国家・政治の歴史
342件の歴史的出来事
紀元前3100年頃
上下エジプトの統一(ナルメル王)
ナルメル王(メネス王と同一視される)が上エジプトから下エジプトを征服し、エジプト初の統一国家を樹立した。ナルメル・パレットには白冠(上エジプト)と赤冠(下エジプト)の両方を被る王が描かれ、二つの地域の
エジプト・ヒエラコンポリス
紀元前2334年頃〜前2279年頃
サルゴン大王によるアッカド帝国建設
サルゴンは卑しい出自から身を起こし、キシュ王の杯持ちから権力を掌握した。シュメール都市国家群を統一し、エラムからシリア・アナトリアに至る広大な領域を支配する世界最初の帝国を建設。常備軍5,400人を率
メソポタミア・アッカド
紀元前2333年頃(伝承)
古朝鮮(檀君朝鮮)の建国伝説
『三国遺事』に記される檀君王倹による古朝鮮建国の伝説。天帝桓因の子・桓雄が太白山に降臨し、熊女との間に生まれた檀君が阿斯達に都を開いたとされる。歴史学的には青銅器時代の部族連合国家の成立を反映する建国
朝鮮半島・平壌
紀元前2181年頃
古王国の崩壊と第一中間期の開始
第6王朝のペピ2世(在位94年とされる)の死後、中央政府の権威が急速に崩壊。各州の知事(ノマルク)が独立的な権力を握り、エジプトは群雄割拠の状態に陥った。ヘラクレオポリスとテーベの二大勢力が対立し、約
エジプト全域
紀元前2112年〜前2004年
ウル第三王朝の成立とウル・ナンム法典
ウル・ナンムは紀元前2112年頃にウル第三王朝を建て、シュメール・ルネサンスと呼ばれる文化復興を実現した。彼が制定したウル・ナンム法典は現存する世界最古の法典であり、罰金刑を中心とする比較的穏健な刑罰
メソポタミア・ウル
紀元前2070年頃〜前1600年頃
夏王朝(二里頭文化)
伝説上の最初の王朝・夏は、禹の治水伝説に始まり、約470年間17代の王が統治したとされる。河南省偃師市の二里頭遺跡が夏の都城跡と推定され、大型宮殿建築基壇、青銅器工房、玉器工房が発見されている。中国最
中国・河南
紀元前2055年頃
テーベによるエジプト再統一(中王国)
第11王朝のメンチュホテプ2世が約130年間続いた第一中間期を終結させ、ヘラクレオポリスの第10王朝を打倒してエジプトを再統一した。テーベを首都として中王国時代を開いた。デイル・エル・バハリに壮大な葬
エジプト・テーベ
紀元前1792年〜前1750年頃
ハンムラビ法典の制定
古バビロニア王国第6代王ハンムラビは、約40年の治世でメソポタミアを統一し、282条からなる法典を制定した。「目には目を、歯には歯を」の同害報復法(タリオ)で知られるが、身分による刑罰の差異も含む。閃
メソポタミア・バビロン
紀元前1650年頃〜前1178年頃
ヒッタイト帝国の興隆と鉄器技術
ヒッタイト帝国はインド・ヨーロッパ語族の民族がアナトリアに建設した大国で、鉄器の実用化で軍事的優位を確保した。首都ハットゥシャには巨大な城壁、神殿群、楔形文字の粘土板文書庫が築かれた。エジプト、ミタン
アナトリア・ハットゥシャ
紀元前1479〜1458年
ハトシェプスト女王の治世
トトメス2世の王妃であったハトシェプストは、幼い継子トトメス3世の摂政として権力を握り、やがて自らファラオを称した。古代エジプト史上最も成功した女性統治者。プント(ソマリア付近)への大規模交易遠征を実
エジプト・テーベ
紀元前1332年頃
ツタンカーメンの即位と伝統回帰
アクエンアテンの死後、幼くして即位したツタンカーメン(当初ツタンカーテン)は、アメン神官団と重臣アイ・ホレムヘブの影響下でアテン信仰を放棄し、伝統的な多神教に復帰。首都をテーベに戻し、アメン神殿の修復
エジプト・テーベ
紀元前1042年頃
周公旦の礼制確立
武王の弟・周公旦が幼い成王の摂政として統治。宗法制度(嫡長子相続)と封建制度(諸侯への分封)を整備し、礼楽制度を確立した。管叔・蔡叔の乱を平定し、東方の支配を安定させた。
中国・洛邑(洛陽)
紀元前860年頃〜前590年頃
ウラルトゥ王国の興亡
ウラルトゥは新アッシリア帝国に対抗した山岳王国で、トゥシュパ(現ヴァン)を首都とした。精緻な石造建築、青銅器工芸、大規模灌漑施設で知られる。サルドゥリ1世からルサ1世の時代に最盛期を迎え、コーカサスか
アナトリア東部・ヴァン湖周辺
紀元前771年
西周の崩壊と平王の東遷
紀元前771年、西方の異民族・犬戎が鎬京を攻撃し、幽王を殺害。伝説では幽王が褒姒のために烽火を濫用して諸侯の信頼を失ったとされる(烽火戯諸侯)。幽王の子・平王は東の洛邑に遷都し東周が始まった。しかし遷
中国・鎬京→洛邑
紀元前747〜656年
ヌビア(クシュ)によるエジプト支配(第25王朝)
ヌビアのクシュ王国のピアンキ(ピイ)王がエジプトに侵攻し、分裂状態にあったエジプトを統一して第25王朝(ヌビア王朝)を樹立した。クシュの王たちはエジプトの伝統的な王権を尊重し、ピラミッド建設やアメン信
エジプト・テーベ〜ヌビア
紀元前700年頃
スパルタの軍事国家体制確立
伝説的立法者リュクルゴスの制度として伝えられるスパルタ独自の社会体制の確立。7歳からのアゴーゲー(軍事教育制度)、共同食事制度(シュッシティア)、土地の均等分配、二王制と長老会(ゲルーシア)・民会(ア
ギリシャ・ラコニア
紀元前7世紀
春秋五覇の時代
周王室の権威が衰え、有力諸侯が覇者として諸侯を率いた時代。斉の桓公(管仲を登用し「尊王攘夷」)、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践が春秋五覇とされる。会盟による秩序維持が特徴。
中国・黄河流域各地
紀元前668年〜前627年
アッシリア帝国の最大版図とニネヴェの大図書館
アッシュルバニパル王の治世はアッシリア帝国の絶頂期であり、エジプトのテーベまで支配が及んだ。ニネヴェに建設された大図書館には3万枚以上の粘土板が収蔵され、ギルガメシュ叙事詩の標準版を含むメソポタミア文
メソポタミア・ニネヴェ
紀元前605年〜前562年
ネブカドネザル2世と新バビロニアの黄金期
ネブカドネザル2世は新バビロニア帝国を古代オリエント最強の国家に発展させた。カルケミシュの戦い(前605年)でエジプト軍を破りシリア・パレスチナを制圧。バビロンを大規模に改築し、イシュタル門、行列通り
メソポタミア・バビロン
紀元前600年頃〜前322年頃
マガダ国の台頭
16大国(マハージャナパダ)の中から頭角を現し、北インドの覇権を握った王国。ビンビサーラ王がハリヤンカ朝を興し、首都ラージギルを建設。その子アジャータシャトルがコーサラ国やヴァッジ共和国を征服。シシュ
南アジア・ビハール
紀元前594年
ソロンの改革
アテネのアルコン(執政官)に選出されたソロンが断行した一連の政治・経済改革。債務帳消し(セイサクテイア)、債務奴隷制の禁止、財産に基づく四等級制の導入、民会と民衆裁判所の整備を行った。土地所有の集中を
ギリシャ・アテネ
紀元前550年〜前530年
キュロス2世のアケメネス朝ペルシャ建国
キュロス2世はペルシャのアンシャン王家から立ち、紀元前550年にメディア王国を征服して独立。続いてリディア王国(前546年)、新バビロニア(前539年)を滅ぼし、エジプト以外の古代オリエント全域を統一
ペルシャ・パサルガダエ
紀元前522年〜前486年
ベヒストゥン碑文とダレイオス1世の帝国整備
ダレイオス1世は簒奪者ガウマータを打倒して即位した後、各地の反乱を鎮圧。その経緯を古代ペルシャ語・エラム語・バビロニア語の三言語でベヒストゥンの断崖に刻ませた。帝国を20のサトラピー(属州)に分割し、
ペルシャ・ベヒストゥン
紀元前509年
ローマ共和政の成立
最後の王タルクィニウス・スペルブスを追放し、二名の執政官(コンスル)を最高官とする共和政体を樹立。元老院が国政の中枢を担い、民会が法律を制定する体制が整備された。「王(レクス)」という称号はローマ人に
イタリア・ローマ
紀元前451年〜紀元前449年
十二表法の制定
ローマ初の成文法典。十名の委員(デケムウィリ)がギリシャの法制度も参考にしつつ編纂した。所有権、相続、訴訟手続き、債務、家族法などを規定。法の公開により、パトリキ(貴族)による法の恣意的解釈を制限し、
イタリア・ローマ
紀元前377年頃〜1017年
アヌラーダプラ王朝と仏教の伝播
スリランカ最初の大王朝。紀元前3世紀にアショーカ王の子マヒンダが仏教を伝え、以後スリランカは上座部仏教の最重要拠点となった。菩提樹の分木が植えられ、ルワンウェリサーヤ大塔などの巨大な仏塔が建設された。
南アジア・スリランカ
紀元前356年〜前338年
商鞅の変法(秦の改革)
衛の公族出身の商鞅が秦の孝公のもとで実施した法家思想に基づく国政改革。什伍制(連帯責任制)、軍功爵制(軍功による身分上昇)、県制(封建制の廃止)、度量衡の統一、井田制の廃止と土地の私有化を断行。秦は急
中国・秦国
紀元前322年頃
チャンドラグプタによるマウリヤ朝建国
チャンドラグプタ・マウリヤがナンダ朝最後の王を倒し、パータリプトラを首都にマウリヤ朝を建国した。策士カウティリヤ(チャーナキヤ)の助力を得て権力を掌握。アレクサンドロス大王の死後の混乱に乗じて北西イン
南アジア・ビハール
紀元前312年〜前63年
セレウコス朝の成立とヘレニズム中東
ディアドコイ戦争の結果、セレウコス1世がアレクサンドロス帝国の東方領土を継承し、セレウコス朝を建てた。バビロンからインドに至る広大な領域を支配し、ギリシャ語を公用語としてヘレニズム文化を東方に拡散させ
シリア・セレウキア
紀元前250年頃
アショーカ王柱の建立
アショーカ王が帝国各地に建立した石柱群。ダルマ(法)に基づく統治理念、非暴力、宗教的寛容、動物保護などの勅令が刻まれている。ブラーフミー文字やカローシュティー文字で記され、これが古代インドの文字解読の
南アジア各地
紀元前250年頃〜前130年頃
グレコ・バクトリア王国
セレウコス朝から独立したギリシャ系の王国。ディオドトス1世が建国し、デメトリオス1世がインド北西部に進出。最も有名な王メナンドロス1世(ミリンダ王)は仏教に帰依し、『ミリンダ王の問い』としてパーリ語仏
中央アジア・バクトリア
紀元前247年頃〜紀元224年
パルティア帝国(アルサケス朝)の台頭
アルサケス1世がセレウコス朝から独立して建てたパルティア帝国は、イラン高原からメソポタミアに至る広大な領域を支配した。騎馬弓兵と重装騎兵(カタフラクト)による機動戦を得意とし、カルラエの戦い(前53年
ペルシャ・クテシフォン
紀元前221年
秦の六国統一と始皇帝
紀元前230年から前221年にかけて、秦王政(のちの始皇帝)が韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を滅ぼし中国を統一。「皇帝」の称号を創始し、郡県制を施行して中央集権体制を確立。度量衡・文字・車軌の統一、馳道
中国・咸陽
紀元前213年〜前212年
焚書坑儒
秦の始皇帝が李斯の建議により、秦の歴史書以外の歴史書と私蔵の詩経・書経を焼却(焚書、前213年)。翌年、方士・儒生460人余りを咸陽で生き埋めにしたとされる(坑儒)。
中国・咸陽
紀元前209年頃
冒頓単于と匈奴帝国の統一
冒頓単于が父・頭曼単于を殺害して匈奴の王位を簒奪し、モンゴル高原を統一。東胡・月氏を撃破して中央アジアから満州にまたがる大帝国を建設。白登山の戦い(前200年)で劉邦を包囲し、漢に屈辱的な和親策を強い
モンゴル高原
紀元前209年
匈奴帝国の形成(冒頓単于)
冒頓(モードゥン)が父の頭曼単于を殺害して匈奴の単于(最高指導者)に即位し、周辺の遊牧民族を統合して最初の遊牧帝国を形成。漢の高祖劉邦を白登山で包囲(紀元前200年)し、和親政策(漢の公主の降嫁と歳幣
中央アジア・モンゴル
紀元前202年
前漢の建国と劉邦の統治
紀元前202年、劉邦(高祖)が皇帝に即位し漢王朝を建国。長安を首都とし、郡県制と封建制を併用する郡国制を採用した。「約法三章」で秦の苛酷な法治を改め、黄老思想に基づく無為の政治で民力の回復を図った。呂
中国・長安
紀元前202〜148年
ヌミディア王マシニッサの統一
ベルベル人の族長マシニッサは第二次ポエニ戦争でローマ側に立ち、ザマの戦い(紀元前202年)での勝利に騎兵で決定的貢献をした。その見返りとしてローマの支援のもと東西ヌミディアを統一し、強力な王国を建設し
アルジェリア・ヌミディア
紀元前194年頃
衛氏朝鮮の建国
燕の亡命者・衛満が準王を追放し、王険城(現在の平壌付近)を都として建国した。中国の鉄器文化と先進的な政治制度を導入し、周辺の真番・臨屯などの部族を従属させて勢力を拡大した。漢との冊封関係を結びつつも独
朝鮮半島・平壌
紀元前180年〜前141年
前漢の文景の治
文帝・景帝の治世。黄老思想(無為自然)に基づく軽税・倹約政策で農業を振興し、秦末の戦乱で疲弊した民力を回復。呉楚七国の乱(前154年)を鎮圧して中央集権を強化。武帝の積極政策の基盤を築いた。
中国・長安
紀元前108年
漢四郡の設置
漢武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置した。楽浪郡は最も長く存続し、中国文化を朝鮮半島に伝える窓口として約400年間機能した。楽浪郡からは漆器、青銅器、鏡など多数の中国文物が出土
朝鮮半島北部
紀元前1世紀〜紀元後3世紀
出雲王権の形成と四隅突出型墳丘墓
弥生後期から古墳時代初頭、出雲地域では独自の四隅突出型墳丘墓が築造された。西谷墳墓群に代表される大型墳墓は、出雲に独自の政治勢力が存在したことを示す。荒神谷遺跡の銅剣358本、加茂岩倉遺跡の銅鐸39個
日本・島根
紀元前57年
新羅の建国
辰韓の六村の長が朴赫居世を推戴して徐羅伐(後の慶州)に建国したと『三国史記』は伝える。実際の国家形成は紀元後2-3世紀頃と考えられる。慶州を中心とした小国から出発し、骨品制という独自の身分制度を発展さ
朝鮮半島南東部・慶州
紀元前51〜30年
クレオパトラ7世の治世
プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ7世は、卓越した知性と政治手腕でエジプトの独立を維持しようとした。カエサルとの同盟(カエサリオンを出産)、続いてマルクス・アントニウスとの同盟を結び、ローマの勢力
エジプト・アレクサンドリア
紀元前49年1月10日
カエサルのルビコン渡河
ガリア総督ユリウス・カエサルが第13軍団を率いてルビコン川を渡り、ローマに進軍を開始した。「賽は投げられた(alea iacta est)」の言葉を残したとされる。ポンペイウスと元老院派はローマを放棄
イタリア北部
紀元前44年3月15日
カエサルの暗殺
終身独裁官に就任したユリウス・カエサルが、マルクス・ブルトゥス、カッシウスら約60名の共和派元老院議員により暗殺された。カエサルは23箇所を刺され、ポンペイウスの像の足元で絶命したとされる。「ブルトゥ
イタリア・ローマ
紀元前37年
高句麗の建国
扶余国の王子・朱蒙(東明聖王)が南下して卒本(現在の中国遼寧省桓仁付近)に高句麗を建国したと伝えられる。建国初期は鴨緑江中流域の小国であったが、漸次周辺部族を征服して勢力を拡大。山城を中心とした独自の
満州南部・鴨緑江流域
紀元前37年〜前4年
ヘロデ大王の治世と第二神殿の拡張
ローマの後援で即位したヘロデ大王は、第二神殿を壮大に拡張・改築し、古代世界でも屈指の宗教建築に仕上げた。マサダ要塞、カエサリア港湾都市、ヘロディウム宮殿など大規模建築事業を推進。有能な統治者であったが
レヴァント・エルサレム
紀元前30年
ローマのエジプト属州化
クレオパトラとアントニウスの死後、オクタウィアヌスがエジプトをローマの属州として編入。ただし他の属州と異なり、皇帝の個人的領地として直轄統治され、元老院議員の入国すら禁じられた。エジプトの穀物はローマ
エジプト・アレクサンドリア
紀元前27年1月16日
アウグストゥスの元首政開始
オクタウィアヌスが元老院から「アウグストゥス」の称号を受け、事実上の帝政(プリンキパトゥス=元首政)を開始した。共和政の制度と名目を維持しながら、軍事指揮権(インペリウム)と護民官特権を集中して最高権
イタリア・ローマ
紀元前18年
百済の建国
高句麗の始祖・朱蒙の子・温祚が南下し、慰礼城(現在のソウル付近)を都として建国したと伝えられる。漢江流域を支配し、中国南朝および日本と活発に交流。仏教、五経博士、技術者を日本に伝えるなど、東アジア文化
朝鮮半島中西部・漢城(ソウル付近)
25年
光武帝の後漢建国
劉秀(光武帝)は前漢の宗室の末裔として挙兵し、各地の群雄を平定して25年に後漢を建国。洛陽を首都とし、柔和な統治で戦乱からの復興を図った。奴婢の解放、税の軽減、兵役の免除などの民政に力を入れ、「光武中
中国・洛陽
1世紀〜6世紀
扶南王国の繁栄
東南アジア最古のインド化した国家。メコンデルタを拠点に海上交易で繁栄。インドの航海者カウンディニャが蛇の王女ソーマと結婚して建国したとする建国伝説を持つ。オケオ遺跡からはローマの金貨、インドの仏像、中
カンボジア・メコンデルタ
1〜7世紀
アクスム王国の繁栄
紅海交易を基盤としてエチオピア高原に繁栄した古代王国。巨大なオベリスク(ステラ、最大33m)を建造し、独自の文字(ゲエズ文字)と貨幣を持った。3世紀にはローマ、ペルシア、中国と並ぶ「世界の四大帝国」と
エチオピア・アクスム
127年頃〜150年頃
クシャーナ朝の繁栄とカニシカ王
大月氏の一派クシャーナ族が建てた帝国の最盛期を築いた王。領域は中央アジアからガンジス川中流域に及んだ。大乗仏教を保護し、第四回仏典結集を開催。ガンダーラ美術の黄金期を現出し、ヘレニズム・インド・中央ア
南アジア・中央アジア
166年・169年
党錮の禁と宦官専横
後漢末期、宦官と士大夫(儒学官僚)の対立が激化。166年と169年の二度にわたり、宦官が「党人」と認定した士大夫を投獄・禁錮(公職追放)した。李膺・陳蕃ら「清流」の士大夫が犠牲となった。
中国・洛陽
189年頃〜248年頃
邪馬台国と卑弥呼の共立
倭国大乱後、30余国の連合体である邪馬台国の女王として卑弥呼が共立された。『魏志倭人伝』によれば鬼道(シャーマニズム)を用い、弟が政治を補佐。239年に魏に使者を送り「親魏倭王」の称号と金印紫綬を受け
日本・九州または畿内
192年〜1471年
チャンパ王国とミーソン聖域の建設
オーストロネシア語族のチャム人が建設した海洋王国。ヒンドゥー教シヴァ派を信仰し、中国・インド間の海上交易で繁栄。ミーソン聖域は4世紀から13世紀にかけて建設されたヒンドゥー教寺院群で、1999年にユネ
ベトナム中部
220年
曹丕の魏建国
曹操の死後、子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け、魏を建国。屯田制による農業生産の安定化、九品中正法による官吏登用制度を整備した。華北の政治・経済的中心として約45年間存続。
中国・洛陽
221年
劉備の蜀漢建国
劉備が漢の正統を継承すると称して蜀漢を建国。丞相諸葛亮の補佐のもと内政を整え、魏への北伐を繰り返した。しかし荊州を失い、夷陵の戦いで大敗。263年に魏の鄧艾・鍾会により滅亡。
中国・成都
224年〜651年
ササン朝ペルシャの建国
アルダシール1世がパルティア最後の王アルタバノス4世をホルムズドガーンの戦い(224年)で破り、ササン朝を建国した。ゾロアスター教を国教とし、中央集権的な行政制度を確立。クテシフォンを首都とし、ローマ
ペルシャ・イスタフル
229年
孫権の呉建国
孫権が229年に正式に皇帝を称し、建業を都に呉を建国。父孫堅・兄孫策から受け継いだ江東の地盤を基盤とし、長江水軍を最大の軍事力とした。海上交易や山越の開発にも力を注いだ。
中国・建業(南京)
265年
司馬炎の西晋建国
司馬懿の孫・司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて晋(西晋)を建国。280年に呉を滅ぼして約100年ぶりに中国を統一した。しかし一族への分封策が八王の乱を招く原因となった。
中国・洛陽
4世紀〜5世紀
吉備王権の形成と造山古墳
古墳時代、吉備地域は大和に次ぐ有力な政治勢力を形成した。造山古墳(全長350メートル)は全国第4位の規模で、天皇陵に匹敵する。吉備は独自の特殊器台・埴輪を持ち、ヤマト王権の前方後円墳体制にも影響を与え
日本・岡山
4世紀〜6世紀
毛野王権の形成
古墳時代、上毛野(群馬県)には東日本最大級の古墳群が築造された。太田天神山古墳(全長210メートル)は東日本最大の前方後円墳。埴輪の生産・分配でも中心的役割を果たし、東国における最有力勢力であった。
日本・群馬
300〜1000年頃
ティワナク帝国の繁栄
チチカカ湖畔に栄えた高地文明で、最盛期には40万人以上の人口を擁したと推定される。アカパナのピラミッド、カラササヤの神殿、太陽の門(精巧な浮彫りを持つ石造門)が代表的建造物。巨石建築の精密な石組みは後
南アメリカ・ボリビア
317年
東晋の建国
西晋の皇族・司馬睿が建康に遷り東晋を建国。王導・王敦ら琅琊王氏を中心とした門閥貴族の支持を受けた。「王と馬、天下を共にす」と評される貴族合議体制で約100年間存続。
中国・建康(南京)
320年〜550年頃
グプタ朝の黄金時代
チャンドラグプタ1世が建国し、サムドラグプタ・チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎えた。古典サンスクリット文学(カーリダーサの『シャクンタラー』『メーガドゥータ』)、数学(アーリヤバタのゼロの概念と
南アジア・北インド
395年
ローマ帝国の東西分裂
テオドシウス1世の死により、長男アルカディウスが東を、次男ホノリウスが西を統治する体制が確立した。これ以前にもディオクレティアヌスの四帝統治など分割統治は行われたが、395年以降は事実上恒久的な分裂と
ローマ帝国全域
427年
長寿王の平壌遷都
高句麗第20代王・長寿王が国内城(現在の中国吉林省集安)から平壌に都を移した。これは高句麗の国家戦略が満州から朝鮮半島に重心を移したことを示す。長寿王は在位79年(413-491年)と朝鮮史上最長在位
高句麗・平壌
429〜534年
ヴァンダル王国の北アフリカ支配
ゲルマン系のヴァンダル族がガイセリック王の指導下でイベリア半島から北アフリカに渡海し、約8万人が移住。439年にカルタゴを占領して王国の首都とした。強力な海軍を構築し、455年にはローマを略奪した。ア
チュニジア・カルタゴ
476年9月4日
西ローマ帝国の滅亡
ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(少年皇帝)を廃位し、帝位の標章を東ローマ皇帝ゼノンに送った。オドアケルは自らイタリア王を称した。「帝国の最後の日」は静かな権
イタリア・ラヴェンナ
494年〜499年
北魏孝文帝の漢化改革
鮮卑族の北魏・孝文帝が大規模な漢化政策を断行。494年に洛陽遷都、鮮卑語の禁止、胡服から漢服への改変、鮮卑姓から漢姓への改称(拓跋→元)、漢族との通婚奨励を実施。均田制も整備。
中国・洛陽
507年
継体天皇の即位
武烈天皇が後嗣なく崩御し、応神天皇5世孫とされる越前の男大迹王(継体天皇)が大伴金村らに擁立された。即位後も大和入りは526年まで実現せず、異例の長期間畿内周辺に宮を置いた。王朝交替説の根拠ともされる
日本・大阪
529年〜534年
ユスティニアヌスのローマ法大全
ユスティニアヌス1世の命により法学者トリボニアヌスが中心となって編纂した包括的法典集。『勅法彙纂(コデクス)』『学説彙纂(ディゲスタ)』『法学提要(インスティトゥティオネス)』『新勅法(ノヴェッラエ)
ビザンツ帝国・コンスタンティノープル
531年〜579年
ホスロー1世の治世とササン朝の黄金期
ホスロー1世アヌーシルワーン(「不滅の魂」)はササン朝最大の名君と称される。マズダク教徒の反乱を鎮圧後、税制改革・軍制改革・行政改革を実施。ビザンツのユスティニアヌス帝と対峙し、アンティオキアを一時占
ペルシャ・クテシフォン
552年〜744年
突厥帝国の建国
チュルク系遊牧民がブミン・カガンの下で柔然を打倒し建国。最盛期にはモンゴルからビザンツ帝国の国境まで及ぶ広大な帝国を形成。582年に東西に分裂。東突厥はオルホン碑文(732年)を残し、チュルク語の最古
中央アジア・モンゴル
581年
隋の建国と南北統一
北周の外戚・楊堅が禅譲を受けて隋を建国。589年に南朝の陳を滅ぼし、西晋以来約300年ぶりに中国を統一した。三省六部制・科挙・均田制・府兵制を整備し、後の唐制の基礎を築いた。
中国・長安
593年〜622年
聖徳太子の政治改革
推古天皇の摂政として厩戸皇子(聖徳太子)が一連の政治改革を推進。603年に冠位十二階を制定し氏族の世襲ではなく個人の能力による人材登用を図った。604年に十七条憲法を制定し官僚の心構えを示した。607
日本・奈良
618年〜626年
唐の建国と玄武門の変
隋末の混乱の中、太原留守の李淵が挙兵し618年に唐を建国。次男の李世民が軍事的に最大の功績を挙げたが、626年に玄武門の変で兄・李建成と弟・李元吉を殺害し皇太子となった。同年即位して太宗に。
中国・長安
625年頃〜645年
蘇我蝦夷・入鹿の専横
蘇我馬子の孫・蝦夷とその子・入鹿が朝廷で絶大な権力を振るった。入鹿は643年に聖徳太子の子・山背大兄王一族を攻め滅ぼし、皇位継承にも介入。天皇家を凌ぐ専横は諸豪族の反発を招いた。
日本・奈良(飛鳥)
627年〜649年
貞観の治
唐太宗・李世民の治世。魏徴・房玄齢・杜如晦ら賢臣を登用し、諫言を奨励する開かれた政治を行った。律令制度を完成させ、三省六部・科挙・均田制・府兵制を整備。東突厥を滅ぼし「天可汗」の称号を得た。
中国・長安
7世紀〜9世紀
吐蕃帝国の隆盛と唐との抗争
ソンツェン・ガンポがチベットを統一し吐蕃帝国を建国。唐の文成公主を娶り仏教を受容。8世紀にはティソン・デツェン王の下で最盛期を迎え、763年には一時長安を占領。唐と長く覇権を争った。
チベット・ラサ
645年〜
大化の改新
乙巳の変後、孝徳天皇のもとで実施された一連の政治改革。646年の改新の詔により、公地公民制、班田収授法、租庸調制、国郡里制の導入が宣言された。中国の律令制度を範に中央集権的国家体制の構築を目指した。
日本・奈良(難波)
661年〜750年
ウマイヤ朝の成立とダマスカスの首都化
ムアーウィヤ1世がカリフに就任しウマイヤ朝を開き、ダマスカスを首都とした。アラブ帝国は西はイベリア半島から東はインダス川に至る史上最大のイスラム帝国に拡大。アラビア語を公用語とし、貨幣制度を整備し、ウ
シリア・ダマスカス
7世紀後半
大宰府の設置
九州全体と壱岐・対馬の統治、および外交・防衛を担う律令国家の出先機関。大宰帥を長とし、数百人の官人が勤務。外国使節の接待を行う鴻臚館を管轄し、遣唐使・遣新羅使の発着地としても機能。「遠の朝廷(とおのみ
日本・福岡
664年〜
防人制度の整備
白村江敗戦後に整備された辺境防衛制度。主に東国の農民が徴発され、北九州・対馬・壱岐の防衛に当たった。防人の歌は万葉集に多数収録され、故郷を離れる悲しみが詠まれている。奈良時代を通じて維持されたが、79
日本・九州
667年
天智天皇の近江大津宮遷都
中大兄皇子(天智天皇)が飛鳥から近江大津宮に遷都。白村江敗戦後の防衛体制再編と、内政改革を推進するための新拠点として選定。庚午年籍(670年、日本最初の全国的戸籍)の作成など律令国家建設を加速させた。
日本・滋賀
7世紀〜14世紀
シュリーヴィジャヤ海上帝国
スマトラ島南部を拠点に7世紀から約700年間、マラッカ海峡の海上交易を支配した仏教海洋帝国。中国の義浄は671年に訪れ、1,000人以上の僧侶が学ぶ仏教学術センターとして記録。唐・宋への朝貢貿易で莫大
インドネシア・スマトラ島パレンバン
676年
新羅の三国統一
新羅は唐を朝鮮半島から駆逐し、大同江以南の朝鮮半島統一を達成した。唐は高句麗・百済の旧領に安東都護府を設置して直接支配を企図したが、新羅は唐軍と戦って撃退。金仁問・金庾信らの外交・軍事両面の努力により
朝鮮半島・新羅
689年
飛鳥浄御原令の施行
天武天皇が編纂を命じ、持統天皇の時代に施行された律令法典。令22巻からなるが、律は未完成であったとされる。戸籍制度(庚寅年籍)の整備と班田収授の実施を可能にし、大宝律令の前身として律令国家の基盤を形成
日本・奈良
690年〜705年
則天武后の治世
唐高宗の皇后・武則天が中国史上唯一の女帝として即位し、国号を周と改めた。科挙を拡充して寒門出身者を登用し、門閥貴族の勢力を抑制。密告政治で反対派を粛清する一方、対外的には安定した統治を実現。
中国・洛陽
698年
渤海の建国
高句麗の遺将・大祚栄が靺鞨族とともに東牟山に建国。当初「震国」と称し、後に「渤海」に改称した。中国から「海東の盛国」と称されるまでに発展し、日本とも活発に交流(渤海使34回、遣渤海使15回)。926年
満州東部・敦化付近
701年
大宝律令の制定
文武天皇の下、刑部親王・藤原不比等らが中心となって編纂した日本初の本格的律令法典。律(刑法)6巻・令(行政法)11巻からなる。唐の律令を基に日本の実情に適合させた独自の法体系を構築。702年から施行。
日本・奈良
710年
平城京遷都
元明天皇が藤原京から平城京へ遷都。和銅3年3月10日に遷都が行われた。朱雀大路を中心軸に左京・右京が配置され、平城宮(大内裏)を北端に置く。人口は最盛期に10万人以上と推定される。
日本・奈良
713年〜763年
開元の治と安史の乱
玄宗皇帝は即位後「開元の治」と称される善政を行い、唐は最盛期を迎えた。しかし晩年は楊貴妃に溺れて政治を怠り、755年にソグド系節度使・安禄山が反乱。長安・洛陽が陥落し、玄宗は蜀に逃亡。楊貴妃は馬嵬駅で
中国・長安〜洛陽
724年
多賀城の設置
大野東人が陸奥国に設置した律令国家の東北経営の拠点。陸奥国府と鎮守府を兼ね、政治・軍事・外交の中心として機能。約900メートル四方の広大な城柵で、多賀城碑(重要文化財)により建設経緯が判明する。
日本・宮城
729年
長屋王の変
天武天皇の孫である左大臣長屋王が、藤原四兄弟の陰謀により謀反の疑いをかけられ自殺に追い込まれた事件。密告により軍勢が邸宅を包囲し、長屋王は妻子とともに自害。皇親政治から藤原氏主導の政治への転換点。
日本・奈良
729年
光明皇后の立后
藤原不比等の娘・光明子が聖武天皇の皇后に立てられた。皇族以外からの皇后就任は史上初の画期的出来事。長屋王の変で反対勢力を排除した後に実現。光明皇后は社会事業(悲田院・施薬院)にも力を入れた。
日本・奈良
740年〜745年
聖武天皇の彷徨(恭仁京・紫香楽宮)
藤原広嗣の乱をきっかけに聖武天皇が平城京を離れ、恭仁京(740年)→紫香楽宮(742年)→難波宮(744年)→平城京(745年)と約5年間都を転々とした。大仏造立は当初紫香楽宮で進められたが、山火事や
日本・京都〜滋賀
744年〜840年
ウイグル帝国とマニ教の受容
チュルク系ウイグル族が突厥帝国を打倒して建国。762年にウイグルのカガン(ベグ・カガン)がマニ教に改宗し、遊牧帝国として初めてマニ教を国教に採用した異例の出来事。唐の安史の乱(755-763年)の鎮圧
中央アジア・モンゴル
750年〜1258年
アッバース朝の成立とバグダッドの建設
アッバース家はウマイヤ朝を打倒し、カリフ・マンスールが762年にバグダッドを建設した。「円形の都市」と呼ばれる計画都市は中央にカリフの宮殿と大モスクを配置し、二重の城壁で囲まれた。人口100万人を超え
メソポタミア・バグダッド
8〜11世紀
ガーナ帝国の繁栄
ソニンケ族が建設した西アフリカ最初の大帝国(現在のモーリタニア南東部〜マリ西部)。トランスサハラ交易における金と塩の仲介で莫大な富を蓄積。王は「黄金の王」と呼ばれ、アラブの旅行家アル・バクリーは帝国の
モーリタニア・クンビ・サレー
769年
道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)
称徳天皇に寵愛された僧道鏡が、宇佐八幡宮の神託を利用して皇位を窺った事件。「道鏡を天皇にすべし」という神託を大宰府の主神が報告したが、和気清麻呂が宇佐に赴き「無道の人を除くべし」との真の神託を持ち帰り
日本・奈良
786年〜809年
ハールーン・アッ=ラシードの治世
アッバース朝第5代カリフ・ハールーン・アッ=ラシードの治世はイスラム文明の黄金期を象徴する。千夜一夜物語の舞台としても知られる。カール大帝との外交使節の交換、バルマク家の宰相による行政整備、学問・芸術
メソポタミア・バグダッド
789〜985年
イドリース朝の成立(モロッコ初のイスラム王朝)
預言者ムハンマドの曾孫イドリース1世がアッバース朝の迫害を逃れてマグレブに到り、ベルベル人のアウラバ族の支持を得てイドリース朝を建国した。息子イドリース2世がフェズを建設して首都とした。シーア派(ザイ
モロッコ・ヴォルビリス
794年
平安京遷都
桓武天皇が長岡京に代わり山背国に新都を建設。唐の長安を模した東西約4.5キロ、南北約5.2キロの条坊制都市。大内裏を北端に配し、朱雀大路が南北を貫く。以後約1000年にわたり日本の首都として機能した。
日本・京都
800年12月25日
カール大帝の西ローマ帝国復活
フランク王カール大帝が教皇レオ3世から皇帝冠を授けられ、「ローマ人の皇帝」として戴冠した。カール自身は戴冠を望んでいなかったとアインハルトは伝えるが、教皇にとっては教皇権と皇帝権の関係を規定する重要な
イタリア・ローマ
802年
クメール帝国の建国(ジャヤヴァルマン2世)
ジャヤヴァルマン2世がジャワの支配から独立し、プノン・クレンで「転輪聖王」(チャクラヴァルティン)として即位。「カンブジャデーシャ」(カンボジアの地)の統一王国を宣言した。デーヴァラージャ(神王)信仰
カンボジア・プノン・クレン
819年〜999年
サーマーン朝とペルシア文学の復興
イラン系のサーマーン朝はブハラを首都に中央アジアとイラン東部を支配。アッバース朝の宗主権を認めつつ事実上独立。ペルシア語文学の復興を主導し、詩人ルーダキーが「ペルシア詩の父」として活躍。医学者イブン・
中央アジア・ブハラ
842年
承和の変
842年、嵯峨上皇の崩御直後に恒貞親王の廃太子と伴健岑・橘逸勢の配流が行われた。仁明天皇と藤原良房が共謀し、皇太子を道康親王(のちの文徳天皇)に交代させた。橘逸勢は流罪地への途上で病死した。藤原北家が
日本・京都
866年
応天門の変
大内裏の応天門が放火され、犯人として大納言・伴善男が逮捕・配流された事件。当初は源信(左大臣)が疑われたが、藤原良房の介入で伴善男に罪が着せられた。良房は事件を利用して人臣初の摂政に就任。
日本・京都
900〜1470年頃
チムー王国とチャンチャンの繁栄
ペルー北海岸に栄えた先インカの強力な王国。首都チャンチャンは面積約20km²、人口推定6万人の世界最大の日干しレンガ都市。10の宮殿区画(シウダデラ)が王の代替わりごとに新設され、各区画は高さ9mの壁
南アメリカ・ペルー北海岸
900〜1168年頃
トルテカ帝国の繁栄
テオティワカン崩壊後にメキシコ中央高原の覇権を握った帝国。首都トゥーラには「アトランテス」と呼ばれる高さ4.6mの戦士像柱が立つピラミッドBが象徴的。ケツァルコアトル(羽毛の蛇)信仰の中心地で、伝説的
メソアメリカ・メキシコ中央高原
901年〜903年
菅原道真の大宰府左遷と太宰府天満宮
右大臣・菅原道真が藤原時平の讒言により大宰員外帥に左遷された(昌泰の変)。903年に大宰府で失意のうちに没した。死後、都で天変地異が相次いだため怨霊として恐れられ、天満大自在天神として祀られた。学問の
日本・福岡
911年
ノルマンディー公国の成立
西フランク王シャルル3世(単純王)とバイキングの首長ロロがサン・クレール・シュル・エプト条約を結び、ロロがキリスト教に改宗してフランク王の家臣となる代わりに、セーヌ川下流域の支配権を正式に認められた。
フランス・ノルマンディー
916年
契丹(遼)の建国
契丹族の耶律阿保機が諸部族を統一し遼を建国。南面官(漢人統治用)と北面官(契丹人統治用)の二元統治体制を確立。契丹文字を創製し、独自の文化を発展させた。
中国東北・内モンゴル
918年
王建の高麗建国
弓裔の部将であった王建が弓裔を追放し、松岳(開城)を都として高麗を建国。936年に後百済を滅ぼして後三国を統一。北方政策を推進して高句麗の旧領回復を目指し、「高麗」の国号もこれを意識したもの。豪族連合
高麗・開京(開城)
938年
呉権の独立と越南の建国
呉権が白藤江の戦いで中国・南漢の水軍を撃破し、約1000年にわたる中国支配からの独立を達成。鉄杭を川底に打ち込んで敵船を座礁させる戦術は、後の陳朝のモンゴル撃退(1288年)でも再現された。ベトナム独
ベトナム北部・白藤江
950年頃〜1500年頃
トンガ帝国の海上覇権確立
トゥイ・トンガ王朝を中心とするポリネシア最大の海上帝国。10世紀頃から勢力を拡大し、サモア、ニウエ、ロツマ、フィジー東部、さらにはトケラウまで影響圏に収めた。朝貢システム(イナシ)により周辺島嶼から食
ポリネシア・トンガ
958年
高麗の科挙制度導入
高麗第4代王・光宗が後周からの帰化人・双冀の建議を受けて科挙制度を導入。製述業(文章)・明経業(儒教経典)・雑業(技術)の三科を設け、家柄によらない人材登用の道を開いた。これにより新興文臣層が台頭し、
高麗・開京
960年
陳橋の変と北宋建国
後周の殿前都点検・趙匡胤が北征中に陳橋で部下に擁立されて即位。黄袍を着せられる形で帝位を受け、後周から禅譲を受けて宋を建国した。その後「杯酒釈兵権」で武臣から兵権を穏便に回収。
中国・開封
961年
杯酒釈兵権
宋太祖・趙匡胤が宴席で功臣の武将たちに引退を勧め、穏便に兵権を回収した故事。「杯酒」で兵権を手放させた巧みな政治手腕。これにより五代の軍人政権の弊害を断ち、文治主義への転換を実現。
中国・開封
962年2月2日
オットー1世の神聖ローマ帝国成立
ザクセン朝のオットー1世が教皇ヨハネス12世から皇帝冠を授けられ、「神聖ローマ帝国」(この名称は後世のもの)が成立した。カール大帝の帝国を継承する形で、ドイツ王が皇帝位を兼ねる体制が確立された。オット
イタリア・ローマ
969年
安和の変
969年、左大臣源高明が謀反の嫌疑で大宰府に左遷された。密告に基づく冤罪とされ、藤原氏が最後の有力な政敵を排除した事件。これにより藤原北家の政治的独占が確立し、以後約100年にわたる摂関政治全盛期が始
日本・京都
985年〜1279年
チョーラ朝の海上帝国
ラージャラージャ1世とラージェーンドラ1世の下で最盛期を迎えた南インドの海洋帝国。スリランカを征服し、シュリーヴィジャヤ王国(スマトラ)へ遠征(1025年)を行い、ベンガル湾の海上交易を支配した。タン
南アジア・タミルナードゥ
987年
カペー朝フランスの成立
カロリング朝最後の王ルイ5世の死後、パリ伯兼フランス公ユーグ・カペーが諸侯の選挙により西フランク王に即位し、カペー朝が成立した。当初の王権は極めて弱く、直轄領はパリ周辺のイル・ド・フランスに限られてい
フランス・パリ
10世紀〜13世紀
カラハン朝と中央アジアのイスラム化
チュルク系遊牧民による最初のイスラム王朝。サトゥク・ブグラ・カンが10世紀半ばにイスラムに改宗したとされる。999年にサーマーン朝を滅ぼしブハラを征服。マフムード・カーシュガリーの『チュルク語集成』(
中央アジア・マー・ワラー・アンナフル
1018年
藤原道長の権力絶頂「望月の歌」
藤原道長が三女・威子の立后の日に「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ。3人の娘を天皇の后にし、外祖父として絶大な権力を握った摂関政治の絶頂を象徴する一首。
日本・京都
1038年
西夏(タングート)の建国
タングート族の李元昊が皇帝を称し西夏を建国。独自の西夏文字を創製し、仏教を国教として独自の文化を発展させた。宋・遼・金と並立し、1227年にモンゴルのチンギス・カンに滅ぼされた。
中国・寧夏〜甘粛
1040〜1147年
ムラービト朝の成立
サハラの遊牧ベルベル人サンハージャ族のイスラム改革運動から生まれた王朝。アブドゥッラー・イブン・ヤースィーンの宗教的指導のもと、ユースフ・イブン・ターシュフィーンがマグレブを統一し、1062年にマラケ
モロッコ・マラケシュ
1044年〜1287年
パガン朝の建国とアノーヤター王
アノーヤター王がビルマ(ミャンマー)を統一し、パガン朝を建国。モン族のタトン王国を征服して上座部仏教と文字文化を導入。以後250年間にパガン平原に約4,000の仏塔・寺院を建設した。アーナンダ寺院は白
ミャンマー・パガン(バガン)
1055年
セルジューク朝のバグダッド入城
トゥグリル・ベグ率いるセルジューク朝がバグダッドに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を受けた。シーア派ブワイフ朝を追放してスンナ派の正統性を回復した。セルジューク朝はアナトリアにも進出し、マ
メソポタミア・バグダッド
1069年
延久の荘園整理令
後三条天皇が藤原摂関家に依存しない親政を行い、記録荘園券契所を設置して荘園の審査を実施。正規の手続きを経ていない荘園を停止し、太政官符・民部省符のない荘園は認めないとした。藤原摂関家の荘園も例外としな
日本・京都
1069年〜1085年
王安石の新法
神宗に登用された王安石が大規模な財政・軍事改革を実施。青苗法(低利融資)、募役法(免役銭)、保甲法(民兵制度)、市易法(物価安定)など。司馬光ら旧法党と激しく対立し、党争が宋の政治を分裂させた。
中国・開封
1077年1月25日〜27日
カノッサの屈辱
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世に破門の解除を求めて北イタリアのカノッサ城を訪れ、雪の中で3日間裸足で断食しながら赦しを請うた。教皇は最終的に破門を解除したが、両者の権力闘争は継続
イタリア・エミリア
1086年〜1129年
白河上皇の院政開始
白河天皇が堀河天皇に譲位した後も「治天の君」として約43年間政治を主導。摂関家を抑え、天皇家の家長としての権威で院政を行った。「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にかなわぬもの」の名言で知られ
日本・京都
1087年〜
奥州藤原氏の成立
後三年合戦(1083-87)の後、藤原清衡が奥州の実質的支配者となり、平泉を拠点に独自の政権を築いた。清衡は中尊寺を建立し、基衡は毛越寺を造営。秀衡の代には平泉は京都に次ぐ日本第二の都市となり、約10
日本・平泉
1098年〜1268年
アンティオキアの十字軍国家建設
第1回十字軍はアンティオキアを8ヶ月の包囲の末に攻略し、ボエモン1世がアンティオキア公国を建てた。エデッサ伯国、トリポリ伯国、エルサレム王国と並ぶ四大十字軍国家の一つとして約170年間存続。1268年
シリア・アンティオキア
1115年
女真族の金建国
女真族の完顔阿骨打が遼からの独立を宣言し金を建国。猛安謀克制(軍事・行政一体の組織)を基盤に急速に拡大。1125年に遼を滅ぼし、1127年の靖康の変で北宋を滅亡させて華北を支配。
中国東北・黒竜江流域
1121〜1269年
ムワッヒド朝のマグレブ統一
イブン・トゥーマルトの一神教改革運動(タウヒード=「唯一性」)に基づく王朝。弟子アブド・アル・ムーミンがムラービト朝を打倒し、マグレブからアンダルスにまたがる帝国を建設した。セビリアのヒラルダの塔(ミ
モロッコ・マラケシュ
1158年〜1192年
後白河法皇の院政と『梁塵秘抄』
後白河天皇は保元の乱後に即位し、退位後は34年にわたり院政を敷いた。平清盛・源頼朝ら武家の台頭する時代に巧みな政治力を発揮し、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評された。文化面では今様(当時の流行歌)を
日本・京都
1167年〜1181年
平清盛の太政大臣就任と平氏政権
平清盛が武士として初めて太政大臣に就任。一族を朝廷の要職に配し、娘の徳子を高倉天皇に入内させ、外戚としても権力を掌握。「平氏にあらずんば人にあらず」と称される専横体制を築いた。日宋貿易を推進し経済力も
日本・兵庫(福原)
1171〜1250年
サラーフッディーンのアイユーブ朝建国
クルド人出身のサラーフッディーン(サラディン)がファーティマ朝の宰相として権力を握り、シーア派カリフを廃してスンニ派のアイユーブ朝を建国。1187年のハッティーンの戦いで十字軍を撃破し、エルサレムを奪
エジプト・カイロ
1177年
鹿ヶ谷の陰謀
1177年、後白河法皇の近臣である俊寛・藤原成親・西光らが、京都東山の鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平氏打倒を密議した。しかし多田行綱の密告で計画が露見し、平清盛は関係者を厳しく処罰。西光は処刑、成親は配流先で
日本・京都
1185年(1192年征夷大将軍任命)
鎌倉幕府の成立
源頼朝が守護・地頭の設置権を獲得し、鎌倉を本拠として武家政権を樹立。1192年に征夷大将軍に任命された。侍所・政所・問注所を設置し、御恩と奉公に基づく封建的主従関係を基盤とする統治体制を確立した。
日本・鎌倉
1203年〜
北条氏の執権政治の確立
1203年、北条時政が源頼家を廃して実朝を将軍に擁立し、初代執権に就任。以後、義時・泰時と続く北条氏が執権として幕府の実権を掌握した。源氏将軍は3代で途絶え、以後は摂家将軍・皇族将軍が名目上の将軍とな
日本・鎌倉
1206年
チンギス・カンのモンゴル統一
テムジンがモンゴル高原の遊牧民諸部族を統一し、大クリルタイでチンギス・カン(大いなる支配者)の称号を得た。十進法に基づく軍事組織、ヤサ(法典)の制定、メリトクラシー(能力主義)の採用により、史上最大の
中央アジア・モンゴル
1206年〜1290年
デリー・スルタン朝の成立(奴隷王朝)
ゴール朝のムハンマドの死後、その奴隷出身の将軍クトゥブッディーン・アイバクがデリーに独立政権を樹立。奴隷王朝(マムルーク朝)として知られ、イルトゥトゥミシュ、ラズィーヤ・スルタナ(インド初の女性君主)
南アジア・デリー
1215年6月15日
マグナ・カルタの制定
イングランド王ジョンが貴族の反乱に直面し、テムズ川沿いのラニーミードで63条からなるマグナ・カルタ(大憲章)に署名した。国王の恣意的な課税・逮捕・裁判を制限し、「自由人は法に基づかなければ逮捕・拘禁さ
イングランド・ラニーミード
1232年
御成敗式目(貞永式目)の制定
執権・北条泰時が制定した武家法の基本法典。全51条からなり、守護・地頭の権限、所領の相続・売買、裁判手続きなどを規定。武士の道理と慣習を成文化した日本初の武家法で、その後の武家法の規範となった。
日本・鎌倉
1235年
マリ帝国の建国(スンジャタ・ケイタ)
マンデ人の英雄スンジャタ・ケイタがキリナの戦い(1235年)でソソ王国のスマンゲル・カンテを撃破し、マリ帝国を建国。クルカン・フーガの会議で帝国の統治原則(マンデン憲章)を定めた。マリ帝国はサハラ交易
マリ・クリコロ付近
1238年〜1438年
スコータイ朝の建国とタイ文字の創始
シー・インタラティット王がクメール帝国から独立してスコータイ朝を建国。第3代ラームカムヘーン大王(在位1279-1298年頃)はタイ文字を創始し(1283年のラームカムヘーン碑文)、上座部仏教を国教と
タイ・スコータイ
1250〜1517年
マムルーク朝の成立
トルコ系・チェルケス系の軍人奴隷(マムルーク)がアイユーブ朝の将軍として実権を握り、最後のアイユーブ朝スルタンを排除して独自の王朝を建国。1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退し、十
エジプト・カイロ
1260年〜1517年
マムルーク朝のアイン・ジャールートの戦い後のシリア・エジプト支配
マムルーク朝はアイン・ジャールートの勝利後、エジプトとシリアを統一支配した。奴隷出身の軍人(マムルーク)が支配階級を構成する独特の体制で、スルタン位は実力主義で継承された。1291年にアッコを陥落させ
エジプト・カイロ
1271年
クビライの元建国と大都建設
モンゴル帝国第5代カアン・クビライが国号を元と定め、大都(現北京)に壮大な都城を建設。劉秉忠の設計による計画都市で、周礼に基づく碁盤目状の都城構造を採用。南宋攻略の前線基地としても機能。
中国・大都(北京)
1285年
霜月騒動と得宗専制
1285年、北条得宗家の内管領・平頼綱が有力御家人・安達泰盛一族を滅ぼした。泰盛一族約500名が殺害され、粛清は全国に及んだ。以後得宗専制が確立し、御家人の不満がさらに蓄積した。
日本・鎌倉
1293年〜1500年頃
マジャパヒト帝国の最盛期
クルタラージャサが元(モンゴル)軍の撤退後に建国。宰相ガジャ・マダの下で最盛期を迎え、「ヌサンタラ」(群島全域)の支配を誓約した「パラパの誓い」で知られる。現在のインドネシアの領域に近い広大な範囲に影
インドネシア・東ジャワ
1333年〜1336年
建武の新政
後醍醐天皇が鎌倉幕府滅亡後に開始した天皇親政。記録所・雑訴決断所などを設置し、天皇中心の政治を目指したが、武士への恩賞配分の不公平、公家偏重の政策が武士の不満を招き、わずか3年で崩壊した。
日本・京都
1336年〜1646年
ヴィジャヤナガル帝国の建国
ハリハラ1世とブッカ1世の兄弟が建国した南インド最大のヒンドゥー帝国。首都ハンピは最盛期に50万人以上の人口を擁し、ローマに匹敵すると称された。クリシュナデーヴァラーヤ王の治世(1509-1529年)
南アジア・カルナータカ
1347年〜1527年
バフマニー朝の成立
ムハンマド・ビン・トゥグルクの統治に反発したデカンのアミールたちが反乱を起こし、アラーウッディーン・バフマン・シャーを擁立して建国。デカン高原初のイスラム王朝としてヴィジャヤナガル帝国と南インドの覇権
南アジア・デカン
1351年〜1767年
アユタヤ朝の建国
ウートーン王(ラーマーティボーディー1世)がアユタヤに都を定めて建国。417年間にわたり33人の王が統治した東南アジア最長の王朝の一つ。国際貿易で繁栄し、日本人町(山田長政)、中国人街、ポルトガル人居
タイ・アユタヤ
1353年〜1707年
ラーンサーン王国の建国
ファーグム王がクメール帝国の支援を受けてラオス人最初の統一王国を建国。クメールの王女と結婚し、上座部仏教とパーバーン仏(ルアンパバーンの名の由来)を持ち帰った。「百万頭の象の国」を意味するラーンサーン
ラオス・ルアンパバーン
1356年
恭愍王の反元改革
高麗第31代王・恭愍王が元の支配からの脱却を図り、征東行省の理問所を廃止し、親元派の奇氏一族を粛清した。双城総管府を攻略して東北面を回復し、元の年号の使用を停止。一連の改革は元の衰退(紅巾の乱)に乗じ
高麗・開京
1356年
金印勅書の発布
皇帝カール4世(ルクセンブルク家)が発布した神聖ローマ帝国の基本法。皇帝選挙権を持つ7人の選帝侯(マインツ、ケルン、トリーア大司教、ボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯)を規定
神聖ローマ帝国
1368年
朱元璋の明建国
紅巾の乱から身を起こした朱元璋が南京で明を建国し洪武帝と号した。北伐軍を派遣して元を北方に駆逐し、中国を統一。胡惟庸の獄・藍玉の獄で功臣を粛清し、皇帝独裁体制を確立した。
中国・南京
1370年〜1405年
ティムールの征服とサマルカンド建設
チャガタイ・ハン国の混乱の中から台頭したティムール(タメルラン)がサマルカンドを首都にティムール帝国を建国。イラン、小アジア(アンカラの戦い1402年)、インド(デリー略奪1398年)に遠征し、広大な
中央アジア・サマルカンド
1380年
胡惟庸の獄と宰相制度の廃止
洪武帝が宰相・胡惟庸を謀反の罪で処刑し、連座者3万人以上を粛清。これを機に千年以上続いた宰相制度を廃止し、皇帝が六部を直接統率する体制を確立。後に藍玉の獄(1393年)でも1万5千人を粛清。
中国・南京
14〜15世紀
コンゴ王国の成立とポルトガルとの接触
バンツー系のバコンゴ族が建設した中部アフリカの有力王国。1491年にポルトガル人が到達し、キリスト教と火器を伝えた。国王ンジンガ・ア・ンクウ(洗礼名ジョアン1世)がキリスト教に改宗。息子アフォンソ1世
コンゴ・ムバンザ・コンゴ
1392年
朝鮮王朝の建国と漢陽遷都
李成桂が高麗を倒して朝鮮を建国。1394年に漢陽(現在のソウル)に遷都し、景福宮を建設した。建国の理念は鄭道伝ら新進儒者が設計した性理学に基づく理想国家の実現であり、仏教を排して儒教を国是とした。国号
朝鮮・漢陽(ソウル)
1400年頃〜1511年
マラッカ王国の建国と繁栄
パラメシュワラ(後にイスカンダル・シャーに改名)がマラッカ海峡に面した港町を建設。15世紀にイスラムに改宗し、東西交易の最大のハブとして繁栄。中国の鄭和の艦隊も寄港。最盛期には人口10万を超え、84の
マレーシア・マラッカ
1428年
黎朝の成立とベトナムの独立回復
レ・ロイ(黎利)がラムソンで蜂起し、10年間のゲリラ戦の末に明の支配からベトナムを解放。黎朝(後黎朝)を建国した。参謀のグエン・トライが『平呉大誥』(独立宣言)を起草し、ベトナムの文化的独自性と自立の
ベトナム・タンロン(ハノイ)
1428年
アステカ三国同盟の形成
テノチティトランのイツコアトル王がテスココのネサワルコヨトル、トラコパンの勢力と同盟し、当時メキシコ盆地を支配していたアスカポツァルコのテパネカ族を打倒。この三国同盟(エシュカン・トラトロヤン)がアス
メソアメリカ・メキシコ盆地
1429年
琉球王国の成立と繁栄
尚巴志が三山(北山・中山・南山)を統一し、琉球王国を建国。首里城を王城として整備し、明の冊封体制に入りつつ、中継貿易で繁栄。中国・日本・朝鮮・東南アジアとの貿易で莫大な富を築いた。「万国津梁の鐘」が理
日本・沖縄
1431年
アンコール帝国の衰退と放棄
アユタヤ朝の攻撃を受けてクメール王室がアンコールを放棄し、プノンペンに遷都。約600年にわたるアンコール文明が終焉を迎えた。しかし寺院群は完全に放棄されたわけではなく、一部の僧侶や住民が残り続けた。1
カンボジア・アンコール
1434年〜1464年
メディチ家コジモのフィレンツェ支配
メディチ銀行の頭取コジモ・デ・メディチが追放から帰還し、フィレンツェ共和国の事実上の支配者となった。公職には就かず「国父(パテル・パトリアエ)」として共和政の形式を維持しながら権力を行使。プラトン・ア
イタリア・フィレンツェ
1438〜1533年
インカ帝国の急速な拡大
パチャクティ(在位1438-1471年)がチャンカ族の侵攻を撃退したのを契機に、クスコの一地方王国から南北アメリカ最大の帝国へと急速に拡大した。タワンティンスーユ(四つの地方)と呼ばれ、現在のペルー、
南アメリカ・ペルー
1450年頃(異説あり)
イロコイ連邦の形成
モホーク、オネイダ、オノンダガ、カユガ、セネカの五部族(後にタスカローラが加わり六部族)が平和と相互防衛のために結成した連邦制の政治組織。伝説的指導者デガナウィダとハイアワサが部族間の争いを終結させ、
北アメリカ・ニューヨーク
1493〜1528年
ソンガイ帝国の最盛期(アスキア・ムハンマド)
ソンニ・アリーの征服事業を継承したアスキア・ムハンマドが、西アフリカ史上最大の帝国を建設。行政制度の整備、イスラム法の導入、学術の奨励を推進した。メッカ巡礼(1496-98年)で「カリフ」の称号を得て
マリ・ガオ
1498年〜1545年
士禍(四大士禍)
朝鮮前期に4度にわたって新興の士林派が勲旧派により大量粛清された事件。戊午士禍(1498年)、甲子士禍(1504年)、己卯士禍(1519年、趙光祖の粛清)、乙巳士禍(1545年)。しかし士林派は地方の
朝鮮・漢陽
1500年〜1920年
ブハラ・ハン国の繁栄
シャイバーニー朝がティムール朝を駆逐して建国。ウズベク三ハン国(ブハラ・ヒヴァ・コーカンド)の中で最も権威ある国家。イスラム学問の中心として「イスラムの柱」の異名を持ち、中央アジア全域から留学生を集め
中央アジア・ウズベキスタン
1501年〜1736年
サファヴィー朝の成立とシーア派国教化
イスマーイール1世はサファヴィー教団の軍事力を背景にタブリーズを征服し、シーア派十二イマーム派を国教とするサファヴィー朝を建国した。これはイランのシーア派化の決定的転換点であった。赤い帽子のキズルバシ
ペルシャ・タブリーズ
1511年〜1920年
ヒヴァ・ハン国と奴隷交易
アム川下流域のホラズム地方を支配したウズベク系ハン国。ペルシャやカザフから捕らえた奴隷の交易で悪名高く、ロシア人奴隷の解放が後のロシアの征服の口実の一つとなった。壮大な建築群(イチャン・カラ)を残し、
中央アジア・ホラズム
1520年〜1566年
スレイマン1世(壮麗帝)の治世
スレイマン1世はオスマン帝国最盛期の君主で、西洋では「壮麗帝(マグニフィセント)」、オスマンでは「立法者(カーヌーニー)」と称される。モハーチの戦い(1526年)でハンガリーを征服、ウィーンを包囲(1
オスマン帝国・イスタンブール
1535年
ヌエバ・エスパーニャ副王領の成立
スペイン王室がアステカ征服後のメキシコを統治するために設立した副王領で、初代副王アントニオ・デ・メンドーサが就任。コンキスタドールの独立傾向を抑制し、王室による直接統治を確立した。アウディエンシア(高
メソアメリカ・メキシコ
1540年〜1555年
シェール・シャーのスール朝とグランド・トランク・ロード
アフガン系のシェール・シャーがフマーユーンを追放しスール朝を建国。わずか5年の治世だが、行政改革に多大な功績を残した。グランド・トランク・ロード(大幹道)の整備、ルピー銀貨の統一、効率的な徴税制度、キ
南アジア・北インド
1547年1月16日
イヴァン雷帝のツァーリ戴冠
モスクワ大公イヴァン4世が16歳でロシア初の「ツァーリ(皇帝)」の称号を正式に使用して戴冠。中央集権化を推進し、法典の編纂、地方行政改革、常備軍(ストレリツィ)の創設を行った。後半生にはオプリーチニナ
ロシア・モスクワ
1556年〜1605年
アクバル大帝の統治
ムガル帝国第3代皇帝アクバルは13歳で即位し、帝国を北インドからデカン北部まで拡大。マンサブダール制(位階制)を導入し効率的な軍事・行政制度を確立。ジズヤ税を廃止し宗教融和政策を推進、ディーン・イ・イ
南アジア・アーグラ
1565年〜1898年
スペインのフィリピン植民地化
ミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島に上陸し、1571年にマニラを首都として植民地を建設。333年にわたるスペイン支配の下、カトリック教の布教、マニラ・ガレオン貿易(マニラ〜アカプルコ間の太平洋横断交
フィリピン・マニラ
1572年〜1582年
張居正の改革
明の内閣首輔・張居正が万暦帝の幼少期に実権を掌握し大改革を断行。一条鞭法(諸税の銀納一本化)を全国に施行、考成法で官僚の業績評価を厳格化。財政を立て直し国庫に10年分の歳入を蓄積した。
中国・北京
1582年〜1598年
太閤検地と刀狩令
豊臣秀吉が全国の農地を統一基準で測量した太閤検地(1582年開始)と、農民から武器を没収した刀狩令(1588年)は、兵農分離を推進する一対の政策。検地によって一地一作人の原則が確立され、中世的な重層的
日本・全国
1583年〜1590年
豊臣秀吉の天下統一と大坂城築城
秀吉は山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いで信長の後継者の地位を確立。大坂城を築いて本拠とし、四国征伐・九州征伐・小田原攻めを経て1590年に全国統一を達成。太閤検地・刀狩・身分統制令により近世社会の基盤を形成し
日本・大阪
1588年〜1620年
万暦帝の怠政
張居正の死後、万暦帝は28年間朝廷に出席せず(「万暦怠政」)。官僚の任命を放置して多くのポストが空席のまま放置された。鉱税の徴収に宦官を派遣して民衆の怨嗟を招いた。一方で万暦の三大征には莫大な軍費を費
中国・北京
1598年〜1613年
ロシアの動乱時代
リューリク朝の断絶後、ロシアが深刻な政治的混乱に陥った時代。ボリス・ゴドゥノフの即位、偽ドミトリー(イヴァン雷帝の息子を騙る複数の人物)の出現、ポーランドとスウェーデンの軍事介入が重なった。1612年
ロシア・モスクワ
1603年
江戸幕府の成立
徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。武家諸法度・参勤交代制度・鎖国政策により約260年間の平和を実現。幕藩体制のもと、約270の藩が全国を統治する分権的統一国家が成立した。
日本・江戸
1604年〜1627年
東林党と閹党の党争
無錫の東林書院を拠点に顧憲成らが政治改革を訴え(東林党)、宦官・魏忠賢率いる閹党と激しく対立。魏忠賢は「九千九百歳」と称され、東林派知識人を大量に投獄・処刑した。崇禎帝即位後に魏忠賢は自殺。
中国・北京〜無錫
1609年〜
薩摩藩の琉球支配と奄美の砂糖専売
1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻して服属させた。琉球は表面上独立王国を維持しつつ、実質的に薩摩の支配下に置かれた。薩摩は琉球を通じた中国との密貿易で莫大な利益を得た。奄美群島は薩摩の直轄地となり、砂
日本・琉球・奄美
1615年
武家諸法度と参勤交代制度
1615年、徳川秀忠が武家諸法度を発布。大名の城郭修築制限、無届婚姻の禁止などを定めた。1635年の寛永令で参勤交代が制度化され、大名は隔年で江戸と領国を往復することが義務付けられた。大名の妻子は人質
日本・江戸
1616年
ヌルハチの後金建国
女真族の統一者ヌルハチが後金(後の清)を建国しカンを称した。八旗制度(軍事・行政・社会組織)を創設し、満洲文字を制定。1619年のサルフの戦いで明軍を撃破し遼東を制圧した。
中国東北・遼寧省
1623年〜1651年
徳川家光の政治と鎖国の完成
3代将軍徳川家光は「生まれながらの将軍」として幕府の体制を確立した。1635年に武家諸法度を改定して参勤交代を制度化、1637年の島原の乱後にポルトガル船の来航を禁止(1639年)して鎖国を完成。老中
日本・江戸
1625〜1894年
ダホメ王国の成立
フォン族が建設した中央集権的な軍事王国。精強な常備軍と女性戦士部隊(「ダホメのアマゾン」、約6000人)で知られる。奴隷貿易と後のパーム油貿易で経済力を維持。毎年行われる「年の慣習」(祖先への大規模な
ベナン・アボメー
1649年1月30日
チャールズ1世の処刑
イングランド内戦で議会軍に敗れたチャールズ1世が、「暴君、反逆者、殺人者、国家の公敵」として裁判にかけられ、公開斬首された。ヨーロッパの近代史上、正当な裁判手続きを経て処刑された最初の君主。チャールズ
イングランド・ロンドン
1658年〜1707年
アウラングゼーブの帝国最大版図
ムガル帝国第6代皇帝。兄弟間の後継争いで勝利し即位。帝国を最大版図に拡大したが、正統イスラム政策(ジズヤ税の復活、ヒンドゥー寺院の破壊命令)により非ムスリムの反発を招いた。デカン遠征に後半生の大半を費
南アジア全域
1661年〜1722年
康熙帝の治世
清の第4代皇帝・康熙帝は61年間在位し、清朝最長の治世を誇った。三藩の乱を平定、台湾を統一、ジュンガルを撃退、ネルチンスク条約でロシアとの国境を画定。科挙を重視し漢人知識人の支持を獲得。
中国・北京
17〜19世紀
アシャンティ帝国の台頭
アカン系アシャンティ族がオセイ・トゥトゥ1世のもとで諸部族を統一し、クマシを首都とする強力な帝国を建設。黄金の椅子(スィカ・グア)が国家統合のシンボルとなった。金の採掘と奴隷貿易で富を蓄積。精巧な金細
ガーナ・クマシ
1674年
シヴァージーのマラーター王国建国
シヴァージー・ボーンスレーがライガド城で正式に戴冠し、マラーター王国を建国。ムガル帝国やビジャープル・スルタン朝からの独立を宣言。巧みなゲリラ戦術(ガニーミー・カーヴァー)で大帝国に対抗し、「山の鼠」
南アジア・マハーラーシュトラ
1685年〜1709年
生類憐れみの令
5代将軍徳川綱吉が動物の殺傷を禁じた一連の法令。特に犬の保護が厳格で、犬を傷つけた者は厳罰に処された。綱吉は「犬公方」と揶揄された。中野に巨大な犬収容施設が設けられた。綱吉の死後、6代家宣により直ちに
日本・江戸
1689年〜1725年
ピョートル大帝の西欧化改革
ツァーリ・ピョートル1世が推進した急進的な西欧化・近代化改革。1697-98年の大使節団(自ら偽名で参加)で西欧の技術を学んだ後、軍制改革(常備陸海軍の創設)、行政改革(参議会制度)、文化改革(貴族の
ロシア
1716年〜1745年
徳川吉宗の享保の改革
第8代将軍吉宗が実施した幕政改革。目安箱の設置で庶民の声を直接聴取し、公事方御定書で裁判の統一基準を制定。新田開発の奨励、上げ米の制による参勤交代の緩和、甘藷栽培の奨励なども行った。
日本・江戸
1722年〜1735年
雍正帝の改革と軍機処設置
康熙帝の第四子・雍正帝が13年間の短い治世で徹底的な行政改革を実行。軍機処を設置して皇帝独裁を強化、養廉銀制度で官僚の汚職を抑制、摊丁入畝で人頭税を廃止して地税に統合した。
中国・北京
1724年〜1800年
英祖・正祖の蕩平策
朝鮮第21代王・英祖と第22代王・正祖が約76年間にわたって推進した政治改革。朋党間の均衡人事(蕩平策)により、老論・少論・南人・北人の党派対立の調整を図った。正祖は奎章閣を設置して国王直属の学問・政
朝鮮・漢陽
1735年〜1796年
乾隆帝の治世と版図の最大化
乾隆帝は60年間在位し、清朝の最盛期を現出。ジュンガル帝国を滅亡させて新疆を征服、チベット・ネパールにも出兵。四庫全書の編纂を命じ、同時に禁書・焚書で思想統制を強化。人口は3億人に達した。
中国・北京
1747年〜1826年
ドゥッラーニー朝の建国
パシュトゥーン族のアフマド・シャー・ドゥッラーニーがナーディル・シャーの死後にアフガニスタン最初の統一国家を建国。最盛期には現在のアフガニスタン、パキスタン東部、イラン東部、インド北西部を支配。第三次
中央アジア・アフガニスタン
1762年
思悼世子の悲劇(壬午禍変)
朝鮮第21代王・英祖が息子の世子(思悼世子、荘献世子)を米櫃(ティジュ)に閉じ込めて8日後に餓死させた事件。英祖と世子の間の深刻な父子対立、老論派の世子排除の画策が背景にある。世子の妃・恵慶宮洪氏の回
朝鮮・漢陽(昌慶宮)
1772年〜1786年
田沼意次の重商主義政策
老中田沼意次は重商主義的な経済政策を推進した。株仲間の公認による営業独占と運上金・冥加金の徴収、長崎貿易の拡大、蝦夷地開発の計画、印旛沼干拓などを実施。賄賂政治の代名詞とされたが、近年は先進的な経済政
日本・江戸
1772年〜1795年
ポーランド分割(第1回〜第3回)
ロシア、プロイセン、オーストリアの三大国がポーランド・リトアニア共和国を三度にわたり分割・消滅させた。第1回(1772年)で約30%、第2回(1793年)でさらに大幅な領土を喪失。コシュシューシコの蜂
ポーランド・リトアニア
1776年7月4日
アメリカ独立宣言
1776年7月4日、第二回大陸会議がフィラデルフィアの独立ホールでアメリカ独立宣言を採択。トマス・ジェファーソンが主に起草し、ベンジャミン・フランクリンとジョン・アダムズが修正を加えた。「すべての人間
北アメリカ・フィラデルフィア
1782年
チャクリー朝(ラタナコーシン朝)の建国
タークシンのトンブリー朝を継承したチャクリー将軍(ラーマ1世)がチャオプラヤー川東岸のバンコクに遷都し、現在のタイ王室であるチャクリー朝(ラタナコーシン朝)を建国。アユタヤの文化・制度を復興させ、ワッ
タイ・バンコク
1787年〜1793年
寛政の改革
老中松平定信が天明の飢饉後に実施。朱子学以外を禁じた寛政異学の禁、旗本の借金帳消し(棄捐令)、囲米制度、出版統制を実施。質素倹約を掲げたが厳格すぎる統制は反発を招き「白河の清きに魚のすみかねて もとの
日本・江戸
1787年
合衆国憲法の制定
1787年5月25日から9月17日まで、フィラデルフィアで憲法制定会議が開催され、連合規約に代わる新憲法が起草された。ジェームズ・マディソン(「憲法の父」)が中心的役割を果たし、連邦主義者と反連邦主義
北アメリカ・フィラデルフィア
1788年1月26日
第一船団のシドニー到着とオーストラリア植民地建設
アーサー・フィリップ海軍大佐率いる11隻の「第一船団」(First Fleet)がシドニー湾に到着し、イギリスの流刑植民地を建設。約750名の囚人と約550名の海兵隊員・役人・家族が上陸した。当初ボタ
オーストラリア・ニューサウスウェールズ
1789年8月26日
人権宣言の採択
国民議会が「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」を採択。全17条で、人間の自由・平等の自然権、言論・出版の自由、所有権の不可侵、法の前の平等、国民主権、三権分立を宣言した。ラファイエットが起草に大きく
フランス・パリ
1793年1月21日
ルイ16世の処刑
国民公会の裁判でルイ16世(「ルイ・カペー」と呼ばれた)が反逆罪で有罪判決を受け、ギロチンで処刑された。賛成387対反対334の僅差で死刑が決定。処刑人シャルル=アンリ・サンソンが執行し、助手が国王の
フランス・パリ
1793年6月〜1794年7月
ロベスピエールの恐怖政治
ジャコバン派の指導者マクシミリアン・ド・ロベスピエールが公安委員会を通じて独裁的権力を行使した恐怖政治の時代。革命裁判所が簡易な裁判で大量の死刑判決を下し、パリだけで約2600人、フランス全土で推定1
フランス・パリ
1799年〜1849年
シク帝国の建国(ランジート・シン)
マハーラージャ・ランジート・シンがパンジャーブの分立したシク教勢力を統一し、ラホールを首都にシク帝国を建国。近代的な軍(カールサー軍)をヨーロッパ人軍事顧問の協力で整備。カシミール、ペシャワール、ムル
南アジア・パンジャーブ
1802年
阮朝の成立とベトナム統一
阮福映(嘉隆帝)がタイソン朝を滅ぼしてベトナムを統一し、フエを首都に阮朝を建国。フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌの軍事支援を受けた。国号を「越南」(ベトナム)として清から冊封を受けた。フエの王宮は
ベトナム・フエ
1805〜1849年
ムハンマド・アリーの権力掌握と近代化改革
アルバニア系オスマン軍人ムハンマド・アリーがエジプト総督(ワーリー)として権力を握り、1811年にシタデルの宴でマムルーク指導者を一掃。ヨーロッパ式の軍制改革、工業化(繊維工場)、教育改革(留学生派遣
エジプト・カイロ
1810年
カメハメハ大王のハワイ諸島統一
ハワイ島コハラ出身のカメハメハ1世が約20年にわたる戦争を経てハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建設した。1795年のヌウアヌの戦いでオアフ島を征服(敵兵をヌウアヌ・パリの断崖から落とした伝説で知られる
ハワイ
1811年
シモン・ボリバルのベネズエラ独立宣言
1811年7月5日、ベネズエラ議会はスペインからの独立を宣言し、ラテンアメリカ初の共和国を樹立した。しかし第一共和国は1812年の大地震とスペイン王党派の反攻により崩壊。シモン・ボリバルはカルタヘナに
ベネズエラ・カラカス
1819年
ラッフルズのシンガポール開港
イギリス東インド会社のスタンフォード・ラッフルズがジョホール王国のスルタンと条約を結び、シンガポールに交易拠点を設立。自由貿易港として開放し、関税を撤廃したことで急速に発展。1826年にペナン・マラッ
シンガポール
1819年
カールスバート決議
学生運動家カール・ザントによる劇作家コッツェブー暗殺事件を口実に、メッテルニヒがドイツ連邦諸国に対して発した一連の弾圧法令。大学の監視強化、学生結社(ブルシェンシャフト)の禁止、出版検閲の厳格化が定め
ボヘミア・カールスバート(現カルロヴィ・ヴァリ)
1819年〜1831年
大コロンビアの成立と崩壊
1819年12月のアンゴストゥーラ会議でボリバルが提唱し、ベネズエラ・ヌエバグラナダ・キト(エクアドル)を統合した大コロンビア共和国が成立した。1821年のクータ憲法で正式に発足し、ボリバルが大統領、
南米北部・ボゴタ
1820年
ミズーリ妥協
ミズーリが奴隷州として連邦加入を申請したことで南北の勢力均衡が崩れる危機が生じ、ヘンリー・クレイの調停により成立した妥協案。ミズーリは奴隷州として、メインは自由州として同時に加入し、今後ルイジアナ購入
北アメリカ・合衆国
1822年
ブラジルの無血独立
1822年9月7日、ポルトガル王太子ペドロがサンパウロ近郊のイピランガ川畔で「独立か死か」(Independência ou Morte)と宣言し、ブラジルの独立を宣言した。12月1日にペドロ1世とし
ブラジル・リオデジャネイロ / サンパウロ
1832年
第一次選挙法改正(イギリス)
産業革命で台頭した中産階級に選挙権を拡大し、腐敗選挙区(ロットン・バラ)を廃止する選挙法改正法案がウェリントン公の反対を乗り越えて成立。有権者は約50万人から約81万人に増加し、新興工業都市に議席が配
イギリス・ロンドン
1837-1901年
ヴィクトリア女王即位
18歳のヴィクトリアが叔父ウィリアム4世の死去に伴い即位。63年余りの治世は大英帝国の最盛期と重なり、世界の陸地面積の約4分の1を支配する「太陽の沈まぬ帝国」を体現した。立憲君主制の模範として帝国の統
イギリス・ロンドン
1839年
林則徐のアヘン没収
道光帝に命じられた欽差大臣・林則徐が広州でイギリス商人からアヘン2万箱以上(約1400トン)を没収し、虎門で石灰を混ぜて海中に廃棄(虎門銷煙)。これがアヘン戦争の直接的原因となった。
中国・広州
1839年〜1876年
タンジマート改革
ギュルハネ勅令(1839年)により開始されたタンジマート(再編)は、オスマン帝国の近代化改革運動。法の前の平等、財産権の保障、徴税制度の合理化、軍制改革を柱とした。1856年の改革勅令で非ムスリム臣民
オスマン帝国・イスタンブール
1852-1870年
フランス第二帝政とルイ・ナポレオン
ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が1851年のクーデターで権力を掌握し、翌年皇帝に即位して第二帝政を開始。パリの大改造、鉄道網の整備、産業振興などの近代化政策を推進する一方、クリミア戦争・イタリア統
フランス・パリ
1858年〜1859年
安政の大獄
1858年、大老井伊直弼が将軍継嗣問題と条約問題の反対派を大規模に弾圧。吉田松陰・橋本左内を処刑し100名以上が処罰された。幕府の強権的対応は尊攘派をかえって先鋭化させ桜田門外の変を招いた。
日本・江戸
1858年〜1893年
フランスのインドシナ連邦形成
フランスは1858年のダナン攻撃を皮切りに、コーチシナ(南ベトナム、1862年)、カンボジア(保護国化1863年)、トンキン(北ベトナム)とアンナン(中部ベトナム、1883-84年)、ラオス(1893
ベトナム・カンボジア・ラオス
1858年
インド帝国の成立
インド大反乱の鎮圧後、東インド会社が解散され、インドはイギリス王室の直轄統治下に入った。1876年にヴィクトリア女王がインド皇帝(カイサル・イ・ヒンド)の称号を得た。インド担当大臣とインド総督が統治の
南アジア・デリー
1861年〜1895年
洋務運動
曾国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞ら漢人官僚が「中体西用」(中国の伝統を本体とし西洋技術を手段とする)をスローガンに近代化を推進。江南製造局、福州船政局、漢陽鉄廠などを建設し北洋艦隊を整備。
中国・各地
1861年
イタリア王国の成立
サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王に即位し、トリノを首都としてイタリア王国が成立。カヴールの外交・ガリバルディの軍事行動・マッツィーニの思想という三つの力が統一を実現した。ただ
イタリア・トリノ
1863年1月1日
奴隷解放宣言
エイブラハム・リンカーン大統領が1863年1月1日に発効させた大統領令。南部連合に反乱中の州の奴隷を自由人と宣言した。ただし北部の奴隷州(ボーダーステート)や北軍占領下の南部地域には適用されなかった。
北アメリカ・ワシントンD.C.
1866年
薩長同盟
薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が坂本龍馬の仲介で軍事同盟を締結。幕府に対抗する最大勢力の結集であり、倒幕運動の決定的転換点。この同盟が大政奉還・王政復古・戊辰戦争へとつながる。
日本・京都
1867年
大政奉還
第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上。約260年にわたる徳川幕府が平和的に終焉した。慶喜は新体制下での主導権維持を狙ったが、王政復古の大号令により実権を失った。
日本・京都
1867年
第二次選挙法改正(イギリス)
ディズレーリ率いる保守党が提出した選挙法改正法案が成立。都市部の世帯主に選挙権が拡大され、有権者数は約100万人から約200万人に倍増した。熟練労働者層が初めて選挙権を獲得し、都市部の政治的バランスが
イギリス・ロンドン
1867年
オーストリア=ハンガリー二重帝国成立(アウスグライヒ)
ケーニヒグレーツの敗北後、フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリーとの妥協(アウスグライヒ)を受け入れ、帝国をオーストリア帝国とハンガリー王国の二重国家に再編した。外交・軍事・財政は共同省で管理し、それ以外
オーストリア=ハンガリー帝国
1867年
カナダ連邦成立
1867年7月1日、英領北アメリカ法により、オンタリオ、ケベック、ノバスコシア、ニューブランズウィックの4州がカナダ自治領(ドミニオン)として連邦化。ジョン・A・マクドナルドが初代首相に就任。連邦制を
北アメリカ・カナダ
1868年
明治維新と五箇条の御誓文
明治天皇が五箇条の御誓文を発布し、「広く会議を興し万機公論に決すべし」など近代国家建設の方針を宣言。版籍奉還(1869年)、廃藩置県(1871年)により封建制度を解体し、中央集権的近代国家の基盤を構築
日本・京都/東京
1868年〜1910年
チュラロンコーン大王(ラーマ5世)の近代化改革
ラーマ5世チュラロンコーン大王が奴隷制の段階的廃止、近代的行政制度(省庁制度)の導入、教育改革、鉄道建設などの大規模な近代化改革を推進。同時にイギリスとフランスの間の巧みな外交でタイの独立を維持した。
タイ・バンコク
1870-1940年
フランス第三共和政の成立
セダンの戦いでのナポレオン3世降伏後、1870年9月4日に共和制が宣言された。当初は暫定体制と見なされ、王政復古派が多数を占めたが、共和派が漸次勢力を拡大。1875年の憲法改正で共和制が確定し、以後7
フランス・パリ
1870年
ローマ併合(教皇領の消滅)
普仏戦争でフランス駐留軍がローマから撤退したのを機に、イタリア軍がローマに進軍。9月20日にポルタ・ピア門から突入し、教皇ピウス9世は降伏。ローマはイタリア王国の首都となり、教皇領は消滅した。教皇は「
イタリア・ローマ
1871年7月14日
廃藩置県
1871年、明治政府は全国の藩を廃止して府県を設置し、中央集権的な統一国家を確立した。薩摩・長州・土佐の藩兵を御親兵として東京に集め、軍事力を背景に断行。約260の藩が一朝にして消滅し、旧藩主は華族と
日本・東京
1871年
ドイツ帝国成立宣言
普仏戦争の勝利を背景に、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立した。ビスマルクが帝国宰相となり、25の領邦国家からなる連邦制の統一国家が誕生した。
フランス・ヴェルサイユ宮殿
1874年〜1890年
自由民権運動
1874年、板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を提出し、自由民権運動が本格化。国会開設、憲法制定、地租軽減、不平等条約改正などを要求。1881年に国会開設の勅諭が出され、1890年の帝国議会開設で一応
日本・全国
1881年
チュニジア保護国化
フランスがクルミール族の国境侵犯を口実にチュニジアに軍事介入し、バルドー条約(1881年5月)でチュニジアをフランスの保護国とした。1883年のラ・マルサ協定で保護国体制が確立。ベイ(チュニジアの君主
チュニジア・チュニス
1885年
インド国民会議派の結成
退職イギリス人官吏アラン・オクタヴィアン・ヒュームの呼びかけで72名の代議員が参加し結成。当初は穏健な請願運動を展開したが、次第に自治・独立を求める政治運動に発展。ダーダーバーイー・ナオロージー、ゴー
南アジア・ボンベイ
1885〜1908年
レオポルド2世のコンゴ自由国
ベルギー国王レオポルド2世がコンゴ盆地を個人的所有地として支配。天然ゴムと象牙の収奪のため、住民に過酷な強制労働を課した。ノルマを達成しない者の手首を切断する残虐行為が横行し、推定1000万人が死亡し
コンゴ民主共和国全域
1889年
大日本帝国憲法の発布
伊藤博文を中心に起草されたアジア初の近代憲法。プロイセン憲法を範とし、天皇主権・帝国議会・臣民の権利を規定。1890年に第1回帝国議会が開かれ、立憲政治が開始された。
日本・東京
1893年〜1898年
ハワイ王国の転覆とアメリカ併合
1893年1月17日、アメリカ人農園主・実業家を中心とする「安全委員会」がクーデターを実行し、リリウオカラニ女王を退位に追い込んだ。アメリカ公使ジョン・スティーブンスの支援の下、USS ボストンから上
ハワイ・ホノルル
1895年
閔妃暗殺(乙未事変)
日本公使・三浦梧楼の指揮の下、日本人壮士と訓練隊兵士が景福宮に侵入し、朝鮮王妃・閔妃(明成皇后)を殺害。遺体を焼却するという残虐な犯行であった。ロシアに接近して日本の影響力排除を図る閔妃を除去する目的
朝鮮・漢陽(景福宮)
1897年
大韓帝国の成立
高宗が国号を「大韓帝国」に改め、皇帝に即位。清の冊封体制からの脱却と自主独立を宣言した。光武改革として近代化政策を推進し、量田事業(近代的土地測量)、学校設立、軍制改革を行ったが、列強の干渉で成果は限
大韓帝国・漢城
1898年
戊戌の変法(百日維新)
日清戦争の敗北に衝撃を受けた光緒帝が康有為・梁啓超らの建議を採り入れ、明治維新をモデルとする制度改革に着手。103日間で科挙改革・新学校設立・軍制改革など多数の詔書を発した。しかし西太后のクーデターで
中国・北京
1901年1月1日
オーストラリア連邦の成立
ニューサウスウェールズ、ビクトリア、クイーンズランド、南オーストラリア、西オーストラリア、タスマニアの6植民地が合併し、オーストラリア連邦が成立した。1901年1月1日、シドニーのセンテニアル・パーク
オーストラリア
1903年
パナマのコロンビアからの分離独立
1903年11月3日、アメリカの暗黙の支援の下、パナマがコロンビアから独立を宣言した。背景にはアメリカとコロンビアの運河条約交渉の決裂があった。アメリカ海軍の軍艦ナッシュビルがコロン港に展開し、コロン
パナマ・パナマシティ
1905年〜1911年
ベンガル分割
インド総督カーゾンがベンガル州をヒンドゥー教徒多数の西ベンガルとムスリム多数の東ベンガル・アッサムに分割。表向きは行政効率の改善だが、実際にはベンガルのナショナリズム運動を分断する意図。スワデーシー(
南アジア・ベンガル
1910年
韓国併合
日本が韓国併合条約により大韓帝国を完全に植民地化。朝鮮総督府を設置し、初代総督に寺内正毅が就任。土地調査事業(1910-18年)により多くの農民が土地を失い、憲兵警察による武断統治が敷かれた。朝鮮は3
大韓帝国・漢城
1912年
モロッコ保護国化(フェズ条約)
第一次モロッコ事件(1905年)と第二次モロッコ事件(1911年)を経て、1912年3月のフェズ条約でモロッコがフランスの保護国となった。スペインは北部のリーフ地方と南部のイフニ地区を管轄。フランスは
モロッコ・フェズ
1915年〜1916年
袁世凱の帝制復活の挫折
中華民国大総統の袁世凱が帝制復活を宣言し「洪憲帝」を称した。蔡鍔らが雲南で護国戦争を起こし、各省が独立を宣言。内外の反対で83日で帝制を撤回し、袁世凱は1916年に病死。以後、軍閥割拠の時代に突入。
中国・北京
1915年〜1934年
アメリカによるハイチ占領
1915年7月、ハイチの政情不安とジャン・ヴィルブラン・ギヨーム・サム大統領の殺害を契機に、アメリカ海兵隊がポルトープランスに上陸し占領を開始した。アメリカは憲法改正、財政管理、軍の再編を行い、外国人
カリブ海・ハイチ
1917年
メキシコ1917年憲法制定
1917年2月5日、ケレタロの制憲議会で新憲法が公布された。第3条で政教分離と世俗的公教育、第27条で土地改革と地下資源の国有、第123条で労働者の権利(8時間労働、ストライキ権、最低賃金)を規定した
メキシコ・ケレタロ
1918-1920年
民族自決と新国家の誕生
ウィルソンの民族自決原則に基づき、チェコスロバキア(マサリク)、ポーランド(ピウスツキ)、ユーゴスラビア(セルブ・クロアート・スロヴェーネ王国)、フィンランド、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リト
中東欧各地
1921年
中国共産党の結成
陳独秀・李大釗らを中心に上海で中国共産党第一回全国代表大会を開催。毛沢東ら13名の代表が参加。コミンテルンの代表マーリンも出席。マルクス・レーニン主義に基づく革命政党として出発した。
中国・上海〜嘉興
1922年10月
ファシスト党のローマ進軍
ムッソリーニ率いるファシスト党の黒シャツ隊約3万人がローマに進軍。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は戒厳令への署名を拒否し、ムッソリーニに組閣を命じた。ムッソリーニ自身は列車でローマに到着し、最年
イタリア・ローマ
1922年12月30日
ソ連の成立
ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が正式に成立。連邦条約により各共和国は理論上対等な連邦国家を構成したが、実質的にはロシア共産党中央委員会(スターリンが書記長)による中央集権体制であった。レーニンは
ソ連・モスクワ
1924年〜1990年
モンゴル人民共和国の成立
ソ連の支援を受けてモンゴル人民革命党が建国したアジアで2番目の社会主義国。チョイバルサンの下でソ連型の粛清・集団化が実施され、仏教寺院の約700が破壊、僧侶約1万7千人が殺害された。遊牧の集団化は部分
中央アジア・モンゴル
1925年
大正デモクラシーと普通選挙法
25歳以上の全ての男子に選挙権を付与する普通選挙法が成立。有権者数は約330万人から約1240万人に拡大。しかし同時に治安維持法も成立し、社会主義運動の取り締まりが強化された。「飴と鞭」の二面性を持つ
日本・東京
1927年4月12日
四一二事件(上海クーデター)
蒋介石が上海で共産党員・労働組合の大弾圧を断行。青幇(秘密結社)と結んで武装工人糾察隊を襲撃し、数千人を殺害。第一次国共合作が崩壊し、以後22年にわたる国共対立が始まった。
中国・上海
1932年
サウジアラビア建国とイブン・サウード
アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード(イブン・サウード)は1902年にリヤドを奪還して以来、約30年かけてアラビア半島の大部分を統一し、1932年にサウジアラビア王国を建国した。ワッハーブ派の宗教的
サウジアラビア・リヤド
1933年1月30日
ヒトラーの首相就任
ヒンデンブルク大統領がアドルフ・ヒトラーをドイツ帝国宰相(首相)に任命。パーペンら保守派はヒトラーを「コントロール」できると考えたが、ヒトラーは国会議事堂放火事件(2月27日)と全権委任法(3月23日
ドイツ・ベルリン
1933年3月23日
全権委任法(授権法)の成立
正式には「民族と国家の危難を除去するための法律」。政府に4年間の立法権を付与し、議会と大統領の承認なしに法律を制定できる権限をヒトラーに与えた。社会民主党のみが反対し、共産党議員は既に逮捕・地下潜行し
ドイツ・ベルリン
1933〜1939年
ニューディール政策の実施
フランクリン・D・ルーズベルト大統領が大恐慌からの回復のために実施した一連の経済・社会政策。就任最初の100日間で銀行休業宣言、農業調整法、全国産業復興法などを矢継ぎ早に制定。TVA(テネシー川流域開
北アメリカ・合衆国
1935年9月15日
ニュルンベルク法の制定
ニュルンベルク党大会で制定された二つの法律。「帝国市民法」はドイツ人の血を持つ者のみを帝国市民と定義し、「ドイツ人の血と名誉の保護に関する法律」はユダヤ人とドイツ人の結婚と性関係を禁止した。ユダヤ人は
ドイツ・ニュルンベルク
1936年
西安事件
東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で蒋介石を監禁し、内戦停止と一致抗日を要求。共産党の周恩来が調停に入り、蒋介石は第二次国共合作に同意して釈放された。張学良は蒋介石に従い南京に戻り以後半世紀軟禁され
中国・西安
1936-1938年
スターリンの大粛清
スターリンがセルゲイ・キーロフ暗殺(1934年)を口実に開始した大規模な政治的粛清。モスクワ裁判(見せ物裁判)で旧ボリシェヴィキ指導者(ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン等)が処刑された。赤軍の将軍
ソ連・モスクワ
1938年4月1日
国家総動員法制定
1938年4月1日に公布された国家総動員法は、戦時に際し国家の人的・物的資源を政府が統制・動員する権限を規定した包括的授権法。議会の承認なく勅令で広範な統制が可能となった。物資の統制、価格統制、労働力
日本・東京
1942年1月20日
ヴァンゼー会議
ラインハルト・ハイドリヒが主催し、アドルフ・アイヒマンが議事録を作成した高官会議。ヨーロッパの約1,100万人のユダヤ人を東方に移送し、労働で消耗させるか直接的に殺害する「最終的解決」の行政的調整が議
ドイツ・ベルリン郊外ヴァンゼー
1945年8月15日
ポツダム宣言受諾・終戦
1945年8月14日の御前会議で昭和天皇が「聖断」を下し、ポツダム宣言受諾を決定。8月15日正午、天皇の録音による終戦の詔書(玉音放送)がラジオで放送された。「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の一節は日
日本・東京
1945年8月17日
インドネシア独立宣言
スカルノとハッタが日本の降伏の2日後にインドネシアの独立を宣言。しかしオランダは独立を認めず、4年間にわたる独立戦争(1945-1949年)が展開された。国連の仲介とアメリカの圧力により、1949年1
インドネシア・ジャカルタ
1945年9月2日
ホーチミンの独立宣言
ホーチミンがハノイのバーディン広場で「すべての人間は生まれながらにして平等である」とアメリカ独立宣言を引用して開始するベトナム民主共和国の独立宣言を読み上げた。しかしフランスが再植民地化を企図し、第一
ベトナム・ハノイ
1946年11月3日
日本国憲法公布
1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された日本国憲法は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三大原則とする。GHQ民政局のケーディス大佐らが起草した草案をもとに、日本側が修正を加えた
日本・東京
1947年〜1948年
アウンサンとビルマの独立
「ビルマ独立の父」アウンサン将軍が日本軍の訓練を受けた「三十人の志士」を率いて独立運動を展開。日本の敗戦後はイギリスと交渉し、1947年のパンロン協定で少数民族との連邦構想をまとめた。しかし1947年
ミャンマー・ヤンゴン
1947年8月14-15日
インド・パキスタンの分離独立
マウントバッテン総督のもとでインドとパキスタンが分離独立。パキスタンが8月14日、インドが8月15日に独立を宣言。ネルーの「真夜中の約束との出会い」演説。しかし分離に伴い推定100万〜200万人が宗教
南アジア全域
1947年8月14日
パキスタンの建国とその後の軍政
ムハンマド・アリー・ジンナーが「ムスリムの祖国」としてパキスタンを建国。ジンナーは初代総督に就任したが翌年死去。その後の政治的不安定から軍のクーデターが頻発。アユーブ・カーン(1958年)、ヤヒヤ・カ
南アジア・パキスタン
1948年8月15日
大韓民国の建国
国連監視下の総選挙(1948年5月10日)を経て、李承晩を初代大統領とする大韓民国が建国された。9月9日には北朝鮮で金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立。朝鮮半島の南北分断が国家として固定化
韓国・ソウル
1948年9月9日
金日成と北朝鮮の建国
ソ連の支援の下、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。ソ連軍政(1945-48年)下で土地改革、主要産業の国有化が実施され、社会主義体制の基盤が整えられた。金日成は抗日パルチザン活動の
北朝鮮・平壌
1948年〜1949年
イスラエル独立宣言と第一次中東戦争
1948年5月14日、ダヴィド・ベングリオンがイスラエル国の独立を宣言。翌日、エジプト・ヨルダン・シリア・イラク・レバノンのアラブ連合軍が侵攻し第一次中東戦争が勃発。イスラエルは国連分割案より広い領域
パレスチナ・テルアビブ
1948年
南アフリカのアパルトヘイト制度の成立
1948年の総選挙で国民党(アフリカーナー)が勝利し、アパルトヘイト(「分離」の意)政策を法制化。人口登録法、集団地域法、パス法、混血禁止法、不道徳法などにより、人種間の分離が徹底された。国民の約80
南アフリカ・プレトリア
1949年10月1日
中華人民共和国の建国
国共内戦に勝利した毛沢東が天安門楼上から「中華人民共和国中央人民政府は本日成立した」と宣言。社会主義国家として建国。蒋介石の国民政府は台湾に撤退。土地改革、反右派闘争、社会主義改造を推進。
中国・北京
1951年〜1953年
モサッデグの石油国有化とCIAクーデター
民族主義者モハンマド・モサッデグ首相がアングロ・イラニアン石油会社(現BP)を国有化。イギリスの経済封鎖とCIA・MI6のアジャックス作戦により1953年8月にクーデターが実行され、モサッデグは失脚。
イラン・テヘラン
1956年
チュニジア独立
ハビーブ・ブルギーバ率いる新立憲党(ネオ・デストゥール)が主導した独立運動により、チュニジアがフランス保護領から独立。ブルギーバは初代大統領となり、世俗主義的近代化政策を推進。個人身分法の改革により一
チュニジア・チュニス
1956年
モロッコ独立
スルタン・ムハンマド5世がフランスからの独立を指導。1953年にフランスがムハンマド5世を廃位・追放したことが逆に民族主義運動を激化させ、1955年に帰還を余儀なくされた。1956年にフランスとスペイ
モロッコ・ラバト
1957年
ガーナ独立(サブサハラ初の独立国)
クワメ・エンクルマの指導のもと、英領ゴールドコーストが「ガーナ」として独立。サブサハラアフリカ初の独立国として世界的な注目を集めた。エンクルマは「アフリカの独立は無意味だ。大陸全体が自由にならない限り
ガーナ・アクラ
1960年
アフリカの年(17カ国が独立)
1960年に17のアフリカ諸国が独立を達成し、「アフリカの年」と呼ばれた。フランス領西アフリカ・赤道アフリカの旧植民地(セネガル、マリ、コートジボワール、ニジェール、チャド、コンゴ共和国、ガボン等)、
アフリカ全域
1960〜1961年
コンゴ独立とルムンバ暗殺
1960年6月30日にベルギー領コンゴが独立し、パトリス・ルムンバが初代首相に就任。独立式典での国王ボードワンの演説に対するルムンバの即興の反論演説は植民地主義批判の歴史的名演説となった。しかし直後に
コンゴ・レオポルドヴィル(キンシャサ)
1961年〜1979年
朴正熙軍事クーデタと経済開発
陸軍少将・朴正熙が5・16軍事クーデタで政権を掌握。経済開発5カ年計画を推進し、輸出主導型工業化で「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を実現。1人当たりGDPは87ドル(1962年)から1,644ドル
韓国・ソウル
1961年8月13日
ベルリンの壁建設
東ドイツ政府が西ベルリンを取り囲む壁の建設を開始。最初は有刺鉄線とコンクリートブロックであったが、最終的に高さ3.6mの二重のコンクリート壁、監視塔、地雷原を備えた要塞的構造物に発展した。壁を越えよう
ドイツ・ベルリン
1963年9月16日
マレーシア連邦の成立
マラヤ連邦(1957年独立)、シンガポール、サバ、サラワクが統合してマレーシアが成立。初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンが主導。しかしインドネシアのスカルノが「対決政策」で反対し、フィリピンもサバ
マレーシア・クアラルンプール
1964年〜1985年
ブラジル軍事政権の成立
1964年3月31日、ブラジル軍がジョアン・グラール大統領を追放し軍事政権を樹立。カステロ・ブランコ将軍が初代軍政大統領に就任した。1968年のAI-5(制度法令第5号)により議会の閉鎖、市民的自由の
南米・ブラジル
1965年8月9日
シンガポールの分離独立
マレーシア連邦から追放される形で分離独立。リー・クアンユー首相は記者会見で涙を流しつつ独立を発表した。「国家になりたくなかった国」と自称しつつ、厳格な統治と開放経済で奇跡的な経済成長を達成。一人当たり
シンガポール
1966年〜1998年
スハルト政権と新秩序体制
スハルトが9月30日事件(1965年)を契機にスカルノから実権を奪い、「新秩序」(オルデ・バル)体制を確立。32年間の権威主義体制下で経済成長を実現したが、汚職・癒着・縁故主義(KKN)が蔓延。199
インドネシア・ジャカルタ
1967〜1985年
タンザニアのニエレレとウジャマー社会主義
初代大統領ジュリウス・ニエレレが1967年のアルーシャ宣言でアフリカ社会主義「ウジャマー」(スワヒリ語で「家族」の意)を提唱。自力更生、平等、共同体精神に基づく独自の社会主義路線を推進。農村の集団化(
タンザニア・ダルエスサラーム
1971〜1979年
ウガンダのイディ・アミン独裁
軍人イディ・アミンがクーデターでオボテ大統領を追放し権力を掌握。8年間の独裁で推定10万〜50万人を殺害。1972年にアジア人(主にインド系)約8万人を90日以内に国外追放し、彼らの資産を没収。「スコ
ウガンダ・カンパラ
1972〜1974年
ウォーターゲート事件とニクソン辞任
1972年6月17日、ニクソン大統領の再選委員会関係者5人がウォーターゲート・ビルの民主党全国委員会事務所に侵入して逮捕された。ワシントン・ポスト紙のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインの調査報
北アメリカ・ワシントンD.C.
1974〜1991年
エチオピアのデルグ政権と赤色テロ
1974年の革命で最後の皇帝ハイレ・セラシエが廃位され、軍事委員会デルグ(「委員会」の意)が権力を掌握。メンギスツ・ハイレ・マリアムが独裁者として君臨し、マルクス・レーニン主義を採用。1977-78年
エチオピア・アディスアベバ
1975年〜1977年
インディラ・ガンジーの非常事態宣言
ネルーの娘インディラ・ガンジー首相が憲法の非常事態条項を発動。選挙法違反の高裁判決を受けて辞任を拒否し、市民的自由を停止、野党指導者を大量逮捕、報道検閲を実施した。息子サンジャイ・ガンジーの強制不妊手
南アジア・ニューデリー
1975-1982年
スペインの民主化(フランコ後の移行)
1975年11月のフランコ死後、フアン・カルロス1世国王が民主化を主導。スアレス首相が政治改革法を通過させ、1977年に40年ぶりの自由選挙が実施された。1978年の新憲法で議会制民主主義と自治州制度
スペイン・マドリード
1975年9月16日
パプアニューギニアの独立
オーストラリアの信託統治領であったパプアニューギニアが独立を達成。初代首相マイケル・ソマレの下、立憲君主制(イギリス女王を元首とする)を採用。世界で最も言語的に多様な国家(約850言語)として、ピジン
パプアニューギニア
1979-1990年
サッチャー政権(イギリス)
マーガレット・サッチャーがイギリス初の女性首相に就任し、新自由主義的な経済改革を断行。国有企業の民営化、規制緩和、労働組合の権限制限、金融ビッグバン(1986年)を推進。炭鉱ストライキ(1984-85
イギリス・ロンドン
1980〜2017年
ジンバブエのムガベ政権とハイパーインフレーション
ロバート・ムガベが独立闘争の英雄から37年間の長期独裁者に変容した。当初は人種和解と教育普及で評価されたが、2000年以降の白人農場の強制接収が経済崩壊を招いた。2008年のハイパーインフレーション(
ジンバブエ・ハラレ
1985-1991年
ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチ
ゴルバチョフ書記長が停滞するソ連経済と硬直した政治体制の改革を目指して開始した二大政策。ペレストロイカ(立て直し)は経済改革、グラスノスチ(情報公開)は言論の自由化を指す。しかし改革は制御を失い、民族
ソ連・モスクワ
1990年
モンゴルの民主化
1989年12月から民主化運動が始まり、1990年3月にモンゴル人民革命党が一党独裁を放棄。同年7月に初の自由選挙が実施された。ソ連圏の民主化の波の中で、モンゴルは血を流すことなく平和的に複数政党制民
中央アジア・モンゴル
1990年10月3日
ドイツ再統一
「2プラス4条約」(東西ドイツと米英仏ソの6カ国)の締結により、東ドイツが西ドイツに編入される形で再統一が実現した。コール首相の指導力とゴルバチョフの同意が鍵であった。NATOに統一ドイツが残留するこ
ドイツ・ベルリン
1991年
中央アジア五カ国の独立
1991年12月のソ連崩壊に伴い、中央アジアの五つのソ連構成共和国が独立を宣言。各国とも独立を積極的に求めたわけではなく、ソ連崩壊の結果として独立を余儀なくされた。ナザルバエフ(カザフスタン)、カリモ
中央アジア全域
1991年12月25日
ソ連崩壊
1991年8月の保守派クーデター未遂の失敗後、各共和国の独立が加速。12月8日にエリツィン(ロシア)、クラフチュク(ウクライナ)、シュシケヴィチ(ベラルーシ)がベロヴェーシの森で独立国家共同体(CIS
ソ連・モスクワ
1993年〜現在
北朝鮮の核開発問題
北朝鮮は1993年にNPT脱退を宣言して以降、核開発を推進。2006年に初の核実験を実施し、以後6回の核実験を行った。ICBMの開発も進め、米本土を射程に収める能力を主張。6カ国協議は2009年以降中
北朝鮮・寧辺
1994年
南アフリカの民主化とマンデラ大統領就任
1990年のマンデラ釈放後、デクラーク大統領との交渉により平和的移行が実現。1994年4月27日の全人種参加の初の総選挙でANCが62.6%の得票で勝利し、マンデラが大統領に就任。真実和解委員会(TR
南アフリカ・プレトリア
1995年
ケベック独立住民投票
1995年10月30日、ケベック州の独立の是非を問う住民投票が実施された。結果は賛成49.42%、反対50.58%のわずか約5万4千票の僅差で独立案が否決された。投票率は93.52%と極めて高かった。
北アメリカ・カナダ
1999年
ナイジェリアの民主化と石油経済
1999年にオバサンジョ元将軍が民政移管後の初代大統領に就任し、約16年間の軍事政権が終結。ナイジェリアはアフリカ最大の産油国(日量約200万バレル)であり最大の経済大国(2014年にGDPで南アフリ
ナイジェリア・アブジャ
1999年〜2013年
ウゴ・チャベスの大統領就任とボリバル革命
1999年2月、元陸軍中佐ウゴ・チャベスが大統領に就任し「ボリバル革命」を宣言した。1992年にクーデター未遂で投獄された後、合法的手段で政権を獲得。新憲法を制定し国名を「ベネズエラ・ボリバル共和国」
南米・ベネズエラ
2002年5月20日
東ティモール独立
21世紀最初の新独立国家。ポルトガル植民地から1975年に独立を宣言したが、インドネシアが即座に侵攻・併合。24年間の占領下で人口の約3分の1(10万〜18万人)が死亡したとされる。1999年の住民投
東ティモール・ディリ
2003年〜2010年
ルーラ大統領就任とブラジルの社会変革
2003年1月1日、労働者党(PT)のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバが大統領に就任。小学校中退の元金属労働者から大統領へという経歴は「ブラジリアン・ドリーム」と呼ばれた。ボルサ・ファミリア(条件
南米・ブラジル
2006年〜2019年
エボ・モラレス、ボリビア初の先住民出身大統領に就任
2006年1月22日、コカ栽培農民組合指導者であったエボ・モラレスがボリビア初の先住民出身大統領に就任した。社会主義運動(MAS)党を率い、天然ガスの国有化、新憲法制定(多民族国家ボリビアの宣言)、先
南米・ボリビア
2009年1月20日
バラク・オバマ大統領就任
バラク・フセイン・オバマがアメリカ合衆国第44代大統領に就任し、初のアフリカ系アメリカ人大統領となった。2008年の大統領選挙で「Yes We Can」と「Change」をスローガンに掲げ、共和党のジ
北アメリカ・ワシントンD.C.
2011年
南スーダン独立
2011年1月の住民投票で約99%が独立を支持し、7月9日に南スーダン共和国として独立。21世紀初の新国家誕生であり、アフリカ連合の54番目の加盟国となった。しかし2013年12月にサルバ・キール大統
南スーダン・ジュバ
2013年〜
習近平体制と一帯一路
2012年に中共総書記に就任した習近平が反腐敗運動を推進しつつ権力を集中。2013年に一帯一路構想を提唱し、インフラ投資を通じた国際的影響力の拡大を図る。2018年に国家主席の任期制限を撤廃。
中国・北京
2014年
モディ政権の発足
ナレンドラ・モディ率いるBJP(インド人民党)が総選挙で圧勝し政権を獲得。1984年以来の単独過半数。経済改革(高額紙幣廃止、GST導入)、ヒンドゥー・ナショナリズム路線、外交の積極化を推進。2019
南アジア・ニューデリー
2016年/2020年
ブレグジット(イギリスのEU離脱)
2016年6月23日の国民投票で51.9%対48.1%の僅差でEU離脱が決定。キャメロン首相は辞任し、メイ、ジョンソンと首相が交代する中、3年以上の交渉を経て2020年1月31日に正式離脱。移行期間を
イギリス・ロンドン
2021年2月1日
ミャンマー軍事クーデター
ミャンマー国軍(タマドー)のミン・アウン・フライン総司令官が、2020年11月の総選挙における不正を主張してクーデタを敢行。アウンサンスーチー国家顧問を拘束し、非常事態を宣言。市民による大規模な不服従
ミャンマー・ネーピードー
2022年7月8日
安倍晋三銃撃事件
2022年7月8日、安倍晋三元首相が奈良市で参議院選挙の応援演説中に手製の銃で背後から銃撃され死亡した。容疑者の山上徹也は、母親が旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への多額の献金で家庭崩壊したことへの
日本・奈良