホラズム・シャーが モンゴル商人を殺害したことへの報復として、チンギス・カンが約15万〜20万の軍を率いて遠征。サマルカンド、ブハラ、メルヴなど中央アジアの主要都市を次々と破壊。メルヴでは推定数十万人
中央アジア全域
1221年
承久の乱
後鳥羽上皇が幕府打倒を企て挙兵したが、北条義時率いる幕府軍19万に圧倒され敗北。後鳥羽上皇は隠岐に配流、順徳上皇は佐渡に配流された。朝廷の監視のため六波羅探題が京都に設置された。
日本・京都〜鎌倉
1231年〜1270年
モンゴルの高麗侵入と江華島遷都
モンゴル帝国は1231年から6度にわたり高麗に侵入。崔氏政権は1232年に江華島に遷都して抵抗を続けた。国土は荒廃し黄龍寺九層木塔など多くの文化財が焼失したが、江華島では大蔵経の再刻版(高麗大蔵経)が
高麗・江華島
1236年〜1242年
バトゥの西征(モンゴルのヨーロッパ侵攻)
チンギス・カンの孫バトゥが15万の軍を率いてロシア・東欧に侵攻。キエフを破壊し、ポーランドのリーグニッツの戦い、ハンガリーのモヒの戦いで欧州軍を撃破。オゴデイ・カアンの死により撤退し、キプチャク・ハン
ロシア〜東欧
1237年〜1240年
モンゴルのルーシ征服
バトゥ率いるモンゴル軍(約15万)がルーシ諸公国を次々に征服。リャザン(1237年12月)、ウラジーミル(1238年2月)が陥落し、1240年12月にはキエフが壊滅的破壊を受けた。ルーシの諸都市は略奪
ルーシ(ロシア)
1242年4月5日
氷上の戦い(チュド湖の戦い)
ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーがチュートン騎士団・リヴォニア帯剣騎士団の連合軍をチュド湖の氷上で撃破した。ネフスキーは両翼に弓兵を配置し、中央の歩兵が騎士団の突撃を受け止めた後、騎兵が側面から
ロシア・チュド湖
1258年
モンゴルのバグダッド征服とアッバース朝滅亡
チンギス・ハンの孫フレグが率いるモンゴル軍が約40日間の包囲の末にバグダッドを陥落させた。最後のアッバース朝カリフ・ムスタアスィムは処刑され、500年続いたカリフ制は断絶。市は40日間にわたり略奪・虐
メソポタミア・バグダッド
1260年
マムルーク朝のアイン・ジャールートの戦い
マムルーク朝のスルタン・クトゥズとバイバルス将軍率いるエジプト軍が、キトブカ・ノヤン率いるモンゴル軍を撃破した。バグダッド陥落後の西進を続けるモンゴル軍に対する初の大勝利。バイバルスの伏兵戦術とマムル
パレスチナ・アイン・ジャールート
1260年
アイン・ジャールートの戦い
マムルーク朝のスルタン・クトゥズと将軍バイバルスが、モンゴル帝国のキトブカ率いる軍勢をパレスチナのアイン・ジャールートで撃破。モンゴル軍の西方への膨張が初めて決定的に阻止された。バイバルスは戦後クトゥ
パレスチナ・アイン・ジャールート
1267年〜1273年
襄陽の戦い
元軍が南宋攻略の要衝・襄陽を6年間包囲。南宋の呂文煥が籠城を続けたが、元軍はイスラム技術者の設計した回回砲(投石器)を投入し、樊城を破壊。1273年に襄陽も陥落し、南宋の防衛線が崩壊した。
中国・湖北省襄陽
1270年〜1273年
三別抄の抵抗
高麗王室がモンゴルに降伏した後も、武臣政権下の精鋭軍事組織・三別抄は裴仲孫を指導者として抵抗を継続。珍島に拠点を置いて独自政権を樹立し、日本にも援軍を求めた。珍島陥落後は済州島に移り、1273年にモン
高麗・珍島〜済州島
1274年
元寇・文永の役
モンゴル帝国(元)のクビライ・ハンが高麗軍と合わせて約3万の軍勢で日本に侵攻。対馬・壱岐を蹂躙した後、博多湾に上陸。集団戦法・てつはう(炸裂弾)に日本側は苦戦したが、暴風雨(台風)により元軍は撤退した
日本・福岡
1274年・1281年
元寇(文永・弘安の役)
クビライが2度にわたり日本に遠征軍を派遣。文永の役(1274年)は約3万人、弘安の役(1281年)は約14万人の兵力で博多湾に来襲。いずれも暴風雨により撤退を余儀なくされ、日本側は「神風」と称した。
日本・博多湾
1279年
崖山の戦い(南宋滅亡)
南宋の最後の戦い。陸秀夫が幼帝・趙昺を背負い海に身を投じ、10万人以上の将兵・官僚が殉死したと伝えられる。張世傑は脱出を図ったが暴風で水没。中華正統王朝としての宋が完全に滅亡。
中国・広東省新会
1281年
元寇・弘安の役
元が東路軍(高麗から約4万)と江南軍(中国南部から約10万)の計約14万の大軍で再侵攻。博多湾の防塁に阻まれ上陸できず、鷹島沖で暴風雨(台風)に遭遇して壊滅的打撃を受けた。元の日本征服計画は完全に頓挫
日本・福岡
1288年
陳朝のモンゴル撃退(白藤江の戦い)
ベトナム・陳朝がモンゴル帝国(元)の第三次侵攻を撃退。陳興道将軍が白藤江で元の水軍を壊滅させた。ベトナムはモンゴルの3度の侵攻(1258年、1285年、1288年)をすべて撃退し、東南アジアで唯一モン
ベトナム北部・白藤江
1336年〜1392年
南北朝の分裂
足利尊氏が光明天皇を擁立して京都に北朝を樹立し、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開いた。約56年間にわたり二つの朝廷が並立し、全国の武士が南北に分かれて戦った。1392年、足利義満の仲介で南北朝合一が実
日本・京都/吉野
1346年8月26日
クレシーの戦い
百年戦争初期の大会戦。エドワード3世率いるイングランド軍(約1万2千)がフィリップ6世のフランス軍(約3万)を圧倒的に撃破。イングランドの長弓兵が毎分10-12本の矢を放ち、フランス騎兵の突撃を粉砕し
フランス・ピカルディー
1349年〜1352年
観応の擾乱
1349年、室町幕府内で足利尊氏の執事・高師直と弟・足利直義の対立が武力衝突に発展。尊氏は師直派と直義派の間を揺れ動き、直義は一時南朝に降伏。1352年に直義が鎌倉で急死して決着を見たが、幕府の権威は
日本・全国
14世紀〜16世紀
倭寇の活動と東アジア海域
倭寇は14〜16世紀に東アジア海域で活動した海賊集団。前期倭寇(14世紀)は日本人中心で朝鮮半島・中国沿岸を襲撃。後期倭寇(16世紀)は中国人が主体。密貿易集団としての性格も持ち、東アジアの海上交通と
東アジア海域
1398年〜1399年
ティムールのデリー略奪
中央アジアのティムール帝国の創始者ティムールがデリーを攻略・略奪した。トゥグルク朝のスルタン・マフムードの軍を撃破し、デリーに入城。3日間にわたる大規模な略奪・虐殺が行われ、数万人が殺害された。莫大な
南アジア・デリー
1399年〜1402年
靖難の変と永楽帝即位
洪武帝の孫・建文帝の削藩策に反発した燕王・朱棣が挙兵。3年間の内戦の末に南京を攻略し、建文帝は行方不明となった。朱棣は永楽帝として即位し、後に北京に遷都した。
中国・北京〜南京
1402年
ティムールのアンカラの戦いとオスマン帝国の危機
ティムール帝国のティムール(タメルラン)がオスマン帝国のバヤズィト1世を撃破し捕虜にした。オスマン帝国はアナトリアの領土を一時喪失し、11年間の空位期(フェトレト)に陥った。バヤズィトはティムールの鉄
アナトリア・アンカラ
1410年〜1424年
永楽帝のモンゴル親征
永楽帝が自ら大軍を率いてモンゴル諸部族を5度討伐。オイラト・タタールの勢力を一時的に圧倒したが、遊牧民の機動力に完全な勝利は得られず。1424年、第5次遠征の帰路に楡木川で崩御。
モンゴル高原
1410年7月15日
タンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)
ポーランド・リトアニア連合軍がチュートン騎士団を決定的に撃破した中世最大級の会戦。ポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとリトアニア大公ヴィータウタスが約3万9千の連合軍を率い、チュートン騎士団総長
プロイセン
1419年〜1436年
フス戦争
プラハ大学教授ヤン・フスが教会改革を唱えて1415年にコンスタンツ公会議で火刑に処された後、ボヘミアで大規模な宗教・社会革命が勃発。フス派はヤン・ジシュカの天才的軍事指導のもと、5回の十字軍(教皇軍)
ボヘミア(チェコ)
1429年5月8日
ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放
ドンレミ村出身の農民の娘ジャンヌ・ダルク(17歳)が「神の声」に導かれてシャルル王太子のもとに赴き、オルレアンの解放軍を率いた。9日間の戦闘でイングランド軍の砲台を次々に攻略し、約7ヶ月間の包囲を打ち
フランス・オルレアン
1441年6月24日
嘉吉の乱
1441年、播磨守護の赤松満祐が6代将軍足利義教を自邸の宴会で暗殺。義教は「万人恐怖」と称される恐怖政治を行っていた。赤松氏は討伐されたが、将軍権力は大きく弱体化した。
日本・京都
1449年
土木の変
宦官・王振に唆された英宗がオイラトのエセン・カン討伐に親征。土木堡でオイラト軍に包囲され、明軍は壊滅的敗北を喫し英宗が捕虜となった。王振は乱戦で殺され、高級官僚多数が戦死。
中国・河北省懐来
1449年
于謙の北京防衛
土木の変で英宗が捕虜となった危機の中、兵部尚書・于謙が北京遷都論を退け防衛を主張。景泰帝を擁立し、オイラト軍の北京攻囲を撃退。英宗帰還後の「奪門の変」で于謙は冤罪で処刑された。
中国・北京
1453年
メフメト2世のコンスタンティノープル征服
オスマン帝国のスルタン・メフメト2世(ファーティフ=征服者)が53日間の包囲の末にコンスタンティノープルを征服し、1100年以上続いたビザンツ帝国を滅亡させた。ウルバンの巨大砲による城壁破壊と、陸路で
アナトリア・コンスタンティノープル
1457年
コシャマインの戦い
アイヌの首長コシャマインが和人の交易拠点・道南十二館を次々と攻撃した大規模な蜂起。和人との交易上の不公正への怒りが原因。12の館のうち10が陥落したが、武田信広が反撃してコシャマインを殺害し鎮圧。武田
日本・北海道
1467年〜1477年
応仁の乱
将軍足利義政の後継問題に有力守護大名の対立が絡み、約11年間にわたる大規模内乱に発展。東軍16万と西軍11万が京都を舞台に戦い、京都は壊滅的被害を受けた。戦後、幕府の権威は失墜し、戦国時代への扉が開か
日本・京都
1493年
北条早雲の伊豆制圧
1493年、伊勢新九郎(北条早雲)が堀越公方・足利茶々丸を攻撃して伊豆国を制圧。1495年には小田原城を奪取し、後北条氏5代の基盤を築いた。近年の研究では幕府奉公衆出身と判明している。
日本・伊豆
1510年
ポルトガルのゴア占領
ポルトガル総督アフォンソ・デ・アルブケルケがビジャープル・スルタン朝からゴアを奪取。インド洋におけるポルトガル帝国の中核拠点として「東方のローマ」と称された。異端審問所の設置(1560年)、聖フランシ
南アジア・ゴア
1511年
ポルトガルのマラッカ征服
ポルトガルの提督アルブケルケがマラッカ王国を征服。ア・ファモサ要塞を建設してマラッカ海峡の制海権を掌握した。マラッカ王室は南方のジョホールに逃れ、ジョホール王国を建国。ポルトガルは香辛料貿易の独占を目
マレーシア・マラッカ
1514年
チャルディラーンの戦い
オスマン帝国のセリム1世がサファヴィー朝のイスマーイール1世をチャルディラーンで撃破した。サファヴィー軍のキズルバシュ騎兵は勇猛であったが、オスマン軍の大砲と鉄砲の前に大敗。イスマーイールは辛うじて逃
アナトリア東部・チャルディラーン
16〜19世紀
バルバリア海賊の全盛期
16世紀初頭、オスマン帝国の私掠船長バルバロッサ兄弟(ウルージとハイレッディン)がアルジェを占領し、オスマンの海軍力と結びついたバルバリア海賊が地中海の脅威となった。キリスト教徒の船舶を襲撃し、約30
アルジェリア・アルジェ
1517年
セリム1世のマムルーク朝征服
オスマン帝国のセリム1世はチャルディラーンの戦い(1514年)でサファヴィー朝を破った後、マムルーク朝に矛先を転じた。マルジュ・ダービクの戦いとリダーニーヤの戦いでマムルーク軍を撃破し、エジプト・シリ
エジプト・カイロ
1517年
オスマン帝国のエジプト征服
オスマン帝国のセリム1世がマムルーク朝を滅ぼしエジプトを征服。1516年のマルジュ・ダービクの戦い(シリア)と1517年のリダーニヤの戦い(エジプト)でマムルーク軍を火器の優位により撃破。最後のマムル
エジプト・カイロ
1519〜1521年
コルテスのアステカ帝国征服
エルナン・コルテスが約600人のスペイン兵と先住民同盟軍を率いてアステカ帝国を征服。1519年にベラクルスに上陸し、トラスカラ人などの同盟者を獲得。テノチティトランに入城してモクテスマ2世を軟禁したが
メソアメリカ・メキシコ
1526年
第一次パーニーパットの戦い
ティムールの子孫バーブルがローディー朝最後のスルタン・イブラーヒームを破り、ムガル帝国を建国した決定的な戦い。バーブル軍は約1万2千人に対し、ローディー軍は10万人と戦象千頭を有したが、バーブルは火砲
南アジア・ハリヤーナー
1531年〜1581年
タウングー朝とバインナウンの征服
タウングー朝のバインナウン王(在位1551-1581年)は「戦象王」と呼ばれ、東南アジア大陸部で最大の版図を築いた。ビルマ全土を統一し、シャン諸侯国、ラーンサーン(ラオス)、アユタヤ(タイ)を征服。戦
ミャンマー・タウングー〜ペグー
1532〜1533年
ピサロのインカ帝国征服
フランシスコ・ピサロが約168人のスペイン兵でインカ皇帝アタワルパを捕えた事件。1532年11月16日、カハマルカの広場でアタワルパと会見。聖書を手渡されたアタワルパがそれを投げ捨てたことを口実にスペ
南アメリカ・ペルー
1553年〜1564年(5回)
川中島の戦い
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権をめぐって5回にわたり激突。特に第4次合戦(1561年)は最大規模で、信玄の啄木鳥戦法に対する謙信の車懸の陣など激しい戦闘が展開。信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助が討死した
日本・長野
1555年10月1日
厳島の戦い
1555年、毛利元就が陶晴賢の大軍を厳島に誘い込み奇襲で壊滅させた。元就は約4千の兵で2万の陶軍を撃破。嵐の中を小早川水軍・村上水軍が海を渡り、背後から急襲した。陶晴賢は自刃。この勝利で毛利氏は中国地
日本・安芸国
1555年〜1567年
戚継光の倭寇掃討
明の将軍・戚継光が精鋭の「戚家軍」を率いて倭寇を掃討。鴛鴦陣(11人一組の連携戦法)を編み出し、台州九捷など連戦連勝。兪大猷と共に江南沿岸の倭寇を壊滅させた。
中国・浙江〜福建沿岸
1560年
桶狭間の戦い
織田信長がわずか約3000の兵で今川義元の約25000の大軍を急襲し、義元を討ち取った戦国史上最大の奇襲戦。豪雨に乗じた急襲が成功し、東海の覇者・今川氏は衰退。信長の天下統一への第一歩となった。
日本・愛知
1570年6月28日
姉川の戦い
1570年、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉義景連合軍と姉川で激突。浅井長政の裏切り(金ヶ崎の退き口の因縁)に激怒した信長が反撃に出た。徳川軍の奮戦が勝敗を決し、織田・徳川連合軍が勝利。しかし
日本・近江国
1570年〜1580年
石山合戦(石山本願寺と織田信長の戦い)
1570年から10年間、本願寺顕如率いる一向宗門徒が織田信長と戦い続けた。全国の一向一揆と連携し、毛利水軍からの補給を受けて頑強に抵抗。木津川口の海戦では毛利水軍が織田水軍を破ったが、信長は鉄甲船を建
日本・摂津国
1571年9月30日
比叡山焼き討ち
1571年、織田信長が比叡山延暦寺を全山焼き討ちにした。僧侶・女性・子供を問わず殺戮が行われ、数千人が犠牲になったとされる。延暦寺が浅井・朝倉に味方したことが直接の原因。延暦寺の堂塔は灰燼に帰し、古代
日本・近江国
1572年8月24日
サン・バルテルミの虐殺
ユグノー戦争の最中、カトリック勢力がパリに集まっていたプロテスタント(ユグノー)の指導者と市民を大量虐殺した。サン・バルテルミの祝日の早朝に始まった暴力は数日間続き、パリだけで約3000人、フランス全
フランス・パリ
1575年
長篠の戦い
織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の騎馬軍団を設楽原で撃破。信長は約3000挺の鉄砲を三段に配置し、武田の騎馬突撃を壊滅させたとされる。武田軍は1万余の死者を出し、戦国最強と呼ばれた武田騎馬軍団は事実
日本・愛知
1582年6月13日
山崎の戦いと中国大返し
1582年、本能寺の変を知った羽柴秀吉が備中高松城から急行し、明智光秀を山崎で破った。秀吉は毛利氏と即座に和議を結び、史上最速の行軍「中国大返し」を敢行。天王山を確保した秀吉軍が優勢に立ち、光秀は敗走
日本・山城国
1583年4月21日
賤ヶ岳の戦い
1583年、羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継をめぐって激突。長期対陣の後、秀吉は美濃方面から急行して勝家軍を撃破。「賤ヶ岳の七本槍」(加藤清正・福島正則ら)の活躍が知られる。敗北した柴田勝家は北ノ庄城で
日本・近江国
1588年7月〜8月
スペイン無敵艦隊の敗北
スペイン王フェリペ2世が130隻の「無敵艦隊(アルマダ)」をイングランド侵攻のために派遣。ドレーク、ホーキンスら英艦隊は機動力のある小型船で遠距離砲撃戦を展開し、カレー沖で火船攻撃を行って艦隊を分散さ
イギリス海峡
1589年
伊達政宗の奥州制覇と摺上原の戦い
1589年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名義広を破り、会津を制圧して奥州の覇者となった。「独眼竜」の異名を持つ政宗は18歳で家督を継ぎ、南奥州の諸勢力を次々と制圧。しかし豊臣秀吉の小田原征伐への参陣が遅
日本・陸奥国
1590年
小田原征伐と天下統一完成
1590年、豊臣秀吉が約20万の大軍で後北条氏の小田原城を包囲。秀吉は石垣山に一夜城を築く見せかけで敵の士気を挫き、約3ヶ月の包囲で北条氏政・氏直を降伏させた。これにより東国の平定が完了し、続く奥州仕
日本・相模国
1592年〜1598年
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)
豊臣秀吉が明の征服を目指して約15万の軍を朝鮮に派遣。文禄の役(1592年)で漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍と明の援軍に苦戦。慶長の役(1597年)も膠着し、秀吉の死(1598年)により撤退。日
朝鮮半島
1592年〜1598年
万暦の朝鮮出兵(壬辰倭乱)
豊臣秀吉の朝鮮侵攻に対し、明が宗主国として大軍を派遣。第1次(壬辰倭乱1592年)は李如松率いる明軍4万が平壌を奪還。第2次(丁酉再乱1597年)も日本軍を撃退。明は延べ10万以上の兵を投入。
朝鮮半島
1592年〜1598年
壬辰倭乱(文禄の役)
豊臣秀吉が朝鮮に侵攻(日本側名称:文禄・慶長の役)。15万8千の日本軍は釜山上陸後わずか20日でソウルを占領。しかし李舜臣率いる朝鮮水軍が日本の補給路を遮断し、明の援軍も加わって戦況が逆転。1597年
朝鮮半島全域
1592年
李舜臣の閑山島海戦
朝鮮水軍の統制使・李舜臣が閑山島沖で日本水軍を大破。鶴翼の陣形で73隻の日本船を包囲し、47隻を撃沈した。この勝利により日本軍の海上補給路は遮断され、戦争の趨勢が大きく変わった。壬辰倭乱における朝鮮側
朝鮮・閑山島
1597年
李舜臣の鳴梁海戦
丁酉再乱(慶長の役)で元均の敗死により朝鮮水軍が壊滅した後、白衣従軍していた李舜臣が再び統制使に任命された。わずか13隻の船で133隻の日本水軍に挑み、鳴梁海峡の潮流を利用して31隻を撃沈する大勝利を
朝鮮・鳴梁(珍島海峡)
1600年
関ヶ原の戦い
徳川家康率いる東軍約7万と石田三成率いる西軍約8万が激突した天下分け目の合戦。小早川秀秋の裏切りが勝敗を決し、わずか半日で東軍の大勝に終わった。家康は全国の支配権を掌握し、1603年に征夷大将軍に就任
日本・岐阜
1614年〜1615年
大坂の陣と豊臣家滅亡
徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を攻めた二度の合戦。冬の陣(1614年)では和議となったが外堀を埋め、夏の陣(1615年)で大坂城は落城し豊臣家は滅亡。真田幸村の奮戦が語り継がれる。以後、徳川の天下が確定。
日本・大阪
1620年11月8日
白山の戦い
カトリック同盟軍(ティリー伯指揮)がプロテスタントのボヘミア反乱軍を約2時間で壊滅させた。ボヘミア王に選出されていたプファルツ選帝侯フリードリヒ5世は「冬の王」と嘲られて逃亡。フェルディナント2世はボ
ボヘミア・プラハ近郊
1630〜1654年
オランダのブラジル北東部占領
オランダ西インド会社がポルトガル・スペイン同君連合下のブラジル北東部を征服・占領した。ヨハン・マウリッツ総督(1637-44年)の下で砂糖産業が発展し、宗教的寛容政策でユダヤ人コミュニティも繁栄した。
南アメリカ・ブラジル北東部
1631年9月17日
ブライテンフェルトの戦い
スウェーデン王グスタフ・アドルフがカトリック同盟のティリー伯を撃破した三十年戦争の転換点。スウェーデン軍は軽量な野砲を歩兵と連携させ、機動的な小隊戦術でテルシオ方陣を圧倒した。同盟のザクセン軍は初戦で
ザクセン・ライプツィヒ近郊
1636年〜1637年
丙子胡乱(清の侵入)
清の太宗ホンタイジが12万の大軍で朝鮮に侵入。仁祖は南漢山城に籠城するも47日後に降伏し、三田渡で清の太宗に三跪九叩頭の礼を行う屈辱を受けた。朝鮮は清への臣従と明との断交を強要され、王子2人が人質とし
朝鮮・南漢山城
1644年
山海関の戦いと清の入関
明の将軍・呉三桂が李自成軍に対抗するため清の摂政ドルゴンに山海関を開放。清軍は山海関を突破して李自成を撃破し、順治帝が北京に入城。約270年にわたる清の中国支配が始まった。
中国・河北省山海関
1645年
揚州十日と辮髪令
清の多鐸率いる軍が揚州を攻略後、10日間にわたり虐殺・略奪を行った(揚州十日)。同時期に「薙髪令」(辮髪令)が発布され、漢人に満州式の辮髪を強制。「髪を留むる者は頭を留めず」の方針で抵抗者を処刑した。
中国・揚州
1662年
鄭成功の台湾占領
明の遺臣・鄭成功が2万5千の軍でオランダ東インド会社の拠点・台湾を攻撃。9カ月の包囲の末にゼーランディア城を陥落させ、オランダを駆逐。台湾を反清復明の拠点とした。
台湾・台南
1669年
シャクシャインの戦い
日高地方のアイヌ首長シャクシャインが松前藩の交易独占と不公正な取引に反発して蜂起。全道のアイヌを結集し和人の交易所を襲撃したが、松前藩と東北諸藩の鎮圧軍に敗北。和議の場でシャクシャインは謀殺された。
日本・北海道
1675〜1678年
キング・フィリップ戦争
ワンパノアグ族の首長メタコメット(イギリス人がフィリップ王と呼んだ)が率いた先住民連合とニューイングランド植民者の戦争。植民者の13の町が完全に破壊され、約3000人の先住民と600人以上の植民者が死
北アメリカ・ニューイングランド
1683年
第二次ウィーン包囲の失敗
大宰相カラ・ムスタファ・パシャ率いるオスマン軍約15万がウィーンを約2ヶ月包囲した。ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる救援軍が決定的な騎兵突撃を行い、オスマン軍は壊走。カラ・ムスタファは敗北の責任を
オーストリア・ウィーン
1683年7月〜9月
第二次ウィーン包囲
オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャが約15万の大軍でウィーンを包囲。シュターレンベルク伯が約1万5千の守備隊で約2ヶ月間持ちこたえた。ポーランド王ヤン3世ソビエスキーが率いる約7万の救援軍が
オーストリア・ウィーン
1709年6月27日
ポルタヴァの戦い
大北方戦争の決定的会戦。ロシアのピョートル大帝がスウェーデン王カール12世の精鋭軍を撃破した。カール12世は負傷しながら戦場を指揮したが、ロシア軍の野戦築城と砲兵の優位を克服できなかった。スウェーデン
ウクライナ・ポルタヴァ
1739年
ナーディル・シャーのデリー略奪
イランのアフシャール朝のナーディル・シャーがムガル帝国に侵攻し、カルナールの戦いでムガル軍を撃破。デリーに入城し、住民の暴動をきっかけに大虐殺を命じ、推定2万〜3万人を殺害。孔雀の玉座(タフテ・ターウ
南アジア・デリー
1754〜1763年
フレンチ・インディアン戦争
七年戦争の北アメリカ戦線。イギリスとその植民地が、フランスとその先住民同盟者に対して戦った。若きジョージ・ワシントンが初期にフォート・ネセシティで敗北。1759年のエイブラハム平原の戦い(ウルフ将軍v
北アメリカ
1756年〜1763年
七年戦争
プロイセンのフリードリヒ大王が、オーストリア、フランス、ロシア、スウェーデンの包囲網に対して戦った「最初の世界大戦」。ロスバッハの戦い(1757年)でフランス軍を撃破、ロイテンの戦い(1757年)でオ
ヨーロッパ・北米・インド
1757年
プラッシーの戦い
イギリス東インド会社のロバート・クライヴがベンガル太守シラージュ・ウッダウラを破った戦い。クライヴ軍は約3千人に対し、太守軍は5万人を擁したが、太守の将軍ミール・ジャアファルの裏切りにより大勢が決した
南アジア・ベンガル
1761年
第三次パーニーパットの戦い
アフガニスタンのドゥッラーニー朝アフマド・シャーがマラーター同盟軍を壊滅的に撃破した18世紀アジア最大の戦い。双方合わせて約15万人の兵力が激突し、マラーターは推定4万〜7万人の死者を出した。マラータ
南アジア・ハリヤーナー
1764年
バクサルの戦い
イギリス東インド会社の軍がベンガル太守ミール・カーシム、アウド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世の連合軍を破った戦い。プラッシーの戦い以上に決定的な軍事的勝利であり、アラーハー
南アジア・ビハール
1767年
アユタヤの陥落
ビルマ・コンバウン朝のシンビューシン王がアユタヤを包囲・陥落させ、417年の王朝を滅亡させた。都市は徹底的に破壊され、住民は虜囚として連行された。しかし中華系タイ人の将軍タークシンがわずか7ヶ月で残存
タイ・アユタヤ
1767年〜1799年
マイソール戦争(ティープー・スルタン)
マイソール王国のハイダル・アリーとその子ティープー・スルタンがイギリス東インド会社と4次にわたり戦った戦争。ティープーは「マイソールの虎」と呼ばれ、フランスと同盟を結び、ロケット兵器を使用してイギリス
南アジア・カルナータカ
1775年
レキシントン・コンコードの戦い
1775年4月19日、イギリス正規軍約700人がコンコードの植民地民兵の武器庫を破壊するために出動。レキシントンで約80人のミニットマン(民兵)と最初の銃撃戦が発生(「世界に響いた一発」)。コンコード
北アメリカ・マサチューセッツ
1777年
サラトガの戦い
1777年9-10月、ニューヨーク州サラトガでイギリスのジョン・バーゴイン将軍の軍勢約6000人がアメリカ軍に包囲され降伏した。フリーマンズ・ファーム(9月19日)とベミス・ハイツ(10月7日)の二度
北アメリカ・ニューヨーク
1781年
ヨークタウンの戦い
1781年9-10月、ワシントンとフランスのロシャンボー伯爵の連合軍(約17000人)がコーンウォリス将軍のイギリス軍(約8000人)を包囲。フランスのド・グラス提督の艦隊がチェサピーク湾海戦でイギリ
北アメリカ・バージニア
1789年
西山朝と阮文恵の北伐
西山(タイソン)朝の阮文恵(光中帝)が清の20万の干渉軍をテト(旧正月)の奇襲攻撃で壊滅させた。ドンダーの戦い(1789年1月30日)では清軍のドンダー要塞を夜襲で陥落。ベトナム軍事史上最も鮮やかな勝
ベトナム・タンロン(ハノイ)
1798〜1801年
ナポレオンのエジプト遠征
ナポレオン・ボナパルトがイギリスのインド航路を断つために3万8千の兵と167人の学者・芸術家を率いてエジプトに遠征。ピラミッドの戦いでマムルーク軍を撃破しカイロを占領したが、ネルソンのアブキール湾の海
エジプト・カイロ
1804〜1808年
フラニ族のジハード(ソコト帝国の建国)
フラニ族のイスラム学者ウスマン・ダン・フォディオが、ハウサ諸都市国家の世俗的・腐敗した統治に対してジハードを宣言。約4年の戦争でハウサランドを征服し、ソコト帝国(カリフ国)を建設した。約30の首長国か
ナイジェリア・ソコト
1805年12月2日
アウステルリッツの戦い(三帝会戦)
ナポレオンがロシア皇帝アレクサンドル1世とオーストリア皇帝フランツ2世の連合軍を撃破した「三帝会戦」。ナポレオンは右翼を故意に弱く見せて連合軍をプラツェン高地から引きずり出し、中央のスルト軍団が高地を
モラヴィア(現チェコ)
1805年10月21日
トラファルガーの海戦
ネルソン提督がヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊(33隻)を27隻の英艦隊で撃破した海戦史上最も有名な戦い。ネルソンは従来の戦列戦術を破り、2列縦隊で敵の戦列を直角に突破する革新的戦術を採用
スペイン・トラファルガー岬沖
1812年6月〜12月
ナポレオンのロシア遠征
ナポレオンが約61万の大陸軍(グランダルメ)を率いてロシアに侵攻。ロシア軍はクトゥーゾフの指揮下で焦土作戦を展開し、ボロジノの戦い(9月7日)で大損害を出しながらも軍を温存した。ナポレオンはモスクワを
ロシア
1815年6月18日
ワーテルローの戦い
ナポレオンがエルバ島から帰還して「百日天下」を開始した後の最終決戦。ウェリントン公爵率いる英蘭連合軍がナポレオンの攻撃に終日耐え、夕方にブリュッヒャー率いるプロイセン軍が到着してフランス軍の側面を突い
ベルギー・ワーテルロー
1816〜1828年
シャカ・ズールーの軍事革命
ズールー族の首長シャカがクラン連合を統一し、革命的な軍事改革を実施。長槍を短槍(イクルワ)と大盾に替え、牛の角の陣形(両翼包囲)による近接戦闘戦術を確立。年齢ベースの連隊制度(アマブト)を導入し、規律
南アフリカ・クワズール・ナタール
1817年
サン・マルティンのアンデス越え
1817年1月、ホセ・デ・サン・マルティン率いるアンデス軍(約5400名、騎兵・砲兵含む)がメンドーサを出発し、6つの経路に分かれてアンデス山脈を越えた。21日間の行軍で兵力の約3分の1と馬の半数を失
アルゼンチン・チリ国境・アンデス山脈
1819年
ボヤカの戦い
1819年8月7日、ボリバル率いる愛国軍約2900名がスペイン王党派バレイロ将軍の約2700名を奇襲した。ボリバル軍はリャノスからアンデスを越える驚異的な行軍(約2400km)の末、王党派の背後を突く
コロンビア・ボヤカ
1824年〜1886年
ビルマのイギリス植民地化(三次にわたるビルマ戦争)
イギリスは三次にわたるビルマ戦争でコンバウン朝を段階的に征服。第1次戦争でアラカン・テナセリムを獲得、第2次戦争でペグー(下ビルマ)を併合、第3次戦争でマンダレーを陥落させてティーバウ王を追放。ビルマ
ミャンマー全域
1824年
アヤクチョの戦い
1824年12月9日、アントニオ・ホセ・デ・スクレ率いる愛国軍約5780名がスペイン副王ラ・セルナ率いる王党派軍約9310名と激突した。数的劣勢にもかかわらず、スクレの巧みな戦術と愛国軍の高い士気によ
ペルー・アヤクチョ
1830〜1847年
フランスのアルジェリア征服
シャルル10世のフランス軍がアルジェに上陸し、デイ(太守)政権を打倒。内陸部ではアブデルカーディルが激烈な抵抗を組織し、約17年にわたる征服戦争が展開された。フランスは「焦土作戦」を実施し、数十万人の
アルジェリア・アルジェ
1836年
テキサス独立とアラモの戦い
メキシコからの独立を宣言したテキサス入植者(テハノとアングロ系)が戦争を開始。1836年2月23日〜3月6日のアラモの戦いでは、デイヴィッド・クロケット、ジム・ボウイ、ウィリアム・トラヴィスら約200
北アメリカ・テキサス
1840年〜1842年
アヘン戦争
林則徐のアヘン没収を口実にイギリスが開戦。イギリス海軍は広東から北上し沿岸都市を次々に攻略。清軍は近代兵器に対抗できず大敗。1842年の南京条約で香港割譲、5港開港、賠償金2100万ドルを受諾。
中国・広東〜浙江沿岸
1845年〜1872年
ニュージーランド戦争(マオリ戦争)
ワイタンギ条約後のマオリとイギリス入植者・植民地政府間の一連の武力衝突。ノースランドのフラッグスタッフ戦争(1845-46年)に始まり、タラナキ戦争、ワイカト侵攻(1863-64年)、ティトコワルの抵
ニュージーランド
1846〜1848年
米墨戦争
テキサス国境紛争を端緒とする米墨戦争。ジェームズ・ポーク大統領はリオ・グランデを国境と主張、メキシコはヌエセス川を主張。ザカリー・テイラー将軍の北方軍とウィンフィールド・スコット将軍のメキシコシティ攻
北アメリカ・メキシコ
1853-1856年
クリミア戦争
ロシアのオスマン帝国への膨張をイギリス・フランス・サルデーニャが阻止した戦争。セヴァストポリの349日間の包囲戦が最大の戦闘であった。バラクラヴァの戦い(軽騎兵旅団の突撃)、インケルマンの戦いなどを経
クリミア半島・セヴァストポリ
1856年〜1860年
アロー戦争と円明園の破壊
アロー号事件を口実にイギリス・フランスが第二次アヘン戦争を開始。1860年に英仏連合軍が北京を占領し、報復として円明園を略奪・焼却。北京条約で天津開港、九龍割譲、外国公使の北京駐在を受諾。
中国・広東〜北京
1857年〜1858年
ラクナウ包囲戦
インド大反乱の中で最も長期にわたった包囲戦。イギリス駐在官ヘンリー・ローレンスの下で約1700人の英国人と兵士がレジデンシーに籠城。ローレンスは戦死したが、ヘイヴロック将軍とキャンベル将軍による二度の
南アジア・ウッタル・プラデーシュ
1859年
ソルフェリーノの戦い
サルデーニャ=フランス連合軍がオーストリア軍を破った決戦。ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が率いる連合軍が勝利し、ロンバルディアのオーストリアからの解放につながった。約4万人の死傷者を
イタリア・ソルフェリーノ
1860年
円明園の略奪と破壊
アロー戦争の最終段階で英仏連合軍が北京を占領。エルギン卿の命で円明園が3日間にわたり略奪・放火された。数万点の宝物が奪われ、「万園の園」と称された庭園は廃墟と化した。
中国・北京
1860年
ガリバルディの千人遠征
ジュゼッペ・ガリバルディが約1,000人の義勇兵(赤シャツ隊)を率いてシチリアに上陸。カラタフィミの戦いでブルボン軍を破り、パレルモを解放。その後メッシーナ海峡を渡ってナポリ王国を征服し、ヴィットーリ
イタリア・シチリア〜ナポリ
1861〜1867年
フランスのメキシコ介入とマクシミリアン帝政
ナポレオン3世がメキシコの負債を口実にフランス軍を派遣し、ハプスブルク家のマクシミリアン大公をメキシコ皇帝に擁立した。1862年5月5日のプエブラの戦いでメキシコ軍がフランス軍を撃退(シンコ・デ・マヨ
メソアメリカ・メキシコ
1862年〜1863年
生麦事件と薩英戦争
1862年、薩摩藩主の行列を横切った英国人を薩摩藩士が殺傷。1863年に英艦隊7隻が鹿児島湾で薩摩藩と交戦。薩摩は甚大な被害を受けたが英艦にも損傷を与え、互いに実力を認めた。この経験で薩摩は攘夷から開
日本・横浜〜鹿児島
1863年〜1864年
下関戦争(馬関戦争)
1863年、長州藩が攘夷実行として下関海峡の外国船を砲撃。1864年に英仏蘭米の四国連合艦隊17隻が報復攻撃を行い砲台を壊滅させた。この敗北で長州も攘夷の不可能を認識し開国・近代化路線に転換。高杉晋作
日本・長門国
1863年〜1869年
新選組の活動
新選組は幕末京都で尊攘派浪士を取り締まった武装組織。近藤勇を局長、土方歳三を副長として1864年の池田屋事件で長州藩の志士を急襲し名を上げた。最盛期約200名。戊辰戦争では幕府側として戦い、土方歳三は
日本・京都
1863年
ゲティスバーグの戦い
1863年7月1-3日、南北戦争最大の戦闘。北軍ジョージ・ミード将軍と南軍ロバート・E・リー将軍が約17万人の兵力で激突。3日目のピケットの突撃(約12500人の南軍が北軍中央の防衛線に正面突撃して壊
北アメリカ・ペンシルベニア
1864年〜1870年
パラグアイ戦争(三国同盟戦争)
パラグアイの独裁者フランシスコ・ソラーノ・ロペスが、ウルグアイ内政への干渉を契機にブラジル・アルゼンチン・ウルグアイの三国同盟と戦った南米史上最大の国際戦争。パラグアイは当初の攻勢から次第に劣勢に転じ
パラグアイ・アスンシオン
1865年〜1884年
ロシアのコーカンド征服と中央アジア支配
ロシア帝国が1865年にタシケントを征服し、以後コーカンド・ハン国併合(1876年)、ブハラ・ヒヴァの保護国化を経て中央アジア全域を支配下に置いた。トルキスタン総督府が設置され、綿花モノカルチャー経済
中央アジア全域
1865年4月9日
アポマトックスの降伏と南北戦争の終結
1865年4月9日、ロバート・E・リー将軍がユリシーズ・S・グラント将軍にアポマトックス・コートハウスのマクリーン家の居間で降伏。約28000人の南軍兵士が武器を置いた。グラントは寛大な降伏条件を提示
北アメリカ・バージニア
1866年
大院君の鎖国政策と丙寅洋擾
摂政・興宣大院君がフランス人宣教師9名と朝鮮人カトリック信者約8,000人を処刑(丙寅迫害)。フランスはこれに報復してロズ提督率いる艦隊を派遣し江華島を攻撃した。朝鮮軍は頑強に抵抗し、フランス軍は撤退
朝鮮・江華島
1866年
普墺戦争(ケーニヒグレーツの戦い)
ビスマルクが仕掛けた普墺戦争の決戦。プロイセン軍がオーストリア軍を決定的に撃破し、わずか7週間で戦争は終結した。プラハ条約でオーストリアはドイツ連邦から排除され、北ドイツ連邦が成立。小ドイツ主義による
チェコ・ケーニヒグレーツ(現フラデツ・クラーロヴェー)
1868年
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争開始)
旧幕府軍と薩長中心の新政府軍(官軍)が京都南部で激突した戊辰戦争最初の戦い。数で劣る新政府軍が最新の銃器と錦の御旗の政治的効果で圧勝。慶喜は大坂城から海路江戸に逃走。以後、新政府軍は東へ進軍。
日本・京都
1868年〜1869年
箱館戦争と五稜郭
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が蝦夷地に渡り、五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立。しかし新政府軍の攻撃を受け、1869年5月に降伏。戊辰戦争の最後の戦いとなった。土方歳三は箱館の戦いで戦死。
日本・北海道
1868年
会津戦争と白虎隊
1868年、新政府軍が会津藩を攻撃。約1ヶ月の篭城戦の後に降伏。15〜17歳の白虎隊士中二番隊が飯盛山で城が燃えるのを見て自刃した悲劇は戊辰戦争の象徴。会津藩は斗南藩に移封される厳しい処分を受けた。
日本・会津
1870-1871年
普仏戦争・セダンの戦い
エムス電報事件を契機にフランスが宣戦布告。1870年9月1-2日のセダンの戦いでナポレオン3世が降伏・捕虜となった。パリは4ヶ月間包囲され、1871年1月に降伏。フランクフルト講和条約でアルザス=ロレ
フランス・セダン
1876年〜1878年
左宗棠の新疆回復
洋務派の将軍・左宗棠が新疆に侵入したヤクブ・ベグ政権を討伐し、新疆を回復。1884年に新疆省を設置して中国の直接統治下に。海防論と塞防論の論争で左宗棠は塞防(内陸防衛)を主張して勝利。
中国・新疆
1876年
リトルビッグホーンの戦い
1876年6月25日、ジョージ・アームストロング・カスター中佐率いる第7騎兵隊約210人が、シッティング・ブルとクレイジー・ホース率いるラコタ・スー族、シャイアン族、アラパホ族の連合軍(推定1500〜
北アメリカ・モンタナ
1877年
西南戦争
西郷隆盛が率いる旧薩摩藩士約13000人が明治政府に対して挙兵した日本最後の内戦。熊本城の攻防、田原坂の激戦を経て政府軍が勝利。西郷は城山で自刃。約7ヶ月の戦闘で双方合わせて約14000人が死亡。
日本・鹿児島〜熊本
1879年
ズールー戦争(イサンドルワナの戦い)
イギリスがズールー王国に最後通牒を突きつけて侵攻。1879年1月22日のイサンドルワナの戦いでは、約2万のズールー軍がイギリス正規軍約1700人を壊滅させ、ヴィクトリア朝イギリスに衝撃を与えた。同日の
南アフリカ・イサンドルワナ
1879年〜1883年
太平洋戦争(南米)
ボリビアがチリの硝石採掘企業への増税を行ったことを契機に、チリがアントファガスタを占領して開戦。ペルーはボリビアとの秘密同盟条約に基づき参戦した。チリ海軍はイキケの海戦で苦戦したが、アンガモスの海戦で
チリ・ボリビア・ペルー太平洋岸
1882年
イギリスのエジプト占領
エジプト民族主義将校アフマド・アラービー・パシャの反乱を口実に、イギリス軍がエジプトに軍事介入。アレクサンドリアの砲撃とテル・エル・ケビールの戦いでエジプト軍を撃破し、カイロを占領した。形式的にはオス
エジプト・カイロ
1890年
ウンデッド・ニーの虐殺
1890年12月29日、第7騎兵隊がパインリッジ居留地でラコタ・スー族のビッグフット首長の一行約350人(多くは女性と子供)を武装解除しようとした際に銃撃が始まり、約250〜300人のラコタ族が殺害さ
北アメリカ・サウスダコタ
1894年〜1895年
日清戦争
朝鮮の支配権をめぐり日本と清国が開戦。日本は陸海両面で清軍を圧倒し、下関条約で台湾・遼東半島の割譲と賠償金2億テールを獲得。しかし三国干渉により遼東半島を返還。日本は東アジアの列強の一員となった。
朝鮮半島・中国
1894年〜1895年
日清戦争と下関条約
朝鮮の東学党の乱を契機に日本と清が開戦。日本は黄海海戦で北洋艦隊を撃破し、遼東半島・威海衛を攻略。1895年の下関条約で台湾・遼東半島の割譲、賠償金2億両を受諾。三国干渉で遼東半島は返還。
朝鮮半島〜黄海〜遼東半島
1895年〜1898年
キューバ独立戦争と米西戦争
キューバの国民的英雄ホセ・マルティが1895年に独立戦争を開始したが、上陸直後のドス・リオスの戦いで戦死した。アントニオ・マセオ、マキシモ・ゴメスらが戦争を継続。スペインのウェイレル将軍は民間人を強制
キューバ・ハバナ
1896年
アドワの戦い(エチオピアのイタリア軍撃破)
エチオピア皇帝メネリク2世が約10万のエチオピア軍を率いて、約1万7千のイタリア遠征軍をアドワで壊滅的に撃破。イタリア軍の死傷者は約1万人に達した。ウチャリ条約の解釈をめぐるイタリアとの対立が開戦の直
エチオピア・アドワ
1899〜1902年
ボーア戦争
南アフリカのオランダ系入植者(ボーア人)のトランスヴァール共和国・オレンジ自由国とイギリス帝国の戦争。初期はボーア人が善戦したが、イギリスは45万の兵力を投入して圧倒。ボーア人の農場を焼き払い、女性・
南アフリカ全域
1904年〜1905年
日露戦争と日本海海戦
満州・朝鮮の覇権をめぐり日本とロシアが開戦。旅順攻囲戦・203高地の激戦・奉天会戦での陸戦と、日本海海戦での東郷平八郎によるバルチック艦隊の壊滅が戦局を決した。ポーツマス条約で日本は南樺太と満州の権益
中国・満州/対馬海峡
1904〜1908年
ヘレロ族・ナマ族の虐殺
ドイツ領南西アフリカでヘレロ族がドイツ植民地支配に対して蜂起。フォン・トロータ将軍が「殲滅命令」を発し、ヘレロ族をオマヘケ砂漠に追い込んで組織的に殺害。続くナマ族の反乱も残虐に鎮圧された。ヘレロ族の約
ナミビア(ドイツ領南西アフリカ)
1912-1913年
バルカン戦争
第一次バルカン戦争(1912年)でバルカン同盟(セルビア、ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ)がオスマン帝国を破り、ヨーロッパ側のほぼ全領土を奪取。第二次バルカン戦争(1913年)ではマケドニアの分配
バルカン半島各地
1914年〜1918年
第一次世界大戦への参戦と二十一カ条の要求
1914年、日本は日英同盟を根拠に第一次世界大戦に参戦し、ドイツの中国権益(山東半島の青島)を占領。1915年には中国に対して二十一カ条の要求を突きつけ、山東半島のドイツ権益の継承、南満洲の権益拡大な
中国・山東半島
1914〜1918年
東アフリカ戦線(第一次世界大戦)
ドイツ領東アフリカの植民地軍司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベックが、わずか約1万4千の兵力(主にアフリカ人兵士アスカリ)で約30万のイギリス連邦軍を翻弄。4年間にわたるゲリラ戦を展開し、ヨーロ
ドイツ領東アフリカ(タンザニア)
1914年9月
第一次マルヌの戦い
シュリーフェン計画に基づくドイツ軍の電撃的なフランス侵攻を、仏英連合軍がマルヌ川沿いで阻止した決定的な防御戦。ジョッフル将軍の冷静な指揮とガリエニ将軍のパリ防衛軍の側面攻撃により、ドイツ軍は約60km
フランス・マルヌ川流域
1914年8月
タンネンベルクの戦い
ヒンデンブルクとルーデンドルフの指揮するドイツ第8軍が、サムソノフ将軍率いるロシア第2軍を包囲殲滅した。ロシア軍は約9万人が捕虜となり、サムソノフは自殺した。続くマズーリ湖の戦いでレンネンカンプフの第
東プロイセン・タンネンベルク
1915-1916年
ガリポリの戦い
ウィンストン・チャーチル(海軍大臣)の発案により、オスマン帝国を攻撃してロシアへの補給路を確保するため、英仏・ANZAC(オーストラリア・ニュージーランド軍団)がガリポリ半島に上陸。しかしムスタファ・
トルコ・ガリポリ半島
1915年〜1923年
アルメニア人虐殺
オスマン帝国の統一と進歩委員会政権下で、アナトリア東部のアルメニア人が組織的に迫害・殺害された。1915年4月24日のイスタンブールでのアルメニア人知識人逮捕に始まり、大規模な強制移送と虐殺が実行され
アナトリア東部
1915年4-5月
第二次イープルの戦い(毒ガス初使用)
ドイツ軍が史上初めて大規模に塩素ガスを使用した戦闘。4月22日、黄緑色のガス雲がフランス・アルジェリア兵の陣地に向かって流れ、約6,000人が死亡。連合軍は一時的に5km後退したが、ドイツ軍は予備兵力
ベルギー・イープル
1915年4月25日〜1916年1月
ガリポリの戦いとANZAC伝説の誕生
第一次世界大戦中、イギリス主導の連合軍がオスマン帝国の首都コンスタンティノープルへの海路確保を目的としてガリポリ半島に上陸作戦を実施。1915年4月25日、オーストラリア・ニュージーランド合同軍団(A
トルコ・ガリポリ半島
1916年2-12月
ヴェルダンの戦い
ドイツ軍が「フランス軍を白くなるまで血を流させる」(ファルケンハインの消耗戦略)ためにヴェルダン要塞群を攻撃。10ヶ月に及ぶ激戦で、ドゥオーモン砦の争奪戦が繰り返された。ペタン将軍の「彼らは通さない(
フランス・ヴェルダン
1916年7-11月
ソンムの戦い
英仏連合軍がドイツ軍の防衛線に対して大攻勢を開始。初日(7月1日)だけでイギリス軍は約57,000人の死傷者(うち約19,000人戦死)を出し、イギリス軍史上最悪の一日となった。9月15日には戦車が史
フランス・ソンム川流域
1916年6-9月
ブルシーロフ攻勢
ブルシーロフ将軍が指揮するロシア南西方面軍が、オーストリア=ハンガリー軍に対して大攻勢を実施。従来の一点集中突破ではなく、広い戦線で同時に多数の地点から攻撃する革新的な戦術を採用し、オーストリア=ハン
ウクライナ西部・ガリツィア
1916年5月31日
ユトランド沖海戦
イギリス大艦隊(ジェリコー提督)とドイツ大洋艦隊(シェーア提督)による第一次大戦最大の海戦。イギリスは巡洋戦艦3隻など14隻を喪失し、ドイツの損失11隻を上回ったが、ドイツ艦隊は港から出られない戦略的
北海・ユトランド半島沖
1917-1922年
ロシア内戦
ボリシェヴィキの赤軍と反革命の白軍(デニーキン、コルチャーク、ヴランゲリ等)、外国干渉軍(英仏日米等)、民族独立運動、農民反乱(マフノ運動等)が入り乱れた多面的な内戦。トロツキーが赤軍を組織し、戦時共
ロシア全域
1917年7-11月
パッシェンデールの戦い(第三次イープルの戦い)
ヘイグ元帥がベルギー海岸のドイツUボート基地を目指して開始した攻勢。カナダ軍がパッシェンデール尾根を占領したが、4ヶ月の戦いで約8kmの前進に対して約58万人の死傷者を出した。泥沼の戦場は西部戦線の無
ベルギー・パッシェンデール
1917年4月
ヴィミーリッジの戦い
1917年4月9-12日、カナダ軍団4個師団が初めて統一的にカナダ軍指揮下で戦い、フランスとイギリスが何度も失敗したヴィミーリッジの攻略に成功した。アーサー・カリー准将らの綿密な準備(地下トンネルの掘
ヨーロッパ・フランス
1918年7月
第二次マルヌの戦い(カイザーシュラハト)
ルーデンドルフの1918年春季攻勢(カイザーシュラハト)の最終段階。ドイツ軍はパリに約70kmまで迫ったが、フォッシュ元帥の統一指揮のもとフランス・イギリス・アメリカ連合軍が反撃し、ドイツ軍を後退させ
フランス・マルヌ川流域
1919年4月13日
ジャリアンワーラー・バーグ虐殺
イギリス軍のレジナルド・ダイアー准将が、平和的に集会していた約2万人のインド人群衆に対し無警告で発砲を命じた。約10分間に1650発の弾丸が撃ち込まれ、公式発表で379人が死亡、1200人以上が負傷(
南アジア・パンジャーブ
1926年〜1928年
北伐と国民革命
蒋介石率いる国民革命軍が広州を出発し北伐を開始。国共合作の下で軍閥を打倒しながら北上。1927年4月、蒋介石は上海で四一二事件(上海クーデター)を起こし共産党を弾圧。1928年に北京入城で名目上の中国
中国・広州〜南京〜北京
1927年〜1933年
サンディーノの抵抗とニカラグアのアメリカ占領
アウグスト・セサル・サンディーノは、ニカラグアに駐留するアメリカ海兵隊に対するゲリラ戦を展開した。北部山岳地帯を拠点に農民・鉱山労働者を組織し、「自由人の軍隊」(Ejército Defensor d
ニカラグア・マナグア
1928年6月4日
張作霖爆殺事件
1928年6月4日、関東軍参謀の河本大作大佐らが、北京から奉天に帰還中の張作霖の列車を皇姑屯で爆破し暗殺した。関東軍は張作霖が日本の満洲権益拡大に非協力的になったとして排除を計画。田中義一首相は事件の
中国・奉天
1931年9月18日
満州事変(柳条湖事件)
1931年9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾らが柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し、中国軍の仕業と偽って軍事行動を開始。わずか5ヶ月で満洲全域を制圧した。若槻内閣は不拡大方針を表明したが関東軍の独
中国・満洲
1934年〜1936年
長征
蒋介石の第五次囲剿作戦に包囲された中国共産党が瑞金ソビエトを放棄し、約8万6千人で長征を開始。途中の遵義会議(1935年)で毛沢東が指導権を確立。1年以上かけて延安に到達したのは約8千人。
中国・江西〜貴州〜四川〜陝西
1935〜1936年
エチオピア・イタリア戦争(第二次)
ムッソリーニのファシスト・イタリアがエチオピアに侵攻。毒ガスの大量使用と赤十字病院への爆撃を含む残虐な戦争により、1936年5月にアディスアベバを占領。ハイレ・セラシエ皇帝は国際連盟で演説し「今日は我
エチオピア・アディスアベバ
1936-1939年
スペイン内戦
フランコ将軍率いる国民軍(ファシスト側)と人民戦線政府(共和国側)の内戦。ドイツ・イタリアがフランコを、ソ連が共和国を支援した。国際旅団が共和国側で戦った。ゲルニカ爆撃(1937年)は無差別爆撃の象徴
スペイン全域
1937年7月7日
盧溝橋事件(日中戦争開始)
1937年7月7日夜、盧溝橋付近で日本軍と中国軍の間で銃撃が発生し、日中全面戦争に発展した。当初は現地解決が図られたが、近衛文麿内閣の対応が二転三転する中で戦線は拡大。8月には第二次上海事変に発展し、
中国・北京
1937年12月
南京事件
1937年12月、日本軍は南京を占領。占領前後に捕虜・敗残兵・民間人に対する大規模な殺害、暴行、略奪が行われた。犠牲者数は日中間で見解が分かれるが、東京裁判では20万人以上、中国側は30万人以上と主張
中国・南京
1937年12月
南京事件(南京大虐殺)
日中戦争で日本軍が中華民国の首都・南京を攻略。占領後、大規模な殺害・暴行・略奪が行われた。中国側は犠牲者30万人以上と主張。日本側の研究では数万〜20万人程度の見解が多い。規模について日中間で見解が分
中国・南京
1937年7月7日
盧溝橋事件と日中戦争の全面化
1937年7月7日夜、盧溝橋付近で日中両軍が交戦し日中戦争が全面化。日本軍は華北・上海・南京を攻略。蒋介石は首都を重慶に遷し持久戦を展開。共産党は延安を拠点にゲリラ戦(百団大戦など)を展開した。
中国・北京郊外
1939年5月〜9月
ノモンハン事件(ハルハ河戦争)
モンゴル・満州国境でソ連・モンゴル連合軍と日本・満州国軍が衝突。ソ連軍のジューコフ将軍が大規模な機甲部隊による包囲殲滅戦を展開し、日本軍は壊滅的な敗北を喫した。日本側の損害は約2万人。1939年9月の
中央アジア・モンゴル/満州国境
1939年9月1日
ドイツのポーランド侵攻
ドイツ軍がポーランドに電撃戦(ブリッツクリーク)を仕掛け、装甲師団と急降下爆撃機(シュトゥーカ)の協同により、ポーランド軍を5週間で撃破した。9月17日にはソ連軍が東から侵入。ワルシャワは9月27日に
ポーランド全域
1939-1940年
冬戦争(フィンランド対ソ連)
ソ連がフィンランドに侵攻したが、マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍の頑強な抵抗に遭い、予想外の大損害を被った。スオムッサルミの戦いではソ連軍2個師団がフィンランド軍に包囲殲滅された。最終的にモスク
フィンランド・カレリア地峡
1940年5-6月
フランスの戦い(アルデンヌ突破)
ドイツ軍がマンシュタインの「鎌の一振り」作戦でアルデンヌの森を突破し、フランス軍の背後に回り込んだ。連合軍をダンケルクに追い詰め、パリは6月14日に無防備都市宣言のもと陥落。6月22日にペタン政権がコ
フランス・ベルギー・オランダ
1940年5月26日-6月4日
ダンケルク撤退(ダイナモ作戦)
アルデンヌ突破によりダンケルク周辺に包囲された英仏連合軍約33万人を、イギリス海軍と民間小型船舶が9日間で救出した。ヒトラーの装甲部隊停止命令(ルントシュテットの進言)とRAFの航空支援が撤退を可能に
フランス・ダンケルク
1940年7-10月
バトル・オブ・ブリテン
ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)がイギリス侵攻(アシカ作戦)の前提として制空権の獲得を目指し、RAFとの大規模な航空戦を展開。ダウディング元帥のRAF戦闘機軍団が、レーダー(チェイン・ホーム)とスピット
イギリス上空
1940-1944年
フランスのレジスタンス運動
ド・ゴールのロンドンからのラジオ呼びかけ(1940年6月18日)に始まり、国内ではジャン・ムーランが諸派を統合して全国抵抗評議会(CNR)を組織した。情報収集、妨害工作、鉄道破壊、連合軍兵士の脱出援助
フランス全域
1940年4月
デンマーク・ノルウェー侵攻
ドイツ軍がヴェーザー演習作戦で中立国のデンマークとノルウェーに同時侵攻。デンマークは数時間で降伏したが、ノルウェーでは約2ヶ月間の戦闘が続いた。ナルヴィクではイギリス海軍との海戦も発生した。ノルウェー
デンマーク・ノルウェー
1941年12月7日
真珠湾攻撃
1941年12月7日朝、日本海軍の6隻の空母から発進した353機の攻撃機がハワイのアメリカ太平洋艦隊基地を奇襲攻撃。戦艦アリゾナを含む4隻が沈没、4隻が損傷。188機のアメリカ軍機が地上で破壊された。
太平洋・ハワイ
1941年6月22日
バルバロッサ作戦(独ソ戦開始)
ドイツ軍約350万人がソ連に三方面から侵攻。北方軍集団はレニングラード、中央軍集団はモスクワ、南方軍集団はウクライナ・カフカスを目指した。開戦初期にソ連空軍は地上で壊滅し、数百万のソ連兵が包囲殲滅され
ソ連西部全域
1941-1944年(872日間)
レニングラード包囲
ドイツ軍が872日間にわたりレニングラードを包囲した人類史上最長の都市包囲戦。飢餓、寒さ、砲撃により推定63万〜100万人の市民が死亡した。市民は壁紙の糊、革ベルト、家具を食べて耐え忍んだ。ショスタコ
ソ連・レニングラード
1941-1945年
ユーゴスラビアのパルチザン闘争
ティトー(ヨシップ・ブロズ)率いる共産主義パルチザンが、ドイツ・イタリア占領軍とクロアチアのウスタシャ政権、セルビアのチェトニクに対して抵抗戦争を展開。最終的に約80万人の兵力を有する最大の欧州パルチ
ユーゴスラビア全域
1942年6月5日
ミッドウェー海戦
1942年6月5日、日本海軍の主力機動部隊と米海軍が激突。日本軍は空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を失い、米軍の損失は空母ヨークタウン1隻にとどまった。暗号解読により日本の作戦を事前に察知した米軍が
太平洋・ミッドウェー環礁
1942年8月〜1943年2月
ガダルカナル島の戦い
太平洋戦争の転換点となった6カ月間の消耗戦。1942年8月7日にアメリカ海兵隊が上陸し、日本軍の建設中の飛行場を占領。以後、日本軍は陸海空から奪回を試みたが、一木支隊の全滅、川口支隊の敗退、第二師団の
ソロモン諸島・ガダルカナル島
1942年2月15日
シンガポール陥落(日本軍の占領)
山下奉文中将率いる日本軍第25軍がマレー半島を南下し、「難攻不落」と言われたイギリスの要塞シンガポールを攻略。8万のイギリス軍が降伏し、イギリス史上最大の降伏事件となった。チャーチルは「英国史上最悪の
シンガポール
1942年4月
バターン死の行進
バターン半島で降伏した約7万5千人のアメリカ・フィリピン連合軍捕虜が、日本軍により約100kmの徒歩行進を強制された。飢餓、脱水、暴行、処刑により数千〜1万人以上が死亡。米国では「バターン死の行進」と
フィリピン・バターン半島
1942年〜1943年
泰緬鉄道(死の鉄道)の建設
日本軍がビルマ戦線への補給路として建設した鉄道。連合国軍捕虜約6万人とアジア人労務者約20万人が動員され、捕虜約1万2千人、アジア人労務者約8万人が過酷な労働・飢餓・疫病で死亡した。クワイ川鉄橋は映画
タイ〜ビルマ国境
1942年8月-1943年2月
スターリングラード攻防戦
ドイツ第6軍がスターリングラードの占領を目指し、ソ連軍と壮絶な市街戦を展開。11月19日のソ連軍の反攻作戦(ウラヌス作戦)でドイツ第6軍約29万人が包囲された。パウルス元帥は1943年2月2日に降伏し
ソ連・スターリングラード
1942年10-11月
エル・アラメインの戦い
モントゴメリー元帥率いるイギリス第8軍が、ロンメル元帥のアフリカ軍団を決定的に撃破した。12日間の戦いでロンメルは撤退を開始し、枢軸国の北アフリカにおける攻勢能力は失われた。チャーチルは「これは終わり
エジプト・エル・アラメイン
1942年2月19日
日本軍のダーウィン爆撃
日本海軍航空隊がオーストラリア本土への最大規模の攻撃を実施。真珠湾攻撃にも参加した赤城・加賀・蒼龍・飛龍の艦載機188機と陸上爆撃機54機が2波にわたりダーウィンを爆撃した。港湾施設、飛行場、市街地が
オーストラリア・ダーウィン
1943年7月
クルスクの戦い
ドイツ軍がクルスク突出部の挟撃を企図した「ツィタデレ作戦」に対し、ソ連軍が縦深防御で対抗した史上最大の戦車戦。ドイツ軍は新型タイガー・パンター戦車を投入したが、ソ連軍の圧倒的な防御火力と反撃により攻勢
ソ連・クルスク
1943年4-5月
ワルシャワ・ゲットー蜂起
ゲットーの残存ユダヤ人約6万人が、トレブリンカへの移送(絶滅収容所への送致)に抵抗して武装蜂起。モルデハイ・アニエレヴィチが率いるユダヤ人戦闘組織(ZOB)が約750人の戦闘員で、SSシュトロープ将軍
ポーランド・ワルシャワ
1943年2月
ノルウェーの重水工場破壊工作
ノルウェー人レジスタンス工作員がドイツ占領下の重水製造工場(ノルスク・ハイドロ社ヴェモルク工場)に潜入し、重水製造設備を破壊した。重水はドイツの原爆開発に不可欠な素材であった。後にドイツが重水をドイツ
ノルウェー・ヴェモルク
1943年9月
イタリア降伏とバドリオ政権
ファシスト大評議会がムッソリーニを解任し、バドリオ元帥が新政権を樹立。9月8日にアイゼンハワーが休戦協定を発表。しかしドイツ軍がイタリア半島の大部分を占領し、ムッソリーニはグラン・サッソ山からドイツ特
イタリア全域
1944年3月〜7月
インパール作戦の失敗
日本陸軍第15軍の牟田口廉也中将が立案したインド侵攻作戦。約9万の兵力で補給を無視した攻勢を敢行したが、イギリス軍の反撃と補給断絶により壊滅的敗北。戦死・病死・餓死者約3万人、戦傷・病者約4万人を出し
インド・インパール〜ミャンマー国境
1944年6月6日
ノルマンディー上陸作戦(D-Day)
アイゼンハワー最高司令官の指揮のもと、約15万人の連合軍が5つの海岸に上陸した史上最大の水陸両用作戦。約1万人の死傷者を出しながら橋頭堡を確保し、西ヨーロッパの解放への第一歩を踏み出した。約1,200
フランス・ノルマンディー
1944年8月25日
パリ解放
パリのレジスタンスが蜂起し、ルクレール将軍率いる自由フランス第2機甲師団がパリに入城。ドイツ軍司令官コルティッツ将軍はヒトラーのパリ破壊命令に従わず降伏した。ド・ゴールがシャンゼリゼを凱旋し、パリ市庁
フランス・パリ
1944年8月1日-10月2日
ワルシャワ蜂起
ポーランド国内軍(AK)がボル=コモロフスキ将軍の指揮のもとドイツ軍に対して蜂起。63日間の激戦の末に降伏した。ソ連軍はヴィスワ川東岸で進軍を停止し、蜂起を支援しなかった。蜂起側の死者約1万6千人、民
ポーランド・ワルシャワ
1944年12月-1945年1月
バルジの戦い(アルデンヌ攻勢)
ドイツ軍最後の大反攻。ヒトラーはアルデンヌの森を突破してアントワープ港を奪取し、連合軍を分断する賭けに出た。初期の奇襲は成功しアメリカ軍戦線に深い突出部(バルジ)を作ったが、バストーニュで第101空挺
ベルギー・ルクセンブルク・アルデンヌ
1944年1-5月
モンテ・カッシーノの戦い
連合軍がドイツ軍のグスタフ防衛線の中核であるモンテ・カッシーノを4次にわたり攻撃。修道院は2月15日の空爆で破壊されたが、ドイツ軍は瓦礫をさらに強固な防御陣地に転用した。5月18日にポーランド第2軍団
イタリア・モンテ・カッシーノ
1944年7月20日
ヒトラー暗殺未遂事件(7月20日事件)
シュタウフェンベルク大佐が大本営の会議室にブリーフケース爆弾を仕掛けたが、ヒトラーは負傷したのみで生存した。ベルリンでのクーデター(ワルキューレ作戦)も失敗し、シュタウフェンベルクら首謀者は即日銃殺さ
東プロイセン・ヴォルフスシャンツェ
1945年2月〜3月
硫黄島の戦い
1945年2月19日から3月26日にかけて、米海兵隊約7万名と栗林忠道指揮下の日本軍約2万1千名が激突。栗林は従来の水際撃滅戦術を廃し、地下陣地からの持久戦を展開。米軍は36日間の激戦で約7千名の戦死
日本・小笠原諸島
1945年3月〜6月
沖縄戦
1945年3月26日から6月23日にかけて、沖縄本島を中心に日米両軍が激突した太平洋戦争最大の地上戦。牛島満中将率いる第32軍約10万名に対し、米軍は約18万名が上陸。日本軍は首里防衛線で持久戦を展開
日本・沖縄
1945年3月10日
東京大空襲
1945年3月10日未明、B-29爆撃機約300機が東京下町に約1,700トンの焼夷弾を投下。カーティス・ルメイ少将の指揮のもと、従来の高高度精密爆撃から低高度夜間焼夷弾攻撃に転換した最初の大規模作戦
日本・東京
1945年8月6日
広島への原子爆弾投下
1945年8月6日午前8時15分、B-29「エノラ・ゲイ」がウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下。爆心地上空約600mで炸裂し、TNT換算約15キロトンの威力で市街地を壊滅させた。1945年末までに
日本・広島
1945年8月9日
長崎への原子爆弾投下
1945年8月9日午前11時2分、B-29「ボックスカー」がプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下。本来の目標は小倉であったが視界不良のため長崎に変更された。TNT換算約22キロトンの威力で浦上
日本・長崎
1945年4-5月
ベルリンの戦い
ジューコフとコーネフの率いるソ連軍約250万人がベルリンに総攻撃を開始。ゼーロウ高地での激戦を経て市内に突入し、建物ごとの市街戦を展開した。4月30日にヒトラーが総統地下壕で自殺し、5月2日にベルリン
ドイツ・ベルリン
1945年2月13-15日
ドレスデン爆撃
英米空軍が文化都市ドレスデンに対して3回にわたる大規模な焼夷弾爆撃を実施。火災旋風が発生し、市中心部は壊滅した。死者数は約2万5千人と推定される(かつては膨大に誇張されていた)。「エルベのフィレンツェ
ドイツ・ドレスデン
1947年〜1948年
第一次印パ戦争(カシミール紛争)
パキスタンから支援を受けたパシュトゥーン部族兵がカシミールに侵入。カシミール藩王ハリ・シンがインドへの帰属を決定し、インド軍が空輸で介入。シュリーナガル空港の確保が戦争の帰趨を決した。1949年の停戦
南アジア・カシミール
1948年〜1949年
国共内戦・三大戦役
1948年9月から49年1月にかけて遼瀋・淮海・平津の三大戦役が行われ、国民党軍は150万以上の兵力を失った。林彪の東北野戦軍、劉伯承・鄧小平の中原野戦軍が主力。渡江戦役で南京を攻略し、国民党は台湾に
中国・東北〜華北〜華東
1948年〜1954年
済州4・3事件
南朝鮮単独選挙に反対する武装蜂起をきっかけに、軍・警察による大規模な鎮圧作戦が展開された。済州島民の約10分の1にあたる2万5千〜3万人が犠牲になったと推定される。中山間部の村落が焼き払われ、住民が集
韓国・済州島
1948-1949年
ベルリン封鎖と空輸作戦
ソ連が西ベルリンへの陸上・水上交通を全面封鎖。アメリカとイギリスは約11ヶ月にわたり航空機で食料・燃料・物資を空輸する「ベルリン空輸」を実施。約27万回の飛行で約230万トンの物資を輸送した。最盛期に
ドイツ・ベルリン
1950年〜1953年
朝鮮戦争参戦(抗美援朝)
1950年10月、彭徳懐率いる中国人民志願軍約30万が「抗美援朝」(アメリカに抵抗し朝鮮を援助)の名目で参戦。国連軍を38度線以南に押し返した。毛沢東の長男・毛岸英も戦死。約3年の戦闘で推定死者18万
朝鮮半島
1950年〜1953年
朝鮮戦争と仁川上陸作戦
1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて韓国に全面侵攻。国連軍(米国主導)が参戦し、マッカーサーの仁川上陸作戦(9月15日)で戦況を逆転。しかし中国人民義勇軍の参戦で戦線は膠着し、1953年7月
朝鮮半島全域
1952〜1960年
マウマウ団の蜂起(ケニア)
ケニアのキクユ族を中心とする武装蜂起。イギリス植民地政府に対し土地の返還と独立を求めた。イギリスは非常事態を宣言し、約8万人のキクユ人を強制収容所に収容。推定2万人以上のケニア人が死亡。デダン・キマシ
ケニア・ナイロビ〜中央高原
1954年
ディエンビエンフーの戦い
ベトミン軍が55日間の包囲戦でフランス軍要塞を陥落させた。ザップ将軍の指揮下、5万のベトミン軍が1万6千のフランス軍を包囲。トンネル掘削と塹壕戦でフランスの航空優勢を無力化した。フランス軍約1万人が降
ベトナム北西部・ディエンビエンフー
1954〜1962年
アルジェリア独立戦争
アルジェリア民族解放戦線(FLN)がフランスからの独立を目指して武装蜂起。8年間の血みどろの戦争で、アルジェリア側の死者は約150万人とされる。フランス軍は拷問を含む残虐な鎮圧を行い、「アルジェの戦い
アルジェリア・アルジェ
1955年〜1975年
ベトナム戦争(テト攻勢)
北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が、アメリカの支援を受けた南ベトナム政府と戦った冷戦期最大の紛争。米軍は最大54万人を投入したが勝利できず。1968年のテト攻勢はアメリカの世論を反戦に転
ベトナム全土
1956年
スエズ危機(第二次中東戦争)
ナセルがスエズ運河を国有化したことに対し、イギリス・フランス・イスラエルが秘密協定(セーヴル議定書)を結び軍事介入。イスラエルがシナイ半島に侵攻し、英仏がスエズ運河地帯に上陸した。しかしアメリカとソ連
エジプト・スエズ
1960年
シャープビル虐殺
1960年3月21日、パス法(黒人に身分証の携帯を義務付ける法律)に抗議するデモ隊約5000〜7000人に対し、警察が発砲。69人が死亡(多くが背中を撃たれた)、約180人が負傷。非暴力のデモ参加者へ
南アフリカ・シャープビル
1961年
ピッグス湾事件
1961年4月17日、CIAが訓練・装備した約1400名のキューバ亡命者部隊(旅団2506)がピッグス湾に上陸侵攻した。ケネディ大統領が直前に航空支援を縮小したこともあり、カストロ軍の迅速な反撃に遭い
カリブ海・キューバ
1962年10月〜11月
中印国境紛争
中華人民共和国がインドとの国境紛争をめぐり大規模な攻撃を開始。中国軍はアクサイチンとNEFAの両方面で快進撃し、インド軍は壊滅的な敗北を喫した。約1か月の戦闘で中国が一方的な停戦を宣言し撤退したが、ア
南アジア・ヒマラヤ
1962年
キューバ危機
1962年10月、ソ連がキューバに核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル(SS-4)を密かに配備していることがU-2偵察機の写真で発覚した。ケネディ大統領は10月22日にテレビ演説でミサイルの存在を公表し
カリブ海・キューバ
1967年
六日間戦争(第三次中東戦争)
1967年6月5日、イスラエルはエジプト・シリア・ヨルダンに先制攻撃を仕掛け、わずか6日間でシナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原を占領した。エジプト空軍は開戦初日にほぼ壊滅し
イスラエル・エルサレム
1967〜1970年
ビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)
ナイジェリアのイボ族が支配するビアフラ共和国が分離独立を宣言。連邦軍が鎮圧戦争を展開し、ビアフラへの食料封鎖により推定100万〜300万人が飢餓で死亡。飢えた子供たちの衝撃的な映像が世界に配信され、国
ナイジェリア東部
1967年
チェ・ゲバラのボリビア遠征と死
1966年11月、チェ・ゲバラはボリビア南東部で革命ゲリラ戦を開始した。約50名のゲリラ部隊でラテンアメリカ大陸革命の起点とすることを目指したが、現地農民の支持を得られず、ボリビア共産党とも対立した。
南米・ボリビア
1969年
中ソ対立と珍宝島事件
ウスリー川の珍宝島で中ソ両軍が武力衝突。ソ連はT-62戦車を投入し、核攻撃まで検討された。両国の死傷者は計100人以上。フルシチョフのスターリン批判以来の中ソ関係悪化の頂点。
中国・黒竜江省
1971年3月〜12月
バングラデシュ独立戦争
東パキスタン(現バングラデシュ)が西パキスタンからの独立を求めた戦争。パキスタン軍の「サーチライト作戦」による弾圧(推定30万〜300万人の殺害)に対し、ムクティ・バヒニ(解放軍)が抵抗。インドの軍事
南アジア・バングラデシュ
1973年
ヨム・キプール戦争と石油ショック
ユダヤ教の最も神聖な祝日ヨム・キプール(贖罪の日)にエジプトとシリアがイスラエルに奇襲攻撃。初期のアラブ軍の成功にもかかわらず、イスラエルは米国の緊急軍事支援を受けて反攻に転じた。OPEC(アラブ石油
エジプト・シナイ半島
1975年〜1979年
ポル・ポト政権とカンボジア大虐殺
クメール・ルージュのポル・ポト政権が実行した大量虐殺。「原始共産主義」の実現を目指し、都市住民の農村への強制移住、知識人・少数民族の組織的殺害、強制労働を行った。犠牲者数は約170万〜200万人(当時
カンボジア全土
1975年4月30日
サイゴン陥落とベトナム統一
北ベトナム軍がサイゴンを占領し、ベトナム戦争が終結。南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領が無条件降伏。アメリカ大使館からの最後のヘリコプター脱出は米国の敗北を象徴する映像として世界中に配信された。19
ベトナム・サイゴン
1976年〜1983年
アルゼンチン「汚い戦争」
1976年3月24日、ホルヘ・ビデラ将軍率いる軍がイサベル・ペロン大統領を追放し「国家再編過程」と称する軍事政権を樹立。左翼ゲリラ(モントネーロスやERP)のみならず、労働組合活動家、学生、知識人、ジ
南米・アルゼンチン
1979年〜1989年
ソ連のアフガニスタン侵攻
1979年12月27日、ソ連軍がカーブルに侵攻し、アミーン大統領を殺害してカルマルを擁立。10年間の戦争で約15,000人のソ連兵と約100万〜200万人のアフガン人が死亡。約600万人が難民となった
中央アジア・アフガニスタン
1979年〜1992年
エルサルバドル内戦
1979年の軍事クーデターに端を発するエルサルバドル内戦は、左翼ゲリラFMLNと軍・右翼死の部隊との間で12年以上にわたって戦われた。1980年にはオスカル・ロメロ大司教がミサ中に暗殺され、4名の米国
中米・エルサルバドル
1980年〜1988年
イラン・イラク戦争
イラクのサダム・フセインがイラン革命の混乱に乗じてイランに侵攻。しかし戦争は長期化し、第一次世界大戦を彷彿とさせる塹壕戦・毒ガス使用・「人海戦術」が展開された。8年間の戦闘で両国合わせて100万人以上
イラク・バグダッド
1982年
フォークランド戦争(マルビナス戦争)
1982年4月2日、アルゼンチン軍がフォークランド諸島(マルビナス諸島)を軍事占領。アルゼンチンのガルティエリ軍事政権は経済危機と国内不満から目を逸らすため領土問題を利用した。サッチャー英首相は即座に
南大西洋・フォークランド諸島
1983年〜2009年
スリランカ内戦
シンハラ人多数派政府とタミル人武装組織LTTE(タミル・イーラム解放の虎)の間で26年間にわたる内戦。LTTEの指導者プラバカランは自爆攻撃を体系的に使用し、海上戦力も保有。2009年5月にスリランカ
南アジア・スリランカ
1983〜2011年
スーダン内戦とダルフール紛争
北部のアラブ系イスラム政府と南部のキリスト教・伝統宗教の黒人との間の第二次スーダン内戦(1983-2005年)は約200万人の死者と400万人の難民を出した。2003年にはダルフールで政府支援の民兵ジ
スーダン・ハルツーム〜ダルフール
1984年
ブルースター作戦とインディラ・ガンジー暗殺
インディラ・ガンジー首相がシク教過激派指導者ジャルネイル・シン・ビンドランワーレーが占拠した黄金寺院に軍を投入。激しい銃撃戦で数百人が死亡し、アカール・タクト(シク教の政治的権威の座)が大きく損壊。こ
南アジア・パンジャーブ
1989年
米国のパナマ侵攻(ジャスト・コーズ作戦)
1989年12月20日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の命令により約27,000名の米軍がパナマに侵攻し、マヌエル・ノリエガ将軍の独裁政権を打倒した。「ジャスト・コーズ(正義の大義)作戦」と命名され
中米・パナマ
1990〜1991年
湾岸戦争
1990年8月2日にサダム・フセインのイラクがクウェートに侵攻・併合。国連安保理は武力行使容認決議678号を採択し、アメリカ主導の多国籍軍(34カ国)が編成された。1991年1月17日に「砂漠の嵐」作
中東・クウェート / イラク
1991〜2002年
シエラレオネ内戦
フォデイ・サンコー率いるRUF(革命統一戦線)がリベリアのチャールズ・テイラーの支援を受けて蜂起。ダイヤモンド鉱山の支配をめぐる争いが戦争を長期化させた。RUFは住民の手首切断という残虐な手法で恐怖支
シエラレオネ・フリータウン
1991年〜現在
ソマリア内戦とブラックホーク・ダウン事件
1991年のバーレ政権崩壊後、ソマリアは武装クラン勢力の割拠する無政府状態に陥った。飢饉対策の国連PKO(1992年)の失敗と、1993年10月のモガディシュの戦い(「ブラックホーク・ダウン事件」)で
ソマリア・モガディシュ
1992-1995年
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ボスニアの独立宣言を機に、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人(ムスリム)の三つ巴の民族紛争が勃発。サラエボの1,425日間の包囲(近代史上最長の首都包囲戦)、スレブレニツァ虐殺(1995年7月、
ボスニア・ヘルツェゴビナ
1993年
パブロ・エスコバルの殺害とメデジン・カルテルの崩壊
1993年12月2日、コロンビア国家警察の特殊部隊「捜索ブロック」が逃亡中のパブロ・エスコバルをメデジンのロス・オリボス地区の隠れ家で射殺した。エスコバルは全盛期に世界のコカイン取引の約80%を支配し
南米・コロンビア
1994年
ルワンダ虐殺
1994年4月6日のハビャリマナ大統領の暗殺をきっかけに、フツ族過激派がツチ族と穏健フツ族に対する組織的な虐殺を開始。約100日間で80万〜100万人が殺害された。主な凶器はマチェーテ(山刀)。国際社
ルワンダ・キガリ
1994-2009年
チェチェン紛争
第一次チェチェン紛争(1994-96年)でロシア軍はチェチェン独立派と戦ったが、グロズヌイの壊滅的な市街戦と各地でのゲリラ戦に苦しみ、ハサヴユルト合意で事実上の独立を認めた。第二次紛争(1999-20
ロシア・チェチェン共和国
1995年3月20日
地下鉄サリン事件
1995年3月20日朝、オウム真理教の信者5名が東京の地下鉄5路線の車内でサリンを散布した。13名が死亡、約6,300名が負傷した。宗教団体による世界初の大規模化学兵器テロであり、麻原彰晃(松本智津夫
日本・東京
1996年〜2021年
ターリバーン政権とアメリカの介入
パシュトゥーン系イスラム原理主義組織ターリバーンが1996年にカーブルを制圧し政権を樹立。女子教育の禁止、厳格なシャリーア法の施行で国際的に孤立。2001年の9.11テロ後、アメリカがアルカイダ掃討の
中央アジア・アフガニスタン
1998〜2003年
コンゴ戦争(「アフリカの世界大戦」)
ルワンダ虐殺の余波として始まった紛争が、アフリカ9カ国が関与する大規模戦争に拡大。「アフリカの世界大戦」と呼ばれ、推定死者数は540万人(主に飢餓・疫病による間接的死亡)で、第二次世界大戦以降最も多く
コンゴ民主共和国全域
1998-1999年
コソボ紛争とNATO空爆
コソボのアルバニア系住民に対するセルビアの弾圧に対し、NATOが1999年3月から78日間の空爆を実施。国連安保理の承認なしの武力介入は国際法上の議論を呼んだ。ミロシェヴィチは撤退を受け入れ、コソボは
コソボ・セルビア
1999年5月〜7月
カルギル紛争
パキスタン軍兵士と武装勢力がインド管理側のカシミール・カルギル地区の山岳拠点に浸透・占拠。インド軍は空軍の支援の下、「ビジャイ作戦」で約2か月かけて拠点を奪還。両軍合わせて約1000人以上が死亡。核保
南アジア・カシミール
2001年9月11日
9.11同時多発テロ
2001年9月11日朝、アルカイダのテロリスト19人が4機の旅客機をハイジャック。2機がニューヨークのワールドトレードセンター北棟(8:46)と南棟(9:03)に衝突し、両棟が崩壊。1機がペンタゴンに
北アメリカ・ニューヨーク
2001年
アメリカ同時多発テロ(9.11)
2001年9月11日、アルカイダの19人のハイジャック犯が4機の旅客機を乗っ取った。午前8時46分にアメリカン航空11便がWTC北棟に、9時3分にユナイテッド航空175便がWTC南棟に衝突。9時37分
アメリカ・ニューヨーク / ワシントンD.C.
2003年〜2011年
イラク戦争
米国のブッシュ大統領が大量破壊兵器の保有を根拠にイラクに侵攻。3週間でバグダッドを陥落させフセイン政権を打倒したが、大量破壊兵器は発見されなかった。占領後は宗派間内戦・テロ・反米武装勢力の抵抗が激化し
イラク・バグダッド
2004年3月11日
マドリード列車爆破テロ
朝のラッシュアワーにマドリードの通勤列車4本で10個の爆弾が爆発し、193人が死亡、約2,000人が負傷した。アルカイダに影響を受けたイスラム過激派グループの犯行であった。事件の3日後の総選挙でアスナ
スペイン・マドリード
2005〜2012年頃
ソマリア海賊問題
2005年頃からソマリア沖で海賊活動が急増し、2011年のピーク時には年間237件の攻撃が記録された。漁師出身の海賊がスキフ(小型ボート)で大型商船を高速で追い、身代金目的で乗っ取った。2008年のM
インド洋・アデン湾
2008年11月26-29日
ムンバイ同時多発テロ
パキスタンのテロ組織ラシュカレ・タイバに所属する10名の武装グループがムンバイで複数箇所を同時攻撃。60時間にわたる銃撃戦で166人が死亡、300人以上が負傷。唯一生存した実行犯アジマル・カサブは20
南アジア・ムンバイ
2009年〜現在
ボコ・ハラムの活動
イスラム過激派組織ボコ・ハラム(「西洋教育は禁忌」の意)が2009年以降、ナイジェリア北東部で大規模なテロ活動を展開。2014年4月のチボク女子生徒約270人の拉致事件は「#BringBackOurG
ナイジェリア北東部・ボルノ州
2011年〜
シリア内戦
2011年のアラブの春に触発されたアサド政権への抗議デモが、政府軍の弾圧を契機に全面的内戦に発展。反政府勢力、ISIS、クルド人勢力が入り乱れ、ロシア・イランがアサド政権を、米国・トルコ・湾岸諸国が反
シリア・ダマスカス
2011年
リビア内戦とカダフィの死
アラブの春の波及を受け、2011年2月にベンガジで反カダフィ蜂起が発生。カダフィ政権の武力鎮圧に対し、国連安保理決議を根拠にNATO軍が介入。約8か月の内戦の末、10月20日にカダフィが故郷シルトで逮
リビア・トリポリ〜シルト
2014年〜2019年
ISISの台頭と崩壊
イスラム国(ISIS/ISIL/ダーイシュ)はイラク・シリアの広大な領域を制圧し、アブー・バクル・アル・バグダーディーがモスルの大モスクで「カリフ」を自称(2014年6月)。残虐な統治・斬首動画・文化
イラク・モスル
2014年
クリミア併合とドンバス紛争
ユーロマイダン革命でヤヌコヴィチ大統領が追放された後、ロシアが「リトルグリーンメン」(標識のない兵士)でクリミア半島を占領。住民投票を経てロシアに併合を宣言した。続いてドンバス地方でロシアが支援する分
ウクライナ・クリミア半島・ドンバス
2015年11月13日
パリ同時多発テロ
ISISに忠誠を誓う実行犯がパリの6カ所を同時攻撃。バタクラン劇場ではイーグルス・オブ・デス・メタルのコンサート中に銃撃が行われ、89人が死亡。スタッド・ド・フランスでは仏独サッカー親善試合中に自爆テ
フランス・パリ
2017年
ロヒンギャ危機
ミャンマー国軍がラカイン州のロヒンギャ(イスラム教徒少数民族)に対する大規模な軍事作戦を展開。村落の焼き打ち、殺害、性暴力が組織的に行われ、約74万人がバングラデシュに避難。国連は「ジェノサイドの意図
ミャンマー・ラカイン州
2022年2月24日〜
ウクライナ戦争(ロシアの全面侵攻)
プーチン大統領が「特別軍事作戦」と称してウクライナに全面侵攻を開始。キーウの速攻占領は失敗し、ゼレンスキー大統領の指導のもとウクライナ軍が頑強に抵抗。ブチャ虐殺、マリウポリ包囲、ザポリージャ原発占拠な
ウクライナ全域
2022年〜
ロシアによるウクライナ全面侵攻
2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領は「特別軍事作戦」を宣言し、ウクライナに対する全面的な軍事侵攻を開始した。ロシア軍は北部(ベラルーシ方面からキーウへ)、東部(ドンバス)、南部(クリミアから
ウクライナ